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◆1部:青い空
4章:幼馴染 つぶらな瞳の奥にあるもの
 
 5月7日。月曜日。僕は2日間眠り続けていたらしい。病院でいろいろな検査を受けたが、以前と同じく、どこもおかしいところは無かった。

「おかしいのは、お前の頭じゃねぇの?」

 病室のイスの上で、修哉はうさちゃんリンゴ(空が用意してくれたのに)をほお張りながら言った。
「…………」
「ハハハ、冗談だよ、冗談。んな顔すんなよ。つか、頭じゃなくて脳みそだな」
 修哉は笑いながら、僕の肩を叩いた。
「…訂正する必要性は感じないけどな…。で? なんでお前がここにいるんだよ」
「もちろん、お前が心配だからさ」
「心配って……今、6時だぞ?」
 外を見ると、真っ暗だ。
「来るなら、学校が終わってすぐ来れば良かったのに」
「そうしたかったんだけどさ、2人のことを考えると……」
「2人?」
 僕は頭をかしげた。
「空ちゃんと海ちゃんだよ。あの2人と一緒に、ここにいるのはまずいと思ってね」
「なんだよ? それ」
「あまりにも……そうだな………2人を見ているのが、痛ましくてな」
「…………」
 2人は僕が目覚めた後、安心したのか、母さんとおばさんと一緒に自宅へ帰ることにした。僕が気を失ってから、2人はほとんど寝ていなかったらしく、衰弱が激しいとのこと。今日の授業には、ほとんど身が入らなかったらしい。
「俺は、お前が目を覚ましてから会いに行こうと思ってさ」
「……なるほど。お前らしいよ」
 僕はリンゴを1つ取り、食べた。修哉の行動には優しさが見え隠れする。
「ところで、帰らなくていいのか? 咲希ちゃんが怒るんじゃねぇの?」
「ああ……まぁ、今日のところは免除してくれるだろ。………ホントは、5時までに帰らないといけないんだけどな」
 修哉は苦笑した。とことん、妹には弱い奴だ。
「おっと、そう言えば」
 そう言って、修哉はカバンから何かを取り出した。
「これ」
 修哉はプリントを出した。
「あぁ、学校のプリントか」
「らしいぜ。和樹から頼まれてたんだよ」
「そっか。サンキュ」
 どれどれ……うげっ、宿題かぁー……。まぁ、来週までが期限だから、気にするほどのものでも無いんだけど……たぶん、やらないだろうなぁ……自分の性格上。
「それにしても、頭は大丈夫なのか?」
 修哉は指先で自分の頭を指した。
「頭痛がするって、空ちゃんが言ってたけど?」
「そうなんだよなぁ。…今学期が始まった頃に、いきなり幻聴が聴こえて、ひどい頭痛がしてきたんだよ」
「……あの頃に気を失ったのは、それが原因か?」
 僕はうなずいた。
「それからしばらく、何も無かったんだけど……最近、また頭痛と幻聴がしてきて…」
「……なるほどな……」
 修哉はうーんと唸った。
「…お前の場合、別に薬でもしてるわけじゃないし……原因がわからないんじゃ、どうにもできないもんな」
「そうなんだよなぁ。なんで頭痛がするのかも、幻聴がするのかもわからないから、僕はなんにもできないんだよな」
「…………」
 修哉は窓の外を見つめていた。表情が、さっきまでと違う気がした。
「……? 修哉?」
「ん? あぁ、そうだなぁ〜。お前は普通の人間にしか見えないし、丈夫なだけが取り柄のお前の体に、異変があるとは思えないしなぁ」
「丈夫なだけが取り柄って……」
「褒め言葉に決まってんだろ? 変な顔すんなよ」
 ハハハ、と修哉は笑った。
「さて……そろそろ俺は帰るよ」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「あいよ。じゃあな。明日、また来るよ」
 修哉が個室から出て行くと、完璧な静寂が漂った。こうして病室に一人でいるのは、本当に寂しい。この時間帯以降は、たぶん誰も来ないだろうし…。
 さっきの、修哉の顔。なんであのタイミングで、あんな顔をしたんだろう。何かを考え込むような、遠くを見つめる視線。あいつが考え込む顔、あまり見たことが無かったから、なんだか印象に残る…。

