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◆1部:青い空
2章:裏山 遥かに遠き、少女の呼び声


 あーたらしぃ、朝が来た。希望の〜♪
 小学校の時に習った歌が、頭上から聞こえる。なんかの漫画で、この歌が使われていたような気がしなくも無い。

「…………」

 目を開いた。その先に映っているのは、白い天井。
 あれ…ここは、一体どこだ?
 そう思いながら、自分が仰向けになっていることに気が付いた。ゆっくりと視線を上から下に降ろし、自分の周りを眺めた。
 ここは……病院……?
 白色で統一された、清潔感のある部屋。僕がいる部屋は、どうやら個室のようだ。太陽の光が窓から差し込み、陽気さを漂わせている。
 時間帯的には、昼の手前かな。
 ちょうどいい室温だ。暖房もつけていないんだろうけど、それがちょうどいい。春というのは、何をしなくても最高の気分になるからたいしたもんだ。だからなのか、僕は四季の中では、春が1番好きだ。
 始まりの予感を漂わせる、桜の季節。その花びらと、温かい風と共に流れてくるのは、新しい出会いや、新しい人生なのかもしれない。他にも、人それぞれでしか感じえない「何か」があるのかもね。
 僕は辺りを見渡した。……誰もいない。僕が病院にいるということは、あの頭痛がしてから気を失った後、ここへ搬送されたんだろう。そして、入院する羽目になった、と。けど、気を失ってから何日が過ぎたのか、わからない。ていうか、新学期早々、入院する羽目になるとは……最悪だ。僕は遅刻をするものの、学校自体を休むことは病気の時以外しないので、なんだか勿体無い気分だ。…まぁ、罪の意識を感じながら学校を休むわけではないので、ラッキーと言えばラッキーなのだが。
 目を覚ましたのはいいが、どうしよう。暇だ。何もすることが無い。手許に、携帯でもあればなぁ…。
 その時、この病室の扉が開いた。そこから、一人の男性医師が入って来た。

「おや? 目が覚めたのかい?」

 その人は僕を見るなり、あまり驚いた様子を見せずに、近寄って来た。
「ここは……」
「ここは、長束中央病院だよ。君は昨日の夜、自宅で気を失ったためここへ搬送されたんだ」
「……そうですか。1日しか経っていないんですね」
「さっき目が覚めたのかい?」
「あ…はい、そうです」
「どこか調子が悪いとか、痛いとか無いかい?」
「ええっと……大丈夫です」
 僕は自分の体を見渡しながら言った。
「昨日、突然頭痛を起こしたと聞いているんだが……」
「あ、はい。そうなんです。いきなり頭が鈍器で叩かれているかのように痛くなって、それで気を失ってしまって…」
「ふむ、なるほど…。一応、検査をしましょう」
 と言うことで、いろいろな検査を受けることに。


 終了後、病室に行くと父さんと母さん、そして空がいた。
「空!」
 3人は立ち上がり、僕の所に駆け寄って来た。
「あ、あんた……」
「検査をしたところ、特に異常は見当たりませんでした。しかし、念のためにもう1日入院することをお薦めしますが…」
「そ、そうですか。じゃあ、お願いします」
 母さんはそう言うと、お辞儀をした。そして、先生は病室から出て行った。
「…あんた、もう大丈夫なの?」
「見りゃわかるだろ? 大丈夫だって」
 僕はそう言って、ベッドの上に座った。
「頭痛は? もうしないの?」
 空は泣きそうな顔で言った。
「まったくしないって。……つーか、お前学校は?」
「お前が心配だから、休んだんだよ」
 父さんが、代弁した。
「……そっか。わざわざ、ありがとな。空」
「…………」
「…俺は仕事があるから、会社に戻るよ。もう大丈夫みたいだしな」
 父さんはそう言って、荷物を担いだ。
「今日は別に休みじゃなかったんだ」
「当たり前だろ? サラリーマンの休みは、大体土日なんだよ」
 しがないサラリーマンですからねぇと付け加え、父さんは笑った。
「ついでに家に帰るけど、お前はどうする? 帰るか?」
「そうねぇ。洗濯物がたまってるし、帰るわ」
 母さんはあくびをしながら、そう言った。
「……自分たちの息子が初めて入院したってのに、その何事もなかったような態度はどうなんだか……」
「ハッハッハ、お前は丈夫だからな。安心した証拠だよ」
 父さんはそう言って、笑った。
「…まったく…」
「空ちゃんはどうする? 帰る?」
「私は……学校休んじゃったし、家に帰っても暇だから……」
「そう? じゃあ、帰る時は気を付けるんだよ」
「うん」
 そして、母さんと父さんは僕を心配する素振りも見せずに、帰って行った。

「あれでも親かぁ? 自分の息子が入院したってのによぉ」
「…おじさんもおばさんも、昨日寝ずに付き添ってたんだよ?」
「……ふーん」
 なるほどな。だから、目の下にクマがあったんだ。
「…ていうか、なんでお前は休んだの?」
「えっ?」
「まだ入学したてなのにさ。いきなりサボっちゃあダメだろ」
「…だって、空が心配で…」
 空は両肩を落とした。
「まぁ、目の前で気を失えば、そうなるのも仕方ないだろうけど……。優等生のお前がいきなり学校をサボるのもな……。……なんだか、罪悪感があるよ」
「…どうして?」
「そりゃ、僕が気を失ったせいでお前をサボらせちまったからだよ」
「…別に、空は何も悪くないと思うよ…」
「どうしても感じちまうんだよ。罪悪感ってのはさ」
「………」
 僕は仰向けになり、窓の外を眺めた。
「…昨日、どうしたの?」
 僕は彼女の方に顔を向けた。
「声が聞こえるとか……」
「…お前には、聞こえなかったのか?」
 空はうなずいた。
「そっか……」
 あれは…あの声はなんだったんだろう。聞いたことも無い声。それでいて、どこか懐かしい感じのする声ではあった。

 ……懐かしい……?

