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◆1部:青い空
5章:戸惑い 変わりゆく人、変わらぬ想い

 青い。
 今日の空も、青い。
 5月11日。なんでもない、普通の日。金曜日。平日の中で、最もうれしい日のような気がするのは僕だけだろうか? だってさ、今日一日がんばりゃ明日から土曜日・日曜日と続くのだ。休日だぜ? がんばる気になるでしょーよ。
 いつもの僕ならほんの少しうきうきしながら、ほんの少し早起きをして、学校に行く。
 いつもの、金曜日だったなら。

「空―!! いつまで寝てんの!! もうすぐ8時だよー!」
 ドアの向こうから、母さんの怒号が聞こえる。なかなか、布団から出ることができない。なぜだろう。昨日、結構早く寝付いたはずだったのに。
「おらー! 起きろー!!」
 この声は……。
「空―! 起きろ、このやろー!!」
 海が勢い良く、僕の部屋のドアを開けた。
「いい加減にしないと、遅刻するぞ!!」
「……海…?」
「そうだよ! いいから、早く起きろってば! お姉ちゃんも待ってるのよ」
 その言葉で、僕はまぶたが完璧に開いた。それと同時に、眠気もどこかへ吹き飛んでしまった。
「空まで?」
「そうだって! ほら、早く出ろー!!」
 彼女はそう言って、僕の布団を剥ぎ取った。うひゃー。

 空が待っていると聞いて、行きたくないような、行きたいような。まったく別方向の感情が、あっちこっち行ったりして嫌な感じだ。
 急いで寝癖を直し、パンを一口ほお張り、歯磨きをし、カバンを持って外に出た。玄関の外では、本当に彼女が待っていた。
 朝日を浴びる空。緑色の風になびかれる空。青い空の下に佇む空。
 あらゆる自然のものが、彼女のためにありそうだった。


 狂おしいほどに、愛せるというのか?


 ほんの一瞬、視界がぼやける。頭痛はしなかった。
「お待たせ、お姉ちゃん」
 海の声に、僕の世界は元に戻った。
「ほら、急ご。もう8時過ぎちゃったよ!」
「あ……うん」
 海は空を急かしながら、道路を走って行った。空は僕を一度も見ずに、海の後を追いかけて行った。僕はなぜかわからないが、空を見上げた。
「…………」
「置いてくぞー!!」
 海の声が遠くから聞こえる。僕も、カバンを持って走り始めた。


 いつもどおりの始まり。昨日と同じように、授業が身に入らない。雑音にしか聴こえないみたいだった。今、僕がいるこの空間を一枚の絵にしたら、きっと僕の周りには雑音が黒い文字となって辺りを泳いでいるのだろう。
 僕の心をざわつかせるでもなく、イラつかせるわけでもなく、言葉たちはあちこちへ飛んでいって瞬く間に消えていく。
 様子のおかしい僕に気がついた和樹は、教科書を丸めて僕の頭を引っぱたいた。
「いてっ! 何すんだ!!」
「何すんだじゃねーよ、ったく」
 不機嫌そうな顔を浮かべながら、和樹は椅子に座っている僕を見下ろしていた。
「昨日といい、今日といい……なんだってんだ? お前は」
「………」
 あからさまに、和樹はイラついていた。話しかけても、いつものような反応を示さない僕が嫌だったのだろう。
「ホントにどうしたんだよ? 昨日よりも様子がおかしいよ」
 啓太郎が僕の隣の席に座って言った。
「何も……」
 僕は遠い目をしながら、黒板を見据ええた。
「何もないなら、人間はそんな様子にゃなんねぇよ。んだよ? 俺たちには言えねぇことなのか?」
 和樹の口調に、だんだん棘が生えてきた。
「…だから、何もないって言ってるだろ…」
 僕は和樹に目を合わせないまま、言い放った。
「何イラついてんだよ?」
 イラつく…? こんなにも激しく燃えるような感情があるのは…イラついているからなのか? だが、そうだとしたらこの平穏な気持ちは何だ? どうして、こんなにも落ち着いている? 
 それが、わからない。
 美香に言われて、何らかのことに気がついたような気がしたのに…。ほんの少し、自分の気持ちに正直になれそうだったのに。それなのに、どうして僕は閉じてしまっているんだろう?

 …正直?

 僕が気づいていない、何かがあるって言うのか…?
 おかしい。
 僕はどうしてしまったんだ? こんなにも、自分の気持ちがわからないのは初めてだ。どうして、空のことを考える? どうして、海のことは気にも留めない? あいつたちは、同じじゃないか。見た目も、声も。性格だって、根本的なところはそっくりなのに。

 ……わたし、…………あなたは……?

 あれ……君は……?
 幼い手。
 幼い身体。
 

 ……そう、拾い損ねた宝物さ……


「…い。…おい! 空!」
 遠くから聞こえ始めた和樹の声で、僕はハッとした。
「聞いてんのか?」
「あ………何?」

 ……………… 

「………」
 和樹はため息をつきながら、自分の髪の毛をクシャクシャにした。
「…何言っても、ダメみたいだな」
「和樹…」
 啓太郎は困った顔をしていた。
「もういいよ。自分で悩むだけ悩んで、追い詰めるだけ追い詰めて答えを出してみろよ。そうやって得られたものに、自分が納得ができるまで答えをはじき出し続けりゃいいさ」
 そう言って、和樹は教室を出て行った。
「………」
「空……あの態度は良くないよ」
 啓太郎も同じように、ため息混じりに言った。
「…わかってるよ。ごめんな」
 僕は苦笑した。本当に、和樹には申し訳ない。せっかく心配してくれてるのに、話を聞かないなんて…。
「……?」
「…? どうした?」
 啓太郎は、キョトンとした表情をしていた。
「いや……なんか…」
「……うん?」
「さっきまでの空の変な雰囲気が消えて、いつもの空に戻ったような気がして…」
 うーん、と啓太郎は唸った。
「おっかしいな。……ん? おかしくないか。いつもの空に戻ったんだから」


 どうしてだろう。

 昨日から続いていた、なんとも言えない憤り。なんとも言えない不安。なぜか、それが消えていた。心の奥底にしがみ付いていた「何か」がようやく離れ、再び奈落の淵へ沈んだかのようだった。
「空……青いな」
 僕は昼休み、屋上に一人だった。いつもなら和樹や啓太郎と一緒に食事をするはずだったのだが、僕の様子がおかしいため、和樹が嫌がったのだ。無理もない…。
 フェンス越しからこの町を眺めていると、日本という国は平和なんだなと実感する。いや、平和だと偽られている、と言ったほうが正解かもしれない。
 平和なんて上辺だけさ。遠くから眺めるときれいにしか見えないが、近くで見てみると薄汚れている。巷では凶悪な犯罪がはびこり、無駄な論議が政府でなされ、進展しない国際問題。まるで、今の富士山のようだな。富士山のふもとは、ゴミだらけだと言うし。
 上辺だけの平和や幸福があるだけで、人はどうして満足するのだろうか。満足せず、ただ憂いている人もいるかもしれない。だけど、そういう人に限って行動力がない。稚拙な論理しか頭にない連中だけが、行動力を持っている。
 怠惰な平和。惰弱な世界。
 世の中なんて、そんなもの。
 生きていく中で、人はどれだけの真実を知って生きていけるのだろうか。知らないほうが幸せなことだってあるかもしれない。知らないほうが、世界はうまく回っていくのかもしれない。でも、人として生まれた以上…この星の生命として生まれた以上、全てを知る権利はある。そして、世界を変える権利がある。そうやって、僕たちの歴史は築かれていったはずだ。
 僕たちの先祖たちはいつの時代でも世界に抗い、生きていたはずだ。同じ人である僕たちにもできるはずなんだ。
 だけど……しようとしない。それは、僕だって同じ。
 世界が嫌いなわけでも、憎いわけでもない。このままじゃいけないって感じているだけだ。そういう人間が一人、二人いても悪くないはず。

