28 「3年と成果」
クリスティーナ・グレイラットは、アスラ王立学校に入学した時、こう思った。
「なんて素敵な場所なの!」
思うだけでなく、口で言った。
正門の前で。エリス譲りの大声で。
周囲の紳士淑女な生徒たちは、クスクスと笑いながら彼女の側を通り過ぎていった。
しかし、クリスはそんなことは意に介さない。
ただただ、目の前の光景に感動していた。
入り口から校舎まで続く、レンガ造りの並木道。
道の脇に作られた、色とりどりの花を咲かせる花壇。
そして、アスラ王国の建築方式で作られた、白く美しい校舎。
魔法大学の古めかしくて田舎臭い校舎と違い、まさに洗練された学び舎である。
その校舎の横に建てられた、寮。
こちらも、魔法大学の学生寮とは比べ物にならないほど美しい建物だ。
一部屋一部屋は魔法大学のそれよりも遥かに大きく、部屋によってはバルコニーまで備え付けられている。
まるでお城のようなその建物で暮らすことが、、クリスの夢だった。
さらに、そんな寮から校舎へと移動していくのは、やはり洗練された生徒たちだ。
全員が制服を着ているが、魔法大学と違い、誰もが身綺麗にしている。
中には、少し身綺麗とは言い切れない者もいるが、クリスの目には入らない。
誰もが綺麗だ。魔法大学にも綺麗な者はいたが、それとは比べ物にならないぐらい綺麗だ。
それもそうだろう。
ここには、本物の王子様や王女様も通っているのだ。
そして、自分も今日からそんな生徒の一員。
「あーん! 胸がドキドキするぅ~!」
クリスはあまりのドキドキワクワク感に、くるくると回りだし、やがて木に激突し、上から落ちてきた大量の毛虫にギャーと声を上げ、近くにいた男子生徒にゲラゲラ笑われたりしたが……。
ともあれ、クリスは念願のアスラ王立学校へと入学を果たした。
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王子様や王女様のような生活に憧れてアスラ王立学校へと通い始めたクリス。
そんな彼女の最初の友人は、貴族でも王族でもなかった。
クリスの最初の友人。
それは、アスラ王国フィットア領の片田舎からやってきた、平民の少女だった。
彼女はフィットア領に新しく作られた学校で極めて優秀な成績を修めたことで、アスラ王立学校への推薦が決まった。
そのことには両親だけでなく、彼女の住んでいた村の人々も、我が事のように喜んだ。
村総出で彼女を祝い、カンパを募って旅費まで用意してくれた。
彼女は、自分のことを家族のように祝ってくれた村人に感謝した。
アスラ王立学校でしっかりと学び、フィットア領の領主に仕え、自分に良くしてくれた村の発展に尽力しようと、固く誓った。
オラ、父ちゃんや母ちゃんや村のみんなの為にも、ガンバっぺ、と。
しかし、彼女は優秀すぎた。
そして田舎者すぎた。
アスラ王立学校は、優秀な生徒を無条件で入学させる学校と銘打っている。
完全実力主義。優秀であればあるほど評価される場所だと。
しかし実態は違う。
生徒の半数以上は貴族か、あるいはそれ相応の家柄を持つ者である。
ゆえに、当然のように身分差が存在している。
ある程度貴族との接触のあるような町に住んでいる者は、身分差における『暗黙の了解』を心得ている。例えば、自分よりもはるかに上の身分の者より、自分がよい点を取ってしまったら、控えめでもいいから謙遜して、身分の上の者を立たせるとか……そういった事だ。
彼女はそれができなかった。
その結果、彼女はとある上級貴族に目を付けられることとなる。
イジメの発生だ。
イジメといっても、そこで行われたのは、もっと陰湿なものだ。
その上級貴族は、身分を笠に、彼女を奴隷のように扱ったのだ。
くだらないことを言いつけて勉強する時間を奪ったり、些細なことで教室の出入りを禁じて授業に出られなくしたり、彼女の教科書を燃やして読めなくしたり。自主退学を勧めたり……。
彼女の味方は誰一人としておらず、誰もが見て見ぬフリをした。
彼女をイジメていた上級貴族は、それほど強い力を持っていたからだ。
勉強をしにきたはずなのに、勉強ができない日々が続き、彼女は、毎晩のように泣いて過ごした。
固く誓ったはずの決意は、すでに解けようとしていた。
