1:異法の者共
四肢の感覚がなかった。
身体の感覚がなかった。
そもそも自分という存在を実感できなかった。
でも、こういう思考を働かせていられると言うことは、今も変わらず存在しているのだろう。
沼の中を漂っているような、粘液が纏わりつく感覚があった。感覚がないと言ったのに感覚があるのは、果たしてどういうことなのか。
それは、漂っているという感覚を除いて他の触覚機能──五感が総て失われているのだ。
目も見えず視界は不安を誘う黒、耳になんの音さえ届かないしの、意味が分からない状況。
だが、その中にいて不安を感じてはいなかった。
逆に心が落ち着き澄み渡る水面のように落ち着いていた。何故こんな状況で至上とも言える安らぎを感じているのか、それは分からない。ただ、物理法則に縛られていないこの感覚を何故か他の日常的なものより自然だと感じていた。
不自由なものから解放され、空を自由に行く猛禽になったとしたなら、きっとこんな感じなのだろう。
安らぎと高揚を感じながら、何も出来ないはずなのに何よりも自由なこの感覚にずっと身を浸していたいと思った。
その願いは、甲高い金属音で遮られる。
*
ジリリリリリリリリリリリッ。
頭上で子供が癇癪を起こしたように騒音を発する目覚まし時計を、上代刃太はベットから手を伸ばしてスイッチを切り黙らせた。
「ふ、んんーーーっ」
身体を起こすと腕を伸ばして大きく欠伸をする。カーテンの隙間から差し込む日差しが眩しかった。
一息ついて肩を落とし、寝ぼけた頭を起こすために頭を乱暴に掻いた。
数秒して脳がゆっくり動きだし始めたら、それにしても変な夢を見たなぁ、と先程まで見ていたものを思い出した。
夢は、起きていた時に起こった出来事を睡眠中に整理しているために見るもの、と聞いたことはあるけれど沼に落ちたような記憶はない。
夢の記憶は移ろい易いもので、刃太はもう断片的にしか思い出せなかった。それでも、なんだかとても安らいでいられた気がする。不思議な空を舞うような感覚も。本来有り得ないはずのそれが、夢の中では当然のことのように思えた。
目覚めた今では無論、空も飛べない不自由な普通人の身体であるのだけど。
「刃太ーっ、ごはん出来てるから早く起きてきなさーいっ!」
「今行くよ!」
階下からの母親の声に、刃太は思考を中断した。
ベットから降りて、ハンガーにかけてあるブレザーの制服に着替えると必要なものを制服のポケットに収め、時間割を揃えた鞄と脱いだ寝間着を手に部屋を出る。
階段を降りて洗面所の横にある洗濯機に寝間着を放り込む頃には、夢のことなど塵ほども覚えてはいなかった。
リビングに入ると制服姿の少女がテーブルに着いて朝食を口にしながら、早朝のニュース番組を見ている姿があった。
その少女がこちらに気づいてテレビから視線をこちらに移す。
「あ、おはよー、お兄ちゃん」
ひらひらと箸を持った手を振った。
幼さを残した可愛らしいショートヘアの少女に、刃太を嫌そうに顔をしかめた。
「あのさ、いい加減にやめてよ。それ」
「えー、なんで? お兄ちゃん?」
「だーかーら……」
皺が寄った眉間を人差し指で揉んでから、並ぶと自分の肩より小さい位置までしか身長のない少女を改めて見た。
「姉ちゃん、俺より年上だろ。お兄ちゃんなんて言わないでくれよ。ちょっと気持ち悪いよ」
「ひどぅい! せっかく幼児体型を利用して妹属性完備のハイブリッド姉になってあげてるのにっ」
「……言ってて虚しくならないわけ?」
「うん、お姉ちゃん自分でも泣きたくなった」
目尻を落としてうなだれる姉、上代奈々子を横目に溜息を吐いて、刃太も自分の朝食が置かれた奈々子の向かいの席に腰を下ろした。
奈々子は童顔だ。
高校三年であるのに、二年の刃太より遥かに幼く見える。外見中学二、三年。発育も悪く、下手をすれば一年に見えなくもない。
ふたりが一緒にいるれば刃太と奈々子のことを知らない者から見れば、十中八九兄と妹に見られてしまう。それを逆手にとって姉はお兄ちゃんと刃太をからかってくるのだ。今日みたいに自爆することも多々あるが。
いただきます、と箸を持って朝食に手をつける。
ちょうどその時に台所から母親が自分の分の朝食を持って現れた。ふたりに朝の挨拶を交わして、奈々子の隣の席に座った。
朝食を食い進め、刃太が三分の二ほど胃袋に収めた頃、ニュースを見ていた奈々子が箸先を銜えながら呟いた。
「そういえばさあ、最近多いよね」
「なにが?」
「行方不明事件」
ああ、と姉の言葉に刃太は頭の隅からそれの記憶を引き出した。
行方不明事件。
ここ最近、この周囲で頻繁に起こっている事件のことだ。被害者は必ず陽が落ちてから昇るまでの間に人知れず消えてしまうという。
