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作:叶むすび


 十八度目の夏、二年ぶりに田舎に帰った。
 都心で生活していた私は、二年前のこの町を上手く思い出せずに、疎外感を感じながら車窓の景色を眺めていた。青々とした稲が、濃い青空の下をびっしりと埋め、ざわざわと揺らいでいる。この車両には、四、五人の乗客しか乗っていない。各々が一人でいるため、車内は風の音しか聞こえなかった。
 私が帰省したのは、実家の両親に進路の事を告げようと思ったからだ。受験予定の大学と、進学後の学費の依頼、あと、受験勉強の気分転換という理由もあった。最近は休日も専らワンルームのアパートに引きこもっているため、自然に満ちた爽やかな空気を吸うのも新鮮に思えた。
 各駅停車しか停まらないような草臥れた駅で、終始一人下車した。駅には人っ子一人いない、昔から変わらずの無人駅だった。薄っぺらな切符を、ジュースの自販機の横のゴミ箱に放り、駅前のバス停でバスを待つ事にした。簡易的なビニルシートで出来た屋根の下の、釘の飛び出たベンチに腰を下ろした。座った瞬間、椅子が酷くたわんだので、少し不安になった。次のバスは二十分後らしい。
 目の前には最近コンクリート舗装されたような道があった。ここは……二年前と違うな、と微かな記憶の中でふと思う。しかし、舗装された道を除けば、一面に広がる田んぼ路と、その奥に聳える山なんかに、全く違いは感じられなかった。変わらないという事は、いいのか悪いのか判然としない。山が削られていく様子を嘆く大人も居るが、開発を怠っては何をするにも便が悪い。尤も、望郷に駆られた事など一度も無い私にとっては、便利になる事の方を、強く望んで居るのだが。
「あら、憂ちゃんじゃない?」
 腰の曲がった老人が、背負った籠に、金鋏で空き缶を拾っては入れていた。米倉さんだ。米倉さんは、私の家のすぐ側に一人で住んでいる。旦那さんは五年くらい前に他界し、息子は仕事の関係で滅多に日本に帰って来ないそうだ。
「見ないうちに綺麗になって」
 米倉さんは目元の皺を更に深くしながら言った。常套句にどう反応したらいいのかわからず、苦笑いするばかりになってしまった。
 草臥れた外装のバスが、真っ黒な排気ガスを吐き出して、何もない道の上をがたがたと不安定に走りながらやって来た。薄っぺらい紙の上に、ピンク色で“1”と書かれている整理券を受け取り、老人が数人乗っているバスの最後列に座った。椅子はやけに硬かった。バスの床は、薄い灰色の木目で、ところどころに丸い穴が開いていて、地面のアスファルトが見える。老人達は、このバスの終点にある病院へと向かうのだろう。この村の高齢化、及び過疎化を凝縮して表現するようなバスに、私は虚しさを覚えた。故郷が、私の中の過去を全て忘却していくようだった。田んぼの中に足を突っ込んではしゃぐ子供や、虫取り網を構えながら蝉を追う親子の姿は、もうこの村には残っていなかった。死に絶えそうな、小さな呼吸がぽつぽつと窺えるだけである。バスはいやにがたがたと揺れた。途中で大破してしまうんじゃないかと不安になったが、そんな事もなく目的地に着いた。
 バス停で一人下ろされ、年老いたバスは病院へ向かって、排気ガスを撒き散らしてのろのろと走って行った。私はバスの背を見送った後、田んぼが両脇に広がった静かな道をとぼとぼと歩いた。この辺りはまだ、道の舗装が進んでいない。昨日雨が降ったのか、土はねちゃねちゃと粘着性のある音を立てて、私の靴を汚した。
