10:切り開く魔剣使い
魔剣と紫稲妻が交差する。
耳朶を鋭く刺激する激突音が連鎖的に生まれ刹那の紅い花を宙に咲かせた。
前と変わらぬ剣戟に、既視観を覚えさせられる。唯一違うことと言えば、"一対一"の時と違い応戦することも出来ていると言うことだった。
それに今は、もう一人頼もしい魔術師がいた。
刃太が後ろに跳ぶと、それを紫稲妻が追う。
「フォース、ブレイド!」
僅かな間を狙って漆黒の刃が打ち出された。
刃の接近に気づき紫稲妻は腕を振るい、漆黒を叩き落とす。攻撃を払うと言うワンアクション必要な行動を起こした紫稲妻の懐へ刃太がすかさず飛び込む。
「せいァッ」
逆袈裟に剣を振るった。相手が常識外の存在でなければ間違いなく直撃コース。
風を切る刃を、紫稲妻は鋼より硬く変化した髪で受け止めた。すかさずカウンターで顎を狙い足を跳ね上げる。
刃太が身を捻って間一髪爪先から逃れると、その頭上で大鎌のように返す刀で首を刈ろうと足を引き戻した。
そこでひかりが介入する。掌から発射された水弾が紫稲妻の足に命中し軌道を逸らした。
そこに、刃太が最速のタイミングで踏み込む。
不安定な姿勢の紫稲妻に魔剣を振るうのではなく点として突き出した。
力強く突かれた魔剣に、紫稲妻は大量の髪を螺旋状に絡みつかせて運動エネルギーを受け止める。そのまま髪でぎっちりと魔剣を固定し、拘束した。
「ドゥリンダナ!」
武器を捕らえられた刃太に、紫稲妻は貫手を槍のように突き出した。その攻撃は素手で防げるような代物ではない。
『させはしない!』
瞬間、魔剣状態のドゥリンダナが髪の合間から閃光をほとばしらせた。同時に髪が捉えていたはずの魔剣が忽然と姿を消した。
否、消えはしない。ただ別のものに置き換わっただけだ。
ドゥリンダナは人間状態に変化する際髪の中から抜け出る。
人間状態になった時には右腕の剣化を済ませ、それで紫稲妻の貫手を受け止めた。
ドゥリンダナと鍔迫り合う紫稲妻に、ひかりは漆黒の処刑刀を飛ばした。素早い動きで紫稲妻は跳び避ける。それをもってドゥリンダナは紫稲妻と分断された。
均衡から解放されたドゥリンダナの身体は、また魔剣の状態へと戻る。それを宙で刃太が受け止めると、脳内で声が反響した。
『あの自由自在に稼働する髪をどうにかしなければ。あれはどうにも厄介です』
まったくもって同意見。紫稲妻のトレードマークたるあの思うがままに動作、硬化する機能はどうにも目障りであった。攻撃はほとんどあれで防がれてしまっている。
攻撃に使えば無限の刃や槍となり、防御に使えば全方位網羅の全身城壁。
しかも同時に体術を扱い、相乗効果で厄介さが増している。手数は四肢を持つ生物の倍近い多さ。紫稲妻の猛攻を総て受けきるには腕を後二本ほど生やす必要があるだろう。
「うん、あれを使えなく出来ないかな……」
『その方法はあります』
「そうなの?」
『ええ。紫稲妻の攻守の要はあれです。単純にあれさえも受け止めきれない攻撃を繰り出せば、その両方を同時に潰すことができます』
「でもそれが難しいんだろう?」
簡単に切ろうと思ってそれが出来ていたら、こんなにも苦労はさせられてはいない。
『通常の一撃ならば、無理です。ですが、"魔器解放"をすればわたしの力を限定的に上昇させ一撃に乗せられます』
「魔器解放? ──っと、花川さん!」
名前にぴんと来るものの、援護が邪魔と判断したのか後方のひかりに向かおうとしている紫稲妻の存在で、深く考えることも出来ずに足を動かした。身体を割り込ませて紫稲妻の前に立ちふさがる。
身体に覚えさせた知識で魔剣を振るい、紫稲妻を足止めする。白兵戦が苦手な魔術師に接近を許してはならない。関節や筋肉が悲鳴を上げながらも構わず全力で斬撃を打ち込む──。
ひかりの魔法攻撃による支援を受けながら戦う刃太が返答出来ないのを悟り、ドゥリンダナは主が疑問に思っているだろうことを説明する。
『魔器解放の情報は主の記憶にも吸収されているかと思います。この能力は魔器、つまるところわたしの力の限定的に解放するものです。現状、主が使える攻撃で最も威力が高い』
確かに、記憶の片隅にだが魔器解放についての情報があった。内容はドゥリンダナが話したものと遜色はない。
剣を振るい原始的な戦いばかりを繰り広げていたから喪失していたが、刃太もウィザードである。ひかりが使用する魔法のような常識外の力を行使することができるのだ。
基本遠距離攻撃に終始する魔法とは違う、白兵戦を担うウィザードの強力な必殺技。
刃太の場合、それは魔器解放だった。
『やり方は分かっているはずです。……後は、思い切り叩きつけてください』
やることは単純にして明快。勝機を掴むため成すべきことは定まった。
そんな時、刃太は自分の内から湧き上がり、巨大な水流となる力を感じた。違和感も感じはせず、刃太はそれを紫稲妻に放出する。
「──ウォータープレッシャー!」
片腕を引き絞り、拳を突き出す。そこから大量の水が柱となり、紫稲妻を強襲した。
「…………!」
近距離からの水流を避けること叶わず、紫稲妻は押し飛ばされた。
