6:忍び寄るかの如く
──違和感を感じたのは、晩御飯の場だった。
夕飯がちょうど出来上がった頃に父親が帰宅した。よれよれで疲れを姿ににじませた父親がリビングを覗くと、相好を崩して声を上げる。
母がキッチンから夕餉を運んでいて、その濃厚な香りに感激したのだ。階下に降りてきた刃太もそれに胃袋を刺激されて、腹の虫が歓声を上げた。
「リンちゃんが来て一日目だからね、今日は豪勢にしたのよ」
リンちゃんも料理が上手いから助かったわぁ、と母親は朗らかに笑った。ドゥリンダナがそんなに料理が得意だったとは、刃太も少々意外である。元は剣だからそういう物には音痴だと思っていたのだが。疑似神経がどうとか言っていたから、食べ物の味も人並みに体感できるのだろう。どっちにしても、刃太は食材を切るのが一番上手かったに違いないと思っていた。
前菜、副菜、主菜と四人分の料理が食卓に並べられていく。どれもこれも唾液が口内に溜まるのを誘発する香りを有していた。
私服に着替えた父親がリビングに戻って来ると、両親と刃太、ドゥリンダナが席に着いた。
ちらりと刃太が時計を確認する。父親が帰宅する時間なだけはあって、だいぶ遅くなっていた。
こんなに時間が経っても、奈々子はまだ帰って来ていない。いくらなんでも遅すぎではないだろうか、とさすがに刃太も姉のことが心配になってくる。ただでさえ最近行方不明事件──原因は紫稲妻と聴かされた──が多発していて危険だと言うのに。
犯人のことまで知ってしまった刃太は、前よりは事件を親身に考えていた。紫稲妻の存在を未だ信じ切れていないから、所詮毛が生えた程度ではあるが。
まったく、こんなに美味そうな食事がある日に限って帰りが遅いなんて……姉ちゃん悔しがるだろうな。そんな風に苦笑しておいた。
「それじゃあ全員揃ったことだし、いただきましょうか」
皮肉を効かせた母親の台詞に刃太は肩を透かした。
「全員っても、姉ちゃんはいないけどね」
困っちゃうよね、と刃太は笑い、
「なに言ってるの? "あなたに姉なんていないじゃない"」
母親が不思議そうな顔をしてそう言った。
「───────え?」
思わず母親を見返した。
「今、なんて……?」
「だから、刃太には"姉なんていない"って言ったんだけど……」
一瞬、嘘をついているのだと思った。こんな日に帰りが遅い奈々子への不満から意地悪な事を口にしているのだと。
しかし、母の目を見てぞっとした。
そこにはわざとらしさが微塵も存在していなかった。息子の言葉が本当にわからないと、母の目が語っていた。
父親が母親に続いて眉を顰める。
「そうだぞ、お前に姉なんていないじゃないか。家の子供はお前ひとりだぞ。昨日リンさんを連れて来て四人になって……。まったく、ゲームのし過ぎじゃないか?」
困った息子だと父親が笑った。そこに嘘の色は見えなかったし、そもそも父はこんな質の悪い嘘は言わない。
────────え?
どういう、ことだ。
有り得ない。姉が、菜々子がいないだなと有り得ない。
「じょ、冗談にしては悪質だよ……ふたりとも」
顔が強張って、自分が今どんな表情をしているのか分からなかった。
だって、今朝は一緒に朝食を食べていたじゃないか。
その前の日も、また前の日も、生まれからずっと数十年間一緒に過ごしていただろう。
「い、いくら帰りが、遅いって言ったって……」
気付けば、身体が震えていた。机の上にあった刃太の指が食器に辺り耳障りな不協和音を発した。
「そ、その言い方は……酷い、よ……」
いつの間にか、両親の視線が変わっていた。軽い冗談をいなす物から、引きつった表情で異物を見る恐れを含んだ物へと。
──いったい、何をおかしなことを言い出すんだ?