「今日はいい天気だな」

 後ろから、修哉の声が聞こえた。
「……そうだな」
 僕は振り向かないまま言った。
「そろそろ、長袖じゃ暑くなってくるな。つっても、まだ24度前後だろうけど」
 きっと、修哉は上空を見上げながら言っているに違いない。
「昨日の夕立、突然でめんどくさかったぜ。洗濯物が濡れちまったよ」
「ハハ。昨日はお前が洗濯係だったのか?」
「じゃんけんで負けたんだよ」
 そう言って、修哉は僕の隣でフェンスに背中をかけた。修哉の家では、家事は妹の咲希ちゃんと修哉がやっている。そのためのじゃんけんだったかな。
「よく、ここだってわかったな」
「まぁな。何年お前の友達やってると思ってんだ?」
「……7年、かな」
「正解。……それに、お前のいそうな場所なんてのはたいてい空が見える場所だしな。お前の名前そのまんまってね」
 修哉は小さく笑った。
「ハハ。……僕としては意識してるわけでもないんだけど、自然とこういう所に行きたくなるんだよ。特に、空がきれいな日にはな…」
「まぁ、気持ちはわからんでもないがね。気持ちいいもんな。陽気が降り注ぐ中、青空の下でこうやって風になびかれてると………」
「……と?」
「眠くなる」
「…結局それかい」
 僕は呆れながら言った。
「こういう日に勉強なんかしてられっかってんだ。だろ?」
「お前はな」
 僕は皮肉混じりに言ってやった。
「お前みたいに勉強ができれば、授業なんて聞かなくてもいいんだけどなぁ」
「勉強は学生の仕事だ。サボるなよ?」
「ふん。ほっとけ」
 暖かな風が吹く。風の妖精が眠気を運んでくる。僕は大きなあくびをした。

「空ちゃんだろ?」

 修哉は唐突もなく、口を開いた。
「………」
「返答がないのも、答えってね。まぁ、お前が悩む理由なんて容易に想像できるがな」
 チラッと彼を見ると、なぜか微笑ましい顔をして空を見上げていた。
「空ちゃんに告白されたんだろ?」
「………」
「小山内から聞いた」
「…美香が?」
 すると、修哉はうなずいた。
「『一番の親友は柊君だから、今の彼を支えられるのは柊君だけだと思う』って言ってよ」
「………」
「悲痛な顔で頼まれちゃ、さすがの俺も放っておけないからな」
「…お前、美香のこと嫌いじゃなかったっけ?」
「ん? ああ……それか。別に、嫌いでもなかったがな。ただ単に、どうでもいい存在だったってことさ。俺にとって、いようがいまいが関係ない。お前や空ちゃんには関係があるんだろうけどな」
「……なるほどね」
 ある意味、ほっとしていた。自分の知り合いが、他の知り合いのことを嫌っていると知るのは辛いから。そうじゃないとわかっただけで、心が落ち着いた。それにしても、修哉は棘がある言い方をする。可愛げの無い奴。
「さて、何から言おうか………」
 修哉はう〜んと唸った。
「そうだな……まず、空ちゃんについて話そうか」
「…空?」
「彼女が何でお前に告白したのか…わからないか?」
「………」
「お前が考えているとおり、彼女はお前のことが好きだからだよ」
 僕は何も言わなかった。だけど、こいつは僕が何を考えたのかわかっていた。
「いや、好きという範疇を超えているな。『愛してる』と言ったほうが正解だろう」
 ほんの少し、風がなびいた。
「彼女がお前を想う気持ちは、きっと想像以上さ。だからこそ、超えたいものがあったんだ」
「…超えたいもの?」
「ああ。…今の関係、さ」
 修哉は僕に視線を向けた。
「今までと同じなのは、もう嫌だったんだ。幼い頃から続く同じ関係でいるのは、もういい加減うんざりしていたんだろう。その関係を超えて、お前の傍にいたかったのさ」
「…そんなことしなくたって、あいつは…あいつたちはいつだって傍にいた」
 そう言うと、修哉は目を閉じ、首を振った。
「違うな。それはお前のエゴに過ぎない。お前がそうしておきたかったという願望さ」
「願望…?」
「ああ。お前は彼女に告白されることによって、無意識にそう置き換えていたのさ。それまでの、自分の本当の気持ちを心情の奥底に沈めて…な」
「………」
 修哉は僕と同じように、フェンスに向かった。
「空ちゃんは自分から今の関係を壊した。そして、本当の意味でお前の傍にいたいのさ」
「そんなこと言われても……」
「……そうだな。お前は今の関係を崩したくなかった。そうだろ?」
「………」
 僕は小さくうなずいた。
「そして、いつまでもそのままでいたかったんじゃないのか?」
「………ああ」
「それじゃあ、駄目なんだよ。……この世に、変わらないものなんて存在しない。存在し得ないんだ。ずっと昔から続かせたいなんて、ただの願望……欲張りでしかないのさ」
「欲張り? 僕が大切にしておきたいって想う気持ちは、欲張りだって言うのか?」
 僕は思わず声を少し荒げた。修哉は動じず、続ける。
「そう、欲張りだ。お前は彼女たちをいつまでも同じステージに立て続けさせ、自己満足していたんだ。それが欲張りと言って、何て言うんだ?」
「! 違う! 僕は…怖いんだ! もう昔みたいに…いつものように話すことができないのは、辛すぎる。心が……壊れてしまいそうなんだ!」
「そりゃそうだ。空ちゃんだって怖かったんだ。どうしようもないほど、怖かったに違いないんだ。昔に戻れないのは誰だって辛いし、どうしようもないほど怖い。だけど、いつだって人は前に進まなきゃならないんだ。そういった恐怖感を跳ね除けて、勇気を振り絞って前に進む…。そうやって、人は自分たちの未来を拓く。そうすることで、一つ一つの歴史が重なっていくんだ。……大げさかもしれないがな」
「…………」
 彼は僕のほうに体を向けた。
「考えてみろ。彼女だってお前と同じように、今いる立場〈ステージ〉に満足していたかったかもしれない。そこから離れたくなかったのかもしれないが、それでも前に進むことを選んだ。元に戻ることができない恐怖や不安を跳ね除け、己の勇気で言葉を振り絞った。そんな彼女の気持ちが、お前は理解できないってのか?」
「…空の……気持ち…」
 僕は思わずうつむいてしまった。あいつだって、僕と同じで怖かったはずだった。
「今までいた場所にいれば、それなりに幸せかもしれない。今までと同じ安息は得られるかもしれない。そうとわかっていながら、彼女は前に進むことを選んだ。自分の気持ちに正直になることを選んだんだ」
 僕だけが怖いわけではない。あいつだって、同じなんだ。それでも……あいつは自分の心に素直になった。それが、どれほど難儀なことなのか……人であるならば、容易に理解できる。
「それは、何に置き換えても言えることさ。変わらないことが駄目って言うわけじゃない。駄目じゃないが、それじゃあ何一つ変わらない。変わるべき時だってあるはずなんだ。幸福な過去や今にしがみ付いていたって、未来は暗いままだ。……この世界も、ヒトも」
 修哉の言葉は、もはや僕や空だけの範疇を越えていた。そう、全てに当てはまることなのだ。学ぶことにも。分かり合うことにも。知ることにも。…生きることにも。
「空」
「………」
「今見える現実から目を背けるな。どんなに辛くても、現実から目を背けては全てがねじれたままだ。彼女の気持ちに素直に応えてやれ。勇気を振り絞った彼女にな。そして、今度は自分が今の殻をぶち破れ」
「…修哉…」
「健気じゃないか。俺の中の彼女のイメージは、ほんの少し弱々しい女性だと思っていたんだがな」
 そう言って、修哉はフェンスにもたれ掛かりながら座った。
「樹と同じで、おとなしい性格だからな」
 ハハっと修哉は笑った。
「……お前の気持ちがどんなであれ、彼女は優しく応えてくれるはずさ。それは、幼馴染であるお前が一番良くわかってるだろ?」
 幼馴染。それが、一番僕を縛り付けていたワードなのかもしれない。
 幼馴染とか……そんなの関係ない。僕たちを繋ぐ糸は、そんな言葉だけで表現できるものじゃない。
「…違うな。彼女にとって最も大切な人であるお前だからこそ、だな」
「…そうかな」
「何言ってんだ。彼女、言ってたぜ? 『空はなんだかんだ言って、私に対して優しくしてくれる。守ってくれる』…ってさ」
「……そっか……」
 空がそんなことを…。あいつが、どれほど僕を想っていたのかが伝わってくる。…あいつは、嘘なんてつかないし…。
「お前が彼女に対してどういう感情を抱いているのかは、はっきりと言えない。けど、これだけは言っておくぞ? いいか。自分の気持ちに正直になれ。自分の心に従え。あるがままの心情をさらけ出せ。本当の想いを隠したりするな」
 そういう修哉の顔は真剣そのものだった。
「…わかったか?」
「………」
「わかったのか?」
 僕はつばを飲み込んだ。
「…わかった」
 すると、修哉の顔はいつもの明るい表情に戻った。
「そうか。なら、俺はもう何も言わないよ。これ以上言う必要なんて、ないっぽいしな」
 修哉は立ち上がり、うーんと背伸びをした。
「…ありがとうな、修哉」
「ん? いいってことよ」
 彼は僕の顔を見て、満足そうだった。自分では良くわからないが、わかる。すっきりとした顔をしているんだろう。心が軽くなったからだ。
「…行くよ」
「今からか?」
「ああ。今から、あいつに会いに行く。今あいつに会わないと、駄目な気がするんだ」
 自分の気持ちに素直になるためには、今からあいつに会わなければならない。あいつを見ないまま、どうやって正直になれってんだ? 無理な話だ。まだ良くわからない気持ちでいっぱいだ。けど、彼女を見れば一つの楔が外れる気がする。僕の心を縛り付ける、見えない楔が。
「なるほどね…。まぁ、善は急げって言うしな」
「あのな…」
 修哉はふざけた風に笑った。
「行って来いよ。ちゃんと、決着をつけてこいよ?」
「………ああ」
 僕は彼のウィンクに、ウィンクで返した。
 僕は、一年生がいる新校舎のほうへ向かった。