ぎゃりぎゃりと地面を足が引っ掻いても水の勢いは衰えることなく何メートルも刃太との距離は離れていく。
その途中、紫稲妻は重力弾を作り出し水流にぶち当てた。
水柱は重力に押しつぶされてその力を失う。
四散する水の中立ち直った紫稲妻は、駆けてくる刃太の姿を目撃した。
「魔器、解放ッ!」
距離は既に目と鼻の先。お互いの間合い。
刃太の言葉に呼応して魔剣の鍔に刻まれるルーン文字が輝いた。刀身にその輝きが乗り移り神々しく荘厳な光の衣を羽織い、眼前の敵を断つ剣となる。
「これでも、喰らえええ──ッ」
攻撃不能。紫稲妻は硬質化された総ての長髪を前面に展開する。防御を固めて自身最大の守りで攻撃を迎え、
──一閃。
魔剣が、振り抜かれた。
紫稲妻と刃太が交錯する。
刃太の手には痺れを含む痛みが残響のように残っていた。
紫稲妻は、未だ健在。
特筆すべき傷もなく、刃太の全力の力を受けてなおそこに存在した。
肉体に、傷はない。
だが、
紫稲妻の長髪が花びらのような様相で地面に落ちた。それも一本ではない。舞い落ちるそれは数えることも出来ぬほど、無数に落ちていった。
紫稲妻の長髪は、今や短髪に切りそろえられていた。
「やりましたっ!」
ひかりが箒を揺らして歓声を上げる。
鉄壁の防御は刃太の一撃で崩れ去った。
ガッツポーズをしたかったが、刃太は喜ぶのはまだ早いと緒を締め直す。まだ攻撃力と防御能力を低下させただけで、斃したわけではない。
刃太が踏み込み互いに背を向けるようになっていた体勢から、後ろを振り返り様に薙ぎ払う。
紫稲妻は背を向けたまま、その斬撃を硬くなった手で受け止めた。
刀身を掴まれる前に後方へ飛び退く。油断なく剣を構えて、背中を見据える。
やけにゆったりした動作で──いや、刃太の脳が過剰に働き世界がスローモーションに見えているのだろう──紫稲妻は振り返った。
目が合った時と、まったく同じ感覚。
心臓が掴まれて押し潰されようとしていた。無論、ただの比喩であるのに──紫稲妻を見た瞬間、本当に胸が潰れると錯覚した。
それほどまでに衝撃。
相変わらず黄金比のプロポーション。キチン質で覆われただけの際どい格好。風貌も何も変わりはない。
なのに、
髪が短くなっただけで、
──その顔が奈々子とダブってしまうのは何故だろうか?
「──────えっ?」
なん、で?
訳が分からなかった。奈々子は、姉は紫稲妻に殺されたはずだ。無関係な人間なのに偶々捕食されてしまった被害者のはずだ。
それなのに、何故紫稲妻は奈々子と同じ顔を持っているのだろう。
童顔ではない。その造形は刃太が知る姉のものではなかった。身体は似ても似着かない。
それでも、奈々子の面影があった。長年兄弟として暮らしてきた人間だけが分かる独特の感覚。
「……姉、ちゃん?」
ぽつりと洩れた呟きにひかりが動揺を露わにするが、刃太はもう紫稲妻しか目に入っていなかった。
刃太の問いかけには答えず、紫稲妻は無造作に足を振るう。反射的に魔剣で受けようとしたら力が入らずに刃太の手から弾き飛ばされた。すぐ近くに音を起てて地面に横たわる。刃太はそれを拾いにいく戦意も喪失していた。
武器を失った敵にトドメを差そうと腕を振りかぶり、紫稲妻が一歩前に踏み出す。
「……姉ちゃん? 姉ちゃんなんだろ!」
そんなものも眼中には入らず、ただ刃太は叫んでいた。
「刃太くん、何を──」
「答えてよ、姉ちゃん!」
ぴたりと歩が止まり、突き出そうとしていた腕が停止する。明らかに刃太の言葉に反応していた。それに気づいて刃太は畳み掛ける。
「あんた、姉ちゃんなんだろ!? 俺が分かるよね? なら何か答えてよッ」
必死に訴える刃太の声に、紫稲妻が頭痛をこらえるように頭を抑えた。
両手で頭を抱えて、喉の奥から苦悶の声を洩らした。そのまま膝を地について、背を震わせる。
「うっ、く……ぁ……ああっ」
「姉ちゃん!」
駆け寄って刃太も膝を折った。それが罠だとか、恐れる感情は少しも刃太には浮かんでこない。相手の双肩に手を掛けるその姿は、目の前で苦しむ姉を心配そうに見つめる弟のものだった。
「は、あ……っ、刃、太……?」
虚ろな瞳で紫稲妻──奈々子が、なんとか聞き取れるほどの小さな声で刃太の名を呼んだ。
「やっぱり、姉ちゃん……なんだよね?」
改めて確認するまでもない。この声は確かに姉のものだった。今まで気づかなかったのが不思議なくらいだ。
なんで奈々子が紫稲妻の姿をしていてしかも襲って来たのかは分からない。それでも、死んだと思っていた姉が生きていたことに心の底から安堵した。
「……刃太」
「な、何? 姉ちゃ──」
ずぷりと、
刃太の左肩に奈々子の手刀が食い込んだ。
「──あ?」
奈々子が手を引き抜く。肩の傷口から血液が溢れ出た。そこから激痛が走り、刃太は傷口を抑える。それでも指の間から紅い物が滲み出て、深紅の地面に落ちた。
「姉ちゃん……?」
その痛みよりも奈々子に刺されたことに驚いて、刃太は呆然と相手を見た。
奈々子の顔は苦悶に歪んでいて、額から脂汗が滲み出ていた。酸素を肺に送るだけで辛いのか、呼吸が荒い。
虚ろな瞳で奈々子は刃太を突き飛ばした。
「逃げて……あたしに、近寄らないで……っ!」