外の空気を吸ってくると出ていった者、買い物に出掛けた者、ペットを散歩に連れて行ってそのまま帰ってこなかった者。被害者は様々だ。男女年齢職業にも共通点もない。犯人を捕まえようと夜中に巡回していた警官までもが行方不明になった。
人から離れた隙にこつぜんといなくなることから、神隠しの異常発生と人々の話題によく上がっている。なんとも物騒な話だった。夜中に外を出歩けもしない。
「確かに多いよね。でもそれがどうかしたの?」
「うん、なんかね。関連性があるかは分からないみたいなんだけど、行方不明事件と同じ状況で大怪我を負ったり、八つ裂きにされて殺されてる人がいるんだって。怖いねぇー」
「俺は食事中に八つ裂きとか言える姉ちゃんの神経の方が怖いよ。まだ残ってるんだから止めてよ」
「そうよ、奈々子。まったく、食事中に変なこと言わない!」
はーい、と気の抜けた返事をして何事もなく奈々子はご飯を口に運んだ。
──行方不明に殺人、もしくは未遂事件がまったく同じ状況で現れる、か。
学生達の会話で、神隠しの異常発生が死神の魂狩りなんて少し気取った名前になるのも、時間の問題かもしれないな。刃太はぼんやりとそんな風に思った。
それにしても、夜間は本格的に家でくつろいでいた方がいいかもしれない。
バイトしてなくて良かった、と内心安堵しながら残った朝食を口に運ぶ。
グロテスクな話をした後の朝食は、お世辞にも美味しいと感じることは出来なかった。
*
結果的に言えば、死神の魂狩りなんて呼ばれるわけもなく、放浪する喰人鬼と呼ばれているらしい。
行方不明は喰人鬼に喰われたから。死体は腹一杯で喰えなかったから残った。生存者は食事に飽きて放置された。
刃太の考えた名前より、納得出来そうな名前だった。
なので刃太はとっととあんな変なネーミングのことを忘れてしまうことにする。自分は名前なんて考えてはいない。以上。
チャイムの音が刃太のいる教室──輝明学園秋葉原分校高等部二年一組に鳴り響いた。昼休みの知らせに、教室の空気が弛緩した。教師が出ていくと、教室はどっと騒がしく賑わった。
さて、と刃太は席を立つ。弁当などを持ってきていない刃太は、購買部に行かないと昼飯にありつけないのだ。
一応財布の中身を確認。昼飯代には余裕で事足りる。
教室を出ていこうとすると、同じく教室から出ようとしていた少女とぶつかりそうになった。
「あっと、ごめん。花川さん」
「いえ、お構いなく」
花川、と呼ばれた少女、花川ひかりがセミロングの金髪を揺らして刃太に小さく頭を下げた。ふわりと髪から良い香りが漂ってきて、刃太の身体は緊張で硬直した。
花川ひかりは控え目に見ても美人の分類に入る少女だ。祖母が外国の人らしく──クォーターと言うやつだ──美しい金色の髪、日本人離れした人形のような端整な顔立ちを持っていた。礼儀も正しく大和撫子と言う風情で、それはある意味で他文化との交流によって産まれた近代社会の象徴とも言えるかもしれない。
「ひかりー、早くきなよーっ!」
廊下の方からひかりを呼ぶ声があった。気付けば、ひかりの手には紺色の布に包まれた弁当がある。どうやら今から友人と食事をするようだ。
「あ、多恵ちゃん、今行きますっ。それでは、失礼します」
「あ、うん。邪魔したね」
友人の下に小走りで向かうひかりの背を目で途中まで追ってから、刃太は反対側の購買に向けて歩き出した。
*
お弁当を持って多恵ちゃんの後を追おうとしたら、刃太くんと入り口で話した。
花川ひかりは弁当の中身をつまみながら、ぼんやりと入り口でのやり取りを思い出していた。
上代刃太。
視線が彼を追ってしまうことがあるのは、一体全体何故だろう。
今日のおでんは味付けが濃すぎましたね、と自分の料理の評価をしながら、刃太のことに首を傾げた。
「ねえ、ひかり」
向かいに座る中学からの友人、堺多恵が学校にくる前、コンビニかどこかで買ってきた総菜パンをかじりながら声をかけてきた。
場所は屋上。
春から夏に変わりかけの暖かい日差しが、辺りを気持ち良く照らしていた。
「ん、なに? 多恵ちゃん」
「さっき話してたのって、上代だよね」
「うん、そうだけど」
にやっ、ひかりの返答を聞いて猫を連想させるように目を細めて、面白そうに笑った。
「へえ、でどうよ? あいつのことは」
「どうって?」
「好きなのかってことよ」
のんびりしているようなひかりでも、それには流石に驚いた。
頬を朱に染め、慌てて聞き返す。
「す、好き?」
「そう、好き」
「なんでそうなるの?」
だって、そう言ってパンをかじり飲み込んでから。
「よくあいつのこと見てるじゃん。上代は気づいてないみたいだけど」
これには言葉を詰まらせた。図星。確かに刃太をよく見ているのは、自覚していた。ちょうどそれについて悩んでいた所でもある。
──私は刃太くんのことが好きなのかな?