 何が、懐かしいというのだ? どこをどう思って、懐かしいと感じたんだ? …自分で思っていながら、さっぱり理由がわからない。
「本当に……体は大丈夫なの?」
「…えっ? も、もちろん大丈夫だよ。知ってるだろ? 丈夫だってことをさ」
「…けど…」
 空はそれでも、心配そうな表情を止めない。
「本当に大丈夫だって。……だから、そんな顔すんなよ。お前がそういう顔をしてると、気が滅入っちゃうからさ」
「空……うん、わかった…。本当に、大丈夫なんだよね?」
「ああ」
「…よかった」
 ようやく、空は笑ってくれた。それと同時に、僕もようやくホッとした気分になった。彼女の笑顔を見ることができて、ホッとしたんだ。
 ……あれ? ホッとしただって?
 ニクムカ…? ………ノカ?
 オマエトオマエノ……ニトッテ、ツイトナルベキ………ザイハ…。
「空?」
 僕はハッとした。
「どうしたの?」
「…いや、なんでもないよ」
 また、変な感じがした。意識が遠くなって、どこからか声が聞こえる。
 嫌な感じだ…。
「…それにしても、まさか空が入院するなんてね…」
「ん?」
「空は風邪の一つも引かなければ、怪我することも無いんだと思ってた」
「あのな……風邪の1つくらい引きますよ。一応、人間なんだから」
「フフ、そうだったね」
 彼女は口を押さえて、微笑んだ。その時、僕はあることを思い出した。
「……けど、まぁ……こんな形で、病院に来ることになるなんてな…」
「……?」
 空は頭をかしげた。
「病室に来ることなんて、昔は何度もあったのにな…」
「……そうだったね……」
 僕には空たちと同い年の弟がいた。名前を、(イツキ)と言う。
 
 彼は生まれつき病弱で、幼稚園から小学校高学年までは頻繁に入退院を繰り返していた。呼吸器官などが弱いとか何とかって、父さんは言っていた。まぁ、そういうわけで、昔は何度も病室へ出入りしていたのだ。樹を看病するために。
 樹の性格は、兄である僕とは対照的に、大人しい。空みたいなもんだ。心優しく、非常に怖がりだった。カエルさえも捕まえることもできなかったっけ。いつも誰かの陰に隠れて、自分の意志を伝えようとする人間ではなかった。だからなのか、いじめられることも多々あった。そんな時は毎度のように、僕と海、そして修哉で助けたもんだ。
 中学生になる直前、彼の体調は快調になった。マラソンやバスケなどの激しい運動は禁止されているものの、喘息も起きず、普通の学生らしい生活を送れるようになった。

 しかし、3年前…つまり、樹と空たちが中学生になった年の5月5日。樹は死んだ。死んだと、考えられた。

 あの日、巨大化した低気圧の影響で、この辺りは暴風雨に見舞われた。だからと言って、家が崩れるとか、洪水が起きるほどのものではなかった。ただ、川は増水し、危険だと言うことを親に言われた。まぁ、こんな大雨の時に外に出る人はいないだろうと、僕は思っていた。だけど、予想外のことってのは起きるもの…。
 すでに暗くなった夕方、母さんと樹が珍しくケンカをした。僕が親に口答えすることはあっても、樹が親に口答えすることはかなり珍しい…と言うより、見たことがなかった。だけど、その日、母さんは掃除の時に誤って樹の大切なものを捨ててしまったのだ。それは何なのかというと、空からもらったという小さな宝石だったのだ。小学の修学旅行に行けなかった樹のために、空がお土産として買ってきてくれた物なのだ。樹脂が結晶化したような…翡翠色をした宝石。樹はそれを宝物にした。
 樹は、空のことが好きだった。物心が着く頃から、ずっと。だから、レプリカの宝石でも、昔に貰ったものでも、彼女に貰ったものならば、宝物にしていたんだ。だから、母さんに怒鳴ったりした。どうして、捨てたのか。どうして、確認もせずに捨てたのか。母さんなんて大嫌いだ。すると、母さんは頭に血が上り、思わず「出て行け!」と言ってしまったのだ。もちろん本気ではない。だって、外は嵐だ。外に出るはずも無い。その場にいた僕も父さんもそう思った。しかし、樹は本当に出て行ってしまった。何も言わず、ゆっくりと。

 それが、樹の最後の姿だった。

 僕たちは樹が本当に出て行くなんて思うはずもなかったため、しばし呆然としていた。我に返った後、すぐに探しに行ったが……見付からなかった。これ以上探しても、自分たちも危険だったと言うこともある。
「すぐに帰って来る」
 父さんはそう言って、落ち込む母さんを励ましていた。僕と父さんは、すぐに帰って来ると思っていた。外は嵐だし、あいつもすぐにわかるはず。あいつは優しいから、すぐに帰って来て、「母さん、怒鳴ったりしてごめんなさい」と言うはずだと。
 しかし、待てども待てども、樹は帰って来なかった。1時間……2時間と、時間が過ぎて行った。さすがの僕もおかしいと思い、捜索に出た。まず、日向家の方に行っていないか。だが、いない。空やおじさんたちと一緒に、知り合いの家に電話をしてみるが、いない。修哉のところにもいなかった。
 結局、嵐のため、夜のために捜索する範囲は狭く、嵐が収まるまで待つこととなった。そして次の日の朝。警察が家にやって来た。

 樹が交通事故にあったと。

 そして、増水した川に落ち、流れていってしまったと。

 僕は何がなんだか、わからなかった。何も考えられなかった。ただ、警察の言葉が、僕の耳から耳へと、超特急で抜けていっていた。
 樹は川の近くを走っていたトラックにはねられ、川べりへと飛ばされた。運転手はすぐに助けに向かったが、一歩遅く、樹は流されていってしまった。警察は、事故現場の近くにあった樹の携帯から、家がわかったのだと言う。
 交通事故にあったのは、午後7時37分頃。樹が家を出て、数分後のことだったらしい。
 それから警察は数週間、樹を探したが、とうとう見つけることはできなかった。「行方不明」扱いだったのだが、当時の状況や事故現場の壮絶さを見ると、生きている可能性はほぼゼロに近いということで、「死亡」とされた。
 それは、誰にでもわかることだった。あの状況で生きていること自体、無理なのだと。捜索は、打ち切られた……。

 事件から約1ヵ月後の6月14日。樹の葬式が執り行われた。
 父さんが涙を流す姿を初めて見た。母さんが人目をはばからず、声を上げて泣き崩れる姿も、初めて見た。
 空と海は体を寄り添い、大声で泣いていた。あんなに泣く2人の姿も、生まれて初めて見た。立っているのがやっとという感じだった。
 たった12年と数ヶ月しか生きることのできなかった弟の死に、僕は泣きもせず、ただただ、遺影と遺体の無い棺を見つめていた。遺影で微笑む樹の顔。優しい笑顔。それを見るだけで、穏やかな気風の持ち主だったというのがわかる。

 あの写真は、いつのだったっけ…。

 そんなことを、ずっと考えていた。すると、一人の親戚のおばさんが、他の人と話している声が聞こえた。
「自分の弟が死んだというのに泣きもしないなんて、なんて冷たい子だろう」
 冷たい子?
 泣かないのが、冷たい子?
 悲しむには、泣かないとダメとでも言うのか?
 泣いて、泣いて…泣きまくることが、悲しむことなのか? 自分だけが悲しいんじゃない。みんな、みんな悲しいんだ。僕が泣けば、きっと母さんを責めることとなる。母さんは、自分のせいだと考えているから。