「なんでだよ! なんでそんなこと──」
訳も分からず叫んで、刃太は奈々子に駆け寄ろうと立ち上がりかける。
「来るなァッ!」
今まで訊いた事がない怒声に、刃太は足を止めた。
血を吐き出すように奈々子が言葉を口にする。
「駄目……来ちゃ……っ、ああ……!」
自分の身体を抱いて奈々子は身を震わせた。堪え、堪え、何かを抑えつける。かつてインフルエンザに掛かって四○度の熱を出してしまった時よりも奈々子の苦しみ方は異常だった。
瞬間、奈々子の背から黒い霧状の物体が噴き出した。それは奈々子と繋がったまま、宙で広がらずに止まる。
なんだ、と刃太が思うと、霧に三つの横線が入った。それらが縦にぐわりと開いたことで、それが目と口なのだと言うことが理解できた。
「余計ナコトを言ウナ、人形風情が」
一際大きな裂け目──口が動いて、見下すように奈々子を罵った。それをきっかけに奈々子の震えが大きくなる。
「くぅ……っ」
「姉ちゃん!」
短髪になった髪を額に張り付かせた奈々子は、息も絶え絶えに刃太を見上げた。
「刃、太……あたしを、殺して……!」
文字通り、刃太は言葉を失った。
奈々子はいきなり何を言い出すのか。
殺せ? 刃太が奈々子を? 何故そんなことをしなければならない。
せっかく生きていたと分かったのに。それなのにいきなり自分を殺せなどと。
姉の真意が刃太には理解出来なかった。
ただ奈々子の背後に浮かぶ黒い影は分かっているのか、都合が悪そうに顔を歪ませた。
「オ前は黙ッテイロ。ゴブリン精製の為にスリ減ラサレタプラーナシカ持タナイオ前にモウ用はナイ。イイ加減消エテシマエ」
黒い霧が奈々子に纏わりつく。それはまるで包容をしているようだった。雷に打たれたように、奈々子の身体が跳ねた。
唯でさえ虚ろな瞳から理性の色が失せていく。その様子に刃太は堪らなく恐怖し、狼狽した。
「お、おい! 止めろ!」
地面に転がったドゥリンダナを掴み、訳も分からないまま黒い霧に振るった。
霧に接触する、と思もわれた魔剣は下から伸びてきた腕に掴まれる。女性的なそれに驚き、刃太は剣を引いて後ずさる。
剣を防いだのは他でもない。奈々子だった。
奈々子を苦しめているはずの霧を庇うという行為に刃太は動揺する。
「良イコトを教エテヤロウ」
刃太を見て面白そうに霧が嗤った。
「コノ女のコトダ。ナンデコイツがコンナコトをシテイルト思ウ?」
「え……?」
「ワカラナイカ?」
からかう霧に死角から光の針が放たれた。飛来するそれをまたしても奈々子が叩き落とす。
「そんなのアナタが憑いているからでしょう、エミュレイター」
箒を突き付けて、ひかりは奈々子──頭上の霧を睨みつけた。
「刃太くん、どうやら奈々子さんを助けることが出来るようですよ。奈々子さんは死んでいなかった。ただ乗っ取られていただけです」
『刃太、貴方の中にその記録があるはずです』
ふたりの言葉で刃太の記憶が反応する。ドゥリンダナと繋がった時に流れてきたモノの一つだった。
エミュレイターは人間や生物に寄生することが出来る。寄生された生物は常識外の身体能力を得るものの、肉体の主導権をエミュレイターに奪われ意志も剥奪される。
こうなれば宿主と共にエミュレイターを斃すしかない。が、例外はある。寄生されてからの日数が少ないと外的要因──つまり攻撃などによる衝撃で引き剥がすことが出来るのだ。
奈々子がこのエミュレイターに憑かれてからまだ二日と経っていない。
つまり、まだ引き剥がして助けることが可能だと言うこと。
それが分かると、刃太の身体に力が湧いてきた。まだ助けられる。やっぱり姉ちゃんは死んでなんかいない。暗澹と立ち込めていた絶望を刃太は振り払った。
そうと決まれば、と活力が戻ってくる身体で魔剣を構えた。
黒い霧は──ウィザードの様子に呆れているようだった。目らしき二つの穴と口のような裂け目しかなくても、雰囲気からそれが窺えた。
「……人間と言ウノハ、ヤハリ愚カダ。自ラのタメとは言エコヤツラを助ケル同族の気が知レン。オ前ラは都合の良イ解釈シカ出来ナイノカ?」
「……なに?」
「情ケナイ貴様ラに現実を単刀直入に言ッテヤロウ。"コノ女は既に死ンデイルガ故に助ケルコトはデキナイ"」
「……っ! はったり、ですか?」
「ソンナ事をワタシが言ウメリットは?」
メリットは、見当たらない。むしろデメリットの方が目立った。
このまま奈々子を助けられると刃太達が思っていれば、攻撃は必然的に手加減が加わる。しかし助けることは出来ないと宣告してしまったら、攻撃の手は緩まない。
「動揺を誘うのなら効果的なはったりでは?」
「マダ目を背ケルカ? コノ女は四年前既に死ンデイル。誰ニモ知ラレズ事故デナ。チョウドワタシが使イ易イ素体ダッタノデ、蘇生サセテ使ワセテモラッタヨ。副作用ナノカ肉体的に成長シナクナリ、自意識マデ残ッテイル大変稀ナモノにナッタガナ。シカシソノオカゲデ、ドンナウィザードもワタシを疑イはシナカッタ。誰モ"陽が沈ンダラエミュレイターに身体を乗ットラレル人間"がイルナンテ思イもシナイダロウ?」
四年前に、死んでいる? それで成長が止まった?