 5月8日。再検査をしたが、異変は見当たらず、明日の9日に退院することとなった。たった1ヶ月で、2度も入退院することとなるとは、予想だにしなかった。図太い母さんでさえ、「あんたが入院するなんて、仏様も予想できなかったでしょうねぇ」なんて言う始末。まぁ、死んでしまうような病気にかかったわけでもないので、何はともあれ、よかったよかった。
 午後、空たちがやって来た。それから少しして、和樹と啓太郎、美香もやって来た。そのすぐ後には、修哉が出現した。
「……多いなぁ」
 最後に入って来た修哉は、7人もいるこの病室を見渡した。
「つーか、なんで和樹とかまでいんだよ?」
「俺がいちゃわりぃのかよ?」
「まあまあ。いつもの修哉の冗談だよ」
 啓太郎は笑いながら言った。
「おいおい、言うなよ〜啓。せっかく、和樹のイラつく顔が見れると思ったのに」
「…なんなんだよ、お前は…」
「それは置いといて、空ちゃんと海ちゃんはともかく、和樹や………えっと…」
 修哉は美香を見て、口を止めた。名前が思い出せないようだ。
「…小山内だって」
 僕は小さな声で言った。修哉は頭の上に電球を出した。
「そうそう、小山内。なんであんたまでいんの?」
 おいおい……んなこと言っちゃダメだろ…。
「し、心配だったから…」
 美香は小さな声で言った。美香は、修哉と話す機会が無いため、ほぼ初対面である。
「ふーん……」
「修哉さぁ、そんなこと言っちゃダメだろ? 小山内だって空が心配で来てんだからさ。野次馬ってわけじゃないんだし」
 和樹は頭をかきながら言った。
「…まっ、いいけどね」
 修哉はそう言って、ベッドの傍にやって来た。
「で、どうよ? 調子は」
「調子も何も、どこも悪くないんだよ。早く退院してぇ」
「明日、退院なんだって」
 空はどこか嬉しそうに言った。
「そうなの? まぁ、お前は俺みたいに頭が良いわけでもないから、これ以上休むとやばいかもな」
「うっせぇなー。お前はいいよなぁ。学校をサボっても、勉強できるんだからさ」
「そう言えば……修哉君、何日か出かけてたんだよね? どこ行ってたの?」
 海はお菓子のチョコを食べながら言った。
「ちょっと外国まで」
 修哉はニコッと微笑んだ。
「マジで? どこ?」
 和樹が食いついた。
「遠い国さ。日本からね」
「…アフリカとか?」
「まっ、そんなところかな」
 そんな話をしていると、あっという間に時間が過ぎて行った。病院での暇な時間は、全て友達が排除してくれた。

「おっと……6時か。そろそろ、俺は帰るよ」
「おや? 咲希ちゃんは6時まで伸ばしてくれたのか?」
「ハハ…まぁ、空のお見舞いって言ったら許可してくれたよ」
 修哉は立ち上がった。一応、僕は何度も咲希ちゃんと話したことはある。
「じゃあ、俺たちも帰るか」
 それにつられるかのように、和樹と啓太郎も立ち上がった。
「あっ! お姉ちゃん、私たちも帰らないと!」
「え? どうして?」
 空はぽかんと口を明けていた。
「今日、お父さんもお母さんも仕事でいないから、家事をお願いって頼まれてたじゃない」
「あっ……そうだった。じゃあ……空、私たちも帰るね」
「ああ。転ぶなよ」
「もぅ…転ばないってば……。また来るね」
「じゃあな」
 そして、みんなは帰って行った。
「………あれ? 美香は帰らないのか?」
 なぜか、美香は一人だけ残っていた。
「な、なんか取り残されたっぽくて」
「…いたいならいても構わないけど、早めに帰ったほうがいいぞ? 夜道は危険だしさ」
「…う、うん。そうだね。じゃあ、私も帰るよ」
 美香はカバンを掴み、立ち上がった。
「美香」
 彼女が帰ろうとしたとき、僕は呼び止めた。
「何?」
「…修哉が言ってたこと、気にするなよ。あいつは…あんまり親しくない奴に対して、ちょっときつい奴だからさ」
「……空は…迷惑じゃなかった? 私が来て…」
「なわけないだろ? 美香が見舞いに来てくれて、うれしいよ」
「…………」
「だから、修哉の言葉は気にすんなよ」
「…うん。ありがと。また、学校でね…」
「ああ。じゃあな」
 そして、美香は帰って行った。
 美香の奴、気にしてんだろうな…。気にするなって言う話のほうが、無理な話だ。修哉も修哉だ。なんだってみんながいるところで、あんなことを言うかな…。
「今の状況は、あんまりよくない」
 修哉が言っていた言葉を、僕は思い出した。自分を取り巻く状況がよくないってことなのだろうか…。
 まぁ、あいつの言っていることを完璧に理解しようとしても、難儀な話なんですけどね。

 5月9日。僕はとりあえず退院することに。時おり、一瞬だけ頭痛がし、目の前が真っ暗になるが、特に何も起こってはいない。一瞬の頭痛がするたびに、僕は〈リサ〉と出会い、話したことが現実だったのだと思い起こしてしまう。
「…………」
「何考え込んでるの? あんたらしくない」
 母さんは、食器を洗いながら言った。
「…いや、考え込んでるって言うか…」
 僕はいつの間にか、頭を抱えていた。
「そうだ。今日、お母さん懇談会に行くから」
「懇談会?」
「だから、夜いないから」
「おいおい…じゃあ、飯とかどうすんだよ? 僕も父さんも作れないぞ?」
 父さんと僕は親子だからか、不器用なのがそっくりだ。
「そこは大丈夫。空ちゃんに頼んでおいたから」
「そ、空に?」
「快く承諾してくれたし、あの子の料理ならあんたも文句言わないでしょ?」
「…まぁ、そうだけど…」
「そういうことで、よろしく。文句は受け付けません」
 なんじゃそりゃ。自分の母親なのに、つくづくわけのわからん人ですわ…。
 ここ最近、あいつの笑顔を見ていると、変な気分になってしまう。それに、泣かせてしまったこともあるし、なんだか会うのが緊張する。海がいてくれたら、そうでもないんだけどなぁ…。
 …なんで、あいつのことが気になるんだろう? こんな風にあいつのことを考えるのは、初めてだ。ただの幼馴染なのに。