 どす黒く汚れた木造の平屋。灰色の瓦は雨風に晒されて少しずれている。広い庭には、ベージュ色のショーツと、白いTシャツだけが、水色の物干し竿に干されている。開放された引き戸の敷居をまたぎ、広い玄関の中に足を踏み入れる。自分の家がここだという実感がいまいちわかなかった。蝉の声がじわじわと、開放された戸の向こうから飛び込んできて、静寂に埋められた空間に音を与えた。
「ただい、ま」
 その言葉が正しいのかどうかわからなかった。昔よく、大きな声でここで言っていた言葉が、今は全く別の意味を成しているような気がした。
 自信なくそう言ってみたが、昔と同じように、母は奥の部屋から慌しくやって来た。
「あら、お帰り」
 久しぶりに会う娘に、特に驚く事もなく、母は淡々とそう言った。
 土に汚れた靴を広い玄関にぽつりと一人置き去りにし、低いテーブルの置かれた、ここの家でいうリヴィングルームである居間に上がった。古びたテレビと、くすんだ緑色の土壁、その部屋の片隅に、真新しい冷風扇が置かれていた。この辺りの夏は非常に暑い。高層な建物が少ないため、影が少なく、日光が直接降り注ぐ。それなのに、古い造りのこの家と来たら、エアコンを設置出来ないのだ。結局、夏場はいつも古びた扇風機で乗り切っているのだが、遂に毎年猛威を振るう酷暑に折れてしまったのか、扇風機よりも冷涼感のある冷風扇に買い換えたようだ。
 母は台所から慌しく戻ってきて、アイスコーヒーを淹れたグラスを私の前に差し出してくれた。飲み物を出してくれるって事は、ちょっとは久しぶりに会う娘を特別に思ってくれているのかしらん、とか思ってみたりしたけれども、私の目の前で、耳掻きで自分の耳を穿っている母を見て、そんな事は決してないという事が明確になり、少々自己嫌悪を感じた。
「で、何?」
「え?」
「面倒くさがりの憂の事でしょう。何かない限り、こんな遠い所まで態々来ないわ」
 母は何もかもを悟ったように言い、アイスコーヒーを飲んだ。図星だった。母の冷静な態度は、私の全てを知っているからこそなのだった。
「あ、うん……。大学、T大にしようと思って」
「まあ、T大。そんな所、受かるの?」
 おいおい、娘に自身をつけてやるのが親というものだろう、と思ったけれど、マイペースな母の事だから、そう言うのは不自然でも何でもなかった。寧ろ非常にナチュラルで、自分でも驚いた。
「学校の先生が、五分五分ってさ」
「私大に入れてやる余裕は、うちには無いよ」
「わかってる。だからT大」
「そう……。なら、まあお金は出してあげるわ」
 母はくわーと大きな欠伸をした後、孫の手を使って背中をぼりぼりと掻き始めた。一通り話を終えたので、私はリモコンを手にして、古びたテレビにスイッチを入れた。雑学王選手権とかいう、クイズ番組の再放送がやっている。無言で母と二人、ぼんやりとその番組に見入っていると、父が帰ってきた。畑で収穫した野菜を、コンテナに大量に詰め込んで、軽トラックの二台に乗せて帰ってきた。汗びっしょりの父は、私を見るなり、
「おお」
 と、軽い調子で言った。私は少し白髪の増えた父に、少しだけ頭を下げた。
「最近どう? 勉強の方は。大学に行くか、就職するかも決めたか? 父さん、憂が選んだ道なら何でも賛成だぞ。……あ、でも、風俗はちょっと……ううん。でも、父さんは憂がやりたい事は、何でも賛成する」
 父は昔から明朗な人である。愛想がよく、誰からも愛されてきた。その分、よく話をする。
「今夜は憂の門出を応援して、収穫したての野菜をふんだんに盛り込んだ鍋パーティだな、鍋! 泊まって行くだろう、憂」
 父はそう言いながら、風呂場の方へ消えて行った。昔から臭いや汚れには敏感な人だ。だから、大方汗を洗い流すために風呂にでも入るのだろう。母は、父が帰ってきてもずっとテレビに食い入っていた。