あの温かい村人のいる所に、戻りたかった。
そんなある日、彼女はある人物に助けられる。
クリスだ。
クリスは彼女をいじめる上級貴族たちを、優雅に注意した。
「皆様、そのようなこと、この美しい学舎にふさわしくなくってよ」
「……」
完全に無視された。
が、クリスは引き下がらなかった。ムキになって口喧嘩を開始し、言い負け、癇癪を上げて殴りかかり、多対一ではあったが、両親の教育のおかげか、なんとか殴り勝った。
口喧嘩に負けて手が出るのは、ボレアスの血の為せる技だろう。
ともあれ、優雅とは程遠い形ではあるが、彼女を助け出したのだ。
クリスは顔を腫らし、口元から血を垂らしながらも、笑って言った。
「今度からはあたしが守ってあげるからね!」
彼女はそれを聞いて、泣いた。
アスラ王立学校に来てから、初めての嬉し泣きだった。
その日以来、彼女とクリスは友人となった。
それと同時に、アスラ王立学校における、クリスの闘争が始まった。
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クリスと上級貴族の衝突は、その後、何度も起こった。
上級貴族はクリスを従わせようとしたが、クリスは頑としてそれに従わなかった。
クリスはアスラ王国の国民ではなかったし、それになにより、親に教わった事があった。
弱い者イジメは絶対にダメ。
その教えを忠実に守り、クリスは上級貴族と対立した。
助けたのは、親友となった少女だけではなかった。
少女のように、虐げられている者は、少なくなかった。
クリスはそうした者たちを、一人ずつ、助けていった。
正直、その生活は思い描いていたものとは、大きく違った。
クリスは貴族のことを、優雅で、喧嘩などしない生物だと思っていた。
実際、そういう人物もいるにはいたが少数で、大半は野望と野心でギラギラとしていた。
クリスは「思ってたのとちがーう!」と叫び、ルーデウスの予想を見事に的中させたが、しかし逃げ出すことはなかった。
その時、すでにクリスには大勢の友人がいたからだ。
そう、クリスも一人で頑張ったわけではない。
一人助ける毎に、仲間が一人増えた。
その仲間は、クリスが新たに誰かを助けようとすると、快く力を貸してくれた。
クリスは何度も、仲間に助けられた。
中でも世話になったのは、二人だ。
一人は、クリスが一番最初に助けた少女。
クリスに多大な恩義を感じていた彼女は、持ち前の優秀さを発揮して、何度もクリスを窮地から救ってくれた。
もう一人は、とある男子生徒だ。
彼は他の仲間とは違い、クリスに助けられたわけじゃない。
でも、なぜか事ある毎に、彼女を助けてくれた。
ある時は木の上から、ある時は窓の外から、ある時は階段の上から。
クリスがピンチの時には神出鬼没に現れ、嫌味を言いながらも助けてくれた。
クリスはその少年に対し、最初は「ヤナ奴だなー」という感情を抱いていた。
初対面の時、毛虫にたかられて叫んでいる所を大笑いされたし、その後もずっと、クリスが変なことをする度に大笑いしたり、嫌味を言ってきたからだ。
だが、幾度となく助けてくれる中、軽薄なそいつに優しさや男らしさを見出すようになり、段々と心惹かれていった。
なにしろ顔が良かった。
イケメンだったのだ、そいつは。
しかも、後に彼が国の王子であることが判明する。
嫌味を言いながらもずっと助けてくれたあの人が、本物の王子様。
メルヘンチック症候群のクリスがそれを知って、ラブロマンスへと発展しないわけがない。
だが、ラブロマンスに関しては、ひとまず置いておこう。
クリスは親友と王子、そして多数の仲間たちによって助けられつつ、激動の学園生活を謳歌した。
敵は、親友をイジメていた上級貴族だけではなかった。
派閥を作るような貴族の子弟にとって、クリスの存在は面白くなかった。
なにせ、自分たちが奴隷のように扱える人材を奪っていくのだ。
派閥を作り、大きくしていこうとする者たちにとって、それは目障りな行為だった。
彼らはクリスを明確に敵視し始めていた。
とはいえ、敵ばかりでもなかった。
クリスの活動に興味を持ち、味方となってくれる者もいた。