「…………」
 修哉は小さく息を吐いた。
「…俺も、お人好しだな。……とうの昔に、憐れむ心なんて消え失せたと思っていたんだがな…」
 重い腰を上げるかのように立ち上がり、町の風景をゆっくりと眺めた。
「…わかってる。お前らが何を言おうとしてんのかくらい…。いいじゃないか。ほんの少しだけ、未来(あした)を夢見るくらい……」
 果てしなく続く青い空。町のずっと先が、白く霞んで見える。
「…………」



 終焉の鐘は近い……か…。



 ほとんど走ったことのない廊下を、僕は走っていた。ほんのちょっとの時間でさえ、今は惜しい気がしていた。一粒の雫さえ、この手から零したくない。
 昼休み終了間近で、学生たちが廊下に大勢いる。なるべく人にぶつからないように、間を縫って走る。もしも空がいなかったらどうしようか? いなかったらいなかったで、待つだけだ。あいつのことだ。授業をサボることはできないはず。絶対に教室に戻ってくる。
 新校舎の2階。ここが現1年生8組のいる階だ。教室の周りは1年生でごった返している。みんな、制服をきちんと着ている。僕なんてネクタイは締めてないわ、シャツとブレザーのボタンはしめていないわで、よく空と海に注意されている。
 僕は教室に入り、中を見渡した。ざっと40人近くいる教室の中で、空はどこにいるのだろうか。すると、一番後ろで、誰かと談笑している彼女を見つけた。その瞬間、僕の心拍数が上昇した。まだ、空は僕に気がついていない。話に夢中だ。
 いつもの歩幅で僕はそこに行った。

「……東先輩?」

 すると、彼女の隣にいた女子生徒が僕に気がついた。僕としては面識がない子だった。そして、空は僕に気がついた。初めはハッとしていたが、すぐに顔を逸らした。
「東先輩ですよね? ……もしかして、この子に用ですか?」
 その女の子は空を指差しながら、笑顔で言った。
「ああ。ちょっとこいつ、借りて行っていいかな?」
「…えっ?」
 僕は軽くあごで空を指した。
「もちろんですよ」
 と、彼女はなぜか簡単に承諾した。そもそも、この子に承諾を得るのもおかしな話なのだが……まぁ、いっか。
「ちょ…ちょっと、あずさ。授業がそろそろ始ま―――」
「まぁまぁ、一回くらいサボっても大丈夫だって。はい、東先輩」
 空の友達は、彼女の言葉を遮って僕の前に突き出した。
「あ、あずさ!」
「……めんどくせぇなぁ……ったく」
 僕は強引に、彼女の手を握って引っ張った。
「いいから来い」
「!! そ、空、まっ―――」
 彼女の抵抗を無視し、僕は人目をはばからず彼女を教室から連れ去った。周りの目が僕たちに向けられているのがわかった。けど、そんなの無視だ。気にしてなんかいられない。そんなこと気にしていたら、前になんか進めない。
 空の手を握り締めて早歩き。その間、何度も彼女が僕に向かって何かを言っているのがわかったが、それも無視。今は、学校から離れたいと思っていた。ここでは、落ち着いて言葉を交わすことができないと思った。彼女は学校の門をくぐると、何も言わなくなった。


 僕たちは近くの公園へ行った。この公園は、幼い頃から何度も遊んでいる場所。僕たちにとって、ゆかりのある場所でもあった。あの滑り台も。平均台も。砂場も。
 ここへ辿り着いても、僕はまだ彼女の手を放していなかった。なぜか、放すことができなかった。手放したら、今すぐにでも彼女が無言で帰ってしまいそうだったから。
「…………」
 僕は空に背を向けたまま、立ち止まった。
「…………」
 沈黙。それだけだった。後ろを振り向くことができない。空は、どういう顔をしているのだろうか。気になるけど、怖い。……けど、怖がっていては駄目だ。
 僕はゆっくりと後ろへ振り返った。そこに立っている空は、俯いていた。
「…空」
 彼女の名前を呼ぶと、ほんの少し反応があった。だが、顔は俯いたままだ。
「最初に、謝るよ。……無理矢理教室から連れ出して、ごめん」
「………」
 僕は小さく頭を下げ、すぐに上げた。彼女はまだ俯いたままだ。
「……お前に、どうしても言いたいことがある。それを…すぐにお前に伝えたかったからさ」
「………」
 すると、空は沈めていた顔を上げ、僕に視線を向けた。どこか哀しそうで、どこか……うれしそうだった。そんな気がした。
「…謝らなくていいよ…。私、すごくうれしかった…」
「…うれしい?」
 空はうなずいた。
「空が…大好きな空が、私の手をとって連れ出してくれたことが…」
「………」
「…空が来てくれるまで、不安でたまらなかった。心が押し潰されそうだった。…けど、空がこうして目の前にいると……やっぱり落ち着く…」
 空は目を閉じ、僕の手を握りしめた。
「もしかしたら、ただの親愛なのかと思ったけど……やっぱり違う。私……空のことが大好きなんだ。誰よりも……」
 彼女は微笑んだ。それを見て、僕の中で何かが流れ込んだ。


 ……わたし、ひなたそら。あなたは……?


 ああ……そうか。そうだったんだ。
 僕はようやく……気がついた。遥か奥底に沈んでいた小石を掬い上げたかのように、何かが僕の中に戻ってきた。
 そうだったんだよ。何が本当で、何が真実なのか。
 自分の想いとは…。
 その答えが、今、僕の掌〈たなごころ〉に戻ってきた。
 遠い昔に零れ落ちた真実の種が、可憐な花を咲かせてこの手に舞い戻ってきた。

