終:そして、みんな
花川ひかりと境多恵はふたりで通学路を歩いていた。空から朝の暖かい日差しが差し込んできて、ふたりを優しく包み込んでいる。
談笑を交わしながらの通学路。別にどこも変わらぬ風景だった。それでもひかりにはとても貴重に思える。
あれから既に一ヶ月近い月日が経ち、季節も移り変わりを始めていた。
それでもなお、あの事件は鮮明な記憶として脳裏に刻まれている。でも、既に遠く過ぎ去った出来事のようにも感じていた。
「んん? ひかり、どうかした? なーんか遠くの方見てない?」
多恵が身体を寄せてぱっちりと開いた両目でひかりの顔を覗き込んでくる。
「え? そうかな?」
「うん、なんか隠居したお爺さんみたいな顔になってたよ」
まだ私は高校生だよ、と口をとがらせる。うら若き乙女にそんなこと言わないで欲しいものであった。ひかりが隠居する年齢になるのは、まだ半世紀ほど時間がある。
でも、遠くを見ていたのは事実かもしれない。
ひかりがウィザードになったのは何年も昔であるし、家庭環境からこの世の真実はもっと前から知っていた。それでも魔王クラスと戦ったのはあれが初めてで、正直あの時は生きた心地がしなかった。
そんな修羅場をくぐり抜けてまたいつもの日常に戻ってこれたことが、今でも少し信じられない。そのせいか安心感や慈しみの感情がそんな視線になったのだろう。
そういえば、と漆黒の外套をはためかせる青年を思い出した。あのウィザード──トレイターは果たしてどうなっただろうか。月匣が消失した後探してみたものの、見つけることはできなかった。
だが不安には思わない。そう簡単にトレイターは負けるようなウィザードではないだろう。きっと任務が終わって、絶滅社に帰っていったのだ。今頃別の何処かでその強力な力を存分に振るっているに違いない。
輝明学園の制服を着た生徒が通学路にちらほらと見あたり始める。自然と辺りは雑然とした会話で騒がしくなる。
輝明学園の正門は遠目でもはっきりと確認出来た。阿吽の仁王像と大鳥居。こんな物がある学校をひかりは他に知らない。しかも異常なはずの光景が年月を経て街の景観に馴染んでしまっているものは。
おっ、と校門の辺りを見て多恵は声を上げた。横にいるひかりの肩を突っつく。
「ひかりひかり、あれ上代じゃない?」
多恵が指差す方を見て、ふたりの人間の背中を見つけた。両方とも輝明学園生徒の証である制服を着ていた。
片方の少年の背中は、少し頼りなく見えてしまう。けど実際は、そんなに弱くないことをひかりは知っていた。
その隣を歩く長身の女性はまだ見慣れない。隣の彼は背が取り立てて高いわけではないけれども、男性である少年の身長よりも頭が上にあった。
「おはようございます──」
そのふたりに手を振って、ひかりは声を張り上げた。
*
ここ最近の上代家は騒がしい。同居人がひとり増えたからか。いや、その女性は寡黙でうるさくはない。
ただ元から上代家に住んでいた約一名が実に騒がしかった。騒がしいうえに、その約一名の周りは色々と起伏に富んでいた。
見た目も中身も行動も。
そんなわけでベットで寝ていた刃太は早朝からボディープレスを喰らうことになったのも、件の約一名のせいであった。
「げふぅ!?」
別にボディープレスをかましてくれた奴が重いわけではないのだけど、加速や落下で速度を付けられたそれは非常に強烈な衝撃を与えてくれた。
上代刃太は安眠を妨げられ、痛みに身悶えた。
その真上でのしかかったまま、女性が無駄に元気のよい挨拶をする。
「おはよー刃太! ほらほら早く起きないとお姉ちゃんがお仕置きしちゃうぞ?」
「……警告より先に刑罰を下すな! 姉ちゃんは鏡の国の住人かよっ」
さすがに刃太も怒るものの、上代奈々子は特に気にした風もない。いや、女性にのしかかられて怒ってる少年の図なんて怖くもなんともないわけであるが。
「えー、これはスキンシップよ、スキンシップ。姉弟の肉体的な愛情表現」
「そんなの俺は求めてないの! これが違うなら罰はいったいなんなのさ!」
「それは──」
脱力して刃太の上でだらーんと奈々子が手足を放り出す。罰を今更考えてるらしい。刃太としては時間が掛かるのなら退いてほしい所存である。
数秒の間を開けて、奈々子がベットから降りた。次に刃太の下半身の方に移動して掛け布団をめくった。
「……朝から元気な弟をうしろの娘に見せる、とか?」
刃太が奈々子のうしろに目を向けると、立っているだけで絵になる銀髪の麗人がそこにいた。
「おはようございます、主」
いつもながら平然としてドゥリンダナは頭を垂れた。
「わたしはもう少し優しく起こすべきだと申したのですが……」
「────っ、おお!?」
即座に下半身を奈々子から奪還した掛け布団で隠し、刃太は飛びずさった。その反応を見て奈々子はにやにやと面白そうに笑っている。この忌々しいバカ姉め、と刃太は奈々子を呪った。
「着替えたら行くからふたりとも先に下行ってて!」
羞恥に顔を染めながら上擦った声でふたりを追い払う。ドゥリンダナは刃太の慌てぶりに首を傾げていた。朝から息を切らしていると、まるで休んだ気になれないから不思議である。
寝間着から制服に着替えて鞄を持つと、刃太も遅れて階下に向かった。途中、隣の部屋に目をやる。
その部屋の扉には、『奈々子とリンちゃんのお部屋』とぶら下がる木板に可愛らしい字で記されていた。