その単語に刃太は硬直した。姉は童顔である。"まるで中学生"と見違えるほどのそれは、妹と間違えられるほどだった。
刃太は思い返す。昔は姉を童顔と思っていたか思い出す。
違う。刃太が中学生に上がったばかりの頃、奈々子を見て大人びてると思った。年上なんだと意識させられた。それがいつからだろう。元からのだった身長だけではなく、様々なモノで姉を追い越し始めたのは。
四年前からだ。四年前から姉は成長の歩みを止めた。何もかもが変わらなくなった。だから周りはみんな童顔だと思い込んだ。別に変な病気は見つからなかったから。
その時には死んでいて、このエミュレイターに寄生されていたというのか?
「そんな、ことが……」
「アル。ダカラコソワタシは生キ長ラエテイル。第一オ前もコレが紫稲妻ナドとは夢ニモ思ワナカッタダロウ?」
紫稲妻は奈々子が襲われる前から存在している。ならエミュレイターは寄生元を変えてはいない。最初から紫稲妻は"奈々子"で固定されている。
「もう駄目……刃太、逃げ……て」
奈々子の口が弱々しく動いた。目の焦点はあっておらず、気力だけでなんとか今の言葉を紡いだのだろう。声にも力はなく平坦だった。
それを鬱陶しげに見下ろして、黒い霧はボヤく。
「唯一の欠点は、貴様達──特に魔剣の主に手加減をスルコトダナ。オカゲでナカナカ殺セン。利用スルタメニ残シテイタプラーナも無クナッタト言ウノニナ。ダガソレモモウ終ワリとナル。コノ女の自意識は虫の息──直、コノ意識も消エ去ル」
黒い霧が徐々に薄くなる。消えているのではない。奈々子の身体に完全な融合を果たそうとしていた。
「やめ……姉ちゃ──」
黒い霧が、消える。
それを合図に奈々子が立ち上がった。──いや、もう奈々子ではない。それは紫稲妻、エミュレイター。
生命力に溢れた自分の身体を見て、紫稲妻は嗤う。
「ようやく枷が外れたか。いや、まだ完全ではないな。それでも少しずつ力が漲る──素晴らしい」
止めろ。
奈々子の身体でそんなことを言うな、するな、行うな。
刃太の願いは、紫稲妻によって踏みにじられる。
紫稲妻が剣を握り締める刃太を見て、指の関節を鳴らした。それは、獲物を前に舌なめずりをする獣に似ていた。
「最初は、お前だ」
紫稲妻が地面を蹴り刃太に手刀を突き出す。身体が無意識に動きそれを防いだ。
一撃を受け止めた次の瞬間、紫稲妻の膝が腹部に喰い込んでいた。
大槌をぶち込まれたような衝撃に、刃太は数メートルも吹き飛ばされ地面に転がる。鈍痛と言うには鋭すぎる痛みに臓器が破裂したのではないかと思った。
追い討ちを掛けようとする紫稲妻にひかりが魔法を放つ。
「刃太くん! 早く立ち上がってください!」
釣瓶撃ちされる魔法を紫稲妻は踊るように躱していく。
ひかりだけに戦わせるわけにはいかない。そう思いつつも刃太は動けなかった。肉体的なこともある。だが一番動きを邪魔している奈々子のことだった。
「……ドゥリンダナ、姉ちゃんを助けることは出来る?」
『無理、でしょう。……年単位で定着したら、どんなウィザードでも寄生元を助けることは出来ません。それでも助けるたいなら──』
ドゥリンダナは彼女にしては珍しく苦しく呻くように。
『お姉様を、殺すしかありません』
──あたしを殺して。
そんな言葉が思い出された。
奈々子は知っていた。自分が化け物に犯されていることを分かっていた。だって自分のことなのだから、分からないはずがない。
それでもこんなことを相談できる相手を知らなくて、奈々子はずっと自分の中に隠していた。
たまに奈々子は夜にいなくなった。その時の奈々子は紫稲妻だったのだろう。紫稲妻としての記憶は辛うじて奈々子も分かっていたのか。きっと夢として見ていただろう。刃太がウィザードとして覚醒していない時に見た夢のように。
今思い返せば、
刃太は奈々子が紫稲妻であると気づかなければならなかった。
数日前の朝、奈々子は行方不明事件と類似している殺人事件があると言った。警察も関連性を疑っていると、刃太の周りでも噂されていた。
噂されていた。元は早朝のニュースである。上代家もニュースを見ていた。
でも刃太達が食事している時流れていたのは"天気予報"だった。奈々子の言った物騒な出来事については一言も触れられてはいない。
あれは、家族に出したSOSだったのだ。受け取られることがないと分かった。自分はまだニュースに出ていない事件を知っている。犯人は"自分なんだよ"と。
刃太が輝明学園に忘れ物を取りに行こうとした時、奈々子の好きな番組がやっているのにリビングにいなかった。だってその時彼女は輝明学園に向かっていたのだから。
それに、刃太は確実に気づかなければならない異変があった。
それは上代家に"空き部屋なんて一つもない"と言うことだ。
上代家は貧乏と言うわではないが、一部屋余らせていられるほど裕福なわけでもない。
両親はドゥリンダナを泊めてと言われた。泊めるからには部屋が必要である。しかしそんな空き部屋はない。そう考えたはずだ。