「……空?」
 空は頭をかしげていた。
 何者にも奪えない、僕だけの……たった一つの宝石。
 僕は小さく微笑んだ。
「どうしたの? 気分でも…悪いの?」
 彼女は心配そうに、僕の瞳を覗き込んでいた。
「大丈夫。なんでもないよ」
 僕は笑顔で返した。
「…幼い頃、ここでよく遊んだな」
 僕は辺りを見渡した。昼過ぎの平日……子供は昼寝の時間かな。
「…そうだね。小学校からでも近くて、いつもここで道草をしてたね」
 空も同じように見渡しながら、想い出を回想していた。
「僕と樹と空と海…いつも、4人だったな。いつの間にか修哉も加わってさ」
「あの5人だったら、怖いものなしだったね」
 そう言って、空はクスッと笑った。
「まぁ、僕と修哉がいれば大抵のいじめっ子なんて撃退できたからな」
 あの頃、おとなしい空と樹は幾度となくいじめっ子に絡まれていた。そのたびに、僕たちがそいつらを撃退していた。
「一年…二年と過ぎていくたびに、ここにくる回数も減っていったね…」
「…ああ」
「…何年もすれば、今こうして回想しているようになるんだね。…私たちがこうして、昔のことを懐かしんでいることさえも…」
 空の顔に哀愁さが漂った。
「そうだな…。想い出は、風化していくだけなのかもしれない」
「………」
「…けど…」
 僕は上空を見上げた。スズメが一羽、横切っていった。
「…いつまでも、僕たちの中に生き続ける。消え去ることのできない、自分たちだけの宝物さ」
「宝物……」
 僕はうなずいた。
「そして、僕たちはそれらを共有している。想い出を…人生の一部を」
 それが人と人との繋がり。それがある限り……人は独りじゃない。そんな気がする。
「空……うん、そうだね…。ただ、風化し続けるだけじゃないんだよね……」
「ああ」
 僕たちは見つめあった。すると、なぜか同時に笑ってしまった。
「なんか、今までギクシャクしてたのが変な感じ」
 空は口元を手で隠しながら言った。
「まったくだ。深く考えるんじゃなかった」
「何よー。せっかく、私が勇気を振り絞って言ったのにさ」
 彼女はふざけ口調でそっぽを向いた。
「そういう意味じゃないって。ていうか、その点に関しては今までにないくらい思い悩んだし」
「ホントにー?」
「……ホントだよ」
 宝石のような瞳を見つめながらそう言うと、彼女は僕から顔を逸らした。
「も、もう……なんだか、恥ずかしいじゃない……」
「ハハ、照れるなよ」
「…もう!」
 空はフンと突っぱねた。
「……空」
「…ん?」
 空は僕から顔を逸らしたままだ。



「好きだよ」



 言葉が、風に乗って彼女に伝わっただろうか。囁くかのように、緩やかな風たちが僕たちを包みだす。
「……え?」
 空は、僕のほうに顔を向けた。子どものように目をパチクリさせている。
「お前のこと、好きだ」
 こんなに、簡単に言えるなんて思わなかった。でも、口に出してみれば結構簡単なんだな。ある意味、新発見だ。
「…………」
 だんだん、空の表情がこわばっていった。目の前の現実に、パニックになっているのかもしれない。
「うそじゃないよ。僕は、空が好きだ」
 もう一度言うと、彼女は小さく首を振り始めた。
「うそに…決まってる…。そんなの……」
「こんなときに、うそなんかつくかよ」
 僕は小さく震えだした彼女の手を、強く握り締めた。
「お前に対して……今まで嘘なんかついたことはないだろ?」
「…うそ…よ…」
 彼女は否定するかのように、顔を振る。
「……まったく……そんなに信じられないってなら、理解できるようになるまで何度でも言ってやるよ」


 空、お前が好きだ。


 僕は何度も言葉に出して言った。偽ることのできない、真実。本当の気持ち。想い。これだけは、誰にも覆すことのできないものだ。
「…ほんと…?」
 彼女の言葉が変わった。一辺倒だった「うそ」から。
「ほんとに……?」
 僕は大きくうなずいた。
「だから、こんな時に嘘なんかつくわけねぇだろ? 本当の本当だし、本気の本気だっての。…好きだよ、空」
 何度目かわからない、「好きだ」という言葉。
「ほんと…なの………?」
 すると、彼女の瞳から涙が零れ始めた。小さな宝石たちが、ほんのりとしたピンク色の肌を走ってゆく。
「……ようやくわかった。自分がいつも……いつも、誰を想っていたのか」
「…空…」
 彼女は手で自分の顔を覆った。涙で、クシャクシャになっていた。
 突然、僕はそんな彼女がたまらなく愛おしくなり、思わず抱きしめた。
 軽い。
 彼女の髪の毛が、僕の手や腕に触れる。
「空……わ…わた……」
 空は涙でうまくしゃべれていなかった。それが更に愛おしかった。
「……ああ。わかってる。……お前が言いたいことは、全部……」
 僕は強く、抱きしめた。彼女も同じくらい僕を抱きしめた。
「…わた……私……私…」
「ごめんな……。ちょっと考えればわかることだったのに、お前をこんなに泣かせちまうなんてさ……」
 それは、心底思っていたことだった。彼女を苦しませていたと思うと、胸が縛り付けられる思いだった。
「謝らなくて……いいの……。…謝らなきゃ…ならないのは……私……」
「それこそ違う。……お前は、正しいことをした。それが……僕にとって、大事なことを思い出させてくれたんだから……」
 自分が悪いんだと、空は僕に謝ろうとしていた。お前は、何も悪くないのに…。
 僕はゆっくりと彼女を離した。
「……………」
「……………」
 僕たちは見つめあった。そして、必然…と言えようか。僕は彼女の顔を引き寄せ、唇と唇を交わした。初めての女性の唇。なぜか、落ち着いていた。そして、もう一度彼女を抱きしめた。
「…空、一つ……お願いしてもいい?」
「…ものによる」
「ちょ……何よそれ」
「ハハ、冗談だって。んで?」
「…もぅ………。……好きって……もう一度言ってくれる…?」
 僕は彼女を離し、頭を軽くかいた。
「……ま、また言えってか?」
 すると、空はクスクス笑っていた。
「恥ずかしい?」
 彼女の笑顔を見て、僕はちょっとムッとした。
「……んなわけあるか。……よーく聴いとけよ? これ以上はぜってぇ言わないからな」
「……うん!」
 空は飛びっきりの笑顔をして見せた。
 この笑顔が……好きなんだ。この笑顔は僕の心に安寧をもたらしてくれる。殺伐とした心に、潤いの風を運んでくれる。僕を幸福へと導いてくれる。
「…空、好きだ」
 そう言うと、彼女はホッとした表情をした。
「…ありがとう…。そう言ってくれるだけで、私………すごく幸せ………」
「…………」
 何よりも愛おしい存在。
 僕たちは、3度目の抱擁を交わした。
「……お前、ホントにちっちゃいな」
「な、何よ! わ、私は普通だもん! 空が高いの!」
「だってさぁ……」
 僕は不意打ちで、彼女にキスをした。
「……!!」
 顔を離すと、びっくり仰天の空が。
「し辛いんだよ、キス」
「……………」
 だんだん顔を赤くしていく彼女を見て、僕は思わず笑ってしまった。
「な…! 何で笑うのよ!」
「だ、だってお前……」
 と、僕は彼女を抱きしめた。
「そ、空?」
「まったく、お前ってばすんげぇかわいいんだから」
「!! や、やめてよ。そんなこと言われると……」
「照れんな照れんな」
「も、もぅ!!」



 その日、僕と空は一緒に帰った。つい昨日一緒に帰ったっというのに、なぜかとても久しぶりなような気がした。
 僕がなぜ、彼女のことが好きになったのか。……いや、なぜ好きなのか。その理由は、意外に簡単なものだった。好きなのかどうかもわからなかったが、「好き」なのだとわかると、その理由でさえ容易に理解できた。
 それは、空と同じ理由だった。
 彼女と同じように、僕もまた、彼女と初めて出会った時に、恋に落ちてたんだ。彼女の「笑顔」を見るまで、完全に忘れていた。夢と夢が交叉する、紺碧の渦の中に沈んでいたんだ。
 その渦から拾い上げた、僕だけの大切な宝石。キラキラと輝く、光る理由を知らない星のようなもの。
 13年前、僕は初めて空と出会った。あの公園で樹と一緒に遊んでいた僕は、白い服を着た可憐な少女に出会った。幼い僕は、初めて恋に落ちた。その時は、恋というものでさえ理解できていなかっただろうけど。
 差し伸べてきた白く、細い腕。彼女の長い黒髪は、白い肌と白い服でいっそう際立って見えた。あれでは、誰だって恋に落ちるさ。
 なのに、どうして忘れていたのだろうか。今の今まで、どうして彼女と出会ったことも、彼女のことを好きになったことでさえ…。
 ………なんにしても、僕は少しだけ大人になった気がする。誰かを好きになって、誰かを護りたいと本気で思って……。
 ほんの少しずつ、一粒の夢の雫たちが、僕の見る世界を成長させてゆく。