 だから、泣かない。僕は、絶対に泣かない。

 そう、おばさんに怒鳴ってやりたかった。胸倉を掴んで、その化粧の濃い顔を殴ってやりたかった。………けど、樹の葬式の時にそんなくだらないことをしても意味は無い。おばさんを殴ったからと言って、僕の気持ちがおばさんに理解してもらえるはずも無い。意味の無いことをしても、樹の葬式を滅茶苦茶にするだけ。……だから、僕は聞こえていないふりをした。

 呆然と立ち尽くすかのように……何も考えていない風に見せようと、僕は表情を変えず、樹の遺影を見つめた。
 そんな時、修哉が僕の傍にやって来て、こう言った。
「……お前のそういうところ、俺は好きだな。お前が今、最大限に表すことのできる優しさそのもの……だもんな」
 修哉は、理解していた。あいつにとっても、樹は幼馴染だ。樹にとって、修哉は友達であり、もう一人の兄のような存在だった。だから、修哉だって泣きたいはずだった。けど、あいつは僕の傍で突っ立って、同じように何も言わず、樹の遺影を見つめていた。
 本当は泣きたかった。半狂乱になって泣き叫べば、どれほど楽になれるだろうか。どれほど、この悲しみを緩和することができるだろうか。今、この悲しみと苦しみから逃れたかった。

 更に本当のことを言えば、僕は自分の意識がどっかへ飛んで行っていてしまったようだった。警察から「交通事故」の話を聞いてから、なんだか意識が遠くなってしまったかのようだった。そこにいるはずなのに、そこに自分がいない。あっという間に……気が付けば、葬式だった。泣き声を挙げる家族と、空たち。それらが、まるで他人事のように見えなかったと言えば、嘘になる。どうしてか、第3者のような目線で見ていた自分がいた。

 ようやく実感が湧いたのは、自分の部屋に戻った時だった。いつもいるはずの樹が、いない。机でいつも勉強している樹の姿が、無い。
 その時になってようやく、僕は泣いた。一人で。声を押し殺して、ひっそりと泣いた。床に敷いているカーペットがずぶ濡れになるくらいに。

 そして……3年の月日が流れた。悲しみを乗り越えるには、十分な時間だった。
「……もうすぐ、あれから3年か……」
「…早いね…。もう、3年も経っちゃったんだね…」
「そう……だな。あっという間だったな…」
「…………」
「樹がいなくなってから、もう当分病室に来ることは無いと思ってたんだが……まさか、自分が入院して来ることになるなんてな」
 僕はハハッと笑った。
「…小さい頃は、病院の薬臭い匂いや、陰湿的なイメージがどうも受け付けられなかったけど……こうしてベッドで寝ていると、結構いいもんだな」
「…なんで?」
 彼女は首を傾げて訊ねた。
「外はポカポカ。ここは快適。勉強を強要する教師もいなければ、授業中寝ていて、起こしてくる教師もいない」
「変なの。結局、先生が嫌なだけじゃない」
 空は笑った。
「お前も嫌じゃない?」
「…何かと嫌なことはあるけど、そこまで嫌じゃないけどね。空の場合、授業中寝てるから怒られて、だんだん先生が嫌いになっちゃうんだよ」
「…仕方ないだろ。眠いんだから。特に朝。さらに春」
「もぅ……中学の時もそうだったけど、それはどうにかならないの?」
 彼女はため息混じりに言った。いい加減、呆れてるんだろうな。
「どうにかできるなら、とっくにどうにかしてるって。こればっかりは、もうどうしようもないと思ってるし」
「あ、開き直った」
 空は僕を指差した。
「うっせ。学校サボった奴に言われたくないね」
「何よ。せっかく、心配して看病してあげてたのに」
 そう言って、空はフンとそっぽを向いた。
「ハハ、ごめんって。……ありがとうな」
「…え?」
「わざわざ学校サボってまで、いてくれてさ」
「…………」
「こうやって話し相手がいてくれると、寂しくないしな」
 樹も言っていた。「病室で一人は、とても寂しい」…と。こうして病室にいるからこそわかる。この広い病室の中で、一人でいると嫌になりそうだ。
「……空………ありがと……」
「おいおい、なんでお前がお礼言ってんだよ。僕がお礼言う側だろ?」
「…そう言ってくれて、ありがとうってこと」
 空の長い髪が、病室に入り込んだ風によって優しく揺れる。
「……なるほど、ね」

 その日の午後、学校の授業を終えた修哉と海がやって来た。人を散々コケにしてから、「早く退院しないと、お前の部屋が大変なことになるぞ?」と言い残し、帰って行きやがった。ホント、迷惑な奴らだ。
 次の日、僕は母さんと一緒に歩いて家に帰った。この中央病院は、僕の家がある団地から程近いため、車とか必要無いのだ。
「どうする? 昼ごはんでも食べる?」
「あぁ、お願い。病院食は飽きたし」
 僕はとりあえず、自分の部屋に向かった。
 部屋に入ると、窓が少し開き、そこから風が入り込んできてカーテンを揺らしていた。温かい陽気が、この部屋の中に充満している。ただでさえ病院で寝たのに、またもや眠くなってきてしまった。いくらなんでも寝るわけにはいかないが、あくびが出るほどだ。
 元々、この部屋は僕と樹、2人の部屋だった。樹が中学生になったら、一人一部屋になるはずだったのだが、ものを移動するのがめんどくさいと言うことで、樹は中学生になってもこの部屋にいた。だから、未だにこの部屋には樹の机が置かれている。これを見て、毎度のようにあいつを思い出すが、ここ最近、その思い出す頻度が少なくなっていっているような気がする。あいつが死んだ後、この机を見ると多くの記憶が鮮明に浮かび上がったのに、今ではちょっとしたことしか思い出せない。
 …3年という月日が、僕の記憶から樹との想い出を薄っぺらくしていく。どんどん薄くなり、あいつの顔さえ、思い出せなくなっていくのだろうか。写真が無ければ、あいつの笑顔もわからなくなるのかもしれない。
 そうやって、僕たちは樹を忘れていくのかもしれない。これから数年、数十年という月日が経ていくと、きっかけが無い限り、あいつを思い出さなくなるのかもしれない。…そうなったら、どうなってしまうんだろうな…。
 人は死んだら、あとは人の記憶から消え去っていくのみ…。
 そういうことなのだろうか。
 部屋を見渡し、なんとも言えない寂しさが纏わり付いた。
「………ふー……」
 僕はベッドに倒れこんだ。
 なーんか、何もやる気が起きないなぁ…。明日からは学校に行かなきゃいけないし、2日も休んだから、初っ端っから授業がわからなくなっちまった。
 あーあ、めんどくせ。
(……空……)
 …ん? 誰の声だ?
(……空……空………)
 誰かが、僕の名前を呼んでいる。以前聞いたような、男の声じゃない。……優しい、女性の声だ。
 …また幻聴か…? また、頭痛がしてくるのだろうか? 内心、僕はドキドキしていた。不思議な感じがするからだ。自分が、普通の人間でなくなっていくようで。
「空―! できたよー!!」
 ジッと待ち構えようと思った瞬間、母さんの声が家中に鳴り響いた。
「わかったー!」
 僕はそう返事をすると、立ち上がり、部屋から出ようとした。しかし、部屋の片隅から、何らかの気配を感じた。
 カーテンが、フワッと浮かび上がった。風が、入り込んでいる。
「………気のせいか……」
 さっきの幻聴もそうだが、あまり気にしないほうがいいのかもしれない。気にしすぎると、眠れなくなりそうだし。
 僕は階段を下り、リビングへ向かった。今日はチャーハンですね〜。