それがきっかけになり、奈々子の部屋は消えた。プラーナが少なくなっていた奈々子のことを両親は無意識に喪失し、は奈々子に部屋があることを忘れた。奈々子には部屋があったはずなのに部屋がない、と言う矛盾は生まれない。
何故なら世界結界が常識を守るために奈々子の部屋に存在した総てを消去したから。だが部屋を失った奈々子はその時点では、まだ真の意味で忘れられてはいなかった。
その晩、奈々子は家族に何も告げずどこかで一夜を過ごしたのだろう。
そうして朝にはいつものように食卓についた。自分が何かを言って日常を壊したくなかったから。
まだ大丈夫。あたしは消えない。そう思った。
なのに学校からの帰宅途中、ドゥリンダナのホームステイをきっかけに奈々子の中にあったアイデンティティが僅かに崩れた。唯でさえ少ないプラーナが減少していたそこに付け込まれ、プラーナを総て喰い尽くされたのだ。
こうして上代奈々子は消失した。
「なんで……」
今まで気付こうとしていなかったのか。
紫稲妻が上代家に直接襲って来たのだって、刃太の居場所を知っていたからに決まっているじゃないか。
例えドゥリンダナから知識を貰い身につけたからと言って刃太は所詮素人ウィザード。それに魔王級がここまで手こずるわけがない。
刃太との戦闘にゴブリンも呼び出さなければ、重力弾すら放たなかった。魔王並の力があるのに空さえ飛ばない。必死に剣を振るう刃太が気付くことは出来なかったが、それは間違いなく手加減だった。
この月匣の中にある風景だって、姉の私物が散乱しているようじゃないか。
「殺す、しかないのか……?」
両親に忘れられてしまっても、プラーナを喰い尽くされても尚刃太を護ってくれていた優しい姉を。
『……はい。人の力では、それしか手段はありません』
悔しさに奥歯を噛み締めると、歯茎が裂けて口の中に血の味が広がった。
そうするしかないのかと、もっと良い方法はないのか、そう思考を逃がしてしまう。
姉をこの手に掛けたくない。
だけど、奈々子を救うにはこれしか方法はなかった。出なければ、寄生された奈々子の身体は延々とこれからもあのエミュレイターに使われてしまう。
それは許せない。
絶対に許せない。
なら、もうやるしかない。
緩慢な動作で刃太は立ち上がった。身体の痛みはそれほど酷くはない。それでも身体はコールタールに沈んでいると思うほど鈍かった。
これでは駄目だ。紫稲妻には勝てない。やると決めた。そうすると決心した。
それが奈々子の為だと自らに言い聞かせた。
遠くではひかりが紫稲妻に矢継ぎ早と魔法攻撃を仕掛けていた。しかし状況は芳しくない。まばたきひとつの時間で形成が逆転してもおかしくはなかった。
息を大きく吸うと、刃太は迷いを断ち切るように絶叫した。
「──ゥおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
軽快に魔法を躱す紫稲妻へ接近し、刃太は力強く魔剣を振るった。
「おっと」
当たれば大打撃を与えたであろう一薙ぎは虚しく宙を切る。
「当たらないなァ」
紫稲妻は唇を釣り上げて嘲笑する。
──姉ちゃんの身体で、随分芸達者になったな。
嗤う紫稲妻に間髪入れず二太刀目を打ち込む。
下方から切り上げられる一撃はまたしても当たることかなわない。
「──ん?」
紫稲妻が柳眉を顰めた。構わず三太刀目、ダイレクトに袈裟と変化し風を切る。それも紫稲妻は躱した。
四太刀、五太刀、六太刀──。
斬線を無数に浮かべる魔剣はひとつたりとも紫稲妻に命中することはない。なのに、紫稲妻の顔から余裕が失せた。舌打ちをして一度距離をとろうとする。
──させるものか。
逃がさんと斬撃を放った。それを紫稲妻は硬化させた腕ではじき、逃げるのを止める。
「小癪なッ」
重力弾を掌が撃ち出す。重力弾に捉えられまいと身を屈めて避け、同時に紫稲妻へ肉薄する。
至近距離で放つ一撃を軽業師のような柔軟な動きで直撃を避け、紫稲妻は刃太を忌々しげに睨んだ。
「貴様、速くなって──」
剣と硬化した手足が打ち合う中、刃太の瞳は真っ直ぐ相手を見ていた。
刃太の動きは剣を振るうごとに速くなり、キレを増していく。経験が身体に蓄積されていき、恐ろしい速度で刃太の剣筋は進化していた。
──まだだ、まだ足りない。
こんなものじゃまだ届かない。髪と言うアドバンテージを失っている紫稲妻さえ斃せはしない。
もっと、
もっともっともっともっともっともっともっと、
力がいる。知識がいる。経験がいる。
──読込開始。
ドゥリンダナと身体が接続される。剣を振るい経験を得ることと平行して刃太は知識を取り込んでいく。
「そう簡単に殺られるとでも!」
怒声が発せられた瞬間、刃太の視界から紫稲妻が消えた。圧倒的速度による高速移動。
頭上からプレッシャーを感じて刃太は見上げる。数メートル上空、そこで紫稲妻が腕を突き出していた。
「ヴォーテックス!」
今度は重力弾を避けることは出来なかった。それは命中した途端に膨張し、刃太を重力で拘束する。身体に掛かる重圧で身動きがとれなくなった。