 ………どうして、こんなにも愛おしいんだろうな………


「おはよう」
 土曜日。土曜日なのになんで学校があるのか。なぜなら今日は授業日。代わりに、来週の月曜日が休みなのだ。
「…お、おはよう」
 僕が挨拶すると、啓太郎は目をパチクリさせていた。和樹にいたっては、開いた口が塞がらないようだった。
「…なんだよ?」
「い、いや……昨日と…雰囲気がぜんぜん違うし…」
 和樹は変な口調で言った。
「おはよう、空」
 後ろから、元気な美香の声が聞こえた。
「おはよう」
 美香は小さく手を振って、自分の席に着いて行った。
「…和樹、昨日はごめん」
 僕は和樹に小さく頭を下げた。
「……へ?」
 和樹は面食らっていた。
「八つ当たりみたいなことしちゃってさ…」
「い…いや、別に、気にしてないし…」
「ハハハ、和樹、照れてやんの」
 啓太郎は彼をあしらった。
「う、うっせぇ! 俺はだな、ただ………」
「顔が赤くなってら」
「啓! お前な!」
 和樹は啓太郎の頭を軽くはたいた。
「俺はただ、空がいつもの空に戻ってよかったって思ってだな!」
「和樹……」
 和樹は僕から自分の顔が見えないよう、反対側へ逸らした。一つのことがうまくいかないと、周りの輪も駄目になっていく。…けど、その逆もあるってことなんだ。


 昼休み。僕と和樹、啓太郎の3人は屋上で弁当を食べることにした。
 3人で談笑しながら弁当を食べていると、修哉がやってきた。
「おっ? いつものトリオじゃねぇか」
 制服のボタンを閉めず、ネクタイでさえ付けていないチャラ男。なのに、全国模試1位である。
「あいっかわらず、態度わるそーな奴だな」
 和樹は卵焼きをほおばりながら言った。
「和樹には言われたくねぇけどな」
 ハハッと修哉は笑った。たしかに、和樹もチャラ男みたいに見えてしまう。ロンゲだし、茶髪だし、ピアスしてるし。
「おいおい、俺は生徒会員だぜ? お前と一緒にすんなっつーの」
「あのね……修哉は全国模試1位だぞ? 造りが違うんだって…」
 啓太郎はため息混じりに言い放った。
「なにおう!?」
「…まぁ、どっちもどっちだろ」
「空、聞こえてんだぞ?」
 修哉はほくそ笑みながら言った。
「まぁ何にせよ…元気そうなところを見ると、どうやらうまくいったみたいだな」
「…………」
 彼はこっちに歩み寄り、フェンスに背中をかけた。
「…なんにしても、お前と美香のおかげだからな…」
 それは、心底言える言葉だった。彼らのおかげで、自分の宝石を見つけることができた。
「ハハ、礼には及ばないよ」
 照れ隠しの笑顔ではない笑顔を、修哉はして見せた。
「?? 何のことだよ?」
 和樹は首を傾げていた。
「ああ…お前らは知らないのか」
「何の話だよ? 修哉」
「そこは………」
 修哉はチラッと僕を見た。その目が何を伝えようとしていたのか、僕はすぐにわかった。
「いいよ。和樹と啓太郎なら」
 僕はうなずいた。
「おいおい、気持ちわりぃな〜、お前ら」
 和樹はふざけながら言った。気になってそわそわしている。
「実は、空………」
 その時、勢い良く屋上の出入り口の扉が開かれた。
「あっ! 東先輩、やっぱりここにいたんですね!!」
 元気な女子生徒の声。あれは、空と一緒にいた女の子…。
「ん?」
 彼女の後ろに、誰かがいた。それは……。

「…そ、空?」

 その女子生徒に引っ張られる空の姿があった。彼女たちは、僕たちのまん前まで走って来た。なんか、空は彼女に無理矢理連れて来られたっぽいのだが…。それも、空の赤くなっている顔を見れば、一目瞭然だった。
「君は…たしか、『あずさ』……っていう名前の女の子だったよーな…」
「覚えててくれたんですか? ありがとうございますー!」
「いや、別に………」
「! 和樹先輩も一緒じゃないですか!」
「…相変わらず、うるさいやつだな〜」
 和樹は呆れ顔だった。
「和樹、知り合い?」
 啓太郎が訊ねた。
「…中学ん時の後輩」
 和樹は頭をかきながら言った。なんだかめんどくさそうだ。
「へぇ〜」
「和樹先輩ったら、高校に入学してから一度も話してくれないんですよ」
「学校で会わねぇからだろ! 1年と2年は校舎も違うし」
「会わないんじゃなくて、会おうとしてなかったんじゃねぇの?」
 啓太郎はまた和樹をからかった。
「ちがっ! ち、ちげぇぞ!」
「あー、先輩赤くなってるー!」
 …なんとまぁ、けたたましいなぁ…。
「つーか、空に用があったんじゃねぇのかよ!」
 和樹は自分の話題から、元の話題に無理矢理戻した。
「あっ、そうだった。実はですね……」
 なんつーか、転換も早いな…。

「恋人同士なんだから、空と東先輩は一緒に昼食したほうが良いと思って」

「!!!」
「あ、あずさ!!」
 空は彼女の口を塞ごうとしたが、無理だった。
「え…………マジ?」
 和樹は僕と空を交互に見ながら言った。
「…………」
 僕は顔を逸らした。
「ま、マジで!!??」
 和樹は勢い良く立ち上がった。
「声でかいって」
 啓太郎は和樹のシャツの袖を掴み、座らせた。
「うっそ!? お前……えぇ!!?」
「さすが和樹、期待を裏切らない驚き方をするんだな。俺様感心」
 修哉は笑っていた。
「空と……空ちゃんが…マジで!?」
「なんとなくこんなことだろうとは思ってたけど……本当にこうなるとはねぇ。いやはや、天晴れとしか言いよう無いな」
 啓太郎は和樹とは対照的に落ち着いていた。
「やっぱり、空が悩んでたのは空ちゃんのことだったか」
「…気づいてたのか?」
「まぁ……可能性の一つとしての話だけどね」
 啓太郎はうなずきながら言った。
「それにしても、空ちゃんまっかっかだな」
 修哉の言った瞬間、空は顔を両手で覆い隠した。
「や、やめてよ修哉君…」
「ハハ。ところで、なんか空に渡すもんでもあるんじゃねぇの?」
「??」
 修哉がそう言うと、空はギョッとしていた。
「ど、どうしてわかったの!?」
「だって、わざわざカバン持って来てるからさ。そうだな……ここはベターに弁当かな?」
「!!」
 ……そう言えば今朝、空は海と一緒に登校しなかった。僕は早起きして一緒に登校しようと思ったのだが、海が言うには寝坊したわけでもなく、ただ何かを作っているらしいということだったのだが…。
「その驚きよう、当たりだな」
 修哉はニヤッとした。
「弁当―!? マジかよー。うらやましすぎる…」
「ほら、ちゃんと渡さないと」
 和樹の後輩というあずさちゃんは空の隣に行った。
「わ、わかってるよ…」
 すると、空はおずおずしながら僕の目の前に来た。
「あ、あの……空……こ、これ……」
 彼女は自分のカバンから、カラフルな物に包まれた弁当箱を差し出した。女の子の弁当って、どうしてカラフルなんだろうか。
「…ありがとう」
 僕は照れているのを何とか隠そうと、必死に平然とした顔をしようとしていた。たぶん、修哉にはばれてるんだろうな…。
「ほ、ホントは今朝渡したかったんだけど……その……」
「…どうせ、恥ずかしくて渡せなかったってことだろ?」
「だ…だって、いつも空は私たちより遅く行くと思ってたのに、海と一緒に行っちゃうから……」
 すると、空はしゅんとした。
「お前なぁ……メールでもくれりゃあ、いくらでも待っててやったってのに」
「送れなかったの!」
「はぁ? 何だよそれ」
「まぁまぁ」
 修哉が間に入って来た。
「空、もっと空ちゃんのこと考えてやれって」
「な、なんだよ……?」
「空ちゃんさ、きっと驚かしたかったんだよ。お前を」
「え?」
「弁当を作ったってこと、内緒にして渡したほうが喜びも倍増ってね」
 修哉は僕のおでこを軽くはたいて笑った。
「だろ?」
「…え、えっと……その……」
 再び、空は照れ始めた。その姿が、本当のことを知ったことと相まって、さらに愛おしく見えた。
「…そっか。悪かったな……理解できなくて」
「い、いいよ、謝らなくて…」
「ありがたくいただくよ。…てか、ホントにうれしいや」
 僕は彼女に微笑みかけた。
「……そう言ってくれて、私もうれしい……。作ってよかったって思えるから……」
「……空……」
 空もまた、微笑んでくれた。
「おーい。観衆がいるの忘れてラブラブモードに入ってんじゃねーよ」
「……ホント、余計な観衆だよ…まったく」
 僕が細い目つきで和樹を睨んでも、彼はニヤニヤしていた。