特に、優雅で、喧嘩などせず、ゆるゆると生きている、それこそクリスが理想と思っていたような貴族は、彼女の味方をしてくれることが多かった。
というのも、そうした貴族というは、最初から派閥争いに参加する気のない者だからだ。
すでに卒業後、どこかに嫁ぐことが決まっていたり、他国からの留学生だったりで、派閥争いに参加しても益の少ない者。
そうした者は、野望でギラついている上級貴族の誰に付くかで揉めるより、クリスについた方が楽だった。
派閥争いに興味が無いのに、派閥争いの戦力に数えられるのは、かなり面倒なのだ。
そうしているうちに、クリスを慕う一団は、いつしか大きな集団となっていた。
はぐれ者派閥の完成である。
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敵の多くは、クリスに対して、さして何かをするわけでもなかった。
集まっているといっても、所詮は身分の低い連中。
さしたる障害にはなりえない、とタカをくくっていたのだ。
だが、一人。
クリスを特に目の敵にし、事ある毎に攻撃を仕掛けてきた人物がいた。
彼女の名はエリザベート・トップコート。
上級貴族トップコート家の令嬢で、成績優秀、容姿端麗、剣術魔術も超一流、王都の貴族学校を主席卒業し、百年に一度の逸材と言われた才媛だ。
トップコート家は上級貴族の中では中の下程度の家であるが、それを補って余りある優秀さに、今季の王立学校の主席卒業は、この子に間違いないと言われていた。
彼女がクリスを目の敵にしているのには、理由がある。
といっても、大した理由ではない。
入学当初、後に親友となる人物を助けるべく、クリスが殴り合いの喧嘩をした相手がエリザベートだったのだ。
エリザベートはその優秀ではあるが、高慢だった。
生まれた時から優秀で、常に人より先を歩んでいた彼女にとって同年代の者というのは、視界に入れる価値も無いほどのゴミか、視界にいれる価値は無いけど表向きは敬わなければいけないゴミか、あるいは自分が使うにふさわしい玩具か、そのどれかだった。
田舎育ちの優秀な少女は、中でもとびっきりの玩具だった。
それが、いきなり現れた田舎臭い女に、力尽くで奪われたのだ。
こんな事は始めてだった。
他国から来た田舎者のくせに自分を敬わない輩に会うのも、そいつに喧嘩で負けるのも、人前で鼻血を出して倒れるのも。
屈辱だった。
許せなかった。
ゆえにエリザベートは、神に誓った。
自分の在学中に、徹底的にクリスを叩き潰すと。
そうして彼女は、事ある毎にクリスに攻撃をしかけた。
しかし、悪運が強いのか、エリザベートの策略はどれもクリスを打ち破るには至らなかった。
毎回いいところまでは行くのだが、その度にクリスに助けが入ったり、偶然にも窮地を切り抜けるアイテムが見つかったりして、切り抜けられた。
その度に、エリザベートはハンケチーフを口に咥えて、キー悔しいと臍を噛んだ。
そんな長い戦いは、入学から1年。
正確には、約11ヶ月。
1年生の終わり頃まで続いた。
もうすぐ2年生という時期に、クリスとエリザベートの戦いは終止符を打たれることとなる。
舞台はアスラ王領の北に位置する小さな領地、トップコート領。
エリザベートの故郷だ。
小さな領土ではあるが、北への街道を有しているこの領地は、魔法三大国との貿易が盛んになってきた昨今、非常に重要な役割を担っている。
アスラ王立学校には、国の各地にある領地に赴き、そこで行われている事業を実際に見て学ぶ、という行事が存在している。
いわゆる、社会見学だ。
有力な貴族がどのように自分の領土を統治し、運営しているのかを実地で見て学ぶのは、非常に効果的なのだ。
さて、そんな社会見学、場所はエリザベートの地元。
地の利を得たエリザベートが、手を出さないわけがない。
エリザベートはこの地でクリスを亡き者に……とまでは考えていなかったが、大きな失敗をさせて笑いものにさせるぐらいには考え、行動を開始した。
しかし、コレが裏目に出た。
人を呪えば穴二つというか。
自分の墓穴を掘る結果となってしまったのだ。
途中までは順調だった。
エリザベートの罠に陥り、クリスはピンチに陥った。
詳細は省くが、領主の館に古くから存在する涸れ井戸の中にたった一人、取り残されるハメになった。
