☆60☆ 恋する気持ち
好きだと言ってくれた人は今、目の前の暗闇でじっと様子をうかがっている。
薄暗い教室はこの数分で真っ暗に変わった。
廊下の明かりが少しだけ教室に入りこんでいる。
机だけが並んでいる教室は不気味以外のなにものでもない場所なのに。
今のあたしにはそんなことどうでもいい事だった。
カタカタと震える身体。
目の前の闇を見下ろしてあたしは身体を硬くする。
寒いからじゃない。
あたしの甘い考えに愕然としているだけ。
ひどい事を言ったのは確かだよね。
好きじゃなかったとか、もうやめるとか。
最初に手を離したのはあたし。
でも、どこかで。
どんな事を言っても許してくれるんじゃないかって。
野村さんと話してあたしの時間は少しだけ動いた。
だけど、緑川君はまだあの時から動いてないんだ……。
動けないでずっとこの教室にいた。
帰ることもできないで、あたしを恨んでいたのかもしれない。
そんな事、少しも考えなかった。
「どうしたの? 怖いの?」
座ったまま静かに言う。
「ずっと……聞いてたの?」
「あ〜、澤田さんの独り言なら聞いてたよ。わけわかんないやつね」
わざと「澤田さん」を強調しているように聞こえる。
冷たい声に涙が出そうになるのをこらえた。
あたしに泣く権利はないんだから……。
泣いちゃダメ。
泣いたらダメなんだから。
野村さんだって泣いてなかったじゃない。
後悔しないように。
野村さんの言葉に勇気をもらう。
調子がいい。
こんな時にいいとこだけ切り取った言葉に励まされるなんて。
思ってることを全部、全部言って。
後悔しないようにしなくちゃ……ね。
まだ震えは止まらない。
でも、覚悟はできてる。
「ど……どうして、言ってくれなかったの? 本当のこと……」
「本当のことって何? 嘘なんかついてないけど」
「で、でも、言ってないこといっぱいあるじゃん!」
「それはみんなそうでしょ?」
「で、でも……言ってくれたらあたしっ!」
そうだよ。
言ってくれたら、こんなに不安にならなかった。
野村さんとつきあってなかった。
噂だけだったって。
キスだって……。
無理矢理されたんだって言ってくれたら、あたしは信じたのに。
きゅっと唇を噛む。
「何が不満なの? 僕が野村さんの事を言わなかったこと? それともキスのこと?」
緑川君の動く音がして目の前の闇が揺らめく。
「あ……あたしを、守ってくれたこともっ」
「守る? そんな事した?」
「巻き込まないようにしてくれたんでしょ?」
「へ〜、驚いたな。……誰に教えてもらった?」
一段と厳しい声があたしを追いつめる。
「そ、それは……」
「どうせ野村さんが悪いと思って言ったんだろ? あの人のやりそうな事だよね」
「そんな! そんな言い方しないで! 野村さんは……」
「あーっ、面倒だな。何が言いたいの? 野村さんはいい人だからつきあえとか? そういうのウザイよ」
息が止まるかと思った。
泣かないと誓っても、もう抑えている自信がなかった。
「あ、あたしは、ただ……言ってくれたらよかったのにって……」
「ハイハイ。もういいでしょ? 明日からは望むように無視でもなんでもしてあげるよ。もうトモダチだからね」
そう言って立ち上がる緑川君の顔が外の明かりで照らされて浮き上がる。
今まで見たことのないくらい無表情で。
好きだと言ってくれた優しい笑顔はどこにもなかった。
「とも……だ、ち」
震える声で繰り返す。
友達。
あたしはそんな事を本気で望んでいた?
友達でいいの?
そんな事……。
そんな事……。
そんな事、絶対いやっ!
叫びたいのに叫べない。
言ってしまったのはあたし。
言葉は消せない。
あの時、すべてを知っていたら。
別の今があったのかもしれないのに。
これは全部、あたしが蒔いた種なの?