足を止める刃太へ、紫稲妻は足を振り上げ落下と共に踵を叩き付けようとする。
「私を忘れられては困りますッ」
ひかりが漆黒を塗り固めた刃を生み出し紫稲妻に向け撃ちだした。振り下ろそうとしていた足の軌道を変更させて迎撃する。
刃は拮抗することもなく叩き折られたが、その隙に刃太は重力を振り払うことに成功する。
解放された刃太を見て紫稲妻は再度ヴォーテックスを撃つものの、それは回避した。
自由落下の着地点を狙おうと魔剣を構える刃太を見て、紫稲妻は近くの壁──のように巨大なオーディオ機器──に指を食い込ませた。そのまま腕の力だけで天高く飛翔する。
それを刃太も地を蹴りさらに壁の出っ張りを踏みだいに追いすがる。ウィザードであるからこそ出来る芸当。
「逃がすか!」
「うろちょろと──もう沈めッ」
空中で幾重にも幾重にも幾重にも剣が舞い拳が舞い身体が舞う。火花を散らす刃金と拳。
紫稲妻の蹴りを剣で受けとめた刃太が吹き飛ばされる。進行先にあった何かにぶつかり、それが砕けた。
激痛に耐えながら巨大な破片を踏み台に、刃太は空で君臨する紫稲妻へ襲いかかる。剣が拳に受け止められると、刃太の身体が淡く発光した。
プラーナ解放。
ウィザードは一般人には操作出来ないプラーナをコントロールし、一時的に自分の力にすることが出来る。
増幅された力で紫稲妻を押し切りよろめかせ、お返しとばかりに踵で腹部を穿った。相手は真紅の床に叩き付けられる。
手応えは、軽い。
寸前でもう片方の手で受けられた。たいしたダメージは与えられていない。少なくとも今刃太の身体を蝕む痛みの半分もないだろう。
飛行能力を持たない刃太が自由落下を始めると、俊敏な獣のように紫稲妻は地面から飛びだした。
「人間風情が舐めた真似を!」
弾丸を連想させる凶悪さで拳が打たれる。刃太は魔剣の腹で受け流した。また吹き飛ばされると言った愚は犯さない。
上手く防いだと思う間もなく、紫稲妻の回し蹴りが脇腹にめり込んだ。ミシリと肋骨が軋む。
脚力で吹き飛ばされそうになると紫稲妻に刃太は頭を掴まれ地面にに叩き落とされた。
衝撃で真っ白になる視界。白濁に染められ消えかける意識。
──届かない。
この程度ではまだ足りなさ過ぎる。
紫稲妻の力は完全ではない。だが時間が経過する度に強くなっている。つい今飛行が可能になり、拳一発の威力も増加していた。
いったい、どれだけ紫稲妻は手加減をしていたのか。
これでは勝てない。勝たねば意味がない。奴に立ち向かえる力が欲しい。
腕を通じて染み着いていく知識にさえ、刃太は満足出来なくなっていた。
紫稲妻の追い討ちを躱し、痛む身体を酷使して立ち上がり剣戟を繰り広げる。
その最中、刃太はドゥリンダナに叫ぶ。
「ドゥリンダナ! もっと力が欲しい。一時的で良い。一瞬でも良い。それだけの間で──勝てる攻撃をッ」
あるはずだろうと思った。ドゥリンダナには魔器解放のさらに上位の力があるはずだ。この魔剣はこんな程度の代物ではない。今流れてくる知識もドゥリンダナは意図的にセーブしている。
きっと、それ以上は刃太の身体に多大な不可がかかる。
『ですが──』
「そうでもしないと勝てないんだ、ドゥリンダナッ!」
「何をこそこそと!」
殴りかかってくる紫稲妻をひかりに援護されながらいなした。
猶予はないとドゥリンダナも悟り、
『……良いでしょう。今から二つだけ技を送ります。これが刃太の限界です。これで、片を付けてください』
「──充分!」
心臓の鼓動に合わせ、血流に乗ったかのように身体へ知識が流れ込んできた。
魔器解放を超える真の意味での必殺技。
もうひとつは──
刃太は再度プラーナを解放させ切り込む。強化された切っ先が硬い紫稲妻の腕を浅く裂いた。それが辛うじて保っていた紫稲妻の堪忍袋の緒を切断した。
「いい加減飽き飽きだッ!」
声を荒げて紫稲妻が上空に飛び上がる。プラーナを解放をすれば追いすがれるであろうが、そう何度も軽々しく使えるものではない。
数十メートルの高見から紫稲妻は刃太を睥睨した。
「力も戻った。これで汗臭い戦いも終わりにしてやれる──」
紫稲妻が両手を突き出した。その先で漆黒の塊が形作られていく。収縮しているのは重力。それは先程のヴォーテックスとは比べ物にならない破壊力を内包していた。照準は刃太に合わさり、破壊の化身は暴力性を上昇させていく。
「刃太くん、逃げて!」
切羽詰まったひかりの悲鳴が聞こえた。それでも刃太は逃げようとしなかった。
無理なのだ。あれの射程から逃れることは出来ないと、ドゥリンダナからの知識が告げていた。撃たれた後に避けようとしても、あれが巻き込む範囲は広い。とてもじゃないが避けられない。
それにもし下手に動いたら矛先をひかりに変える可能性がある。自分だけ助かってひかりが重傷──下手をすれば死ぬ──を負うなんて許せない。
だから、刃太は動かなかった。冷や汗を流しながら強く紫稲妻を睨みつけた。