 次の日、僕は学校へ行った。学校へ行くと案の定、みんなから質問攻めをされた。丈夫なだけが取り柄の僕が、入院したからだ。みんなは心配していたと言うよりも、真相が知りたかっただけなのかもしれないけど。
 それからと言うものの、あれ以来、幻聴も頭痛もしなくなった。幻聴が聞こえ、極度の頭痛で気を失ってしまったことを知っている空は僕を心配しているようで、わざわざ学校へ行く時間を僕に合わしてくれている。……まぁ、別に病人でもないのに、なんだか恥ずかしいのだが。海はマイペースな奴なので、さっさと学校へ行くんだが。それはそれで、逆に腹が立つのはなんでかな…。あいつはあいつなりに、心配してくれてるんだろうけど。
 何も無い日々が続き、僕は幻聴や頭痛のことを、ほぼ忘れてしまった。そして、4月は終わり、5月に突入した。


「何か知らないけど、最近仲が良いみたいじゃん」
 修哉は屋上で大の字になって言った。僕も同じように、大の字になって夕焼けの空を眺めていた。
「何が?」
「しらばっくれるなよ。お前と、空ちゃんだよ」
「ああ……そーいうことね」
 毎朝…というわけでもないのだが、ほぼ空と登校している。噂好きな奴からは、「付き合ってんじゃないか」と言われているらしいのだが、当の本人である僕は、そんなつもりはさらさら無い。それに、中学生の時、一緒に登校していたことは多々あった。…そう言えば、中学3年生の時、なぜか知らないが空が毎朝、僕の登校時間にあわしてくれた頃があった。なのに、2学期が始まった頃になると彼女は海と同じ時間帯に学校へ行くようになった。あの時、少し意識した。空の考えていることがいまいちわからないな、と。
「俺のクラスの男もそうだが、聞いた話では、3年の男子もお前に嫉妬してるらしいぜ?」
「3年? おいおい、馬鹿も休み休みに言えよ」
「ハハ、ホントだって。まぁ、気を付けるこったな」
 修哉は他人事のように、笑った。
「…僕があいつの目の前で気を失ったから、心配なだけだよ」
「ふーん。けどまぁ、うらやましい限りですよ」
「…修哉。お前、なんか言いたいことがあるんじゃないのか?」
「…………」
 僕がそう言うと、修哉はゆっくりと立ち上がり、フェンスの方に歩き出した。
「さすが俺の親友。本当に言いたいことがあるってのを、理解してくれるよな」
 修哉の後姿から、彼が微笑んでいるのが分かった。
「生殺しにするようなことはするなってことさ」
「…はっ?」
 僕は上体を起こした。
「お前にとっても、誰かにとっても、今の状況はよくない」
「誰かって……誰だよ?」
「…そこのところは、自分で考えろって」
「なんだよ、それ。そこが重要な気がするんだけどな…」
「お前の欠点は、鈍感なところなんだよな」
「……?」
 修哉は僕の方に振り向いた。
「鈍感なのはある意味、長所でもあるが同時に欠点だ。お前は、他人の感情を察知する能力に長けている割に、本当のことが何なのか…それに気付かない」
「…どういう意味だよ?」
「そのまんまに決まってるだろ? まったく、本当に鈍感な奴だよ」
 修哉は口を押さえて笑い始めた。僕には、何がなんだかわからない。
「……意味わかんねぇよ」
「それなら、それでしょうがない」
「お、おいおい、教えてくれないのかよ?」
「……俺の言いたいことを理解してもらおうとしたら、お前の周りを崩すことになりかねない」
「……??」
「それに、俺の言っていることが正しいとも限らない。だから、これ以上は何も言わないよ。もし間違ってたら、俺にも責任があるようになっちゃうし」
「…………」
「じゃ、俺は帰るよ」
 修哉は放っていたカバンを手に取り、出入り口の方へ歩き出した。
「え? 帰るのか?」
「今日は用事があんだ。…というより、ここ数日かな」
「ここ数日? 学校には来ないつもりか?」
「ああ。来週の火曜までな」
「4日も!?」
 今日は5月11日、金曜である。
「何しに行くんだ?」
「まぁ………ちょっと、な」
 修哉は僕から視線を逸らし、言った。
「学校サボってまで、何しに行くんだよ?」
「そこのところは、秘密」
「なんじゃそりゃ。まぁ、お前は少々授業サボっても、勉強する必要性が無いくらい頭がいいもんな」
「ハハハ、そういうこと」
 じゃあな。修哉はそう言って、屋上から出て行った。
 僕は屋上で一人、夕暮れ時の世界を眺めていた。
 修哉の言っていることの意味が、よくわからなかった。今の状況はあんまり良くないってことは、空と一緒に登校しないほうが良いということか? それが、誰かを生殺しにさせている? そういうことなのか?
 時おり、修哉は回りくどいことを言う。あいつは、気付いたことを何でも言う奴なのだが、それを直に言う奴ではない。それを練らして練らして、ヒントを与えるかのように伝えるのだ。深く介入しない奴……なのかもしれない。でも、それは修哉の優しさでもある。他人に教えてもらうのではなく、自分で気づけ。そう言いたいのだ。…とは言え、時おりあいつの焦らす言葉が嫌になることもある。ちゃんとはっきり言ってほしいのよ。


 (…………)
 (…………?)
 (…時は………満ちた………)
 (………?)
 (…今こそ………約束の……開く時………!)
 (約束の…扉………?)
 (…ゆくがいい………星に……れし………よ……)