だが、実はその涸れ井戸には秘密があった。
その秘密とは、トップコート家の当主が密かに行っていた、麻薬の密造だ。
涸れ井戸の奥には、麻薬の密造所へとつながる通路が存在していたのだ。
麻薬の密造はクリスと、クリスを助けにきた親友と王子の手によって、明るみに出された。
現在のアスラ王国は、一部の麻薬や媚薬を製造することを公に認めている。
だか、製造するためには国の許可がいる。
密造は、当然ながら重罪だ。
蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
すったもんだと色々あった結果、トップコート家の領地は没収、家柄も上級から中級へと格下げとなった。
それと同時に、エリザベートのヒエラルキーも地に落ちることとなった。
エリザベートは派閥のトップを追いやられ、下っ端へと成り下がったのだ。
それと同時に、エリザベートがクリスに手出しをすることも無くなった。
こうしてクリスの、アスラ王立学校における闘争は幕を閉じた。
――はずだった。
そう、それは始まりに過ぎなかった。
エリザベートを潰したことで、名実共に最大クラスの派閥のリーダーとなったクリスは、その後、学内闘争の真っ只中へと放り込まれていったのだ。
■ ■ ■
だからこそ。
そんな、激動の三年間を過ごしたクリスだからこそ、卒業式の日にヴィオラに名指しで呼ばれても、慌てなかった。
極めて冷静だった。
極めて冷静に、口の中のものをモグモグゴクンと飲み込み、水を1杯飲み、脇にいた友人からハンカチを受け取って口元を拭い、胸元にたまった食べかすを払い、ゴホンと咳払いし……。
唐突に、取り乱した声で叫んだ。
「いきなり酷いですわヴィオラ様! なんてこと言うんです!?」
さらに、この場にいる全員に聞こえるように、訴えかけるように、悲痛な声を上げた。
「私、そんなことやっていません!」
見に憶えのないことは、やっていないとハッキリ宣言する。
これは、アスラ王国で生きていく上で必須のことである。
当たり前と言えば当たり前だが、これが中々難しい。
なぜかというと、今回のヴィオラのように、『真実を混ぜた嘘』をつかれる場合があるからだ。
例えば、クリスは校舎内で犬に餌をやっていた。
しかし、「犬に餌をあげたのは本当だけど……」と迷ったり、言葉を濁したりすれば、もう相手の思う壺だ。
相手はすぐさま畳み掛け、あっという間に周囲を味方にしてしまうだろう。
周囲が敵となってしまえば、もはや敗北といっても過言ではない。
このアスラ王国という国では、真実はたやすくねじ曲がる。
仮に真実を捻じ曲げられることなく周囲に伝えられたとしても、何かしらの疑念や不信感は残る。そしてそういったものを払拭するのは、嘘をつくことの数倍の労力と時間を要する。
そこに労力と時間を掛けているあいだに、相手に次の手を打たれ、どんどん不利になっていく。
だから、否定する。
全てを即座に否定する。
あるいは、見に憶えがあり、証拠も揃っており、糾弾を免れないと判断した場合には、即座に謝罪する。
そのどちらかだ。
今回、クリスは否定を選択した。
「ヴィオラ様、今日は卒業式、おめでたい日なんですよ? 陛下や、上級貴族の皆様、ヴィオラ様のお父様も、わたくしのお父様もいるのに……なぜそんな嘘をつくのですか?」
さらに、ヴィオラは嘘をついていますと、周囲にハッキリと告知する。
真実の混ざった嘘をハッキリキッパリと全否定し、逆に糾弾する。
こうすることで、クリスもまた、攻撃をする側へと立った。
ヴィオラと対等な立場だ。
ヴィオラは主席卒業であるため、完全に対等ではない。
一部の者は、主席卒業者が言うのだから、とヴィオラの言葉を信じるだろう。
たったそれだけの事でも、人は判断材料に使う。
なので状況が不利なのは変わらない。
だが、少なくともクリスが一方的に殴られる展開ではなくなった。
「なぜ?」
クリスの反撃に対し、ヴィオラは当然といった体で答える。
なぜと聞かれて答えを窮するぐらいなら、彼女も仕掛けはしない。
クリスを完全に潰せる用意が整ったからこそ、彼女は動いたのだ。
「そんなこと、決まっています!