「さて、本題に入ろうか」
 なぜか和樹は本腰を入れていた。嫌な予感がしなくも…ない。
「空ちゃん、単刀直入に訊く」
「は、はい」
 真面目な和樹の目に、空はなぜか姿勢を正した。こいつ、何訊くつもりだ?
「空のどこが好きなの?」
「えっ?」
 僕はその言葉が出た瞬間、和樹の後頭部をひっぱたいた。
「!!? い、いてぇな!」
「何訊いてんだよ! お前は!」
「いいじゃねぇか。これこそ、ラブコメにとって重要な話題の一つ……」
「あのなぁ!!」
「でも、ぶっちゃけどこが好きなの?」
 啓太郎が隙に訊ねていた。
「え、えっと……それは……」
「! ば、馬鹿! 正直に答えなくていいんだよ!」
 僕は大きな声で空の言葉をかき消した。
「いいじゃねぇか、別にさ」
「修哉! 人事だと思って!」
「だぁーって、人事だもんよ」
 僕は修哉に掴みかかった。修哉は笑って、相手にしなかった。
「……空は、私にとって一番頼りになる人だから……」
 すると、空はほんの少し照れながら言い放った。
「…え?(言うの?)」
「苦しい時、悲しい時、辛い時……そして、死ぬほど嫌な時、傍にいて励ましてくれてたのは、空なんです」
 僕たちは彼女の言葉に聞き入っていた。なぜだろう…。
「…私に光をもたらしてくれるのが、空…。だから……」
 しばしの間、沈黙が流れた。流れていたのは、青空を飛ぶ飛行機の彼方に響く音だった。誰もが、彼女から目を逸らすことはなかった。風になびかれる彼女の姿は、何よりも美しかったのだから。
「…こりゃ、何人も告白するわな。今ので、納得した」
 和樹が沈黙を破った。
「見た目だけで、多くの人に好かれることはないからね。たとえ、女優であっても」
 啓太郎が続いた。
「私じゃあ適わないな、絶対」
「そりゃそうだろ」
「! 先輩!!」
 すると、あずさちゃんは和樹の長い髪の毛を引っ張り始めた。
「いてっ! いてぇって!! 抜けるだろ!!?」
「ハハハ」
 僕たちは思わず笑ってしまった。
 なんだか、幸せだった。
 こうやってみんなと笑いあって、大好きな人と一緒にいて…。
 とても普通で、平凡だけど、これがどれほど幸せなことだろうか。


 修哉はフェンスに背中を預けながら僕たちを見ていた。微笑ましいなぁと思っているのだろう。けど……なぜか……なぜかわからないけど……この時、修哉がとても遠い場所から僕たちを見ていたような気がしたんだ。
 言い表せることのできない不安。……杞憂? わからない。
 それから数分後には、そんなものは消え失せてしまった。



「…そろそろ『時』は来る…か」
 遥か遠く、ビルの屋上からある男が佇んでいた。
「もうしばらく、夢を見させてやろうか……」
 異国の服を纏った男は、上空を見上げた。
「…今一時の夢を堪能するがいい…」


 ……セヴェス……



「今日は生徒会の集まりがあるから、先に帰っててもいいぞ」
「………」
 非常階段。ここなら、誰も来ないはず。
「んじゃ、そろそろ教室に戻るか」
 僕は階段を上ろうとした。
「あっ……そ、空…」
「? どうした?」
「…………」
 どうしてか、空は子供のように何かを言いたげそうだった。
「…その……待ってても…いい?」
 彼女は機嫌を伺うかのように僕を見た。まるで悪さをした小学生みたいで、少し笑ってしまいそうだった。
 僕は微笑んだ。
「まぁ……遅くなってもいいならいいけど」
「ホント!? じゃあ、どこで待ってればいい?」
 空の顔はパァッと笑顔になった。なんだか、こっちが照れてしまいそうだ。
「…うーん……じゃあ、新校舎の南出入り口にある、自販機の所で待っててくれ。なるたけ、早く済ませるようにするから」
「うん! じゃあ私、先に教室に戻るね」
 そう言って、空は階段を走って上り始めた。途中、立ち止まって僕に笑顔で手を振った。僕もそれに応えた。
 階段を上っていく彼女の足音。時間が経っていくのがわかる。
「………」
 なんだか、気味の悪い沈黙が流れた。夜でもないのに、真夜中の細い山道のような雰囲気が漂っている。

 セヴェス――

 その時、あの頭痛が電流のように走った。
「くっ……!」
 僕はその場にうずくまった。

 ――遥かなる遠い契約――

 男性の声が…聴こえる…。

 ――我を繋ぐ黒き楔――

 今までにないほど、はっきりと聴こえる。それでいて、神秘的だった。耳に聞こえてくるのではない。僕の心に語りかけてくるかのように聴こえるのだ。

 ――解き放て――

 うるさい…!

 ――お前は俺――

 うるさい! 僕は…僕だ! それ以外の、何者でもない!!

 ――うろたえし幼子の魂――
 ――虚空の果てに消える悔恨と悲愴の叫び――

 なんだ…? 体が…熱く…

 ――神々の時代より続く輪廻の宿命――

 輪廻…? 神々…? 宿命…?

 ――我を……き…………て……――

 脳の奥を襲う痛みが、一瞬にして消え去った。
「………今の…は………」
 なぜだろう…。今までの声と同じなのに、雰囲気が違っていた。なんというか……そう、『暗闇』………という感じだった。何かを、渇望しているかのような声だった。

 …イニシエカラノノゾミ、タツベキモノ…

 その時、僕の目の前にある風景が広がった。それは、今まで見たことのない風景だった。この世に存在しているのかどうかもわからない風景だった。
 不思議な光景だ。
 四方が青空に囲まれている空間。右も左も、上も下も、全て空の青と雲の白で塗りつぶされている。遥か彼方に、海との蒼い境界線が見える。
 その空間の中央に、空色に輝く何かがある。
 あれは……巨大な水晶……?
 ゆっくりと横回転しているそれは、僕の瞳に青い光を飛ばしてくる。チカチカと発光しているその様は、神々しさを放っているようだった。
 巨大な水晶………その先に見える、記憶の断片……。
 これは………

 ――創造と破壊の象徴――

「…っっ!!」
 煌いた刹那の光と共に、僕が見る世界は元に戻った。
 非常階段の下。ほんの少し、ほこり臭い。
「…創造と…破壊……?」
 今までのような頭痛がするわけでもなく、幻聴が聴こえるわけでもなく…。ただ、僕の意識はどこか知らない遠くへ行っていた。
「…………」
 知らない場所…。
 どうして、僕はそんな光景をこの体に刻んでいるのだろう。もしかしたら、僕が生まれるずっと昔…前世の僕が見ていた「世界」なのかもしれない。
 今となっては、知る術なんてないけれど。


