☆61☆ 魔法の手
カチカチッと暗い廊下の蛍光灯が瞬きする。
ジーっと音をたてながらゆっくりと光を増す。
それでも薄暗く感じる廊下を恐る恐る歩きながら生徒玄関に向かっていた。
うしろからぴったりとついてくるもう一つの足音が怖さを半減させてくれてはいたけど。
やっぱり、怖いものは怖いし、暗い教室も、学校も、不気味すぎて早く抜け出したかった。
「ねえ」
うしろから声をかけられてあたしは少しだけ顔を向ける。
気持ちは生徒玄関へ駆け出したい気持ちでいっぱいだったけれど歩調をゆるめる。
「内履きは?」
ほんの少しうしろを歩く緑川君が怪訝そうな顔できいてきた。
「え……あっ」
思わず立ち止まる。
そして、冷たい廊下を踏みしめる足に視線を落とす。
そっか、靴はいてこなかったんだ……。
「足、冷たくない?」
いつの間にか隣に立つ緑川君が面白いものでもみるみたいに覗き込む。
う、わっ。
さっきの今でどんな顔しろっていうのよ。
あたしは緊張しすぎて顔がひきつる。
「大丈夫! 今まで忘れてたし。それより早く出ないと……今、何時なのかな」
「今? たぶん6時頃じゃない?」
緑川君はあまり考えもしないで答える。
「たぶんって……先生にみつかったら」
ただじゃすまない。
あたしは一瞬、身震いをする。
だって、優しい山田先生は怒ると怖いんだもん。
もしかしたら、この不気味な学校よりも怖いんじゃない?
緑川君に目で訴える。
「大丈夫だよ。この時間なら用務員さんだけだよ」
「なんでわかるのよ」
「わかるよ。よく残ってたし」
「あ、生徒会とか?」
「うん」
少し自慢そうに鼻をならす。
そんな緑川君を見るとさっきまでの悪態をついていたのが同じ人とは思えなかった。
「もしかして……二重人格?」
「え?」
突然のあたしの言葉に緑川君は驚いて顔を上げる。
でも、確かに。
あの暗闇で獲物を狙う肉食動物のような目をしていた人とは思えない。
「サギ師」
短くそう言うと、あたしはまた靴下で歩き始めた。
「サギ師〜? ひどいな〜。それに二重人格って事はないと思うけど〜、だってそれって精神的な病気なんじゃないの?」
「そんな細かいことはどうだっていいの! ただ別人だって言いたいの」
「別人? 誰が?」
とぼけた声で答えながら早足であたしにおいつく。
「緑川君にきまってるでしょ」
「あー……「緑川君」にもどってるし、悲しい」
「バカじゃない!? ほら、用務員さんでも見つかったら怒られちゃうんだから!」
あたしはぷいっと顔を背けて歩く。
「さっきは名前だったのにな〜」
「そんなこと忘れた」
早足で階段を下りる。
「ねえ」
階段の途中で呼び止められてあたしは不機嫌な顔で振り返る。
「もーっ早く帰らないと……――」
「僕はアヤが好きだよ」
真剣な瞳が階段上から見下ろす。
「前よりも今の方がずっと好きだよ」
そう言って笑う。
「なっ」
恥かしいことを平気で言う緑川君に顔をしかめる。
そういう事って平気な顔して言えないんじゃないのっ!?
どういう神経してるのよっ!
「あのねーっ! そういう……――」
その時、緑川君の眉が少しだけ上がってるのが見えた。
あれ?
もしかして……照れてる?