我慢ならなかったからです!
あなたのように悪事ばかりを働く無能者が!
名誉あるアスラ王立学校の卒業生だと名乗ることが!」
大声ではあるが、金切り声ではない。
腹の底に力を込めた、よく響く、よい声であった。
この言葉を言うのを、最初から決めていたかのような、そんな堂々たる声である。
そして、その言葉は、概ね周囲の同意を得られるものである。
もし本当にクリスが悪事ばかりを働く無能者であれば、いますぐ卒業を取りやめにすべきだ。
そんな空気が漂い始める。
「そんな……私はヴィオラ様ほどでなくとも、勉学にも交友にも真面目に取り組んできたのに……」
クリスは悲しげに目を伏せた。
ヴィオラの言葉を否定しつつ、しかし感情的にはならず、主席であるヴィオラも立てる。
その様子を見た者たち、特にクリスの派閥に属していた生徒たちは、彼女の言葉を信じた。
クリスは決して一番になれるほど優秀ではなかった。
だが、確かにクリスはこの三年間、勉学にも交友にも努力を惜しまなかった。
クリスがテスト前になると、王立学校に似合わぬ白いハチマキを付けて、図書室で猛勉強をしていたのは、有名な話である。
誰かにテストの答案を盗ませるといった不正をしたにしては、イマイチ成績が良くなかったのも、周知の事実であった。
ゆえに、生徒の中からヴィオラを糾弾する者も出てくる。
「やめないか、ヴィオラ!」
いの一番に飛び出してきたのは、一人の青年だ。
整った鼻筋、やや垂れた目、少し癖があるきれいなプラチナブロンドの髪。
どこからどう見てもイケメンなその人物の名は、エドワード・アネモイ・アスラ。
アスラ王国の王子であり、クリスを幾度となく助けてきた人物である。
彼は、クリスを守るような位置に立ち、ヴィオラに対し、居丈高に言い放った。
「今すぐ、先程の言葉を撤回し、クリスティーナに謝るんだ」
「エドワード殿下……あなたは婚約者であるこの私ではなく、クリスティーナの肩を持つのですか?」
婚約者。
そう、エドワードはクリスとラブロマンスを繰り広げたりはしていたものの、実のところ、ヴィオラの婚約者であった。
とはいえ、あくまで親が決めたもの。アスラ王国上級貴族であるイエロースネーク家と、アスラ王家がより仲良くやっていくための政略結婚である。
エドワードは、ヴィオラに対する恋愛感情など持っていない。
もっとも、エドワードがヴィオラに恋愛感情を抱いていないだけで、ヴィオラがどうかというと、話は別だ。
彼女は、エドワードに好意を寄せていた。
婚約者になったその日から、ずっと。
エドワードはどこぞの鼠色のローブを着た魔術師と違い、鈍感ではない。
好意を寄せられているのにも、気付いていた。
正直、その好意を返すには、卒業した後でいいとも思っていた。
王族としての義務として……。
だが、とエドワードは思い至った。
きっと、それでは遅すぎたのだ、と。
今のこの状況は、きっと嫉妬から来ているものだ、と。
ならば、半端な態度を取り続けた自分が、クリスの矢面に立つべきだと。
ゆえに、前に出てきたのだ。
「もし、君が言っていることが本当なら、私とてクリスティーナを庇ったりはしない。だが、君の言っていることは、全て言いがかりじゃないか!」
エドワードはキッパリとそう言い切った。
アリエルがいるこの場において、王子である彼の発言力は大きい。
クリスにとっては、非常にありがたい援護である。
とはいえ、ヴィオラにとってこれは、予想できていたことである。
エドワードが、公言はしていないまでも、クリスにべったりだったことは知っている。
こうした場になれば、エドワードが出て来ることも、だ。
「言いがかり? どこが言いがかりだというのです?」
「君は悪行を並べ立てたが、クリスがそれをやったという証拠はどこにある?」
証拠。
そんな言葉がエドワードから発せられた瞬間。
ヴィオラのすました顔が、悪魔のような笑みへと変化した。