そう両親が思っていることを察するのはさほど難しくはなかった。
そういえば、
母親の料理の手伝いをするのはいつも姉ではなかったか。
そもそも、
連絡もなしに帰宅がこんなにも遅くなったことがあっただろうか。
いや、それ以前に、
──リビングに置いてあるはずの姉の私物が根こそぎなくなっているのは何故なのだ。
玄関には姉の靴がなかった。でも姉は複数の靴を持っていて、靴棚にではなく玄関に並べていた。
それら総て、なくなってはいなかっただろうか。
得体の知れない恐怖が足下から這い上がってきた。それが通った箇所から熱が奪われ凍えていく。身体の震えが収まらない。現状が理解出来ない。姉の存在を確認出来ないのが、恐ろしい。
「……ご両親、刃太様は少々疲れているようです。わたしが部屋に連れていって休ませます」
こんな時にでも冷静な対応をとって、刃太の肩に手をかけ一緒に立ち上がった。
「ドゥリンダナ……!」
目を見開いてドゥリンダナを見るが、彼女は視線を合わせずに二階へと刃太を連れて行った。二階の廊下まで連れていかれて、刃太はドゥリンダナの腕を乱暴に振りほどいた。
「おい、ドゥリンダナ! まさか、お前まで姉ちゃんのこと……」
まさか人外の彼女も家族共々姉を忘れてしまったのではないかと声を荒げるが、ドゥリンダナは静かに首を振った。
「いえ、わたしは存じております。上代奈々子、主のお姉様です」
他人から出た名前に、刃太は心の底から安堵した。良かった、ドゥリンダナは忘れはいない。つまり上代奈々子と言う人物は確実にここで存在していたのだ。
「でも、いったいなんで……?」
いきなりなんで両親は奈々子のことを忘れてしまったのか。何故奈々子が所有していたものが消え去ったのか、まったくわからない。
苦悶する刃太を見て、ドゥリンダナは沈痛な顔をしていた。
「ドゥリンダナ、何か知ってるの?」
主に問われてドゥリンダナは口を開きかけ、頭を払ってそれを止めた。
「わたしには難しい問題です。……ひかりや、他のウィザードに聴いてください」
と、言い辛そうに彼女は口を閉ざした。
それは、ウィザードならこの状況について何か分かると言うことだ。
刃太は反射的に自室の部屋に飛び込み、電気の消えた中を見回した。焦っていて電気を点けると言うことさえ脳内から忘却されていた。
廊下から差し込む明かりで、ベットの上に置かれた携帯電話を見つける。刃太はそれを引っ付かんでアドレス帳を呼び出した。
は行には昨日教えて貰ったばかりのひかりの電話番号が記録されていて、刃太はダイヤルを押すと携帯を耳に押し当てた。ぷるるるるる、と言う呼び出し音さえもどかしい。
数回のコール音の後、単調な電子の音が途切れた。
『はい、花川です。刃太くん、何かご用ですか?』
「花川さん!? 聞きたいことがあるんだけどッ」
少しのんびりとした少女の声が聴こえてくるなり、刃太は声を上げていた。
今まで聴いたことのない刃太の声に、携帯越しに相手が驚いているのが分かったが、それを気にする余裕はなかった。
『刃太くん? どうかしましたか? まさか紫稲妻が──』
「違う、紫稲妻じゃない。そんなんじゃないんだ。姉ちゃんが、姉ちゃんが……ッ!」
『落ち着いてください刃太くん! いったい何があったんですか?』
落ち着かせるように尋ねてくるひかりに、刃太は混乱して上手く動かない頭を必死に使って訥々と語った。
姉が突然消えたことから、姉のことを家族は忘れてしまっていること、姉の所有物が総て消えたなどをなんとか伝えることができた。
自分で口頭にしてみれば、状況がより詳しく脳内に入り込んでくる。同時に寒気が襲ってきた。
──これじゃあまるで、姉ちゃんが最初からいなかったみたいじゃないか。
そんなわけはない。刃太もドゥリンダナもちゃんと覚えている。なのに、そう思ってしまうと胸をかきむしりたくなる衝動に駆られてしまう。
爪が掌に食い込むほど強く握りしめて不安に耐えていると、しばし思案するよう唸ったひかりが問いに答えを出した。
『それは……奈々子さんはプラーナを奪われたのでしょう』
「プラーナ?」
人間やその他万物に宿っているの魂の塊、とトレイターに聴かされたと記憶していた。後からひかりに聴いた話では、ウィザードならばこのプラーナを力に変換出来るらしい。確かエミュレイターはこれを狙って裏界からこちら側にやってきて──
──エミュレイター?
『はい。プラーナとは前に説明されました通り、魂の塊です。エミュレイターはこれを食そうとこちらにやってきていますが……』
「それって、まさか姉ちゃんは……っ!」
「多分、刃太くんの予想通りです」
ひかりは一拍の間を置いて、
「──上代奈々子は紫稲妻に襲われた」
最悪の事実を口にした。
頭の中が真っ白になった。その言葉が爆弾であったかのように脳内で乱舞していた不安も恐怖も総ての思考が消し飛び、あるいは爆風で吹き飛び、消えた。
後には、ただひかりの言葉だけが残っていた。
白の中に黒い言葉だけが浮かんでいる。実にシンプル。シンプル故に刃太は拒否も拒絶も目を背けることさえ出来ずに、それだけを直視させられた。
紫稲妻に、襲われた。
姉が件の行方不明者?
実感を持てていなかったモノが現実的な輪郭を刃太の中で形成していく。
──曰わく、被害者は腹の中。
──曰わく、八つ裂きに解体。
──生存の可能性は満に一つ。
ガクッと足から力が抜けて床に尻餅をついた。半身が倒れてベットの縁に寄りかかる。
左胸の中で動物が大暴れしているように鼓動する心臓を知らず抑えて、刃太は思いついた僅かな可能性にすがりつこうとした。
「でも、なんで姉ちゃんのことを誰も覚えてないんだ? 紫稲妻に襲われたなら殺人事件として警察が死体を……」
死体と言って、吐き気が込み上げてきそうになる。一瞬、物言わぬ肉塊になった姉の姿を想像してしまった。
だが、奈々子の死体は見つかっていない。なら違うのではないか?