「ヴー、ヴー」
 携帯のバイブレーションが聞こえる。その音によって、僕は目を覚ました。ここは、屋上だ。
 ……あのまま、寝ちゃったんだ。
 僕は制服のポケットから携帯を取り出した。…「日向 海」…。海から電話だ。
「…もしもし」
「もしもし? ねぇ、今どこにいるの?」
 いつもの調子である、彼女の声だ。僕はすでに赤くなっている空の果てを見つめた。カラスの集団が、自分たちの家へ帰って行っている。
「…学校」
「まだ学校にいたの? 早く帰って来てよ」
「…んで、何の用?」
「ちょっと話したいことがあるの。ね? だから早く帰って来てよ」
 海は急かすような口ぶりで言った。
「ハイハイ。すぐ帰るよ」
「うん、わかった。………どうかしたの?」
「…いや、別に」
「そうなの? …なら、いいけど…。ともかく、空の部屋で待ってるから。お姉ちゃんもいるよ」
「わかった、わかった」
「じゃ、待ってるよ」
 ピ。
 さすが、僕の幼馴染。いつもと様子が違うことに、簡単に気が付く。……気にしていても、しょうがないか。
 …さっきの声。久しぶりに聞いたな。ちょうど忘れかけた時になって聞こえてきたな。けど、今までとはまったく違う様子の声色だった。
 約束………開く時………。
 んなの、知ったことか。戦争とは無縁の国に生まれ、食べるものに苦労せず、とりあえず高校生活を過ごし、僕は他の人と同じように、平凡な人生を歩むはず。幻聴は所詮、幻聴でしかない。幽霊かなんかが、僕の頭の内で囁いているんだろう。まっ、僕は幽霊なんて信じちゃいないけど。
 さて、帰るか。僕はカバンを手に取り、家路についた。

「ただいまー」
 自宅の玄関のドアを開けると、高校生が履く、女子生徒の靴が2人分あった。想像せずとも、誰かはわかる。
「お帰り。上に空ちゃんと海ちゃんが待ってるわよ?」
 母さんはリビングから顔だけを出して言った。
「ああ、わかってるよ」
「女の子を待たせるんじゃないよ」
「うっせーな。勝手にあいつらが来ただけだろ?」
「いいから、早く行きなさいよ」
「ハイハイ」
 僕は自分の部屋に向かった。
「あ、お帰りー」
「お帰り」
 部屋に入ると、2人はテレビの前に座っていた。制服のまんまだった。
「………」
「…何よ?」
「……いや、別に…」
 僕はカバンを部屋の隅に置き、ベッドに座った。まったく、僕の部屋だってのに…。
「…で? 何の用?」
「実はさ、ある噂を聞いたんだ」
「噂?」
 海は笑顔で話し始めた。
「小学校の裏山……覚えてる?」
「裏山………ああ、あそこか。昔、よく遊んだ場所だろ?」
「そうそう。明日、そこに行かない?」
「…?? なんで?」
 小学校の裏山。ここ数年、足を踏み入れてはいない。
「実はその山頂に、珍しいものがあるんだって。友達が言ってた」
「珍しいもの?」
「なんでも、桜の樹があるんだってさ」
 空が言った。
「…春になれば、桜なんて珍しくないだろ? …ん? もう桜は無いだろ」
「そのとおり。そこの桜は、5月になっても桜が満開なんだってさ」
「へぇ……珍しいもんもあるんだな」
 僕としてはあんまり興味はない。桜なんて、無くなっちまったら哀しいだけなのにさ。
「だからさ、明日、見に行かない?」
 海はニコッと微笑んだ。
「……明日?」
「そ。行こうよ」
「めんどくせぇよ。明日はせっかくの休みじゃんか。それに………」
「それに?」
「……いや、いいや」
「?? ともかくさ、休みだから行こうって言ってるんじゃない。明日行っても、日曜日が開いてるでしょ?」
 まぁ、そうなんだけどさ。ただ、小学校の裏山というのが、少々めんどくさいんだよ。家から小学校までが徒歩で約20分。そこから裏山の頂上までは確か……10〜15分くらいかかる。結局、35分弱もかかる。
「せっかくの休みなんだし、いいじゃん。ね?」
「……しょうがない。わかった、いいよ」
「ホント? よかったぁ。男の人でもいないと、怖いんだよね」
 彼女はフーッと息を吐いた。
「怖い? 何が?」
「山よ。当たり前でしょ?」
「その歳になって、何が怖いんだか。小学生の頃は何度も行ってただろ?」
「あの頃は、無邪気だったんだって」
「無邪気ねぇ…」
 僕は鼻で笑った。
「な、何よ?」
「べっつにー」
 このあと、例の如く海に殴られる羽目に会いました。

 小学校の裏山とは「高凌山」といって、数年前までは地元の子供の遊び場でもあった。僕たちが小学生の頃は、学校終わりによく登ったのを覚えている。虫を採りに行ったり、キノコを探したり、かくれんぼしたりなど。そこまで大きな山ではないので迷うことはほぼ無いのだが、2年前か3年程前に迷子が出たらしく、それ以来、登山するのを禁止されたのだとか。
 小学生の時は、彼女たちと頻繁に出入りしていたし、修哉が転校して来た後は、彼とも遊び場として出入りしていた。
 中学生になってからは、学校が裏山から遠かったということもあり、登ったことは無い。…あそこに登らなったってことは、ある意味で大人に近付いたということなのかもしれない。
 翌、5月5日。土曜日。僕にとっては、大きな意味を持つ日でもある。いや、ぼくだけではない。空や海、父さんや母さんにとっても大事な日である。
「ちょっと、山へ行く前に寄りたいところがあるんだけど」
 裏山へ行く道の途中、歩きながら僕は言った。
「? いいけど……どこに?」
「墓だよ」
「墓……あっ、そっか…。今日は………」
 ようやく海は気付き、よそよそしい表情になった。
「ごめん………勝手に浮かれてた…」
「気にすんなよ。毎日が平凡だと誰だって忘れる。……僕だって、自分が入院するまでは、そのことを忘れてたんだからさ」
「…………」
 海はなんというか……気にする質の人間なんだよな。自分の言動、自分の行動が他人を傷付けなかったかどうか………それを気にする奴なんだ。相手を悲しませたりしたのなら、何日も眠れない日が続く。
「…墓地は近くにあるし、ついでって言ったら変だけど………」
 空が言った。
「だな。今日があいつの命日なはずだし」
「……そうだね……」
「海。気にするなって言ったろ?」
「けど……」
 僕は彼女の頭に手を置いた。
「お前がそんな暗い顔だと、樹だって嫌がるぞ? もちろん、僕も」
「空…」
「笑顔であいつにあいさつしようぜ。な?」
「………うん」
 やっと、海は笑顔になった。
「それにしても背が低いよなぁ、お前らって」
「う、うっさいな! 空が無駄にでかいだけでしょ!」
「お前らは小さいもんな。無駄に」
「…私たちは標準だと思うんだけどな…」
 僕は一応、180cmくらい。空たちは双子のため、まったく同じ155cm。結構身長は離れている。ちなみに、修哉は185cmもある。何度か、体育の授業でバスケをした時、ダンクをしていたのを覚えている。
 僕たちは、この辺りの団地の墓地へ向かった。
 墓地というからには、少し涼しげで、静かな場所である。団地の丘にこの墓地はあり、住宅街を眺めることができる。さらには、これから行こうとしている小学校の裏山さえも見える。
「ここに来るのも、かなり久しぶりだな」
「そうだね。去年の…お盆以来だったっけ」
「そうだったかな」
 僕は墓地の中央辺りに行った。
『東家代々之墓』
 ここに、父方の祖父母の遺骨と共に、樹の遺骨も入るはずだった。けど、あいつの遺体が見付からないため、遺骨も無い。ここにあいつの魂が眠っているのかどうか、わからない。とは言っても、遺骨が入っているからといって、あいつの魂がここに眠っているとは限らないのだ。要は気持ちの問題…。
 あいつの魂は、空の果てへ昇ったに違いない。
 …どうして人は、人が死ぬと、その魂は〈上〉へ昇っていくと考えられているのだろうか。そして、罪を背負ったものは地獄へ堕ちて行くと、どうして考えられているのだろうか。なぜ、人が行き着く先は、〈天国〉と〈地獄〉の2つと考えられているのだろうか。見たことも無いのに、どうしてそんなものを想像するのか。たぶん、死と、死後、自分が辿るであろう道筋への恐怖を緩和するために、そういう想像を膨らましたのだろう。
 死。
 それを迎えた時、人は何を夢見るのだろうか。その先に見える世界は、一体どういうものなのだろう。
 見たいという好奇心と、それを見るということは死ぬという恐怖感が、頭の中で揺れる。きっと、誰もがそうじゃないのか?
「樹、久しぶり。なかなか来なくて、ごめんな」
 僕は墓前にしゃがんだ。
「見ろよ。今日も良い天気だ。やっぱ、空は晴れてるに限るな」
「…なんだかややこしいね」
 空は苦笑しながら言った。
「…まっ、今に始まったことじゃないし。気にするな」
「久しぶり、樹。寂しかった? ごめんね。なかなか来なくて…」
 海は僕の隣で同じようにしゃがんだ。
「お前がいなくなって、もう3年か…。3年経って変わったのは、中学から高校になっただけかな」
「それ以外は、大して変わってないもんね」
「変わらないのもいいけど……時折、何か忘れもんしてるような感じになるよ」
「……………」
 僕たちは手を合わし、目を瞑った。3人が考えていることは、たぶん同じだ。