──奈々子は無事に生存し、個を取り戻した。理由はよく分からない。刃太自身がそれを行ったのだと訊かされはしたけど、実感はわかなかった。
それでも奈々子は確かに生き返ったのだから、細かいことは所詮些事である。
プラーナも取り戻した奈々子はこの世界に再び存在を確立することが出来た。両親や学校の人間の記憶に蘇り、今までと同じ生活を営んでいる。でも、そこには奈々子を蝕む病原体はもういない。
そうなってから、既に一ヶ月。幾つか変化していることがあった。
まずひとつ、ドゥリンダナと奈々子は同じ部屋で過ごしていた。奈々子不在中にそこで寝泊まりをさせてもらっていたためか、部屋の持ち主が復活した時に辻褄合わせでこうなったらしい。
欠伸をしながら刃太はリビングの敷居を跨ぐ。
「おはよう……」
ふたつ目。
「おはようー、刃太っ」
姉の急速な成長。
食卓に着く奈々子の姿は、一ヶ月前とまるで異なる。
黒い髪はショートからセミロングになり、顔付きは大人っぽい女性のものへと変わっていた。身長も上がり、刃太まで追い越してしまった。長身でモデルのような身体付きからは、元童顔少女なのが嘘みたいである。ここ一ヶ月で一気に垢抜けてしまった。
原因は、今まで停止していた成長のリバウンド。それは時間の空白を埋めるように奈々子を成長させた。
刃太と奈々子に母とドゥリンダナは食卓について朝餉を頂き始める。
母親や周りの人間は奈々子の急速な成長を不思議がることはなかった。これも世界結界の力と言うことなのか。
奈々子の顔を刃太は盗み見る。血縁者であることを差し引いても奈々子は美人だった。それも一級の。実の姉がこんな女優顔負けに成長するなんて思いもよらなかった。
視線に気づいて、奈々子がテレビと食事を行ったり来たりさせていた目を刃太に向けた。
「なあに?」
「なんでもないよ」
「ははーん、さてはお姉ちゃんの美貌に見惚れてた?」
「寝言は寝て言え」
「ひどぅい!」
そんな姉から視線を逸らして刃太は食事を口にする。
姉が成長してくれたのは嬉しい。それでも背を追い抜かれてしまったのは男として悲しかったりするのだ。それに未だに奈々子の容姿に少し慣れなかった。
何せ、奈々子の姿は宿敵であった紫稲妻と酷似──ほとんど同一であるのだから。紫稲妻が力を使う時には、奈々子の身体にも力が廻される。それで戦闘時は、止められていた奈々子の時間が本来まで進んでいたようだった。今の奈々子と紫稲妻が違うのは髪の毛と漂う雰囲気だけである。これだけでも、女性の印象はがらりと変わっていたけど。
朝食を食べ終えるとちょうどよい時刻になっていた。ふたりは鞄を持って玄関へ行った。
「うーん、この靴イマイチ履き慣れないんだよねえ」
新しいローファーを履いて奈々子は不満を零す。
「姉ちゃんの足がデカいからだろ」
からかうように軽口を叩くと、奈々子は半眼で刃太を睨む。
「失礼な! なに、刃太今朝のこと根に持ってるの?」
「持ってないよ。ただ最近はなんで起こしにくるのかと思ってるだけ」
「なんでって、せっかく見た目がお姉ちゃんらしくなったんだよ? 弟起こさないと勿体無いでしょ」
「……姉ちゃん、バカでしょ」
なにおぅ、と横で何事か喚いている姉を無視して刃太は靴を履くと、外に足を踏み出した。
早朝の日差しに目が眩む。思わず手で日除けを作った。
立ち止まる刃太を押しどけて、奈々子が先に飛び出した。身体をよろめかせながら不服そうにしてみるが、奈々子に効果はない。
見た目は変わっても中身は変わらないんだな、と溜息を吐いた。
姉を追って足を踏み出し──数歩進んでから刃太は不思議と背後を振り返った。
「主、刃太」
そこには西洋衣装を纏ったドゥリンダナが立っていた。
美しい顔で、彼女は刃太を見ている。今から大切なことを言おうとしているのが分かった。
綺麗な唇を開いて、彼女は静かに問う。
「──あなたは、幸せですか?」
いったい何を訊いてくるのかと一瞬目を瞬く。まったくもって予想外の言葉だった。こんなこといきなり訊かれても返答に困ってしまう。
だから刃太は深く考えもせず、思ったことを口にした。
「うん、幸せだよ」
とてもとても、今は幸せだった。姉もいる。家族もいる。友人もいる。ドゥリンダナだっている。これが幸せじゃなくて何が幸せなのか。
「とっても、幸せだ」
唐突な問いには、曇りひとつない純粋な言葉が返ってくる。それを訊いて、ドゥリンダナは童女のような笑顔を見せた。満足げでもあり、誇らしさをも感じる。
いつもなら頬が紅くなりそうなほど可愛い笑顔。でもそうはならず、何故か穏やかな気持ちで見守っていられた。
「刃太ーっ、ほら、早く来なさいよー」
姉の呼び声で、この言い表し辛い空気は霧散無消した。くすりと笑い、ドゥリンダナが手を小さく振った。
「行ってらっしゃいませ、主」
「うん──行ってくるよ」
刃太はドゥリンダナに背を向けて、姉の元に走り出した。自分達の手で勝ち取ったこの日常の下で──。
輝明学園校門前で、ひかりとその友人に声をかけられた。あの一件でひかりとは懇意にさせてもらっていた。
ひかりと多恵に姉と自分。正面玄関にたどり着き別れるまでの間の短い会話。それは特に何があるわけでもなく、取り留めたこともない。
ただ、それが楽しくて。
今一度、刃太は断言した。
──とても幸せだ、と。
fin...
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