「こんばんはー」
 夕方、空は一人でやって来た。
「退院おめでと。身体は…大丈夫?」
「ああ。もう完璧。……ところで、海は?」
「海は帰りが遅くなるんだって。あの子は家の方で食事するだろうし、ここには来ないと思うよ?」
「あ……なるほど」
 うーん…母さんはもう出かけたし、まだ父さんは帰ってきてないし…。それまで、空と2人っきりか…。なぜか、緊張するな…。
「空、今日何が食べたい?」
 空は玄関から上がり、リビングへ行った。
「何って……う〜ん……」
「病院から帰ってきたばかりなんだから、何か食べたいんじゃない?」
 そう言いながら、彼女は自分用のエプロンを身に付けた。そう、この家には彼女用のキッチン用品がいくつか配備されているのだ。……なぜか。
「…まぁ、しいて言えばカレーかな…」
「カレー? なーんだ、やっぱりそうなんだ」
 空は小さく笑いながら、家の冷蔵庫を開けた。
「ん? どーいうこった?」
「おばさんが言ってたんだ。空はきっとカレーが食べたいって言うだろうって」
「…なーんか、胸くそわりぃな…」
 見透かされたようで。
「フフ。カレーは空の好物だし、私もそう言うだろうって思ったけどね」
 家族同士で外食しても、一人だけカレーばっかだったしねぇ…。
「作っておくから、空はゆっくりしてていいよ」
「いや……なんか手伝おうか?」
「大丈夫。空は病み上がりなんだし、宿題でもしておけば?」
「それこそ嫌なんだけどな…」
「もぅ、ちゃんとやらなきゃだめだよ。…じゃ、料理できるまで待ってて。ね?」
「…………」
「?? ど、どうしたの?」
「…な、なんでもない。とりあえず、上で待ってるよ。できたら呼んで」
「うん、わかった」
 僕は自分の部屋へ向かった。
 あー……緊張した。「ね?」とかって言われると、ものすごく照れるんだよな…。


「……父さん、遅いな……」
 時計はすでに7時を回っている。父さんは寄り道をほとんどしない人なので、勤務時間が終わるとすぐに帰って来る人なのだ。
「おじさん、残業?」
「…父さんの性格上、それはあり得ない」
「…事故……にあったんじゃあ…?」
 空は心配そうな顔になった。
「それこそ無いね。父さんは殺しても死なない人だから」
「…ひ、ひどい言い草だね…」
「まっ、念のためにメールでも送っとこう」
 メールを送ると、すぐに返信が来た。
「…なんて?」
「…『今日は飲み会があるから、遅くなる』…だとよ」
 そう言うと、空は小さく息を吐いた。彼女のことだ。胸を撫で下ろしているのだろう。
「待って損した。食おうぜ」
「そ、そうだね」
 ということで、父さんを差し置いて、空が作ったカレーを食べることにした。
「…………」
 空は僕が食べる様子をジーっと見ている。
「じ、じろじろ見るなよ…。食いにくいだろ?」
「だってさぁ…。…どう? おいしい?」
「ん? おいしいよ。なんて言うか……」
 知ってる味なんだよな……。これは……。
「なんて言うか…って?」
 空は頭をかしげた。
「…母さんの味に似てる…」
「…おばさんの?」
「うん。……なんつーか好きなんだよな、母親の味って」
「そりゃそうだよ。小さい頃からお母さんの料理を食べてるんだもん」
「…てか、なんで母さんの味に似てんの?」
「うーん…。味付けとかは、おばさんから教えてもらったものが多いからかな? ホラ、私のお母さん、料理はあんまり上手じゃないしさ」
「あぁ……なるほどね」
 日向家で料理を作るのは、空かおじさんだもんな。海の場合、おばさんに似てかあんまり上手じゃないし(というより、しようとしない)。
「おかわり」
「ハイハイ」
 腹が減っているからか、結構食が進む。元々、僕は少食なんだけどね。
「…こうしてると、なんかあれだね」
「あれ?」
 僕はカレーを口に運ぶ姿を、彼女は少し微笑みながら見つめていた。
「夫婦みたいだね」
 僕は口から吹き出しそうになった。というより、喉に詰まらせた。
「ちょ……大丈夫!?」
 僕は彼女が渡してくれた水を一気に飲んだ。
「お…お前な……!」
「た、例えばだよ! ほ、本気にしないでよね」
「だからって……」
 んなこと言うかぁ? 普通…。
「そ、そう言えば、頭痛とかしない?」
 なんか、無理矢理話を変えたな…。自分で振っておきながら。
「…時々、ほんの一瞬だけ痛いときがあるけど、大丈夫だと思う」
「そっか…。痛い時は、無理しないでよ」
「無理なんかしてないさ。…ただ、突然なんだよ、突然。猛烈な頭痛がしてくるのは。なんの前兆も……」
 前兆? そう言えば…いろいろあった。最初気絶した時は何もなかったが、山頂に行って、あの桜の樹を見つけたときから…いや、登っている最中に聴こえてきた、なにかの声。
 あれが、前兆なのだとしたら……。
「…空? また頭痛でもするの?」
 空は心配そうな面持ちで僕を見つめていた。
「だ、大丈夫。ただ、ちょっと考え事してさ」
「………」
 僕は残りのカレーを口にかき込んだ。

