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帰りたかった。でも、だけど。

作者:茅野真奈
 時間が経つにつれて紫色に変色していく頬を眺め、当分は外出する時にはマスクしなきゃなと思った。
 触れるとじくりと痛む。一緒に気分もじくりと沈む。

 ――子供を産みます。

 そう両親に告げた時、二人は何を言われたかわからないといった顔をした。もう一度同じことを口にすると、私のお腹を見て血の気が引いた顔をした。
 数秒の沈黙のあと、父さんの顔は真っ赤に染まる。「誰の子なんだ」と聞かれたので「答えられない」と言ったら、拳がとんできた。その後も父さんは「まだ学生なのに」とか「相手の男を連れて来い」とか喚いていたけど、私は何も言わずに殴られた頬を押さえてじっとしていた。
 そのうち母さんが我に返って父を止めてくれたからその場は収まったけど、怒りに燃える父さんの目と困惑に戸惑う母さんの目に俯いてしまった。
 しばらくすると、誰かに乱暴されたという可能性に気が付いて慌てはじめていた。でも、それは違うとキッパリと否定する。答えられないけれど相手はわかっているし、合意の上だ。
 他にも家庭がある男なのかとも心配されたけど、そういうわけでもない。だってあの人の妻は私だ。――両親には言えやしないけれど。
「誰の子かも言えないなら、おろしなさい」
 そして頭上から落ちてきた言葉。驚いて父さんを見た。
「……おろす?」
 どこか違和感のある言葉だ。私の中でその言葉は、間違いなく異質なものだ。母さんは私の反応に気がついたのか、父さんをたしなめ私に部屋へ戻るように目配せした。呆然としたままそれに従い、立ち上がる。
「……私は産むよ」
 それだけ言って逃げた。



 そして部屋にこもった私はいま、腫れていく頬を冷やすでもなく、お腹をさすりながら座り込んでいる。
 このお腹には命が宿っている。見ただけでもわかる膨らみ。今日まで両親が気がつかなかったことが不思議なくらいだ。
 でも、それは仕方がない。二人にとっての今朝の私は、こんなお腹をしていなかった。彼氏もいないし、妊娠するような行為だってしたことのないただの大学生だった。
 なのにどうしてそんなわずかな時間で、このお腹に命が宿っているのだろう。それが説明できるのは私だけだ。理解できるのだって、きっと私だけ。

「あなた……」

 最後まであの人は私の言葉を理解できなかったと思う。覚えたての言葉ではうまく説明できないんだろうとか、嘘ではぐらかすしかない事情を抱え込んでいるだとか、そういう哀れな女だと思っていたのだろう。
 けれど絶望に突き落とされた私を家においてくれたし、娶ることで妻としての居場所をあたえてくれた。理不尽な運命を呪う私が、新しい日常を生きる手助けをしてくれた。
 恩人で夫だったけれど、愛していたのかと聞かれればわからないと答える。じゃあ嫌いだったのかと聞かれたら、違うと答える。私には情と感謝と打算があって、あの人には情と憐れみと欲があった。
 でも幸せを感じていたことも確かだ。このお腹に命が宿ったと知ってからは、このままこの人と生きていくことを受け入れようとも思った。

 ――なのに私は帰ってきた。

 二年前、両親にとっては今朝、私は別世界におちた。たった一人で放り出された。
 おちてすぐにあの人に出会い、最終的には保護してくれたから酷いことにはならずにすんだけれど、無事だったのは奇跡としかいいようがないだろう。
 そんな関係なら、二人の出会いは運命だと言う人がいるかもしれない。あの人に出会うためだったんだと、うっとりしたりもするんだろう。
 でも私にとっては事故だ。望んでなかったし、もし回避する方法があったなら時間を巻き戻して回避するだろう。あの人を嫌いではなかったけれど、運命だなんて思えなかった。運命なんかで日常や世界を強引に奪われるなんて冗談じゃない。
 帰りたかった。この世界に、日常に、帰りたいってたくさん泣いた。あの人に理不尽に当たり散らしたこともあるし、命の危険にさらされでもしたら戻れるかもしれないと危険な賭けにでようとしたこともある。
 そんな私をあの人は、怒り、呆れ、憐れんでいたけれど、見捨てないでいてくれた。
 そしてなにより、このお腹に命が宿った時、うれしそうに笑ってくれた。いつくしむようにこのお腹を撫でてくれた。これで一人じゃなくなるねと抱きしめてくれた。