 青天の下、僕たちは小学校の裏山へ向かった。裏山へ行くには、小学校の近くにある細道を行って、そこから山道に入れる。
「この道を通るのも、久しぶりだね」
 歩きながら、空が言った。
「小学校へ行く時以外、ほとんど通らないしな」
「あっ、この公園………懐かしいなぁ」
 海が指差した公園は、人気の無い公園だった。砂場やブランコ、平均台などといったものしかない、ひっそりとした公園。小学校の帰り、度々ここで遊んだ記憶がある。
「そう言えば、こういう所もあったな」
「……だんだん、忘れて行っちゃうんだね。私たちが幼い頃、慣れ親しんだ場所は…」
「今の今まで、忘れてたもんね…」
 二人は遠い目をして、公園を眺めていた。
「…変わらないものなんて、無いんだよ。記憶もそうさ。どんどん新しい記憶や想い出が積み重なっていって、古い記憶はほとんど思い出さなくなっていく。……そうやって僕たちは成長し、現実を進んで行く。…忘れていくものもあるが、確かに成長してるんだよ、僕たちは……」
「…………」
「…………」
 2人は、半開きの口で僕を見つめていた。
「な、なんだよ?」
「…う、ううん。なんでもないよ。ねっ?」
「う、うん」
 2人は同じ顔を合わせ、相づちを打った。
「なーんか、いろいろとイラつくんですけど…」
「ば、馬鹿にしたわけじゃないからね?」
「じゃあ、なんなんだよ?」
「…も、もういいじゃない。ホラ、早く行こ?」
 海はそう言って、足早に歩き始めた。
「…なんだよ? まったく…」
「…わかるよ。空の言いたいこと…」
「ん?」
 僕は空の方に顔を向けた。
「なんていうか……私も海も……空がなんだか……かっこ良く見えたんだ」
 そう言って、空は僕に照れながら微笑みかけた。きれいな笑顔。白い肌が、太陽の光を反射している。あまりにもきれいだったので、僕は逆に照れてしまった。それを隠すため、僕は彼女から顔を逸らした。
「? どうしたの?」
 何もわかっていない無垢な顔が、僕を見つめる。
「……なんでもないよ。それより、行こう。海が行っちまう」
「う、うん」
 僕と空は、海を追って歩き始めた。
 空があんな笑顔と、無垢な表情を見せるもんだから、自分が恥ずかしい気持ちになってしまった。
 ……あいつの顔って、あんなにもきれいだっただろうか? 今まで見てきた幼馴染の顔だっただろうか?
 最近、あいつを見る目が変わってきている気がする。海に対しては、何も変わっていないのに…。
 何でかな? あいつらが高校生になったからかな?

 午後3時頃。ようやく、山道に入った。しばらく誰も出入りしていないせいか、昔使っていた山道に、多くの草木が生えている。まぁ、進めないほどではないが。
 ここかしこから、鳥のさえずりや虫の声、そして風によって揺れ動く木々の小さな音が聞こえる。それ以外は、何も聞こえない。森や山というのは、人が住む場所から隔離された『別世界』のように感じる。車が走り抜ける音や、人間の話し声さえも聞こえない。簡単に言えば、人気が無いということだ。だから、別世界のように感じるのかも。しかし、本当はそこが本当の世界なのだろう。だって、『自然の中』だから。
「くらーい。じめじめする」
 海はブツブツと文句を言い始めた。
「山に行きたいって言い出したのは、お前だろうが」
 僕はため息混じりに言った。
「だって、こんなんだとは思わなかったんだもん」
「ここ数年、出入り禁止されていたからか、山道は長いこと整備してなかったんだろうな。以前は、こんなにうっそうとしていなかったし」
「…スカートで来るんじゃなかった…」
 空はそう言って、小さくため息をついた。
 こうやって歩いていると、懐かしい。3年…いや、4年間一度も来ていなかったからあまり思い出せないけど、なんとなく見覚えがあるものばかりだ。
 ここを曲がれば、ちょっと変わった形をした樹があったり、2つの樹が交差するかのように生えている場所があったりなど。
(……空……)
 どこからか、声が聴こえた。僕は立ち止まり、辺りを見渡した。
「…………」
 この森の中には、僕と空と海、そして動物や虫以外、何もいない。何もいないはず。なのに、なぜだろう。この、変な違和感は…。
「? 空、どうしたの? 立ち止まっちゃって」
 海は僕の方に振り向いた。
「…………」
「空?」
 空は顔を覗かせた。彼女たちの声ではない。またもや、聞き覚えの無い声が僕にだけ聴こえたようだ。
「…なんでもないよ」
 僕は笑顔を覗かせ、何事も無かったように歩き始めた。空たちは顔を見合わせ、頭の上にクエスチョンマークを浮かばせているに違いない。
 忘れかけてから1ヶ月。最近、頻繁だ。自分にだけ聴こえる、あの変な声。何度も聴いているから少しは慣れてきたが、それでも未だに体が硬直する。ビクッとしてしまう。…ホント、幽霊でも取り付いてんじゃないのか? まぁ、今更気にしてもしょうがないし、害を与えているわけ(頭痛もしないし)でもないし。
 まっ、いっか。
 自分の楽観的さも、自分でさえ呆れてしまう…。こういうところが、ダメなのかもねぇ。

