8:撃ち破る弾丸
「月、匣……っ!?」
刃太は身体に纏わりつく倦怠感をも忘れ飛び起きた。
「なんで──」
「主ッ!」
呆然とする刃太の前へドゥリンダナが躍り出た。
彼女の右肘から先が変質し硬質な刃になるのと、窓硝子を砕いて部屋にゴブリンが侵入するのは同時だった。
「キュィィイイイイイイッ!!」
割れる硝子よりも甲高い鳴き声を発しながら、ゴブリンは手に持った棍棒を振るった。
小柄な身体からは想像できない速度を持つそれは、風切り音を上げて刃太を庇うドゥリンダナへ迫る。正気に戻った刃太が何か言う暇すらない瞬間、
「シッ」
ドゥリンダナが右腕を振るい、眼前の敵を薙ぎ払った。刃は速度を乗せられた棍棒をバターのように容易く切り落とし、そのままゴブリンの身体を一刀の下に切り捨てた。
断末魔を上げることもなく異形の身体は地に接地することさえできずに消え去り、エミュレイターが死ぬと残すという紅い魔石だけがフローリングの上に転がった。
ドゥリンダナは緊迫した表情を浮かべる顔だけで刃太を振り返る。
「怪我はありませんか、主」
「う、うん、平気……。だけどなんでいきなり月匣が?」
「おそらく、長時間主と繋がっていたからでしょう。その時わたし達が発していた微細な魔力を感知して紫稲妻がここへ……」
抜かりました、とドゥリンダナは吐き捨てた。よほど自分の失態が許せないのだろう。奥歯を強く噛み締めていた。
紫稲妻が現れたと言うことは囮をする手間が省けたことになる。飛んで火に入る夏の虫だと言いたいのは山々だったが、今は待ち伏せの用意すらしていない。ひかりもトレイターさえもいない現状は、完全に不意を突かれた形になる。
「どうすれば……!?」
新米ウィザード一人と魔剣一振りで魔王級とやり合うなど無茶にも程がある。しかも相手はゴブリンを召喚することができる。ゴブリン自体は対したことがないとはいえ、こちらはただでさえ紫稲妻に劣っている。戦力差は絶望的だ。
今すぐにでも紫稲妻を斃せと訴えてくる自分をなんとか制して、どうやって逃げ出すか刃太は思考を巡らせる。
させる、が有効な手段は思い浮かばない。そもそも紫稲妻が展開した月匣からどうやって脱出するのか。何をしても、時間稼ぎが関の山と言ったところだろう。
いや、時間稼ぎをしていれば異常に気づいた他のウィザード達がなんとかしてくれるかもしれない。そのためには、なんとしても逃げ続けなければ。
「ドゥリンダナ逃げよう、時間稼ぎだ! そうすれば助けが来るかもしれない。それまでなんとか逃げ続けて……」
「いえ」
残念そうにドゥリンダナは首を横に振った。
「もう、来られてしまったようです」
刃太が驚く間もなく、納めていた物がなくなった窓枠が嵌った壁が無数の"髪の毛"に貫かれた。壁が剣山になったと思った次の瞬間、髪の毛が左右に疾った。シュレッダーに掛けられたように無数の残骸となって切り飛ばされた。
かつて壁だったものがバラバラと外に降り注ぎ、それと入れ替わりに巨大な入り口となったそこから人の形を持った魔物が室内に足を踏み入れた。
人の目を引き寄せる紫の長髪。魅惑的な肢体を覆うキチン質。身体中から漂う人ならざる者の風格とも言うべき威圧感。
忘れはしまい。
忘れもしない。
刃太をドゥリンダナに引き合わせた元凶。刃太がウィザードになることになった原因。そして刃太の戦意を殺意を掻き立てる張本人。
──紫稲妻。
「な……っ」
刃太は絶句した。もう絶望の二乗だ。目の前に紫稲妻が現れた。この状況で彼奴の速度から逃げる術はない。背中を見せたら次の瞬間には物言わぬ屍に成り下がる──。
「プラー、ナ……寄越せ」
プラーナ。奈々子が失ってしまった魂片。
ドゥリンダナを狙っているのは、彼女に詰まった大量のプラーナが欲しいからだろう。エミュレイターはそれを得たいが為にこちら側に侵入するのだから。
ウィザードとなっている刃太にも、人より少し多くプラーナは内包されている。そこらにいる人間を襲って奪うより、刃太を狙った方が効率は良いだろう。
なのに、
なんで、奈々子を狙ったのか。
なにも、関係なんてなかった。ただの人間だった。ウィザードでもなんでもない。ちょっと童顔なだけの女子高生だった。
理不尽だと、不条理だと刃太の怒りが訴える。
怖かった。言葉を失ってしまうほど恐ろしいと思っていた。目の前の人外は戦ってはならないものだと分かっていた。それでも抑えていた憤りは、諸悪を直視した瞬間に炸裂した。
「ドゥリンダナ、魔剣に戻れ! そっちの方が有利だ!」
声を張り上げる。
眼前の女性は一刹那だけ迷いを見せて、しかし刃太の命令に従った。人間の姿より本来の姿の方が発揮できる力は増すからだ。