「すこし、いい?」

 ノックの音がして、ためらいを含んだ母さんの声がする。
 戻ってきてから顔を見てちゃんと喋ったのは、妊娠していることを告げた時だ。私にとっては二年会えなかった母親から、不安そうな声で呼びかけられたら、無視なんてできない。
「なに?」
「病院には、いったの?」
「うん」
「……気がつかなくて、ごめんね」
「え?」
「そんなにお腹が大きくなっているのに、お母さんちっとも気がつかなかった」
 それは当たり前だ。このお腹になってから姿を見せたのは、さっきがはじめてなんだから。
 戻ってきた時は両親は仕事に行って誰もいなかったし、状況を飲み込んだら二人に連絡するより先に病院に行って診察してもらって、帰ってきたらいたからすぐに妊娠のことを話した。母さんがあらかじめ気が付けるわけがない。
 だからといって、急にお腹が膨らんだ理由は言えない。言いたくもない。
「いつ頃、うまれそうなの?」
「来月の中頃」
「そう、なの?」
 想像以上に間近で驚いたんだろう。私も驚いた。向こうではもう少し先だと言われたけれど、こちらの医療技術で確認した結果は来月中頃だった。
「もうおろせないし、おろすつもりもないからね」
「――ええ、そうね」
 母さんの声に、少しだけ力がこもった。



 私があちらにおちた場所は、あの人が事務員として職場のすぐ近くにある川の中だった。自分の部屋のドアを開けて入ったら川に落ちたのだから、意味がわからなかった。さいわい浅い小川だったけれど、冷たい水の中に尻餅をついた私が呆然とするのは当然だろう。
 そして、私が状況を把握するよりはやくあの人が声をかけてくれた。水音がしたから川を見たら、女の子が川の真ん中で座り込んでいるんだからさぞや驚いただろう。しかもその子が自分の状況を理解していないどころか言葉も通じない相手だったんだから、声をかけたことを後悔していたかもしれない。
 はじまりはそんな感じに突然だった。
 とりあえず、お互いに意味がわからない状況ながらも、あの人は私を保護してくれた。勤め先の学校につれていってくれて、上司に相談をして警察みたいなところとも話をしてくれた。
 出会った人たちは優しかった。でも状況も言葉がわからない私は、とても怖かった。
 結局、最初に優しくしてくれたあの人に縋ったのは本能みたいなものだったのかもしれない。異性を頼って身を寄せようとすることは、どう考えたって褒められたことじゃないけど、なりふり構っていられなかった。
 間をおかず妻になったことは、それがあの人の庇護にはいるための手段であり、あちらの世界で私の戸籍をつくる方法だったからだ。あの人の人生をゆがめてしまったことは申し訳ないと今でも思っているけれど、後悔はしていない。
 あの人はあの世界で生きる場所を与えてくれた。生活の方法を教えてくれた。言葉の勉強に根気良く付き合ってくれた。つらくはあったし理不尽さに怒りはあったけれど、あの人のおかげで幸せだって感じられた。
 ――二年。二年も、とも言えるし、たったの二年とも言える。あの世界であの人と過ごした日々は、二年。
 それはあちらにおちた時と同じように前触れもない突然さだったけれど、帰ってくることができてうれしい。私の世界に、日常に、戻れてうれしい。あの世界とあの人に、たとえ二度と会えなくなっても、帰れてよかったと思っている。――思って、いるのに。

「つらい、な」

 お腹をさする。時折お腹を蹴ってくる我が子に、胸が痛む。
 この子は父親に会えない。あの人はこの子に会えない。私もあの人に会えない。あたらしく築いていた日常に、きっともう二度と戻れない。
 愛はなかった。あったのは情だった。でも、それでも幸せだった。
 あちらで生きていく覚悟なんてなかった。帰れるならいつだって帰りたいと願っていた。それは叶えられたのに、どちらにせよつらい。あちらで生きる覚悟はなくたって、あちらを失う覚悟だってなかったんだと思い知らされる。