だが、それは一瞬だけ、ほんの一瞬だ。
ほとんど誰も気づかないほど、一瞬。
常日頃からオルステッドの顔色を窺うことで慣らしたルーデウスぐらいでなければ、見逃しちゃうレベルだ。
そのレベルの者は、ヴィオラの周囲には、一人しかいなかった。
「待って!」
クリスだ。
クリスはヴィオラが何かを言おうとする寸前、大きな声で彼女を制止した。
そして、彼女は胸の前で祈るように手を組んだ。
「ねぇ、やめてヴィオラ。
今ならまだ間に合うから、冗談だって言って。
『クリスは最高の友達だから、主席卒業者の挨拶のついでに、ちょっとイジワルしたくなっただけ』って、そう言って?」
クリスは、そう懇願した。
まるで、ヴィオラが次に何をするのかがわかっているかのように。
そして、それが自分にとって、とてつもなく都合が悪いかのように。
主席卒業ができたんだから、もういいだろう、と言わんばかりに。
周囲には、そう見えた。
一部の貴族は、「ああ、彼女は本当に何かやっていたんだな」と錯覚した。
もし、ヴィオラが冗談だと言っても、きっと心の奥底では、クリスは何か悪いことをやっていたのだろう、と認識するだろう。
「そしたら私も、今回の事は水に流してあげるから。お願い、ね?」
その、やや恩着せがましくも聞こえる言葉に、ヴィオラの口元にまた悪魔の笑みが張り付いた。
獲物が罠に掛かり、必至に逃げようとするも、すでに逃げ場は無いと知っている笑み。
最高の舞台で敗北者を見る、嗜虐の笑み。
彼女はすぐに表情を取り繕った。
そして、鎮痛な表情で首を横に振る。
もう、遅いのだと、そう言わんばかりに。
「エリザベート!」
ヴィオラの呼んだ名前。
その名前は、きっとこの場にいる卒業生なら、一度は聞いたことのあるものだろう。
エリザベート・トップコート。
主席卒業間違い無しと言われて入学し、一年もしないうちに没落して消えた女生徒。
会場の端の方で誰かが動いた。
その誰かは、人混みをかき分けて、ゆっくりと歩いてきた。
年の頃はクリスやヴィオラと同じぐらい。
輝くような金髪、顔の横にドリルのような巻き毛を引っさげて、しかし外見に似合わず、清楚な感じで歩いてくる。
服装は、ヴィオラに比べると、かなり安価で落ち着いた色のドレスだ。
彼女はヴィオラの傍まで来ると、ドレスの端をちょんと持ち上げ、すました顔で周囲の貴族たちに優雅な一礼をした。
「エリザベート・トップコートと申します」
「あぁ……あのトップコート家の」
トップコートという名を聞いて、ざわめきが広がった。
その名前は、アスラ王国ではそこそこ有名であった。
当然だろう。
かの家が領地を取り上げられ、没落したのは、ほんの2年前の出来事なのだ。
忘れるには、まだ早すぎる。
ヴィオラは口の端をほんの僅かに持ち上げつつ、エリザベートに聞いた。
「エリザベート。教えて、あなたは何をされたの?」
「2年前、没落した家のことを散々蔑まれ、見下され、逆らえば家をさらに落ちぶれさせると脅され、召使いのように扱われました」
平坦な口調だった。
だが、表情は違う。
唇をキュっと結び、奥歯は噛み締めた険しい表情からは、言いようのない悔しさとにじみ出ていた。
その出来事が、それまで上級貴族として生きてきたエリザベートにとって、耐え難い屈辱だったのだろうと推測できるほどに。
そしてその表情こそ、彼女の言葉が嘘では無いことを物語っていた。
「エリザベートだけではありませんわ!」
ヴィオラがそう言うと、会場の至る所から、生徒たちが姿を表した。
女子が多いが、数名ながら男子の姿もある。
総勢で十名ほどだろうか。
彼らはエリザベートの横に並び立つと、次々と挨拶をした。
ほとんどが身分の低い生徒で、一番高くても中級貴族、それ以外は全て下級貴族か平民だった。
「皆さんも、どうかおっしゃってください。この場が最後のチャンスですよ」
ヴィオラがそう言うと、彼らは意を決したような顔で、次々と、自分が何をされたのかを暴露しはじめた。