「ようやく着いた〜」
 3時半前、僕たちはようやく山頂に到着した。
「うわぁ…。ここからの風景、久しぶりに見てみると、とてもきれいに見えるね」
 空は髪をかき上げ、言った。この山頂は開けていて、町を一望できる風景がある。ここから見える風景は、結構きれいなものだ。ズラーッと陳列されたコンビニのお菓子のように住宅が立ち並び、所々から、ニョキッと飛び出ている高層ビルが見える。
「…大きくなってから見てみると、昔とはまた違う風景に見えるな」
「………そうだね…」
 僕と空は、しばしの間、その風景に目を奪われていた。柔らかな風が僕たちの間を吹き抜け、雑草や樹の葉っぱを小さく揺らす。町のずっと先が、微妙に白んでいる。これは、大気が汚れているからだろうか。
「あっ! あったー!!」
 突然、海が叫んだ。後ろへ振り返るとすでに彼女の姿は無く、別の場所に移動していた。
「空! お姉ちゃん! こっちこっち!」
 どうやら、海は奥にいるらしい。
「いつの間に移動してたんだか…」
「た、たしかにね」
 僕たちはそんなことを言いながら、海のいる場所へと進んだ。
「ホラ、見てみなよ!」
 海が指し示した先に、あるものが立っていた。
「……すごい……!」
「……桜……本当に、咲いてたんだ…」
 どこにでもあるような、桜の樹。満開の桜の花が、4月なのではないかと勘違いさせる。しかし、その樹以外で春を思わせるようなものは、一切無い。
 異様といえば、異様。しかし、きれいだ。風が吹くたびにチラつくピンクの花びらが、この辺りを舞う。桜吹雪とまではいかないが、周りの風景とのギャップが、なんとも言えない美しさを物語っている。
「きれい……」
 空は桜に目を奪われ、子供のようにずっと見上げていた。
「…いつも見る桜を見てもなんとも思わないんだけど……こうして見てみると、普段よりもきれいに見えるな…」
「…でも、どうしてこんな季節に咲いてるんだろう?」
 海が言った。海も、空と同じように顔を上げている。
「…さぁ? ここらだけ、寒いとか? 標高何メートルあるかどうか知らないけど」
「そんなことで、1ヶ月以上も咲くのが遅れるのかな…?」
「そればっかりはわかんないな。専門家にでも見てもらわないと」
 そこまで疑問に思うことでもないのだが、少し気になる。こんな場所に、こんな季節に、たったの1本だけ咲いている桜。
 …何かを示しているように見えるのは、僕だけだろうか…?
(…空…)
 再び、あの声が聴こえた。同時に一瞬だけ、電流が流れたかのような頭痛が頭の中を走った。
 …いて…!
 少し顔を歪める程度の痛みだった。一瞬だけだったので、大したことは無い。僕はふと、声が右から聴こえたような気がしたので、そっちに視線を移した。
「………!」
 視界に入った、何かを見つけた。
「…………」
 僕は引き寄せられるかのように、そこへ足を進ませた。
「? 空?」
 僕が歩き出したことに、2人は気が付いた。しかし、僕が行こうとしている先にあるものがなんなのか、まだ気付いていない。
 僕はそれの前に、立ち止まった。
「…なんだ………? これは…」
 そういう言葉が、自然と漏れた。そこにあったのは、門のようなものだった。逆U字の形をした、門のようなもの。いや、ただの……へんてこりんなものか? ただそこにあるだけで、どこかに繋がっているわけでもない。その逆U字の門の先に見えるのは、森の風景なのだから。
「な、何? これ?」
「うわっ! なんだこれ?」
 2人もそれに気が付き、いつの間にか僕の隣へやって来ていた。
「これ……遺跡の一部かなんか?」
 海はそれの回りを歩きながら、そう言った。
 中世ヨーロッパにあるような…いや、古代ローマにあるような様式の形をした門。門の全体に変な模様が刻まれて、コケなどがあちこちから生え、粘土の色に変色している。作られてから、長い年月が経っていることを示している。
「結構大きいね。高さは……2メートル以上かな?」
 海は背伸びをして、その門の高さを測っていた。彼女が背伸びをし、手を伸ばしても届かない。幅は、約1メートルと言ったところか。
「…古代文明の名残…みたいなものなのかな?」
 空は頭をかしげた。
「この町にそんな文明があったっていう話は、聞いたことも無いけどな」
「…それに、見た目からして日本のものじゃあない……と思わない?」
 海はその門に触れ始めた。
「たしかにそうだな。…地中海辺りの文明のものに見えるな」
「まったく関係が無いのに、どうしてこんなものがここにあるんだろ?」
「…桜の樹といい、これといい……こんなもの、昔あったっけ?」
 僕はそれを眺めながら、2人に訊ねた。
「小さい頃は山頂までなら何度も来たけど、あまりうろつかなかったし……」
「遊んでいた場所といえば、中腹辺りの開けた場所だったもんね」
「………」
 だからと言って、これだけのものに気が付かないのだろうか? 町が一望できるこの場所には幼い頃、何度も足を運ばせているし、その場所からこれがある場所は、そんなに離れていない。だから、気が付かないはずが無い。もしも、一度見ていたとしても、これほど日本離れしているものを忘れるはずも無い。……と言うことは、僕たちが来なくなってから、この門ができたということなのだろうか……?
 僕は頭を振った。いや、それこそあり得ない。見るからに、これは数十年…もしかしたら数百年という歳月を生きたものかもしれない。仮に、僕たちが来なくなった4年前くらいに建造されたとしても、こんなに腐食するはずが無い。
 じゃあ、これは一体…?
 なんとも言えない、変な違和感が胸の中でざわつく。
「もしも古代文明の名残だとしたら、私たちは第一発見者なのかな?」
 海はうきうきしながら言った。
「そうだったら、私たち一躍有名人になっちゃうかも!」
「そ、そうかもしれないけど……」
「? お姉ちゃん、うれしくないの?」
「う、うれしいとか無いと思うけど?」
「そう? 私、なんだかワクワクする。世界のほとんどが知り尽くされてるのに、まだ見たことも無い、知らないものが目の前にあるって考えたらさ」
 海がそう言うと、空は苦笑した。
「た、たしかにそうだけどさ………なんか………」
「? なんか?」
「……変な感じがする」
 空は門を見つめ、言った。
「変な…感じ?」
 僕がそう言うと、空は顔をしかめ、うなずいた。
「なんでだろ…。見たことも無いのに、なぜか見たことがあるような感じがして……」
「…デジャヴ?」
「…そんな感じ。でも、なんでだろ………?」
 空は頭を抱え、深く考え始めた。小学生の頃、それも1年生くらいの頃に、もしかしたら彼女は見たことがあるのかもしれない。
 …いや、そうだとしたらまたおかしい話になる。彼女と僕たちは常に同じ行動をしていたのに、僕がこれを見ていないというのがおかしい。彼女が見たのなら、海は絶対に見ているはず。もちろん、僕も………。
 その時、ある光景が僕の脳裏に浮かんだ。
 夜。夜空には宝石のように散らばる無数の星。青く光る門の奥。吹き乱れる桜の花びら。今見ているよりも、ずっと門が巨大に見える。……いや、これは僕が小さいからそう見えるだけだ。
 僕の傍で、誰かがうつぶせになって倒れている。血まみれの体。長い銀色の髪を持つ女性。纏っている白いローブが、土と血で汚れている。彼女が腕での中に抱えているのは、子供。黒い髪の毛を生やし、すでに2〜3歳程度に見える。その子は、大きな声で泣き叫んでいた。
 断片的な記憶。ガラスの破片は一つ一つの光景を映し出し、僕の視界の中で泳ぎまわっている。
 これは……一体…………?
 門の傍に、誰かがいる。見覚えのある、2人。大人だ。これは…………父さんと、母さん……!?