「もう、いい? いい加減帰りたいし」
冷たい目であたしを見てから返事もきかないで歩き出す。
こんなに冷たくされてるのに。
どうして冷たくするの? と悲しむ気持ちとまだ何かを期待している気持ちがある。
もしかしたら、これは緑川君の意地悪なのかもしれない。と甘いあたし。
違うよ。もう許してはくれない、戻れないんだよ。と辛口なあたし。
二つの気持ちが運命のときを待つ。
緑川君があたしの横を通り過ぎる瞬間、その答えがでる。そんな気がした。
あたしはぎゅっと祈るように目をつむる。
神様、お願い。
もう一度だけチャンスが欲しいの。
神様なんて信じてないあたしのお願いなんてきいてくれる神様なんかいるわけもなくて。
あたしの肩にスッと風が通りすぎるのと一緒に「バイバイ」と小さく言われた。
目を開けることができなくて。
大きな気持ちの波が押し寄せてくるのを感じながらさらに強く目をつぶった。
今、開けて緑川君の背中なんか見たら大声で泣いてしまう。
そんな情けないことしたくないじゃない。
カラカラッと教室のドアが開く音がして閉まる音が聞こえるまで目をぎゅっと閉じ続けた。
まだダメ。
まだ、近くにいるから。
まだ……。
もう忘れる。
あたしも忘れるの。
あたしの好きは流されただけなんでしょ?
もう、好きだって言ってくれる人はいないんだから。
きっと、忘れられるよ……きっと。
全部、全部……。
目を閉じたまま嗚咽が出そうになるのをこらえる。
忘れようとすればするほど映画をみるよに溢れ出る思い出。
閉じた瞳に見えるのは優しかった笑顔。
聞こえてくるのは甘い声。
「澤田さんが好きなんだ」
「名前で呼んでよ、そしたら離してあげる」
「じゃあ、アヤ。帰ろう」
「またあとでね、アヤ」
「僕は味方じゃないの?」
「大丈夫だよ。大丈夫」
いくつもの緑川君。
あたしの好きな人。
いつだって優しくて、いつだってあたしを想ってくれた。
緑川君はあたしのために何も言わなかっただけ。
それをあたしは責めた。
じゃあ……、あたしは何でも緑川君に話せるのかな?
同じ状況であたしはすべてを話したかな?
どうして信じられなかったのかな?
どうしてあたしは逃げてしまったのかな……。
全部大切な宝物になってキラキラ輝いてて。
これを全部、あたしは忘れるの?
なにもなかったって思える日がくるの?
初めて二人で帰った時も一緒に笑った日も初めて名前を呼ばれた日も。
全部、全部?
そんなこと……。
忘れること……そんなこと……できないっ!
「まっ! 待って!」
バッと目を開けると急いで教室を出ようと振り返る。
振り返ったあたしは何かにぶつかったわけでもないのに固まった。
「え……」
教室の入り口のドアに寄りかかっている人影。
あたしは振り返った勢いで一歩だけ踏み出していたけど。
そこで止まった。
廊下の明かりは逆行でもさっきよりは顔がよく見える。
うつむきながらもじっとあたしを見つめるふたつの目。
緑川君はゆっくりとを顔を上げる。
「ど……どうして……」
帰ったはずの緑川君がそこにいた。
ドアの開く音は聞こえてた。
閉まる音も聞いた。
それなのに……。
「な……んで? 帰ったとおもっ、たのに……」
力の抜けたようなあたしの声が教室に響く。
「どうせ、ここで動けなくなって先生にみつかって怒られると思ったから」
「だ……だって、バイバイって……言ったくせに」
「澤田さんこそ、待ってって何?」
真っ直ぐにあたしを貫く視線。
その強い光に目をそらす。
「わかんない……、何なの? トモダチって言ったじゃん」
困惑しながら思わず反発してしまう。
「澤田さんがそうしたいんでしょ? だから望むようにしてあげるって言ったんだよ」
「う、うそ……そんな事言ってない……ウソツキ」
目の前にいる緑川君。
笑ってはいないけど……。
まだ、あたしは許されてるの?
まだ、あたしにチャンスはあるの?