舞踏会の日、靴に針を仕込まれた者。
教科書をビリビリに破かれた者。
職員室に忍び込み、テストの答案を盗み出してこいと言われた者。
好きだという気持ちを利用され、顎でコキつかわれ、使えないと見るや捨てられた者。
大事に飼っていたペットを、遊び半分で殺されてしまった者。
彼らは、エリザベートに倣ってか、努めて淡々とした口調で話そうとしていたが、その奥から溢れる感情は、隠しきれていなかった。
悔しさ、怒り。
そして、ようやく言えたという、開放感。
感情が篭った告白を傍で聞いていた貴族たちは憤った。
許せん、と。
一皮むけば似たような事をやっている者ばかりなのだが、自分は別だと考えるのがアスラ貴族というものだ。
もちろん、誠実に生きている者は、普通に憤っている。
「皆さん、よくぞ勇気を出して言ってくださいました」
ヴィオラは周囲の反応を確認しつつ、神妙な顔でそう言うと、キッとエドワード王子を睨みつけた。
「これが証拠です、エドワード殿下。これだけ証人が集まっているのに、まだ言いがかりだと?」
「それは……」
エドワードは苦しそうに顔を歪めた。
まさか、ヴィオラがここまで大掛かりな用意をしているとは、思ってもいなかったのだ。
彼女は主席卒業だ。
その立場を利用して上級貴族を扇動すれば、クリスから卒業資格を剥奪することは、十分に可能だった。
しかし、ヴィオラは証拠まで用意していた。
用意周到に、確実に、クリスを潰すために。
普段なら、エドワードも用意をしている。
クリスが何もやっていない証拠を。
だが、油断していた。
今日は卒業式で、ヴィオラは主席だ。
つまり、ヴィオラはすでに勝者だったのだ。
勝者が、さらに何かをするなど、考えてもいなかったのだ。
仮に何かをしたとしても決定的なものではなく、自分がどうにか出来ると考えていたのだ。
ゆえにエドワードは、黙らざるをえなかった。
「いや、それでも、私には、クリスがそんなことをしていたとは信じられないんだ……」
エドワードは絞り出すようにそう言った。
例え証拠を突きつけられても、クリスとは三年間の付き合いがある。
共に泣き、共に笑ってきた。
勉強も教えてやった。ヘタクソな弁当も一緒に食べた。
クリスをよく知るエドワードだからこそ、認めるわけにはいかなかった。
証拠はなくとも、彼女が裏で悪事を働いてことを。
「そう……お馬鹿な人……」
そしてその返答は、ヴィオラを苛立たせた。
彼女は口を尖らせ、エドワードから視線をはずした、クリスを睨みつけた。
一歩前へ出て、彼女は言う。
「さぁ! これが証拠ですわ! クリスティーナ! 何か申し開きはありまして!?」
ここまで来ると、誰もが厳しい目で見ざるを得ない。
クリスは悪事を働いていた。
言い訳はするな。
素直に謝罪しろ。
そんな空気が流れだしていた。
あの娘に甘いルーデウスですら、難しく、そして厳しい顔をして拳を握りしめている。
ウチの子はそんなことしません、などと喚き出さない程度には、彼も立派になったのだ。
その隣に立つのは、シルフィ、エリス、ロキシーの三人だ。
この三人もまた、ルーデウスの手やら裾やらを握りつつ、あるいは飛び出していこうとするルーデウスを抑えつつ、動向を伺っていた。
と、場の空気が一色に染まった所で、クリスが動いた。
彼女は、何か観念したような、諦めたような、そんな顔でヴィオラを見た。
「ヴィオラ……私は、やめてって言ったんだよ」
クリスはぽつりと、誰にも聞こえないようにそう言うと、顔を上げ、ヴィオラを見た。
焦りも何もない、冷静で落ち着いた表情だった。
あるいは見る者が見れば、その表情をこう言い表しただろう。
冷酷、と。
クリスは睨むこともなく、声を荒らげることもなく、ただ淡々と聞いた。
ヴィオラではなく、彼女の隣に立つ生徒たちに向かって。
「ねぇ、みんな。みんなが言ったそれ、やったのは誰?」
"証拠"は、一斉にヴィオラを指差した。