 夜8時。僕はリビングのソファーで横になっていた。
 無理して食いすぎた…。無理する必要なんか無いんだけど、なんか…たくさん食べてあげないと、空に悪い気がしたんだよな…。
 空は食器を洗い、もう一つのソファーに座って一緒にテレビを見ていた。
「今日はありがとな」
「え?」
「わざわざ晩飯作ったり、洗い物やってくれたり」
「い、いいよ。近所なんだしさ」
「いや、実際のところ助かったよ。僕が料理した場合、滅茶苦茶になるだろうし、コンビニとかで買った弁当は添加物が多くて身体に悪そうだし」
「………」
 空は、僕をジッと見つめていた。
「な…なんだよ?」
「…本当に、身体は大丈夫なの?」
「だ、大丈夫だって。自分のことは、自分がよくわかってんだ。快調だよ、快調。そんなに心配しなくても、大丈夫だから」
 笑顔で言った。…のだが、返答はない。
「そ、空? どうした?」
 空は顔を沈ませていた。
「…空が気を失った時………」
「……?」
「…もう…目が覚めないんじゃないかって思って……」
 彼女は小さく震え始めた。その時のことを思い出し、彼女の中に恐怖が浮かんでいるのか。
「…樹の時みたいに、死んじゃうんじゃないかって…。急に、いなくなっちゃうんじゃないかって……」
 空は涙をこぼし始めた。
「お…おい…」
「空が目を覚まさなかったら、どうしようって…一日中考えてたら、眠れなくて……!」
「…………」
 きっと、僕が山で気を失った日が樹の命日と同じ日だから、連想してしまったんだろう。…死という別れを…。
「1日経っても目を覚まさないから………」
「…空…」
「私……もう嫌なの……大事な人が、いなくなっちゃうなんて……」
「…馬鹿だな。いなくなるわけ無いじゃんか」
「だって……!」
「…簡単に死んでたまるかよ。僕はお前たちを残して死ぬなんてこと…しない」
「……空……」
 彼女は顔を上げた。涙でクシャクシャになっている。
「まだまだ、生き続けたいからな。お前らがちゃんと結婚して、幸せになるのを見届けるまでは…な」
「…………」
「だから…泣くなよ。……ホラ」
 僕は手を伸ばし、彼女のほほに触れた。自然と、そうしてしまった。
「…お前に泣かれると、なんかダメだからさ…」
「…………!」
 僕は思わず、彼女を抱きしめてしまった。なぜだろう……彼女を抱きしめてあげたかった。泣きじゃくる彼女を。
「もう、泣くな。まだ、お前たちの傍から離れないから…」
「…うん…」
 心臓がドクドクいっている。自分の心拍数が、上昇しているのがわかる。そりゃそうだ。女性をこうやって抱きしめることなんて、ほとんどしたことが無いんだから。

「…………」

 すると、空は僕から顔を離した。ほんの少しだけ震える、宝石のような瞳。少し赤くなったほほ。ピンク色の唇。
 変な感じだった。
「……空……」
 彼女は僕の名前を言い、目を閉じた。空の唇が、部屋の明かりを受けて輝いているように見えた。

 ダメだ……! 

 僕は彼女の身体を離し、立ち上がって背を向けた。
「…え…っと…」
 何か……何か言わなきゃ。そうは思っても、何を言えばいいのかわからない。
「…そ、そろそろ帰ったら? 海も心配してるだろうし」
 僕はしどろもどろに言葉を放った。
「…空」
 彼女の小さな声がした。
「私……空に言いたかったことがあるの…」
「…?」
 僕は空の方に顔を向けた。
「言いたいこと…? そう言えば……以前もそんなことを……」
 そう言うと、彼女はうなずいた。たしか、あの時は途中で気を失って……。
「ホントは、ずっと前から言いたかったことなの」
 空は僕から視線を逸らした。
「私、私ね……」
 彼女は何度も瞬きをしながら、言葉を詰まらせている。
「…空?」
 彼女の名を言うと、それと同時に空は僕を見た。まだまぶたに残る涙の雫が、部屋の明かりを受けて光る。


「私、空が…………好き」


 
 世界が止まった。そんな気がした。
 僕は空が何を言ったのか、いまいち理解できていなかった。
「…私、空のことが好き。…………昔から……ううん、……出逢った時からずっと……空のことが好き…」
 彼女は自分の胸に手を当て、しまい込んでいたものを取り出すかのように言葉を放つ。
「誰よりも……あなたのことが好き。空が……大好きだよ……」
 空はそう言って立ち上がり、リビングから出て行った。
「!! 空!!」
 名前を叫んだ時には、彼女は靴に履き替え、玄関から出て行ってしまった。
「…空…」
 僕は追いかけることができなかった。ただ、彼女の名前を口にすることしか。
 あいつ、何て言った? 何て言ったんだ?
 自分自身の記憶に、そう問いかける。
 あいつは何て言った?
 僕のことが、好きだって…。
 あいつが…? 空が……?