その視線が殊更紫稲妻の神経を逆撫でした。
そして、
「……失せろ。──ヴォーテックススクエア」
暴虐の弾丸は解き放たれる。
収縮していた重力弾は途端に膨張し巨大な重力の塊となる。それはもはや弾丸ではなく重力の波だった。
それが刃太を押し潰そうと迫り──
紫稲妻は目撃する。刃太の目がまだ諦めていないことを。魔剣が光り輝いていることを。
魔剣の刀身にルーン文字が浮かび上がる。それは鍔に刻まれたものとは似て非なる存在。魔剣自身の所持していた魔力がそのルーンの力を呼び起こす。
『この剣、担い手を襲う災厄を切り裂かん──!』
刃太は重力破に縦一閃と魔剣を振り下ろした。
「────らあああああああああああああああっ!!」
面を描いていた重力破が二叉に斬り裂かれ刃太の左右を通り過ぎていく。圧倒的な圧力に押し返されそうになるのをこらえ、刃太は魔剣で重力破を両断した。
ふっ──と言う僅か静寂。
それは刃太の後方で巻き起こる爆音に弾き飛ばされた。
大地が鳴動するほどの衝撃が巻き起こり、紫稲妻はその様子を驚きながら見下ろしていた。
「な、んだと……っ!?」
それが紫稲妻の犯した最大にして最後の過ち。
刃太は乱雑に放置された障害物を飛び越え、紫稲妻に接近していた。一際巨大でマンションと同サイズのそれを蹴る。身体は宙に投げ出され、落下先には紫稲妻の姿があった。
ワンテンポ遅れて刃太に気づき、紫稲妻は瞠目した。
「──ッ、人間如きがアアアアアアアアア!」
紫稲妻が凝固した貫手を繰り出し、
「封印、解放────ッ!」
魔剣の鍔に刻まれたルーン文字が目を焼くような極光の光を発した。それは眩く魔剣を包み込み──
──光の剣となり紫稲妻の身体を切り裂いた。
鮮血が舞った。紅い血液が花弁のように空に散った。
「そん、な……」
そう呻いて、紫稲妻の身体は落下した。続いて刃太の身体も地に落ち始める。思わず魔剣を投げ捨てて紫稲妻を抱き止めた。
そのままなんとか着地すると、全身に激痛が走った。それでも紫稲妻──否、奈々子は落とさず、刃太はゆっくりと地面に下ろした。
奈々子の身体から流れた血液が地に広がっていくに連れて、顔から血の気が引いていった。姉の命がなくなって行くのを刃太は無力に見ているしかなかった。
姉の死を見届けようとしている刃太を、ひかりと人化したドゥリンダナが伏目がちに見つめていた。
「姉ちゃん……」
喉の奥から絞り出された声が洩れる。奈々子の手を掴むと、驚くほど冷たかった。本当にこれが人間の体温なのだろうか。
「……今にも死にそうな声出さない」
奈々子がうっすらと目を開いていた。その瞳に力はなく、きっと出血のせいで目はほとんど見えていないだろう。
「馬鹿……死にかけてるのは、姉ちゃんじゃないか」
刃太の軽口にも覇気はない。
手が震える。今は辛うじて生きている姉が後数分で死んでしまうと思っただけで、どうしようもなく恐ろしかった。
しかもそれを自分が執行してしまったと言うのが、その感情に拍車をかけていた。
「あ、ははは……そう、だよね。あたし、死んじゃうんだよね……」
「…………うん、俺の、せいで」
「あたしが、頼んだんだよ。……こんなこと、させてごめんね。刃太は、よくやったよ」
そう言って励ますように奈々子は笑った。
──なんでだよ、と洩らしそうになった。なんで自分が死に掛けているのに他人を気遣えるんだよ。
最後まで、死ぬその瞬間まで、こんな情けない弟を守ってくれるんだよ。
姉ちゃんのメッセージに気付きもしなかったのに。良くも殺したなと恨み言を吐き出してくれてもいいのに。
お調子者で、子供っぽくて、悪戯好きな姉。
けして死んでいい人間なんかじゃない。家族にさえ忘れられて消えていい人なんかじゃない。
それなのに奈々子の手は氷のように冷たくなり、脈拍も無くなっていく。
「……ごめん、もうお迎えが来たみたい」
冗談めかして呟き、奈々子は弱々しい力で刃太の手を握り返した。まるで産まれたばかりの赤子が自らの存在を確かめるように。
「ねえ、刃太……そこに、いる?」
「……うん、いるよ。ここにいる」
もう目が見えていない奈々子の手を握り返した。
ここにいる。ずっといる。
姉に迷惑をかけ続けていた駄目な弟だけれど、死ぬとき位は安心させてやりたかった。
「良かった……刃太はそこ、に、いるんだね……」
刃太の言葉に、奈々子は顔を綻ばせた。
それを合図に、刃太の両手から奈々子の手が滑り落ちた。
血の海に落ちた手を刃太はもう一度握り締める。握り返してくる力はない。体温も、鼓動も、僅かにあった息遣いも、今ではまったく感じとれなかった。
人の死に顔は、もっと苦しげだと思っていた。でも、世界にさえ忘れさられた姉の死に顔は、
眠るように、酷く穏やかだった。
「──────っあ」
もう我慢をすることが出来なかった。心配を掛けまいとしていて堪えていた涙はついに決壊した。
「ああああああああああああっ!!」
滂沱の涙、なんて生涯流すことがあるなんて思わなかった。あんなの架空の物語でしかないものだと思っていた。