「嘘? 嘘なんか言ってないよ。最初から嘘なんてひとつもないよ」
あたしは緑川君を見る。
強い眼差しであたしを見つめている。
自然と足が動き出す。
「そんなこと……わかんないよ。言ってくれなきゃ……」
うっと声が出そうになって何かがこみあげてくる。
最初から嘘はなかった。
そんなことわかってる。
あたしが勝手に不安になっただけ。
だから、わかる。
何を言えばいいのか。
今、何を言うべきなのか……。
緑川君の目の前で足を止める。
手を伸ばせばその顔にふれることができる。
だけど、それは許されてるの?
あたしは堪えていたものを抑えられなくなって口を開いた。
「好き……好きなの」
しぼりだすようにかすれた声で一生懸命に言った。
視界はもうぼやけていて目の前の緑川君の顔もよく見えない。
ゆらゆらと緑川君の形が動いてあたしの前に手をだすのが見える。
「翠……好きなの」
ゆっくりと前へ足を進めながら溢れる気持ちも涙も止めることができなくなっていた。
涙は流れるままに。
気持ちは言葉になって。
あたしのすべてが溢れ出していた。
「アヤ……おいで」
まるで犬か猫を呼ぶようにあたしを誘う優しい声に胸がしめつけられる。
まだ、あたしは許されてる?
その声に、言葉に答える権利はあるの?
あたしはまだ……。
強い力が動けないあたしの腕をひっぱってタタッとあたしは数歩、スキップをする。
視界はぼやけていても見上げれば緑川君の顔があるのがぼやけた輪郭でわかる。
「あたし……」
もっと良く見えるようにと近づく。
その瞬間、目の前にでてきた緑川君の指らしきものが近づいてくる。
「ぶっ!」
あたしは突然ブニッと鼻を押される。
「何するっ―――」
「ハイハーイ! 僕の勝ち!」
「へ? な……何?」
慌てて目をこすって涙をふくとはっきりと緑川君のいたずらっぽい笑顔が見えた。
「どういう……こと?」
状況を把握できなくてオロオロするあたしに緑川君は鼻で笑う。
「どういうことも、こういうこともないよ。僕はもうこういうのヤダな〜。だってアヤは泣くし、僕も胸が痛いしさ〜」
あたしはぽかんと口をあけたま緑川君の顔を見上げる。
「あー、でもアヤはこういう破局ごっこ好きなの? それなら仕方ないけどさ。僕はもうお腹いっぱいだな〜」
「な、なに言ってるのか……わかんな、え? ごっこ?」
「本気にしたの?」
ニヤッと笑う緑川君があたしに顔を近づける。
「逃がすと思う? もうアヤちゃんは逃げられないんだよね〜残念でした!」
「や……なにそれ……う、うそついたの!? ひどっ」
あたしはドンドンと緑川君の胸を叩く。
「うっ、乱暴なことはダメだよ〜、さっきも肘がかなりきいたし。力強いよね。おっ!新しい発見だ! それだけでもよしとしよう!」
緑川君はケラケラと笑うとあたしを片手で軽く抱きしめた。
「わっ! やっ!」
「ごめんね。僕ってちょっと変態かな〜……」
嬉しそうに笑う笑顔を見るだけで胸がいっぱいになる。
また涙がでそうになって、それをごまかすように睨んだ。
「へ、変態だよ!」
―――― ムギュッ!
「いっ! てーっ!」
無防備だった足をおもいっきり踏みつけてやった。
手加減はしたんだから同情の余地なし!
あたしはその場から逃げ出すとそのまま教室をでる。
外の空気は冷たくて、下校時間がとうに過ぎているのに廊下をゆっくり歩く。
「まってよ〜、先生に見つかったらごまかすの下手なんだからさ〜、それにまだききたいことあるんじゃないの〜?」
情けない声で片足を上げぴょんぴょんと跳ねながら後ろからついてくる。
「うるさい! 口きかないで! 嘘つかないとか言って嘘ついた罰! べーっだ!」
あたしは背中に手をあてておもいっきり舌をだした。
なんであたし。
なんであたしこんな男が好きなんだろう。
あーっ、もう!
あたしの男運ってもしかして悪いのかな。
まさか全部、全部、遊ばれてただけなんて……。
本当! いやーっ!
心の中で叫びながらも顔がにやけていく。
涙はゆっくりと乾いてあたしの顔に笑顔がもどってくるのがわかった。
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