ストロボをたいたような閃光と共にドゥリンダナは質量保存の法則という"常識"を無視して魔剣の形に回帰した。
本日二度目の柄の感触に気を引き締めて、刃太は紫稲妻を睨みつけた。
紫稲妻は感情を写さない硝子玉のような瞳で刃太を見ていた。何もしないのは警戒しているのか、もしくは余裕の現れか。まるで能面かと思う無表情からでは何も読み取れなかった。
だが仕掛けてこないのなら、
「はァッ!」
先手必勝と刃太は打ち込んだ。紫稲妻との距離を埋めるには一足あれば充分。
今現在刃太がこのタイミングで放てるもっとも効果的な斬撃を繰り出した。その一撃は数日前のものより数段上をいく鋭さ。
今まで動かなかった紫稲妻が、硬質化させた頭髪で魔剣を受け止める。金属質な音色を奏でるだけで刃先は髪の一本さえも切り裂けない。
剣を振るった体勢の刃太に、予備動作も無く紫稲妻は拳を突き出す。溜めもない空拳は、それでも鉄を砕きかねない威力を孕んでいた。
くっと声を洩らして刃太は横に跳び間一髪で躱す。遅れて拳に触れた箇所の服が裂けた。拳の一部も硬くなっているのか。運悪く急所に一発でも当たれば必殺になる可能性がある。知らず冷や汗が流れた。
「まだまだ──ッ!」
魔剣を中段で薙ぎ払うが、紫稲妻はそれも紫色の髪で防いでしまう。
悉く攻撃が防御され通らない事で刃太の心に焦りが生まれた。その僅かな隙を紫稲妻は見逃さず、刃太に強烈な蹴りを放った。
それに気づいて刃太は飛び退こうとするが、遅い。か細い女性的な足から想像も出来ない破壊力が身体に叩き込まれた。
刃太は勢い良く吹き飛び反対側の壁を粉砕して廊下に弾き出された。
衝撃に肺の酸素が強制的に吐き出される。
身体が痛みに悲鳴を発するが、魔剣を床に突き立てどうにか起き上がった。無様にのた打ち回っていたら、二度と立ち上がれない状況になってしまうことに本能で気づいてしまっていた。
予想を裏付けるように、紫稲妻は雷が如く速さで刃太に迫ってきた。
このままでは一方的な状況に持ち込まれると刃太は手すりを飛び越え、一気に階下へと飛び降りる。一瞬前まで刃太がいた空間は紫稲妻の髪先で貫かれていた。あそこに止まっていたら刃太は蜂の巣になっていたことだろう。
一階に降りても家内に人気はない。月匣は月衣を持つ者だけが存在できる、現実とは別にある虚像の世界だからだ。
刃太は廊下を駆けて玄関へ。鍵を開ける暇などなく魔剣を振るい鉄扉を切り裂いた。本来の用途を失った扉を蹴り飛ばし、外に飛び出す。
見慣れた風景なのに紅い月に照らされたそれらからは、異世界に迷い込んだような錯覚を持たせられる。
背後で落ちるような異音を聴くと、身体に鞭を打って家の敷地から跳び出て月下の街を全速力で走り出した。
──目的は時間稼ぎなんだ。
もう見失うなと自分に言い聞かせた。一度は炸裂した思考も逃げられる状況になったことで冷静さを幾分か取り戻す。まともに戦って勝てる相手ではないことを再認識した、と言うこともあるだろう。
「はあ、はあ……っ! ドゥリンダナ、ウィザードが来そうとか分かる!?」
『いえ、残念ながら月匣の外の事は分かりかねます』
頭に響くドゥリンダナの言葉に刃太は落胆すると携帯で連絡をとれるか試してみたが、圏外になっていた。相変わらず事態は好転しない。孤立したままだ。もしかしたら無援かもしれない。
「畜生……!」
仇を前にして逃げることしか出来ない無力な自分と、事が良い方向に転がる兆しも見えないことに苛立ちから弱音がこぼれ落ちた。
刃太の倍以上の速さで、稲妻は背中に向かって疾走している。
*
上代家を中心に月匣が展開したことにひかりは気づいたのは、陽が既に落ち刃太との予定の時刻まで一時間を切った時のことだった。
事前の打ち合わせなどもあるし、迎えに行こうとしていた矢先のことである。
「月匣……それに、これは紫稲妻!? 予定時間はまだ……っ」
刃太が先走ってしまったのかとも考えたが、上代家の敷地内かその周辺の辺りから月匣は展開していた。いくらなんでも近すぎる。囮になって紫稲妻をおびき寄せるなら、家からもっと離れるものではないか。
ここから推測すると、予期せぬ襲撃を受けたと考えるのが妥当なところだろう。
「毎回後手に回りますね、私は……!」
そう呟いて、ひかりは月匣に向かって足を動かした。不幸中の幸いと言うべきか、月匣の発生地点まで余り離れていなかった。
そのため、ものの数分で月匣の外周部に到着した。ただ、そこは紅く染まってもいなければエミュレイターがいるわけでもない。なんの変哲もない住宅が建ち並ぶ街の一角だ。
でも"それは確かにここにあった"。