 僕は呆然と、その場で立ち尽くしていた。

「ただいまー」
 数時間後、父さんが帰ってきた。
「? なんだ、いたのか? 何ボーっとしてるんだよ」
 父さんは背広を脱ぎ捨て、冷蔵庫からウーロン茶を取り出した。
「空ちゃんは? 帰ったのか?」
「…………」
「なぁ、帰ったのか?」
「あ……? …あぁ…うん」
「ふーん、そうかぁ。…おっ! このカレー、もしかして空ちゃんが作ったのか?」
「…あぁ…」
「すごいなぁー。完璧じゃないか。後でお礼言っとかないとな」
「そう…だね」
 僕は虚ろな目で、テレビの画面を眺めていた。


 ……遠い昔から、誓われていた約束……


 どこからか、そんな言葉が僕の脳裏に降ってきた。
 その日、僕はなかなか寝付けなかった。あいつのことばかり考えてる。ようやく眠れたかと思えば、朝の5時に目が覚めてしまった。母さんでさえ起きていない時間帯だ。なのに、まったく眠くない。ほんの……4時間程度しか寝ていないのに…。
 もし、学校へ行く時に出会ったりしたらどうしよう? なんて声をかければいいんだ? 何を言えばいいんだ? わからない。
 空に会った時の対応をどうすればいいのか、まったくわからない。ある意味、恐怖だ。あいつに会うことが…。
 …とりあえず、今日は早めに学校へ行こう。空と海が登校しない時間帯に。
 僕があまりにも早起きだったので、母さんと父さんはビックリ仰天していた。2人からしてみれば、僕の入院と早起きは、人生でトップ10に入るくらいの出来事らしい。
 7時15分。よし、行こう。空と海はだいたい……30分に家を出るはずだし。
「あんた、もう行くの?」
「ああ」
「何でもいいけど、無理すんじゃないよ?」
「ハイハイ、わかってるよ」
 僕は急いで家を出た。家を出た瞬間、目の前の家から空が出てきた。
「!!!!」
 やっべぇ…! と思い、逃げようとしたが…。
「あれ? 空?」
 それは、海だった。お、驚かすなよ…。これだから双子は…。
「滅茶苦茶早いね。なんで?」
「た、たまには早く行くのも、悪くないかなって…」
「ふーん。じゃ、一緒に行こ」
「あ、ああ」
 海は何も知らないのだろうか。僕と海は、一緒に歩き始めた。
「久しぶりだね。一緒に登校するの」
「ん? …そう、だな…」
 海は軽やかに歩きながら言った。どことなく、微笑んでいるように見える。
「いつもはお姉ちゃんと一緒なのにね」
「そ、そうだな」
「ていうか、空がこんな時間に出るなんて…なんか企んでるんじゃないの〜?」
「何を企むってんだよ、何を……。……空は?」
 僕は何気ない感じを出すために、少し周りを見渡しながら訊ねた。
「お姉ちゃん、なんだか寝不足らしくてさ」
「ふーん…」
「なんだか一人でボーっとしてて、結局寝られなかったっていうオチ」
「空が寝坊…か」
 僕と同じじゃんか…。
「そう言えばお姉ちゃん、昨日何作ったの?」
「カレーだよ。聞いてないのか?」
「うん。だって、お姉ちゃんいつの間にか帰ってて、気付いたらベッドに潜り込んでたんだもん。なのに寝てないって、どういうことだろうね」
 海は笑顔で笑った。しかし、僕は「…そっか…」と答えたために、その笑顔を止めた。
「…なんかあったの?」
 海は僕の瞳を覗きながら核心を突いてきた。
「…別に。なんかあるわけないだろ」
 僕は平静を装い、普通に言い放った。
「だよねぇ。どうしたんだろ? お姉ちゃん」
「さぁねぇ……腹でも痛かったんじゃないの?」
 ホントは知ってんだけど…。ただ、罪悪感があるんだよ。そうしたのは、自分のせいなんじゃないかって。彼女を苦しめたのは、自分なんじゃないかと。