 7時10分前。ようやく生徒会の集まりが終わった。そろそろ生徒総会があるということで、議論すべきものがたくさんあったのだ。ながったるい今年度支出なんとかってのを読んだり、話し合ったりと…まったく、どうしてこんなめんどくさいものに入ってしまったんだろう。
 この季節になると、7時でもほんのりと明るい。とは言っても、8割暗いのだが、真っ暗よりかはましだろう。
 新校舎というのは現在の1年生がいる校舎のことで、5年前に建てられたものだ。だから、新校舎って未だに呼ぶのもどうかと思う。カバンを担ぎ、南出入り口の自販機前に行った。暗くて人がいるのかどうかわからなかったのだが、実際に行ってみると本当に誰もいない。
「………?」
 空がいるはずなのに、いない。待ってろと言ったのに…。
 僕は辺りを見渡した。暗がりの中にぽつぽつと光る電灯に群がる虫。人気のないグラウンド。聞こえてくるのはどこかの車の走る音。
 嫌な予感がする。まさか、あいつ………!
 急激に不安になった時、何かが僕に触れた。僕は声も上げず、サッと後ろに振り向いた。
「そ……空!?」
 そこにいたのは、空だった。
「びっくりした?」
「あ、あのな……」
 ふざけて微笑む彼女。それを見て、ホッとした。安心した様子を理解されないよう、びっくりしたような表情をして見せた。
「ったく、いつになく悪ガキになってんだから…」
「悪ガキとは何よー! あと4ヶ月で16歳なんだから!」
「はいはい。もー帰るぞ」
 僕はそっぽを向いて歩き始めた。
「あ! ま、待ってよー」
 と、空は慌てながら僕を追いかけてきた。そうなるということが、最初から予想できていた。
 後ろから来た空は、僕の腕に手を回した。
「こうやって帰ろ♪」
 思わず、ドキッとしてしまった。女性とこんな風にしたことがないので、心拍数が否応にも上昇してしまう。まったく……困ったもんだ…。

 僕たちは帰り道、あの公園に寄り、ベンチで談笑した。自宅に帰るとどうしても二人で落ち着いて話すことができないからだ。
「……それでね、あずさってば大笑いしちゃって」
「あの子はけたたましいからなぁ。僕が見てきた女の子の中で、一番だよ」
「あ、ひどーい。でも、たしかにそうだけどね。……あれ?」
「ん? どうした?」
 空は自分のポケットに手を突っ込んだ。
「携帯が鳴ってる。………あっ、海だ」
 空は僕をチラッと見た。
「出なよ。たぶん、心配してんだよ」
「う、うん……。………もしもし」
 空は不安そうな面持ちで電話に出た。僕はこの時、あることを思い出した。忘れていたわけではないが、あまり考えたくなかったことだ。できれば、何もないまま過ぎればいいと思っていた。…けど、必ずどうにかしておかないといけない問題だった。
「……うん…ちょっと用事があって………うん……うん……大丈夫…。……えっ? そ、そうなの? ……うん、わかった…。………うん、じゃあね」
「なんだって?」
 あまり気にしていない風に訊ねた。本当は、かなり気になっている。
「…どこにいるのかだって。空の予想通り」
「そっか。……あのさ」
「…?」
 僕は、今はの際に思い出したことを言った。
「…海は知らないのか?」
「…………」
 空は何も言わず、小さく顔を振った。
「やっぱり、な…」
「ご、ごめんなさい。なかなか、言い出せなくて……」
 空は顔を沈めた。僕はそれを慰めるように、言った。
「お前は悪くないよ。僕かお前、どちらが言ってもいいんだが……いや、二人で言ったほうが良いかもしれない」
「でも……やっぱり……」
「…ともかく、早めに言っておいたほうが良い。あいつに隠し事をしておくのは、なんだか気分が良いもんじゃないしな……」
「…うん…そうだね…」
 空はどこか哀しそうだった。その理由が、今の僕は理解することはできなかった。
「ところで、帰れって?」
「へっ? あ、うん。もう暗いから、帰って来いって。……なぜか、空の家に」
「…はっ?」
 僕は頭をかしげた。なぜ僕の家…?
「いつもの晩御飯だって」
「あぁ……なるほど」
 いつもの晩御飯。日向家と東家が一緒に食事をするということだ。外食するわけでもなく、自宅で一緒にするのだ。ちなみに、日向宅とうち、交互に行う。
「じゃ、帰るか。あまり遅れると、母さんたちうるさいし」
「そ、そうだね」
 なぜか、空はうれしくなさそうだった。一緒の晩御飯の時、空と海はいつもうれしそうなのに。
「…? どうした?」
「…その………まだ、空と二人っきりでいたくて……」
「…………」
 少しほほを赤くしている空。僕まで赤くなってしまいそうだった。僕は照れ隠しに頭をかいた。
「…そ、そっか」
「帰ったら、二人だけでいるなんて絶対に無理だしさ……」
「…まぁ、そうだけど…」
 僕もまだいたい……と言ってあげればいいのだろうけど、なんだかそこまで言う勇気がなかった。告白する時、あれだけ恥ずかしい台詞を簡単に言えたってのに。…真面目に考えれば、そこまで恥ずかしい台詞でもないのだが。
「…みんな心配するから、帰ろう」
「………」
「…それに、これから二人っきりになれないわけでもないんだから。なっ?」
「……うん。わかった……」
「ほら」
 僕は彼女の手を握り、立ち上がった。
「せめて、家の前までこうしていてあげるからさ」
「…空…」


 家に帰ると、おじさんが出迎えた。
「一緒だったのか?」と言われて、とりあえず
「帰る時、ばったり会ってね」
 おどおどしていた空に代わって、そう答えた。かなりありがちな嘘だが…。
 今日はどうやら、1ヶ月遅れの空と海の入学祝、ということらしい。今更じゃねぇかと文句を言うと、母さんに頭をひっぱたかれてしまった。
「今日の料理、誰が作ったと思う?」
 いつものように談笑しながら食べていると、おばさんが言った。
「? いつもどおり、母さんとおじさんだろ?」
「ふふ、今日は違うのよ」
「まさか……父さんじゃあるまいし…」
 僕は思いっきり嫌な顔をした。
「おいおい、なんだその顔は。誰も俺が作ったって言ってないじゃないか」
「……焦った」
「おいおい…」
 父さんの料理は地獄である。本当に。死に掛けたといっても大袈裟ではない…気がしなくもない。
「実は、海なんだよ」
 おじさんがビールを飲みながら言った。程よい感じに顔が赤くなっている。
「海? おいおい、嘘だろ?」
「嘘じゃないわよ! ちゃんと作ったもん!」
 海は大きな声で言った。
「りょ、料理が苦手なお前がぁ!?」
 驚かずにはいられなかった。だって、海はなぜか空と違い、料理が苦手なのだ。前にも言ったが、彼女はしないのである。空はよくうちで料理していたので、今日くれた弁当はもちろんのごとく上手だった。さらには好みのものまで把握しているのだ。
「い、いいでしょ! たまには!」
「はぁ〜なるほどねぇ…。どういう風の吹き回しだ?」
「あんたね、そういうこと言うんじゃないの」
「そーだそーだ」
 母さんと父さんは良く意見が合う。というより、人を否定する時は結託しやがる。質が悪いっつの。
「だってさ、海はあんまり経験ないんじゃ……」
「でも、おいしいよ?」
 空は微笑んでいた。たしかに、不味くはない。むしろ、おいしかった。味付けもおじさん仕込みだし、それに…このから揚げの味付け…母さんのそれと同じだった。
「私だって女なんだから、それくらいやるってんだ」
 と、海はふんぞり返っていた。
「なるほど…。海、作るの初めてだろ?」
「え? う、うん。たぶん…」
「きっと教えてもらいながら作ったんだろうけど…初めてにしては、上手だよ。むしろ、それ以上かもな」
「………へっ…?」
 海は何度も瞬きをして、それ以外の動きがなくなっていた。
「ん? どした?」
「…な、なんでもない!」
「海ったら照れちゃって」
 おばさんはうれしそうに笑っていた。
「や、やだ! お母さん、変なこと言わないでよ!」
「うれしいなら、うれしいって言えよ。別に不味くないし。おいしいと思うけどな」
 僕はから揚げを食べながら言った。
「や、やだ! なんか……その………」
 海の照れる様子、ホント空そっくりだ。今更ながら、おもしろく思える。
「もう! 恥ずかしいじゃない! 馬鹿!」
「んだよ、褒めてやってんのに。これじゃあ、9月の誕生日プレゼントはお預けだな」
「ふんだ。そんなのいらないもん」
「んなこと言って、欲しいくせに」
「う……うっさい! 馬鹿空!!」
「その台詞、聞き飽きたっての」
 すると、他のみんなは笑った。
「さて、もう一度乾杯するか」
「またかよ……」
「空、今日は飲んでも怒らんぞ?」
 父さんは僕に酒を勧めてきた。
「いや、飲まないし。てか、未成年の息子に酒を勧める父親ってどうだよ…」
「ハハハ、気にするな」
「あのね……」
 酔っ払い始めているわが父親。情けなさ過ぎる…。
「ともかく、2度目のかんぱーい!」
「明日仕事だろーに……」