目に見える異常すら見あたらないが、ウィザードならばここに違和感を感じ、月匣があることを辛うじて知覚できた。
知覚は出来たが、それだけだった。
月匣は結界であり、隔離された空間である。感じる事が限界で、中に入ることも外へ脱け出すこともできない。
駆けつけてはみたが、月匣に干渉することはひかりには出来なかった。もしかしたら一部のウィザードならば月匣を破れるかもしれないが、残念ながらひかりはその類に含まれていない。
「歯痒いですね……」
何かが起こっていることは分かるのに、こちらから手出しをすることが出来ない状況はひかりの心を不安定に揺らした。
どうする。
どうにかして月匣内に入り込む余地はないか。
外部から刃太を援護することは可能だろうか。
幾つもの案が浮かぶが、すぐに無理だと頭を振る。そうやって次々と策を考え続けて分かったことと言えば、自分では月匣内に入ることはどうやっても出来ないと言うことだった。
こうしている間にも刻一刻と刃太に危機が迫っているだろう。刃太とドゥリンダナでは善戦しても、そう長くは持たない。
ひかりが途方に暮れていると、背後から独り言のような声がした。
「まったく……厄介なことになっているな」
「あなたは……トレイター」
振り返ると、漆黒の外套を羽織っていない私服姿──ひかりは初めて見る──のトレイターがそこにいた。
「月匣か……中にはあいつと紫稲妻が?」
「……はい。多分その通りです」
ひかりは肩を落とす。トレイターが現れてくれたのは心強かったが、落胆せざる終えなかった。例え凄腕だと言っても、落とし子に分類されるトレイターには月匣をどうこうすることはできない。
もうひかりに出来ることは、刃太が紫稲妻に破れるのをみすみす待っているだけとなる。
そう諦めを滲ませて、ひかりは月匣があるはずの空間を見つめていた。
「──備えあれば憂いなし、か」
トレイターは腕を月衣に突っ込むと、虚空から彼のトレードマークとも言える黒の外套を引き出した。
ぶわりと裾を広げて自らの姿を覆い隠しながら、トレイターは外套を羽織った。気づけば外套の下は数瞬前まで着ていた私服ではなく、戦闘用の特殊な物になっていた。前の戦闘時にも着用していた記憶がある。
戦闘スタイルに移行したトレイターはさらに月衣から箒、フォールンエンパイアを取り出した。
「今更、なにを……」
もしかしたら月匣を解除して紫稲妻が現れた時に、すぐさま攻撃を加えられるようにとの準備だろうか。その時、紫稲妻は刃太を始末して手に入れたドゥリンダナを手にしているはずだ。刃太の返り血を浴びて彼の魔剣であるドゥリンダナを持つ紫稲妻を想像して、ひかりは身震いをした。
「おい、お前も箒を出しておけ」
「……はい」
トレイターがフォールンエンパイアに弾丸を込めている横で、ひかりは暗い表情のままウィザーズワンドを月衣から抜き出した。
ぐっとひかりが杖を握り締めると、トレイターは前方に銃身を向けて引き金に指を掛け発射態勢に入り──
「え? トレイターさ──」
弾丸が打ち出された。
本来なら遙か先に着弾するはずの弾丸は、されど予想を裏切り中空に激突した。
その不可思議な現象にひかりは目を見開く。
何もないはずの空と弾丸がバチバチと電光を放った。
そして、競り負けた空間が弾丸に撃ち抜かれる。
弾ける音と共にさっきまでは只の道であり空白だったそこが、軟体動物のように歪んだ。その歪みは徐々に開いていき、人一人分のサイズにまで拡張される。
あまりの出来事にひかりはしばらく立ち尽くしてしまった。なんだろう、この歪みは。こんなものは聴いたことがない。トレイターはいったい何をしたというのか。
何もないはずの空間を撃ち抜くなんて、と思ったと同時、そこはあるものの外周部であることに思い至った。
歪みの中に紅い風景を見つけて、今度こそひかりは声を上げた。
「月匣の中!?」
驚くひかりを余所にトレイターは次弾をフォールンエンパイアに装填する。
「これはすぐに消える。とっとと乗り込むぞ」
「ま、待ってください! これはいったいなんなんですか?」
困惑の様子を浮かべるひかりを一瞥して、トレイターは適当に答えを見繕う。
「──結界徹甲弾。絶滅社製の特殊弾丸だ。……最近出来た完成品を無理やりパクって来たんだが、無理した甲斐はあったな」
何気なく凄いことを言わなかったと思った時には、もう説明は済んだとばかりにトレイターは歪みに飛び込んでいた。注視すれば、歪みが少しずつ縮小していることが分かった。
「わ、私も……っ!」
異様な歪みに僅かばかり躊躇しながらも、ひかりはそこに飛び込んだ。
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