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短編

どうりで寒いと思った

作者: 雨咲まどか

 どうりで寒いと思った。


 窓の外を眺めた博士が言って、私は腰を上げた。

 何か温かい飲み物でも用意しようと、小さなコンロの前に立つ。やかんを手に取り蛇口を捻って、私はベランダへ置き去りにしてしまった洗濯物に思いを馳せた。


 雨がガラス窓を叩き出して、もうとうに数時間は経っている。私は一瞬で外に興味を失ってしまったらしい、モニターに向かう博士の黒い頭を見てため息を飲み込んだ。

 博士は宇宙の大部分に興味が無い。季節の移り変わりにも、人の変化にも。現在の彼にとって雨はただ気温を少し下げるだけのもので、それ以上でもそれ以下でもない。


 極力音を立てないように、ゆっくりとコーヒーの入ったマグカップを博士のデスクに置く。彼は小さく感謝を述べ、私はどういたしまして、と手のひらを横に振った。

 酷く静かな部屋で、博士がコーヒーを啜る音が響く。

 私は彼に、いつも様々な飲み物を入れている。緑茶や紅茶、ハーブティーにココア、コーヒーも銘柄を頻繁に替え、甘くしたりミルクを入れたり。しかし彼がそれに反応したことは一度もない。

 博士にとって飲料は水分を補給するもので、温かければ身体を温める効果があり、カフェインが入っていれば眠気がとれる、それだけのものだ。


 私がこの研究室で勤めるようになって、もう半年になる。失業し次の仕事が中々決まらなかった時に話が舞い込み、一先ずと思って受けてみると即日採用された。研究のアシスタントが私の業務だが、仕事は少なく1日の半分近く空き時間がある。彼はおそらく、アシスタントの存在を忘れてしまう時があるのだ。

 働き出した初日、博士が提示した注意事項は一つだけ。彼の邪魔をしないこと。

 この部屋に居て仕事を頼んだ時にすぐ動いてくれるなら暇な時間は何をしていても構わないと彼は言い、本当に私が仕事中何をしていても咎めなかった。だから私は合間に、色んな勉強をしている。いつか一人になったとしても、生きられるように。


 時計の針が六時を示している。私は荷物を纏めてメモ用紙に簡単な連絡事項と挨拶を書いた。集中している博士の気を散らさないように、いつもメモをそっと置いて帰るようにしていた。

 博士のデスクの隅にメモを置く。ふと、珍しく彼が私を見た。目が合う。心臓が跳ね上がった。

 博士はメモを一瞥し、また私を見やってお疲れ様、と口にする。私は片腕を胸の前に出しもう片方の手で拳を作って叩いた。会釈をして、研究室を後にする。





 自宅のマンションに着き洗濯物を取り込む。雨に濡れてしまった物は籠にいれ、あまり濡れていない物はラグの上に積み重ねる。アイロンを温め、台を組み立てる。

 一枚一枚、綺麗に皺を伸ばしてゆく。私は洗濯が好きだった。

 洗濯機を回し、ベランダに干して、アイロンを掛けて畳む。服を慈しむ様な時間だと思った。


 アイロン掛けを終えると、スイッチを切って次は丁寧に畳んでゆく。私は博士の皺の無いシャツを思い出していた。

 まるで生活感の無い博士と、そのシャツはあまりに不釣り合いで、怪訝に思っていると博士の知人だという人が教えてくれた。博士は同じシャツを大量に買い込み、着終わった物は纏めてクリーニングに出しているのだ。

 朝食はコンビニのお握りを二個、昼食は私が用意した弁当やテイクアウト品をどんなものでも食べ、夜はおそらくほとんど外食。私は博士に会うまで、こんなにも生活に無頓着な人がいるなんて知らなかった。


 博士は私よりも倍近く年を取っていて、その長い年月の大半を研究にだけ捧げている。私には理解出来ない数式や、膨大なデータや資料と向かい合ってばかりで、変わり者だと人は言う。アシスタントは私で四人目で、みんなすぐ辞めてしまったらしい。どんなに周囲が彼の才能に惹かれても、彼は教える事には全く興味が無い。誰かの助言も彼には時としてただの雑音で、きっとだから私が採用された。


 でも彼は、知らない。私があの日、どんなに胸がぎゅっとなったか。

 私は生まれたときから声帯に異常があった。けれどそれ以外は、食事や呼吸に不便はあれど他の人と変わらない。それが酷く、もどかしかった。

 博士は物言わず筆談で挨拶をする私を前にして、たった一言、明日からよろしくと言った。目を丸くすると、前の人が残していったらしい引き継ぎ資料を私に手渡し、すぐまた研究に戻ってしまった。

 彼にとって、私が声を出せないことなんて、大した関心事にならないのだと気付いたのはしばらくしてからだった。飲み物が水分を補給するための物であって、それがコーヒーでも紅茶でも変わらないように。


 私は畳み終わった洗濯物を胸に抱き、立ち上がった。ふわりと甘い花の香りがする。

 彼の衣服を、私好みの柔軟剤の香りにしたいと思った。世界にまるで興味が無いあの人の記憶をほんの少し、支配できたらと思った。

 私が彼の前から居なくなったときに、ちょうど今日みたいに呟いてくれたら、と、思ったのだ。

 どうりで匂いがしなくなった、と。

 それで、十分だ。


 私は本当はもっとずっと我が儘なくせにそんなことを思って、瞼を下ろした。細かな水の音が鼓膜を揺らす。ああそうだ、雨が降っているんだ。

 どうりで。

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