 学校へ行くと、みんなから心配の言葉をたくさん頂いた。丈夫なだけが取り柄の僕が(高校1年は無遅刻・無欠席で皆勤賞Get)、3日も休んだために、みんな「これは一大事」と思ったようである。
 授業がまったく身に入らない。黒板の文字なんて見る気にならないし、先生の言葉も耳に入り、超特急でとこかへ消える。僕はうなだれるか、窓の外を眺めているだけだった。
 あぁ……今日の空も青いなぁ…。
 空と言えば…。あいつ、今頃どうしてんのかな…。僕と同じで、まったく授業を聞いていないんじゃないのか? 大丈夫かな…。いや、そもそも学校来てんのかな? 海に訊いてみようか。…だめだ。訊いたところで、「何で訊くんだろう?」と思われてしまうかもしれない。それに、そういう質問をしてきたと、海が空に言うかもしれない。
 そう考えてしまうと、僕はますます授業という現実からかけ離れていった。この空間が、まるで虚空のように空っぽで、そこに僕だけが静かに座っているようだった。それだけ、周りの全てのものが人にとって、ほこりのようにちっぽけなものに感じていた。
「…ま………東!」
「…………」
「東!!」
「! は、はいっ」
 僕は我に返った。国語教師の平塚が僕を睨んでいる。
「お前、さっきから何をボーっとしてんだ?」
「……す、すみません」
「…ったく…退院したばっかで、たるんでんじゃねぇのか〜?」
「はぁ…すんません」
 先生に指摘を受けたのは、3度。今日だけで、個人的に注意されたのが3度もだ。「ちゃんとしろ!」と言われても、ボケ〜っとしてて、どうにもならない。
「…なぁ、どうしたんだ?」
「ん?」
 昼飯時、和樹は焼きそばパン(定番)を食べながら言った。
「別に〜…」
「いや、その顔でそう言われても、納得できねぇんだけど」
「…まだ身体の調子が悪いわけ?」
 啓太郎が言った。
「身体はなんともないんだけど……」
「……精神的にまいってんのか?」
「…………」
 精神的ねぇ…あながち、外れてないかな。僕が少しの間だけ戸惑った瞬間を、和樹と啓太郎は見逃さなかった。
「…やっぱ、お前、変だな」
「うん」
 和樹の言葉に、啓太郎は小さくうなずく。
「何があったのか知らないけど…」
 和樹はそう言いながら、教室をきょろきょろと見回した。
「…まぁとにかく、深く考えすぎないことだな。お前は一人で深く考え込むと、どーしても一人で結論を出しちまうからな」
「…個人の問題だろ? それで十分だ」
「あのな、俺たちがお前のこと心配してないとでも思ってんのか? お前がいつもの調子じゃないと、俺たちもいつもの調子にならないっての」
 和樹は優しく微笑んだ。なぜか、僕は恥ずかしくなってしまった。
「人と人ってのは繋がりだ。その繋がりがあるから、俺たちは生きていけんだよ」


 夕焼けの空。すでに6時過ぎ。僕は教室の自分の机で、窓の外を眺めていた。
 この時間帯まで学校にいるのは、理由がある。それは、空に顔を合わせないためだ。あいつに顔を合わすのが、とても怖い。鬼に会うような、怒られるような恐怖感ではなく、何かが崩れそうで怖いのだ。それは、僕たちが築いてきた「幼馴染」という「繋がり」が崩れてしまいそうだからかもしれない。顔を合わすと、今までのそれが、音を立てて崩れ去りそうに感じた。
 それだけは、嫌だった。
 和樹が言っていた「繋がり」。それが不協和音を鳴らしたり、途切れてしまったりすると、もう昔に戻ることができなくなる。いつものように、笑顔で話したり、遊んだりすることができなくなると考えると……。
 きっと、空だって同じはず。あいつだって、もうこれ以上壊したくないはずだ。
 和樹の言うとおりだ。人と人を繋ぐ「糸」。これがあるからこそ、僕たちは生きてゆける。だけど、それがなければ生きていくことなどできないかもしれない。それは大げさかもしれないが、毎日が辛くなってしまう。内容のない、軽薄な日々と化してしまいそうだ。
 僕は机に顔を沈めた。窓を眺めながら、大きくため息をついた。
「ガララ」
 そのとき、教室のドアが開けられる音がした。僕は顔を逆方向に向けた。そこには、目をパチクリさせている美香が立っていた。
「…なんだ、美香か。こんな時間にどうしたんだ?」
「こんな時間にって…空こそ、どうしたの? もう、下校の時間は過ぎてるよ?」
「下校の時間…?」
 僕は顔を上げ、教室の時計を見た。6時31分。気がついたら、こんな時間か…。基本、6時が下校時間であり、これ以降まで残るのは野球部などくらいなものだ。6時過ぎまで学校にいるなんて、初めてかもしれない。
 僕は携帯をポケットから取り出した。
「…やっべ……母さんに怒られるな…」
 着信履歴に、母さんからのものが2件あった。いつも6時までに帰る僕が帰らないので、中途半端に心配しているんだろう。
 僕は椅子から立ち上がり、体を伸ばした。長いこと座っていたので、なんだか体が硬く感じる。
「帰るの?」
 美香は僕のほうに近寄りながら言った。
「ああ。そろそろ帰んないと、イカズチ食らうからな」
 僕は首を右に左にと傾けた。それと同時に、首の骨が鳴った。
「…ねぇ、どうかしたの?」
「ん?」
 僕は美香のほうに顔を向けた。どことなく、彼女の表情は心配そうに見える。
「今日、なんだかいつもの空じゃないと思う」
「いつものって…別に、いつもどおりなんだけどな」
 僕は悟られまいと、笑った。それでも、彼女の表情は変わらなかった。美香は小さく首を振った。
「いや、なんていうか……悩んでる」
「………」
 悩んでる。まさに、そのとおりだ。
「……悩みの一つや二つ、誰にでもあるもんだろ」
「そうだけどさ。…私、空の友達だからさ。私でよければ、何があったか…教えてくれない?」
「………」
「もしかしたら、少しは気が紛れるかもしれないしさ。それに、溜め込んでるよりかは、吐き出しちゃったほうが楽なことだってあると思うよ?」
 そう言って、美香は微笑んだ。日向姉妹を除いて、女性の中で最も仲が良いのは美香だ。恋愛関係のことは、彼女に話をしたほうがいいのかもしれない。一番の親友である修哉には、なぜだか言いにくい。あいつは空と海の友達でもあるからかもしれない。
「…そう…か。そうだな、うん」
 僕はうなずきながら言った。
「言ったほうが、いいのかもな」
 顔を上げ、美香に視線を向けた。
「…実は、さ。昨日………」
 僕は昨日起きたことを、美香に話した。