そんな甘い考えは、ひかりの次の言葉で消え失せた。
「プラーナは、魂の塊──それの存在する力です。エミュレイターによりこれが奪われてしまったものは、かなりの損害を受けます。人なら自力で生命活動を行うけれど目覚めない特殊な植物状態に陥るか、事故扱いで死んでしまうか。……でも一番ポピュラーなのは、"最初からそんなモノは存在しない"と言うことになり世界から抹消されるパターンです」
抹消。
その言葉がやまびこと同様、脳内で反響していた。
プラーナを失えば万物は死に絶える。この場合人間の場合はなんらかの事故で死亡となることもあるが、ほとんどの場合は存在自体が消えてなくなる──。
だから両親は奈々子のことを覚えていなかった。所有物も無くなっていた。
月衣を展開してるウィザード達と魔剣であるドゥリンダナだけが存在の消失した奈々子のことを記憶できていた。
紫稲妻に襲われ死体として処理された人間は運が良かっただけで、実際は"存在すら忘却され"葬儀すら行われなかった人間が大量にいるのだ。
つまり、
上代奈々子は紫稲妻に消されたと。
そういうことか。
「姉ちゃんが、紫稲妻に……殺された?」
刃太の口から零したものを、ひかりは苦しげに肯定した。
ぽっかりと胸に穴が開いたような喪失感だけが刃太の中にあった。
続いて、そこから湧き上がってくるどす黒い感情は、
憤怒と憎悪。
怨みと憎しみ。
抑えきれない怒りの奔流。
握りしめていた拳から血が滴り落ちた。力を入れすぎて爪が肉を裂いていた。傷口が痺れるような感覚があったが、それを痛みと感じられるほど刃太の頭に過剰な容量は残ってはいなかった。
自分の中で、非日常だったものが鮮明に描き出されリアリティを獲得するのが実感出来た。
ウィザード。エミュレイター。月衣。世界結界。魔王に裏界。
そして、紫稲妻。
認めた。
もう迷う必要はなかった。
認めた。
それら総ては存在するものだと認識した。その上で、刃太は行動を選択する。
「──殺してやる」
この手で、必ず。
「紫稲妻を殺してやる」
あの殺戮者の息の根を止めてやる。
電話越しに、ひかりは静かに息を飲んだ。
「花川さん、紫稲妻は俺を、ドゥリンダナを狙ってるんだよね」
『は、はい。多分、そうだと思いますけど』
「なら、俺とドゥリンダナが不用心に外を出歩いていたら紫稲妻は食いついてくるよね」
『……っ、それは、』
ひかりが戸惑ったように声を詰まらせる。すぐさまひかりは刃太の言葉を否定した。
『危険です! 刃太くんはウィザードになったばっかりなんですよ? 紫稲妻に狙われたら確実にやられます! そんなことは絶対にしないでくださいっ!』
「でもッ! そうでもしないと紫稲妻は……!」
昼間、トレイターは紫稲妻の足跡を探っていたが見つからないと言った。こちらから探すことは困難を極めるはずだ。なら、自分が囮になれば向こうから出向いてくるかもしれない。
早く、速く、疾くと速く、紫稲妻にこの憎しみをぶつけたい。単純な思考だけが刃太の中を支配していた。
頭が白熱して冷静な判断をする余裕を失った刃太の肩に、柔らかい手が乗せられた。
反射的に振り返れば、そこにはドゥリンダナが膝をついて労るように刃太を見つめていた。
「主、落ち着いてください。ここで貴方が慌ててもどうにもなりません。ひかりも困っています」
「でも……ッ」
「慌てた所でお姉様は帰って来ません。本当に紫稲妻を斃したいと思うなら、後日改めて策を練りましょう。ですから今は落ち着いてください。急いて事を仕損じては元も子もありません」
冷静に紡がれる言葉に、震えていた心が徐々に平静を取り戻していく。気付けば、息が荒くなっていた。こんなに動揺していたなんて思わなかった。
脳裏に昨日の戦闘が思い起こされる。無我夢中でドゥリンダナに言われるまま戦っていたが、もしひかり達がいなければ後ろをとられた時にバッサリと斬られていただろう。
ひとりで挑めば、間違いなく死ぬ。仇も討てずに死ねば、それは間違いなく無駄死にだ。
肺に溜まった酸素を吐き出して高ぶった神経をなんとか抑制する。
そうした後、電話先の少女に謝罪した。
「……ごめん。取り乱して」
『いえ……そんなことがあれば当然ですから。……ひとまず今日は休んでください。明日学校で話合いましょう』
「うん……」
それじゃあ、と電話を切った。
ふっと身体から力を抜いてベットの上に身を横たえた。高揚していた精神が落ち着いたからか、身体が空腹を訴え始める。結局一口も夕食を食べることが出来なかったからだろう。身体は実に正直だった。
「後でわたしが下から夕食をお持ちします。しばらくはお休みください」
「……ありがとう。そうする」
お辞儀をして階下に向かうドゥリンダナを見送って、刃太は瞼を下げた。
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