止まらない。流れ出す涙は我慢することが出来ない。
胸が引き裂かれたような痛みがあった。ウィザードとして覚醒してから受けた痛みさえも、これに比べれば些末なものだと思った。
姉を手に掛けたのは紛れもなく自分だ。泣く権利なんてないのかもしれない。
でも、彼女のために泣ける人間はもうこの世にはいなくなってしまった。
だから──。
溢れる涙は止まらず、奈々子の頬を暖かく濡らした。
ひかりもドゥリンダナも、刃太に声を掛けることは出来なかった。ただ、奈々子が息を引き取るのも黙って見ていた。
ひかりが俯いて、無念そうに呟く。
「私に、もっと治癒の力があれば……奈々子さんを助けられました」
「そう……かもしれません。でも、そんな仮定に意味はない。ひかりが自分を責める必要もありません」
淀みがほとんどない言葉。けれどドゥリンダナの所作にも暗い雰囲気が漂っていた。
「神様は、やっぱりいないんですね」
ひかりは箒を握り締めた。
刃太の嗚咽は途絶える気配も見せない。
涙で歪み、魚眼レンズを通して見ているような視界で息絶えた姉の表情を見た。
もう一度、
もう一度、奈々子の笑顔が見たかった。
また一緒に食事をしたかった。
また一緒にたわいもない会話したかった。喧嘩もしたい。好きなアーティストの話題だってなんでもいい。この際さっきまで行っていた殺し合いでさえ良かった。また姉と一緒に何かをすることができるだけで嬉しかった。
無念しか浮かんで来なくて、嬉しい思い出さえ残酷な刃に変わってしまって。
辛くて悲しくて、
今はただもう一度。
この人の笑顔が見たかった──。
「──そんなに泣かなくたって、良いじゃない。男の子でしょ?」
そんな声が、またどこからか聞こえてくる気がした。
下から伸びてきた手が、隻眼だけ碧眼になっていた刃太の目に浮かぶ涙を拭った。片目だけ晴れた視界で、刃太はぼんやりと目を開く奈々子の姿を見た。
「……大丈夫?」
泣き止まない弟を困った風に奈々子は見つめた。
信じられない。そう夢でも見ているように刃太は奈々子を見て、譫言みたいに呟いた。
「……姉、ちゃん?」
「……うん、そうだよ。あたしね、閻魔様に門前払いされちゃったみたい」
とぼけた風に言うそれは、間違いなく長年見てきた姉のものだった。
刃太は無言で姉の身体を抱き締めた。
腕の中の姉は暖かくて、無くなったはずの血液の脈動も息遣いもあって──。
刃太は恥も外聞もなく、再び涙を流した。悲しみにではなく、世界最高の奇跡に感謝して。
まさしく神が引き起こしたとしか言いようがないに奇跡に、ひかりは驚きのあまり呆然としていた。
ひかりは知っている。これが神に寄りもたらされた奇跡であることを知っている。かつて神であった者が起こせる一握りの奇跡であることを。
「……リンさんは、知っていたんですか?」
「…………」
ドゥリンダナは黙して語らない。ただ喜びあう姉弟の姿を見つめていた。
ひかりも二人──刃太の丸まった背を見ながら、もう一度。
「刃太くんが、"大いなる者"であると知って、貴女は契約したんですか?」
考えてみればおかしな話だった。魔剣使いは魔剣に選ばれ初めてウィザードとなれる。それまで魔剣使いは所詮ただの人間であり、月匣の中で活動出来るはずがない。
当然魔剣に見込まれる存在はウィザードとして資質も高く、月匣内に入れる可能性はなくもない。
だが他の部分──成長速度ひとつとっても刃太のそれは常軌を逸していた。
いくらドゥリンダナの知識と言う支援を受けたとは言え、人間はそう簡単に記憶を身体に覚えさせることはできない。百の知識を送った所で、だいたい半分覚えるかどうかだ。何せドゥリンダナに蓄積された記録は過去に彼女を振るった人間のものである。例え同じ剣術でも使用者が違うだけで動きは変わってくる。骨格から筋肉の繊維まで似通っている人間はそういるものではない。そんなの一卵性双生児くらいだろう。
なのに刃太は百をほぼ欠落なく百として吸収し、戦闘中にそれを使いこなした。これは一介のウィザードに出来ることではない。
大いなる者──"古代神の生まれ変わり"ならば、可能であるのだろうが。
刃太は最初からウィザードであった。けれどそれに気付くような出来事はなく、月衣も自分が月匣内で活動できる程度しか展開させられていなかった。それがドゥリンダナと契約を交わした瞬間に覚醒したのだろう。
ドゥリンダナは姉弟を見ながら、どこか遠くを見ているように目を細めた。
「わたしが選んだ主が、最初からウィザードだった──。ただそれだけのことです。……主のお姉様は助かった。今はこれだけで良いでしょう?」
何百、もしかしたら何千年と生きているのかもしれない魔剣を見て、ひかりはふと考えつく。
もしかしたら、彼女は昔──それに蓄積されている知識は、まさか──。
そう思ったが、ひかりは口に出すことはなかった。確かに、今はどうでもいい。そんな真相なんて些細なことだ。
今は、この小さな奇跡に感謝しよう。
|