元旦の朝、私は歓喜と共に憂鬱を感じながら目を覚ました。
身を起こして枕もとの時計を見る。時刻は午前九時。休日は昼まで眠る私が目を覚ますには些か早すぎる時間だった。
早起きしたのに眠気はもうまるで無い。きっとこの矛盾した気持ちのせいだろう。
寒さに顔を顰めながらベッドをでる。無意識のうちに溜め息が出た。
「はぁ……」
溜め息が表現するのはこの胸を焦がす思慕か、それとも腹を重くする憂鬱か。いや、きっとその両方だ。
独りで自室にいてもしょうがないので、部屋着に着替えてリビングに下りる。
駅伝中継を映すテレビ。ダイニングに座る両親はそれを見ながら、雑煮と御節料理を食べていた。私が早く起きてきたことに少し驚いた顔をする両親に適当に新年の挨拶を済ませて、わずかばかりのお年玉を受け取った。
テーブルに着いた私の前にお雑煮が出される。けれど憂鬱に重くなった胃は食べ物を受け付けず、私は少し手をつけただけで席を立った。早起きのせいで食欲が出ない、と無意味な言い訳をしてしまった自分には思わず失笑してしまう。
リビングのソファに寝そべって呆然と駅伝中継を見ていると、私と双子の兄貴が起きだしてきた。
兄貴は私を見ると、苦み走ったような顔した。
「やっぱり行くのか、由香?」
「うん。服借りるよ」
兄貴はそれ以上は何も言わず無言でダイニングに向かった。
漫然と午前中を過ごし、昼食を摂ると、私はバスルームに向かった。熱いシャワーを浴びて汗と脂を落とす。そうすることで身に染み付いた女としての匂いを、出来る限り薄めていった。
シャワーを済ませたら身体を拭いて髪を乾かし、胸元から下にバスタオルを巻いただけの格好で兄貴の部屋に上がる。さっき断わりを入れたとおり、服を借りるために。
兄貴と私は二卵性双生児だ。顔はあまり似ていないけれど体格はよく似ている。だから兄貴の服は私の肌によく合った。
適当に選び出した服を持って自室に戻る。その途中、部屋に戻る兄貴とすれ違ったけれど、無視された。その態度は私の愚かしさに呆れているせいか、それとも罪深さに嫌悪しているせいか。いや、きっとこれも両方だ。
自室に戻った私は、部屋の隅に置かれた姿見の前で兄貴の服に着替え始めた。
胸にさらしを巻き、腰に詰め物をして身体のラインを変えていく。髪は兄貴の部屋から拝借した整髪料で整え、顔には周囲からはわからない程度に薄くメイクをした。
数十分後、姿見に映った私はどこからどう見ても少年にしか見えない姿に“変身”していた。
私の顔つきはもともと中性的で、空手を長くやっていたせいか肩幅もある。兄貴の服を着て念入りに変装すれば少し小柄な少年にしか見えなかった。家族でもない限り正体には気づかないだろう。
仮面は被った。あとは舞台に上がるだけ。
変装した私は窓を開け、足を外に出してサッシに腰掛けた。そしてこれまた兄貴のところから拝借してきた男物の靴を履く。少し臭いけれど、万全を期すなら臭うくらいが丁度いい。
靴を履き終えると、私は腰掛けていた窓から屋根に降りた。少々非常識だけれどこの姿で出かけるところを両親に見咎められないためには窓から外出するしかない。屋根伝いに裏に回って庭に飛び降りる。
なるべく人のいない道を選んで駅を目指した。そして幸い誰ともすれ違わずに駅前に辿り着くことができた。人通りの多い駅前まで来れば近所の人の目を気にする必要も無い。
腕時計が示す時刻は午後二時を少し回っている。私の“恋人”の性格を考えるに、既に待ち合わせ場所に着いている頃だった。
私は早足で駅に向かう。案の定、いつも待ち合わせしている広場には既に“彼女”が待っていた。
彼女、“葎”は私に気づくと喜色を浮かべて手を振ってきた。
「“ユウ”君!」
「葎」
“仮の名”で呼んでくる彼女に、私は意識的に低くした声色で応えた。まるで見えない仮面のせいで声がくぐもっているかのように。
駆け寄ってきた葎は勢いそのままに私の腕に飛び込んできた。半ば慌てて受け止めると、彼女は少し頬を膨らませて私を睨み上げてきた。
「また遅刻した」
「悪りぃな」
真剣に怒っている彼女に、私は“少年”の仮面を顔に貼り付けて謝る。
それは単純に遅刻したことを謝ったのか、それとも彼女を欺いていることを謝ったのか。そればかりはもうわからなかった。
「あとで埋め合わせはするよ」
「約束だからね」
「おう」
彼女の手を取り、私は駅へと入って行く。
そんな私たちは端から見れば、どこにでもいる高校生のカップルにしか見えなかったことだろう。
けれど、それが“嘘”という樹脂で固めた“欺瞞”の産物でしかないことを、私は誰よりもよくわかっている。