「……それで、どうすればいいのかわからなくてさ…」
「………」
 美香は終始無言で僕の話を聞いていた。ひと時も目を逸らさず。
 そして、ようやく彼女は口を開いた。
「…悩んでるのは、そういうことじゃないんじゃない?」
「えっ?」
 美香は僕の前の席に座り、外を眺めた。茶色い地毛の髪の毛が、夕焼けの光で赤っぽく見える。
「空が悩んでるのは、今の関係が壊れちゃいそうだからなんでしょ?」
「…ああ…」
 そういうことは一言も言っていないのに、美香は気づいた。なぜか、すごいと思ってしまった。
「今まで築いてきたものが崩れてしまいそうで…」
 僕は大きくため息をついた。
「小さい頃から…物心が付く前から知り合いで、何をするにも一緒だった。…あいつは…あいつたちは大切な幼馴染なんだ。この関係が壊れたら、もう元に戻ることができないんじゃないか? そうなったら、顔を合わすたびにどうすればいいってんだ? ……目を逸らしたり、無視したりしてしまうのだと思うと、たまらなく嫌なんだよ……」
 夕焼けの空が滲んで見えた。何でだろう…。もし、そうなってしまったときのことを考えたからかもしれない。
「……空」
「………」
「私さ、あんたのこと好きだったんだ」
「…え?」
 美香のほうに顔を向けると、彼女はにっこりと微笑んでいた。
「気づかなかったでしょ? 空と同じクラスになる中学3年の1学期に知り合う前から、空のことが好きだったんだ」
 そう言う彼女の顔は、誇らしげに見えた。
「ごめんね。関係がこじれることが嫌なはずなのに、こんなこと言っちゃってさ」
「…美香…」
「でも、気にしなくて大丈夫。私はダメだってわかってるからさ」
「……?」
「私は空の好きな女性にはなり得ない。所詮、私は空にとって一人の友達なんだ」
「な、何言ってんだ。美香は……」
 そう言うと、彼女は首を振った。
「ううん。確かに、空は私を普通の友達以上に想ってくれてるかもしれない。けどね……違うの」
「違う…?」
 美香は小さくうなずいた。
「空は私を恋愛対象の一人として、見てくれてなかった。空が何らかのことをしてそう感じたんじゃなく、一緒に過ごしていく中で…1日、一週間、一ヶ月と過ぎて…自然と気付いたことなの。時間が教えてくれたって言うのかな」
「………」
「言ったでしょ? 『好きだった』って。過去形なの。……好きじゃなくなったって言ったら嘘になるけど、たしかにあの頃とは違う感情になった…。空の傍にいたいっていうことじゃなくなってた……」
 彼女は椅子から立ち上がり、教卓のほうへ歩み始めた。
「ねぇ? 空は困ってる?」
「…はっ?」
 美香はくるっと向き直り、言った。
「今、困ってる?」
「困ってるって言うか……びっくりしたというか…」
「じゃあ、怖い?」
 同じ表情で、彼女は立て続けに質問した。
「えっと……怖い……わけじゃ、ない。迷惑でもないし…」
「そっか」
 すると、彼女はフフっと微笑んだ。
「ほらね。違うんだよ、そこが」
「???」
 僕には、彼女が微笑む理由がわからなかった。
「私が告白したときと、空ちゃんが告白したときの空の反応。まったく違うものでしょ?」
「そりゃ…そうだけど…」
「私、わかっちゃった。どうして、空が怖いって思うのか」
 美香は微笑みながら軽やかに教卓の上に座った。
「? どういうことだよ」
「フフ……それは、空自身で気づかなきゃならないことだと思うよ」
「…んだよ、それ」
「あ、怒った?」
 彼女は意地悪な声で言った。
「…怒ってないよ」
「大丈夫。きっと、空は気づくよ。空ちゃんや海ちゃんのことを大切に想ってるもの。いつだって、彼女たちのために行動してきたんだからさ」
「………」
 美香は夕焼けの空をまぶしそうに眺めた。
「いいよね…。誰かを好きになるってさ」
「…美香…」
「私、絶対に空以上に好きな人を見つけてやる。そんで、あんたに自慢するの」
「自慢って……」
 美香はクスクス笑いながら茶色い髪の毛を巻き上げた。彼女の髪は染めているわけではなく、地毛だ。もちろん、夕日に当たっているというのも関係しているのだろうが。
「…人を愛することほど、生きてるって実感することはない。……だって、人は人を愛することを止められないもの。でしょ?」
 美香は屈託のない笑顔をして見せた。その笑顔は、今まで見てきた彼女の笑顔の中で、最も美しいのものだった気がする。
 もしも……もしも、僕が日向姉妹に出会っていなかったら。もしも、こんな悩みを持つはずもなく、彼女たちについて何も感じなかったのなら、僕は…小山内美香を、抱きしめていたかもしれない。この手で。この腕で……。
 言葉とは不思議なものだ。言葉ひとつで、人はこんなにも美しくなる。誰にもできることじゃない。美香だからこそ、できるのだ。
 激しく鼓動する心臓を押さえつけながら、僕は微笑んだ。そうしなければ、美香に逃げてしまいそうだった。
 何から?
 ふと、何かが僕にそう言った。ずっと昔から…僕が生まれるよりも遥か昔から、そこにいた何かが、ささやいたんだ。
 …何から逃げてるんだ? なぜ、逃げる必要があるんだ?
 
