「ねぇ,私分からないことがあるの」
透き通るような白い肌の理子が僕に言う.
「この僕に何を聞きたいの?」
カーテンがゆらゆら揺れるベランダで二人は肩を寄せ合い,男の方が脇で呟いた.
足の先が理子の綺麗なつま先に微かにぶつかる.
裸足の感触が生きているという実感をリアルにさせる.
「和真くんってさ,いつも仏頂面でロボットみたい」
目の前の愛しい彼女が僕の目の奥をX線で透かすように探りながら,血色の良い唇を滑らかに動かし言った.
「何,つまり人間味が無いってこと?」
何の感情も見せずに,僕は理子にそう返答してみる.
彼女はそれを不満気に感じる姿を見せることも無く,なで肩を優しくリズムさせる小悪魔の仕草で目の前にある金魚鉢に目を移し始めた.
金魚鉢の中に居る2匹の雄の出目金が,1匹の雌を奪うために争い追いかけている.
僕は左に座る彼女の唇を奪おうか奪わないかという選択肢に迷うことなく,ただ彼女の回答を待つことだけに専念したいと思い,視線をもう一度彼女に投げかけた.
「和真くんってさ,こうやって争うことをしないよね.何かを求めるために熱くなったりしないよね.だから私時々寂しくなるの」
黒いキャミソールの薄着が,彼女の真っ白な美しさを悪魔のような魅力に変える.
一言一言に意味を含めない,冷徹な純粋さの力が僕の姿を的確に形付ける.
そもそも彼女の指摘する人間味とは感情のことなのだろうか?
それとも形ある愛情か,形無き愛情なのだろうか?
僕たちは愛することが大事だと知っていたとしても,その愛ってものは何なのだ?
僕は拙い脳を駆使し,彼女の提起する問に対して懸命に解をはじき出そうとしていた.
「理子ちゃん,ある人が言っていたんだけどね,情が入ると嘘っぽくなるって」
誰かが本の中で言っていたことを苦し紛れに彼女に投げつける.
自分の頭で考えたことではなく,他人の頭で考えた一般解を示してみたのだ.
「ふーん,そう.なるほどねぇ」
彼女の表情から何か間違ったような感触が僕の心を捕らえ,自分の頭で見出した答えを自分の言葉で答えろと言われているような感覚に陥った.
だから直ぐに正しい言葉を選ぶと同時に口をモグモグと動かした.
「だってさ,身の回りには情が含まれる単語が沢山あるでしょ?例えば友情,愛情,事情,人情….この単語達から『情』を取り除くとほら,そこには感情のない『記号』のようなものが残るじゃないか?」
「友,愛,事,人…ってこと?」
「そうだよ,そう.それに対してどう思う?」
理子はさっきまで見せていた笑窪を膨らませ,困った様にもう一度金魚の方へ目を逸らす.
そこでようやく僕は自分のペースを取り戻し,曇りの取れた意識の中で正しい解を導いた.
彼女の心へ響くはずの解を見つけた.
「きっと『情』がなければ,これらのことが人間には何なのか理解できないんだよ」
すると彼女は口先を尖らせて小さな黒い吐息を漏らした.
「…いいじゃない,理解できなくて」
僕に背中を向けて何かから遠ざかるように,彼女は金魚に夢中なふりをしている.
拗ねた少女のようなそのあどけなさが,僕の狩猟本能に火をつけさせようとしていた.
目をやった先に泳ぐ出目金の雄はようやく目的の雌を手にいれ,一方の雄に威嚇し続けている.
愛が何なのか知っているつもりで実際には知らないから,こうやって愛を求めるために人間も競い合い生活しているのかも知れない.
もしも本当に情が無ければその一部すら知れないというのならば,僕には目の前の理子を愛情で包み,幸せにしてあげることができないのだろうか.
―――さっきまで泳いでいた敗者の雄の出目金が,威嚇に疲れた勝者に反撃し始めた.
「もしさ,それを理解したとしてもそれはその人が経験した愛なのであって,全ての存在に共通のものでは無いでしょ.だから全ての存在が経験した愛を総和できなきゃ,単なる感情が垣間見せた愛の一面に過ぎないんじゃないかな」
感情を隠しきれない僕のいやらしい言葉が彼女を襲う.
総和という概念を使った僕のいやらしい思考が彼女を襲う.
しかし本当にこの総和とは何に当たるのか?
そして情とは一体何なのであろうか?
と,そんなことを考えているから彼女はこちらを振り返って大爆発した.
「もう和真くん知らない!人間味が無いってのは人情が無いってことでしょっ!!」
僕はその瞬間ハッと我に帰り,自分の犯した複雑で単純な過ちに気が付いて,彼女の右手を掴んで引き寄せた後,何も考えることなく唇を奪った.
つまり嫌がる彼女を追い求めて,ようやくのファーストキス.
陽の光浴びるこのベランダの片隅で,こうして儚き愛情を分かち合った.
―――彼女の真っ赤な手形が僕の左頬にはその後いつまでも残っていたのだが….
その時の金魚鉢の中の出目金が,愛を再び求め争い始めた光景を僕はいつまでも忘れたくは無い.
いつまでもいつまでも,僕達は人間というものを分かち合っていたい.
そして今,すっかり大人びた僕達はこうして見つめあい睦びあい愛し合っている.
二人の目尻には人間味という名の涙が少しだけ輝いているように見えた.
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