 ……お願い……
 ……どうか……
 ………を………

「空?」
「!!」
 僕はビクッと反応し、我に返った。
「……海……」
「どうしたの? ボーっとしちゃって…」
 海は僕の目の前に立っていた。
「いや……なんか………」
 そう言い掛けた瞬間、強烈な痛みが頭を走り抜けた。
「くっ………!!」
 僕は顔を歪めた。
「!? そ、空!? どうしたの!!?」
 海は僕の表情に気が付き、言った。
(…空…)
 声が聴こえる…。今日聴こえた、あの声…。
「空? 大丈夫?」
 空も心配して、僕の傍へ来た。
「もしかして……また頭痛!?」
「頭痛…?」
「空、4月に入院したでしょ? あの時と同じなの!」
 痛い……。あの時と同じような痛みが、頭の中を駆け巡る。笑い声を響かせながら走り回るやんちゃな小学生が、頭の中にいるみたいだ。
「いっつ……!」
 あまりの痛みに、僕は立っていられなくなった。
(空………空………)
 僕の名前を、誰かが連呼している。
「誰………だ………………?」
 僕はかすれるような声で、誰とも知らぬ【何か】に訊ねた。
(時は………満ちた………)
 その声は初めて、僕の名前以外を口にした。
 時は満ちた? なんだよ? それ…。
 すると、視界が真っ暗になった。と思えば、元に戻った。しかし、すぐに真っ暗になり、再び元に戻った。まるで目に見える光景が点滅するかのように、それの繰り返しだった。
「空!? 空!?」
 空と海…2人のまったく同じ声が、頭の上から聞こえる。
(…空………空…)
 それと同時に、【何か】も僕の名前を呼ぶ。はっきりとしている。空たちが呼ぶ声と、【何か】が呼ぶ声の場所が、まったく違う次元のものだということが。
 僕は……ナニモノダトイウンダ………?
(…紡ぐ者…)

「……セヴェ……ス……」

 その時、痛みがスーッと引いていった。潮が引くかのように。
「…あ……れ………?」
 僕は目をパチクリさせた。
「空!? ねぇ、空!!」
 海が大声を上げる。僕は顔を上げた。
「空? だ…大丈夫なの?」
 空は小さな声で訊いてきた。
「………あ…あぁ。大丈……夫みたいだ」
「ほ…ホント?」
「…ああ」
 僕は小さくうなずいた。
「頭痛は? もうしない?」
「…ああ」
「……よかった……」
 2人はホッとし、大きく息を吐いた。
「まったく…心配させないでよね!」
「……………」
「ちょっと、聞いてるの!?」
「へっ? ……あ、あぁ……ごめん」
「………?」
 海は頭をかしげた。
「…一度、病院で見てもらったほうがいいんじゃないの?」
「失礼な奴だな…」
「…けど、一応見てもらったら? また、前みたいに気を失っちゃうかもしれないし…」
「……そう…だな」
 念のため、見てもらったほうがいいのかもしれない。以前気を失った時は、幻聴が聴こえることは言わなかったが、今回は言ったほうが良いかもしれない。……今回のは、なんだか、以前とは感じがまったく違うというか…。
「…も、もう帰ろうか?」
「そうだね…。ここ、不気味だし…」
 2人はそう言って、歩き始めた。
「…………」
「空? 帰ろ」
「…………」
「空?」
「…あぁ…」
 僕は後ろへ振り向き、彼女たちの後を追った。一瞬、僕はあの門に見入ってしまった。引き込まれるような、おかしな感触。泥沼に沈んでいくような…。
「帰って何する? お姉ちゃん」
「うーん…。何もすること無いね…。
「えっ? もしかして、もう宿題終えたの?」
「うん、昨日のうちに…」
「えぇ? じゃあ、帰ったら宿題やろ」
 彼女たちがそんな話をしているとき、僕は立ち止まり、その門の方に振り向いた。
 風が吹き、桜の花びらが門の前を通り過ぎている。
 …あの記憶は、なんだったんだろう…。自分の記憶なのか? でも、父さんと母さんもいた。今よりも、若く見えた。
 泣き叫ぶ子供と、血まみれの女性。

 ドウシテ?

 まばゆい光の中に、見知らぬ男性が立っている。光を背負い、僕を見つめている。

 ナゼ、コンナコトニ…?

「!!!」
 僕は驚愕した。門の奥が、暗闇になっていた。小さな波紋が、螺旋を描きながら僕を誘っているように見える。
「う………あ………!」
 再び、猛烈な痛みが頭を襲う。それと同時に、僕は門の中へと吸い込まれて行った。声を上げる暇も無かった。
 自分の周りは、すべて真っ暗だった。しかし、遥か先に桜の風景が見える。そう、山頂の光景が小さな光の輪の中に佇んでいる。だんだん、その光景が遠くなっていく。だんだん、光は小さくなり、最終的には見えなくなってしまった。同時に、一瞬にして真っ白になった。
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