 現実から。
 空から。

 

 校門で美香と別れ、僕はいつもの帰り道を歩いていた。何を考えるでもなく、コンクリートの道路を見つめながら。


 …小さな木漏れ日 遥かなる呼び声 百億の星 堕ちた御使いの願い…


「…僕に何が言いたい…?」
 僕は立ち止まり、道路を睨んだ。
 頭の奥底から聴こえてくる声。
 僕に何を伝えようとしているのか?
 小さな残像と小さな痛みと共に、視界がぼやける。

 遠い昔から交わされていた、遥かなる約束……
 全ての命が…時が紡がれるその時に、新たなる星が生まれる

「だから…何が言いたいんだよ…」
 だんだん、痛みが激しくなってくる。その痛みは、僕の思考能力を徐々に停止させてゆく。

 さぁ…セヴェスよ…
 お前は何を望む?
 安堵か?
 平和か?
 愛か?
 全てを欲する者は、あらゆる幸をその手から零す…

 お前は、その手に何を望む?

「何を…望む…だって…? それは決まってるだろう…? 言葉に出す必要なんて、ない。…なぜなら、僕たちは生まれてくるその昔から、その答えを知っているんだからさ…」

 何かの反応があった。何かが…いや、無数の何かが僕の体に落ちてくる。見つめるコンクリートの道路に、小さな斑点が少しずつ増えてゆく。
 顔を上げると、それが雨だということに気がついた。雨脚はそこまで強くないが、いずれ大雨になる気がする。
 さっきまできれいな夕焼けの空が広がっていたのに、いつの間に雨雲が広がっていたんだろう。それに、空が雲に覆われたせいでもあろうが、周りがほぼ暗くなっていた。見えないほどではないが、そうだな…日が沈んだ時間帯…といったところか。
「…空?」
 この声は…。
 ゆっくりと視線を前へ向けると、そこに誰かが佇んでいた。
 傘を持つ黒髪の少女。雨水のせいでぼやけた視界でも、暗くなってしまっても、それが誰だか僕は容易にわかった。
「…空…か?」
 そう。そこに立っていたのは、空だった。彼女が愛用している、透き通った海のような色をした傘の下に。
「なんで、ここに…?」
 そう訊ねると、彼女は少し恥ずかしそうな仕草をした。それがなんだか、とてもかわいらしく見えた。
「だ、だって…空がなかなか帰ってこないし、何度電話しても出ないから迎えに行ってやってくれないかって、おばさんに頼まれて……」
「ああ……そっか……」
 美香と話している時にも、帰ろうとした時にも携帯が鳴っていることに気がついていた。しかし、なぜだか出る気にならなかった。
「…どうか…した?」
「…?」
 彼女はなんだか心配そうな目で、僕を見つめていた。
「どうかした…か…」
 なぜだろう。変な感じだ。自分の体が、自分の体じゃないみたいだ。
「ハハ……お前は、どうして平気そうな顔をしてんだ?」
「え?」
 なぜか、僕は手を前に差し出していた。
「手が震える…。なぜかわかるか?」
「……?」
「怖いからだよ…。全ての歯車が動き出そうとしている…。いや、すでにぜんまいは巻かれ、ちょっとした予兆を醸し出してる……」
「空…? 何言って――」
「狂おしいほどに何かを愛せるというのか…?」
 僕の知らない何かが、彼女の言葉をさえぎって言葉を放つ。
「奈落の底へと…失われた聖なる空間の狭間へ堕ちゆく魂たちを……」
 そのとき、僕の体はガクッと崩れた。雨水が流れる道路に、水しぶきをはじき出しながら座り込んでしまった。
「そ、空!?」
 すると、彼女は傘を投げ捨てて駆け寄ってきた。
「ね、ねぇ? どうしたの? …頭痛がするの!?」
「………」
 ああ、そうだよ。頭が……痛いんだ…。なのに…なのに……。

 ……どうしてこんなに愛おしいんだろう……

「空!? ねぇ、そ―――」
 僕は、しゃがんだ彼女を抱きしめていた。
「――!!――」
 雨の音が聞こえる。遥か遠く、遥か高みから降り注ぐ雫は、大地に小さな波紋を広げて砕け散る。まるで、生き急いだ人間のようだ。
「どうして…こんなにも……僕は……」
「そ…ら……?」

 そこからのことは、よく覚えていない。
 ただ、その後、僕はちゃんと家に帰宅したこと。
 ちゃんと夕飯を食べたこと。
 ちゃんと風呂に入ったこと。
 それらは、覚えていた。
 けど、どのようにして空と別れたのか。どのようにして、彼女と離れたのか。
 
 大切なところが、とても曖昧になっていた。


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