 10時を過ぎた頃。おじさんとお父さんは酔い潰れてソファーで寝始め、母さんとおばさんはおしゃべりが続いていた。
「まったく…なんで……僕が…こんな………」
 海まで酒を飲んでしまい、泥酔してしまったのだ。そして、リビングで寝させるわけにはいかないので、僕は海を背負って階段を上っていた。それにしても、海は軽い。女性ってこんなに軽いもんなんだな。…ということは、双子である空はほぼ同じくらいの体重なんだろうな。…訊くわけにはいかないけど…。
 ようやく自分の部屋に辿り着き、海をベッドに置いた。ほほを赤くし、気持ちよさそうに寝息を立てる彼女の顔は、やっぱり双子だなぁと感じた。
 けど、同じじゃない。
「海ってば、明日大丈夫かな…」
 空は海の口に引っかかった髪の毛を取りながら言った。
「まぁ、飲んだって言ってもほんの2杯程度だろ? 気にするほどのものでもないよ」
「お酒の匂いでほろ酔いするのに…」
「? そうだったのか?」
「うん。私も、ちょっとほてってるんだけどね。双子だしさ」
 そう言って、彼女は自分のほほを指差した。なるほど、ほんのりとピンク色に染まっている。
「……どうする?」
「ん?」
「帰らなくていいのか?」
「…今日、お父さんもお母さんも泊まるつもりらしいの」
「泊まるも何も、自宅は目の前なんだが」
 それに、おじさんと海はすでに寝ちゃってるし。
「お前は?」
「……えっと……」
 空は海をチラッと見て、小さな声で言った。
「…泊まっても……いいの?」
「別にいいんじゃないの? 一人で家にいるよりかはましだろ」
「そ、そうだね。……でも、どこで寝れば……」
「この部屋で寝な。布団はクローゼットの中にあるし」
「でも、そうしたら空は…?」
「ベッドは海が占領しちまってるし、僕はリビングに布団でも敷いて寝るよ」
 さすがに、若い女二人がいるこの部屋で寝るわけにはいかない。それは常識だ。
「いいの?」
「気にすんなって。どうせ明日は休みだしな」
 明日は待ちに待った日曜日。今週は6日も学校に行っ……てないか。休んだな、そういえば。
「とりあえず、風呂に行ってこいよ。着替えとかあるのか?」
「あ……ない…。取りに行かなきゃ」
「…一緒に行こうか?」
「え? だ、大丈夫だよ」
「そっか。じゃあ、海のも持ってきてあげろよ」
「うん、わかった」
 そう言って、彼女は立ち上がり、部屋を出た。その時、僕の奥になんとも言えない感情が沸き立った。部屋を出た彼女を追い、階段の手前で彼女の手首を掴んだ。

「空、待てよ」

 彼女は驚いていた。無理もない。
「…駄目だな」
「……え?」
「僕のほうが、お前と一緒にいたいと思っちまってる」
「…空…」
 彼女と一緒にいたい。それだけだった。
「明日、一緒にどこか行くか?」
「ほ…ホント?」
「ああ」
 空の顔は、花が咲いたかのようだった。
「服でも買いに行こうぜ」
「うん! また、弁当作るね」
「………」
「? どうしたの?」
「いや…ちょっと……なんか、うれしくなってな」
 僕は思わずニヤッとした自分の口元を手で隠した。
 すると、空は僕に抱きつき、キスをした。一瞬の出来事で、彼女はすぐに唇を離した。
「……」
「…いきなり、したくなちゃった」
「あ、あのな…」
 僕は彼女から顔を逸らした。
「…なんで、キスされた僕のほうが照れてんだ?」
「ふふ。空、なんだかかわいい」
 なんだか、彼女はいたずら好きになっていくかのようだった。それが、さらにかわいらしかった。
「じゃあ、行くね」
「…ああ」
 空はなるべく音を立てないよう、静かに階段を下りて行った。
「………」
 僕はちょっとキスの余韻に浸り、部屋に戻った。
 部屋に入った瞬間、僕の心は凍った。
 海が、僕を見ていた。目をしっかりと開け、心なしか睨んでいるように見える。
「…海、目が覚めたのか?」
 まさか…キスするところを見られたのか? さっき、ドアを閉めていなかったから…。それとも、話していたことが聞こえて…?
「今日、そこで寝ていいから。僕は下で―――」


「なんで?」


 海は小さく、はっきりとした声で言った。
「…え?」
「なんで…?」
「…な、何が?」
「ねぇ、なんで?」
 海は同じことしか言わなかった。
「なんで…………お姉ちゃんと……キスしたの?」
 その言葉が放たれた瞬間、僕の心臓が凍りついた。呼吸が止まったかのようだった。血の気が引くとは、このことだ。
「ねぇ、なんでキスしたの?」
「う、海……」
「ねぇ、どうして!?」
 突然、海は声を荒げた。さっきまで、凍りついた冬のように静かで、小さな声だったのに。
「どうしてお姉ちゃんとキスしたの!? ねぇ、どうして!!?」
「…そ、それは…」
 僕は何を言えばいいのかわからなかった。本当にパニックに陥っている。混乱している。何を言っても、駄目な気がするのだ。
「空……お姉ちゃんのこと…好きなの?」
「…え?」
 最初と同じくらいの、静かで小さな声に戻った。
「空は…お姉ちゃんが好きなの……?」
「…………」
「答えてよ!!」
 その言葉と同時に、海は立ち上がった。その瞳には、涙が浮かんでいる。それに気がついた時、僕の心は大きく揺さぶられた。
「ねぇ、どうなの!? 答えてよ!!!」
 海は僕のほうに駆けて来た。服を掴み、懇願するかのように言い始めた。
「どうして何も言わないの? どうして答えようとしないの!? ねぇ、どうしてよ!!」
「う、海……僕は……」
 言葉が見つからない。はっきりと言ったほうが良いのだろうか。けど、この様子だと、それでは火に油を注ぐだけのような気がする。何もかも、駄目なような気がする。
「何とか言ってよ! ねぇ!!」
 海はそう言いながら、僕を揺らす。
「ねぇ! 何とか言ってよ! ちゃんと言ってよ! ねぇ……ちゃんと…答えて……よ………」
 そして、彼女は崩れていった。その姿を見ながら、僕はかける言葉が見つからなかった。慰める言葉では、傷つけてしまう。そう、僕の脳が言っている。
「………海………」
 すすり泣く彼女。ただ、彼女の名前を呼ぶしかなかった。

「空―、おばさんが………」

 その時、空が戻って来た。
「!! 海、どうしたの!?」
 事情がわかっていない空は、海に駆け寄った。そして……。
「触らないで!!」
「!!!」
 乾いた音が響いた。海は、空が差し伸べた手を跳ね除けたのだ。
「海……?」
 空は何もわかっていないようだった。海は立ち上がり、泣きながら言い始めた。
「…私………私………!」



「私だって、空のことが好きなんだから!!」



 海はそう叫び、部屋から飛び出した。彼女が音を立てて階段を下りてゆくのがわかる。玄関のドアを閉める音が、家に響き渡った。
「……う、み……」
 彼女が出て行った後の静寂が、僕の心に突き刺さる。
「? 空―――。どーしたのー??」
 1階から母さんの声が聞こえる。
「今出て行ったの、空? 海?」
 おばさんの声も聞こえる。
「…………なんで………?」
 なんで、こうもうまくいかないのだろう。
 噛み合わぬ歯車。
 噛み合わぬ僕たち。


 どうして、うまく紐を解くことができないのだろうか……。





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