 父に進められるがままにビールを飲み、昆布だしの効いた鍋の中に、ぎっしりと詰められた白菜や大根、水菜などはシャキシャキと新鮮で、ポン酢の酸っぱさとベストマッチだった。一人暮らしをしている時、鍋なんて全然作らないので、この野菜とポン酢の味には、懐かしいものがあった。
「家はいいだろう、憂。何なら一人暮らしを止めて、帰って来てもいいんだぞ」
 父は既に缶ビールを二本も空け、ほろ酔い気味になったのかいつもより饒舌だった。母はぱくぱくと白菜や水菜をつまんで、私は一缶のビールをちびちびと飲みながらぼちぼち父に応答していた。
「そういえば、T大は毎年すごい倍率なんでしょう」
 急に箸を止めた母がそう言ったのでやや驚いた。
「そうだけど」
「国公立だしね」
「そうだよ」
「そうか」
 何の脈絡もない話だった。それが終わると母は暫く何か思い詰めたような目をした後、またぱくぱくと野菜をつまんで食べていった。父はすっかり満腹らしく、テーブルの脇で横になり、既に寝息を立てている。私は箸を持ち直した後、煮たった人参をつまんで、口に放った。

 以前まで私の部屋だった六畳の和室で一夜を明かし、八時頃に部屋の蒸し暑さに目を覚ました。この部屋には扇風機すらないので、生地獄のような温度である。朝早くから蝉は喚いて、短い生命をふんだんに生きている。
 私の十八年間は、この蝉のように有意義であっただろうか。窓を開放しながら、朝方の爽やかな風を浴びてふと考える。……答えは出ない。まだ若い私には、人生の意義を語る事は出来ない。もっとも、年をとっても語れはしないと思うけれど。大学に行くのも、働くのも、本質的な意味など、本当はどこにも無いのだ。
 居間に行ってみると、朝刊を読みながら、しらすと白米を食らう父が居た。台所を覗いてみたが、母らしい姿はどこにも無かった。仕方無いので、食パンを一枚オーブンに放った。本当はスクランブルエッグが食べたかったのだが、勝手に冷蔵庫を開けるのは気が引けた。
「父さん、母さんは?」
「ああ、朝から神社行ったよ」
「神社?」
「願をかけるそうだ」
「何の?」
「そりゃお前、合格祈願だよ」
 あ、と私は思った。急に心が和やかになり、自然と頬が緩んだ。台所で、オーブンが謙虚なベルの音で私を呼んだ。
 昼前には家を出た。
「もう一日泊まっていきなさいよ」
と父は行ったが、断った。母は、エプロンをつけたまま出迎えに来てくれて、私に淡い桃色の小さなお守りを渡した。
「学問の神様とか、立派なもんじゃないけどね」
 母はそう言って、穏やかに笑った。
 行きと同じように草臥れたバスに乗車した。今度はお年寄りの姿もなく、私一人だった。孤独な空間は、少しばかり私を落ち着かせた。
 人気の無いオンボロ駅でバスを降りると、この村では珍しい、三十半ばくらいの男性が居た。それが米原さんの息子だと、私はすぐに勘づいた。彼も、私には気付いているようだったが、お互い無言で、目も合わせずに通り過ぎて行った。
 電車はあと、三十分後に一本やって来る。ホームには誰もいない。閑散としている。駅に隣接したところに山が連なり、山から蝉の爆発的な鳴き声がした。もはや、山が喚いているように感じた。太陽が眩しい。母に貰ったお守りを見た。真新しいお守りは、真ん中に金色の刺繍が施されており、“交通安全”と書かれていた。学問成就に全く関係がないものだった。私の口から、自然と溜め息に似た笑いが溢れた。お守りを、ポロシャツの胸ポケットにそっとしまった。


読んでいただいて感謝しております。
題名と内容がそぐわない気がしてなりません……;;













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