 この子がいなければよかった? そうすれば、こんなにつらくはなかった?
 ――それも違う。たとえこの子がいなかったとしても、私はきっとつらかった。

 ああでも、申し訳なく思う。父親が誰であるかは周囲に説明できない子。こちらの世界では突然できた子で、周囲が受け入れてくれるかはわからない。学生の私が育てる経済力もなく、この子にも両親にも苦労をかけてしまう。
 大学はすぐにでもやめて、しばらくは貯金と両親に頼るしかない。動けるようになったら仕事を探して働いて、この子を育てられるだけの基盤をつくることができるだろうか? 考えただけで不安だ。でも、この子と私自身のためにやるしかない。
 きっとこの子は、私があのままあちらにいたほうが幸せに暮らせた。
 帰りたいと思い続けた罰なんだろうか? でも帰りたかったんだ。ここに、帰りたかった。そう思うことが罪なわけがない。
 ……けれど実際に帰った今、あの人はどう思っているんだろうと不安になる。
 心配している? 悲しんでいる? 怒っている? きっと全部。
 昼間だったから家には私一人だった。だから、誰も私があの世界から消えたことを知らない。
 仕事から帰宅したあの人は姿の見えない私を探しているだろう。家を出るような様子もなかった妻が、家事を中途半端に放り出していなくなったら、どう判断されるのだろうか。
 つたない言葉で、私はこことは別の世界の人間だと伝えたことはある。でも理解はされていなかったはずだ。何かの理由で別の国からやってきたと思われているだろう。じゃあ、迎えが来て国に戻されたとでも思われるだろうか? 確かに私は戻った。間違いじゃない。間違いじゃないけど、国と世界じゃスケールが違う。同じ世界ならもう一度会える可能性はあったかもしれない。この子を父親に会わせる日が来たかもしれない。
 ああせめて、お別れができればよかった。帰るねと、今までありがとうと言えたなら、この胸の痛みは少しはマシになっていただろうか。あの人だって、突然身重の妻が行方不明になるよりはよかっただろう。
 けれどもう、私はここにいる。今更どうすることもできない。
 だからせめて、あの人がよろこんでくれたこの子だけは産みたかった。


 ***


 無事に産まれた我が子には、あちらの街の名前を日本でも違和感ないようにもじって名付けた。
 強い抵抗を見せていた父さんも最終的には子どもをあたたかく抱き上げてくれたし、母さんは子育てのことをいろいろ教えてくれた。友だちには妊娠したことだけを告げて大学を辞めたからこんなにすぐに産んだとかは知らないけれど、それでいいと思う。疎遠にはなるだろうけれど、今は目の前の我が子に集中したいから、友だちへの対応に気持ちを割く余裕はなかった。

 腕の中ですやすや眠る赤ん坊は、金髪。まぶたの向こうにある瞳は、緑色。向こうだとピンクとか紫とかマンガみたいな色もあったから、あの人の持つ色がこの世界にもあるものでよかった。
 そしてなにより、あの人の面影を宿すこの子がいとおしかった。日本で暮らす中では不自由な思いをすることがあるかもしれないけれど、それでも私はうれしい。

「産まれたよ」

 面影の向こうにささやく。届かないとわかっていても、届いてほしいと願って。
 あの人はこの子の命が宿った時、よろこんでくれたから。きっとあいしていつくしんでくれたから。だから、伝えたい。この子のことを、伝えたい。……会わせたい。

「――ごめん、なさい」

 ぼろりと涙がこぼれた。ああだめだ。ごめんなさいなんて、そんな謝罪の言葉はだめ。だって帰りたかった。帰ってこれてうれしかった。
「ごめんなさい」
 涙が顔にあたったせいか、腕の中の子が目を覚ます。緑の瞳が私を映して、ふにゃりと笑った。
「ごめんなさい」
 ああ、会えない。この子はあの人に会えない。――私はあの人に会えない。
 笑うこの子を二人で見ては笑いあおう。腕の中でこの子をあやすあの人の隣に並んで散歩をしよう。夜泣きに疲れてけんかをすることがあってもすぐに仲直りをしよう。成長していくこの子の姿を二人で見守ろう。
 そんな未来を私は描いていた。帰りたかった。帰ること望んでいた。でももう、私の胸にはあの人とこの子で暮らす未来があった。あったのに。
「ごめんなさいっ」
 ちがう。だめだ。帰ってきたことは罪じゃない。帰りたいと願ったことは罪じゃない。だから謝罪なんて必要ない。あの人を振り回したことやこの子を父親に会わせてやれないことに申し訳なさはあるけれど、帰ってきたことを否定したくない。――後悔、したくない。
 後悔。そう後悔だ。したくないと思っている時点でもう後悔している。帰りたかったのに。帰りたいと願ったのに。帰ってこれてうれしかったのに。なのに後悔している。あのままずっとあの人と一緒にいたかったと、悔やんでいる。
 愛していたわけじゃない。恩人だった。情があった。打算だった。でも一緒にいたかった。一緒にいる未来を描いていた。あの人と生きていきたかった。……そう思うことがすでに愛だったと、思いたくはなかった。今更、愛になんてしたくなかった。会えないのに。もう二度と、会えないのに。
 ……ああ、でも、だけど。
 腕の中から、小さな手がのばされる。反射的にその手に指を差し出すと、小さな手がぎゅっと指をにぎった。

「あいたい、ね」

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