実はサラッと言ってるように聞こえても照れてるんだと思うと急におかしくなる。
「や、やだっ。おかし」
「何がおかしいんだよ。ちぇっ、人が真面目に言ってるってのに」
ブツブツと言いながら、緑川君は階段を降りてくる。
「ごめん、ちょっと思い出しちゃって」
「何を?」
「緑川君って照れると眉毛が上がるの、それでちょっ、と――ぷっ」
堪えきれなくなって最後まで言うことができない。
「そ、そりゃ、照れるって! こんな事、言いなれてたらおかしいよ! なんだよ、さっきまで泣いてたくせに」
「なっ、泣いてなんかないよ!」
「は? 泣いてたよ! 「私のこと……好き?」 ってかわいかったな〜。もう瞬殺!」
「や! 信じられない! 普通、言う? 」
階段を下りながら、あたしたちは話すのをやめなかった。
生徒玄関に辿り着くとドアは鍵がかけられて出られなくなっていた。
「職員玄関からじゃなきゃ出られないね」と緑川君が慣れた足取りで先生たちの出入り口へ靴を持って歩き出す。
「緑川君も靴下だね」
ふたりでペタペタと靴下のまま、三年の生徒玄関となりにある職員玄関へ移動する。
「足、冷た!」
「そう? もう慣れちゃった」
ぴょこぴょことつま先で跳ねる緑川君の背中を見て胸が熱くなる。
―――前よりも今のほうが好きだよ。
前よりも……か。
手を伸ばせばすぐそこにいて。
問いかければすぐにこたえてくれる。
いつのまにか目を奪われているのはあたしの方。
触れた指先から全身に広がる波。
これが好きってことなんだね。
今まで知らなかった「しあわせ」な気持ち。
好き。
まだ好き。
もっと好きになる。
だから、まだ……もう少しだけ卒業したくない……なんてね。
クスッと小さく笑いながら職員玄関で靴を履き替える。
「あ……」
一足先に履き替えて立っていた緑川君が小さく声を漏らす。
え?
緑川君の顔を見上げると。
―――ガチャ。
突然、職員玄関のドアが開く。
驚いて二人で開いたドアを見る。
ゆっくりと開いたドアの隙間からあらわれたのは山田先生だった。
「せ、先生……」
あたしは焦って言い訳を考えた。
「おい、こんな時間までなにしてるんだ!? 下校時間すぎてるだろ」
「あ、すみません。澤田さんがわからないところがあるって言うから教えていたんですけど時間が。これからは気をつけます」
緑川君は慣れた感じでスラスラと嘘を並べる。
嘘うまっ!
サギ師め!
あたしは少しだけとなりを睨む。
「こんな時間まではダメだぞ、あぶないだろ、しかも澤田は女の子なんだからな。まったく……先生ちょっと急いでるから送れないぞ。気をつけて帰れよ」
山田先生は慌てた感じで靴を脱ぐとどこかへ走り出す。
「あぶなかったね」
緑川君が笑うと……―――。
「あ、澤田!」
「は、はいいっ!」
突然、戻ってきた山田先生に呼ばれて跳ね上がる。
「お前……」
じっとあたしの顔をみて、一瞬目をそらす。
それからにこやかに笑うと「なんでもない。気をつけて帰れよ」とさっきと同じことを言って走り去った。
「こんな時間に……」
緑川君が小さく呟いたけど、あたしにはよく聞こえなかった。
「帰ろうか」
不思議そうにしているあたしに手を差し伸べて、ゆっくりとあたしの手を握る。
あたたかい手があたしの手を包むと。
たくさんあった焦りや不安がぱーっと消えていくのを感じた。
真っ暗な空も冷たい空気も全部ひっくりかえりそうなくらい明るくみえた。
それなのに、緑川君の顔だけが考え込んだように暗い。
「緑川君?」
「あ、ごめん」
「どうしたの?」
のぞきこむあたしに気遣って微笑む。
「なんでもないよ。先生の様子がちょっと……ね」
「先生?」
「関係ないか。ごめんね」
あたしたちはゆっくりと歩きはじめる。
どんな言葉よりもこの手がいい。
この手がいつまでもあたしを離さないでいてくれたらいいのに……。
あたしはつながれた手をみつめて微笑む。
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