“嘘”と“欺瞞”でできた見えない仮面。その重みが何より私を苛んでいる。
私、“市ノ瀬 由香”はどこにでもいる十六歳の女子高生。人並みに高校に通って、人並みに遊んで、人並みに恋もするただの少女。
けれど私には兄貴しか知らない、誰にも言えない“秘密の恋人”がいる。
それが葎。私のクラスメイトで無二の親友。
恋人として彼女の前に立つ時、私は“由香”ではなく、“ユウ”という少年の仮面を被る。姿も心も偽って、親友を欺いて付き合っているのだ。
別に男装の趣味があったわけじゃない。百合の気があったわけじゃない。私は外見も中身もどこにでもいる一人の少女でしかない。
それがどうして身分と性別を偽って親友と付き合うことになったのか。全ては私の愚かしい“嘘”と“欺瞞”の仕業でしかない。
私が“ユウ”として葎と出会い、彼女が“ユウ”に恋をしたまではまだよかった。私が決定的に間違えたのはそのあと。もう一度“ユウ”に逢いたいと言う葎の熱意に負けて再び仮面を被ってしまった時だ。
それ以来ずっと私は葎を欺き続けている。親友の貌の上に恋人の仮面を付け替えて。
私と葎は手を繋いで、初詣に向かう参拝客で溢れかえっている参道をゆっくりとした足取りで歩いた。
新年に沸き返る人々、新しい年を祝うと言う建前の上での乱痴気騒ぎ。けれど新年が誰にとっても喜ばしいものになるとは限らない。いや、あるいはそんな不安を一時忘れるために新年は祝われるのかもしれない。
私の傍らには機嫌の直った葎の笑顔。繋いでいない方の手には遅刻の埋め合わせに奢らされたりんご飴。
その朗らかな笑顔を見ていると安心すると同時に気が滅入った。
そう遠くない未来、この笑顔は壊される。それが私の手によるものか他人の手によるものか、時間によるものかはわからないけれど、葎が真実を知る日はいつかやってくる。
その時、この笑顔が悲哀に引き裂けるのか、それとも憎悪に染まるのか。考えるだけでも恐ろしい。
たとえ新年であってもこの恐怖を忘れることはできない。“ユウ”の仮面を被り続ける限り、この恐怖は私を苛み続ける。
本当ならば少しでも早く真実を伝えなくちゃいけないんだろう。私にとっても葎にとってもきっとそれが最善だと思う。
けれどそれでも私はそんな時が来て欲しくない。
私たちは参道を経て境内に出た。境内は人で溢れかえっていた。
参拝客は賽銭を投げ入れて、みんな今年の始まりとなる願いを奉げている。
私と葎も同じように賽銭を投げ入れて、拍手を打った。
(私の願い、それは……)
短い祈りが終わり、固く手を繋いで人ごみから出る。人いきれから開放された私たちは大きく息をついた。
「なにをお願いした?」
私はなにげなく葎に問うた。
すると葎は少し恥ずかしそうに俯いて言った。
「もっとユウ君が私を好きになってくれますようにって」
「そっか……」
葎の純粋な願いに、私は胸の奥がじくりと痛むのを感じた。痛みの正体は罪悪感。
仮面を被って付き合っている以上、どうしても踏み込んではいけない一線。どんなに好きでも素肌を曝し、身体を重ねることはできない。
だから私はキスより先を求めない。葎が求めても拒むしかない。問題なのは、何も事情を知らない葎が私が求めてこないのは、自分に魅力が無いせいだと思い込んでしまったこと。
可愛そうな葎、哀れな葎。けれど彼女を傷つけているのは私自身。そんな罪悪感が私の胸をちりちりと焦がす。
けれども罪深いことに、傷ついた様子の葎を見て心の何処かで悦楽を感じている私がいる。
私は衝動的に葎を引き寄せて唇を奪った。
強引なキスは罪悪感と背徳感に穢れ切っていて、癖になりそうな甘苦い味だった。
真実なんて告げられるはずがない。私はこの関係が永遠に続けばいいとすら思っている。
葎を傷つけたくないなんて口実でしかない。葎の笑顔を壊したくないなんて言い訳にもならない。
もはや仮面は私の一部。仮面の下の貌は既に仮面と同じ表情をしている。私自身がこの歪な関係に浸かって、どうしようもなく酔い狂ってしまっている。
最善なんていらない。こうして葎を独占し続けることが私の願い。
葎から向けられる恋慕、葎から得られる罪悪と背徳。抱きしめた葎の身体の感触。その全てを私は愛している。
嗚呼、だとしたら真実ですら恐れるものではなのかもしれない。葎が真実を知り、どんな声で哀切を叫ぶのか、憎悪をどのような呪いの言葉にするのか。そしてそこに至るまでどのようにして葎を壊して行くのか。考えるだけでも腰が砕けそうなほどに興奮する。
「葎」
葎の髪に顔を寄せて甘く囁く。私が毒牙を研いでいることも知らずに、抱きしめる力を強めてくる葎がとても愛しかった。
〜END〜 |