改めて考えてみると恥ずかしい気持ちになって頭に血が上り出す。
でも、何か違うような気がする。
そういうのではなく、何か引き付けられている感じ。例えば自分と似ているものだったりに。
刃太と自分は似ているだろうか、と考えてもあまりそうではない気がする。衣服や持ち物全般にもこれといった共通点はない。
なら、なんだろう。
敢えて言うなら、"同族"。
"同族"だけなら、"この学校"には結構な人数がいる。その"同族"だけで上げる入学式と言うのもあるくらいだ。しかし、その場に刃太はいなかったように思う。
なら、いったいなにが?
もしかしたら本当に好意を持っているのかもしれない。
「で、どうなの?」
「……うーん、何か違う気がする。確かに刃太くんはよく見てるけど、好き、とかは分からない」
数秒の間多恵がひかりの目を見て、無理やり隠しているわけでないのを読み取ったのか、そっかぁと溜息に呟いた。
「ひかりにも男っ気が出来たのかと思ったのになあ」
「男っ気って……」
「だってそうじゃない。ひかり美人なのに全然彼氏作ろうとしないし。告白とかされてるでしょ?」
「こ、告白だなんて……確かにされたことはあるけど」
「ほーら、あるんじゃない!」
あたしにはまったく来ないのに、と臍を曲げて総菜パンに被りつく。一気にパンの面積がなくなってしまった。
「もう、なんでオーケーしないわけ?」
「その、何というか、作ろうって思えなくて。告白とか、嬉しいんだけど」
抑え目な声のひかりに、多恵がまったくと呆れた様子で両手を軽く上げて肩を落とした。
「……まあ、ひかりと多くいられるし、いいか。ひかりならその気になれば、彼氏だってすぐ出来るだろうから」
「もう、多恵ちゃんったら」
ひかりは不服気に、けれど楽しそうに笑いながらまた昼食を口に運んでいった。
*
とある一室。
そこは床やデスクなどが黒を基調としてしており、光があっても暗いイメージがあった。
飾り気も少なく、簡素。デスクワークの為に必要な物一式がひとり分置いてある。サラリーマンが使っているようなものとは違う、広めで少々高価そうなデスク。その上に書類の束が積まれていた。部屋の隅には一応観葉植物がひとつ置かれている以外、もう特筆すべき点はなかった。
必要以上のものをおかず最低限、必要あるものはデスクから総て手の届く位置にある。とても洗練されていた。
その一室にふたりの人間が存在する。
ひとりは、キャスターが付いた椅子に腰掛け男性は両肘をデスクに付いて手を合わせて組む。
もうひとりは、二十代半ばに差し掛かるかどうか程の青年。壁に腰をかけて腕を組み、目を物騒に光らせてデスクの男を見ていた。たったそれだけのことで、青年がまともな生き方をしていないと分かった。
ここは絶滅社と言う傭兵斡旋企業。青年はその傭兵のひとりだった。デスクにいるのはその上司である。
──傭兵斡旋企業と言っても、派遣する人間も場所も埒外なものだが。
「……で、今日はなんの依頼だ?」
無愛想に青年が尋ねた。明らかに上司へとるべき態度ではないが、肝心の男が気にした様子はない。一々こんなことで怒っていては器量が知れると言うものだ。
それに任務がこなせる有能な人間ならば、無礼を不問に伏すくらいやぶさかではない。
「私立輝明学園は……知っているか?」
低い声で告げられたものは、この場の状況にそぐわない日常的なもの。
だが、それに場の空気が和らぐことはない。
青年は数秒の間をあけて首肯した。
「ああ、知っている。色々と有名だからな。……確か秋葉原の分校には、昔あの男が在籍していたな。で、それがどうした?」
「なら、話が早い。任務はその秋葉原分校からだ。校内に封印された魔剣を"侵魔"から護り抜け。もしくは狙う対象を殲滅しろ」
「封印された、魔剣?」
なんでまたそんなものが、と思ったがあそこならありそうだなとすぐ納得した。前にも輝明学園に封じられたものを解放しようと"かの有名な魔王"が現れたと聞いたこともある。
「そうだ。最近あの学園周辺で紫稲妻と俗称されるエミュレイターが頻繁に確認されている。それでどうやら、学園内の魔剣の存在に気付いたらしく、内包されたプラーナを奪おうとしている」
「待て。なら何故こちらに任務が来る。エミュレイター一体なら、輝明学園側でなんとかなるはずだ」
「それがそうもいかんのだ」
束になった書類を手に取り、ページをめくる。
「紫稲妻は強力なエミュレイターでな。その力は低級な"魔王"にまで匹敵する。並の"ウィザード"ではまるっきり話にならん」
「……なるほど、それは依頼が来るはずだ」
小物の魔王レベルと言えども、油断出来る相手ではない。ウィザードと魔王では力の基準からして違うのだ。同じ初心者ウィザードと低級魔王を比べたら、そこには愕然としたくなるほどの差がある。月とすっぽんとはまさにこのこと。
背景は理解できた。しかし、まだ釈然としないものが青年にはあった。
「……だが、何故低級の魔王レベルもあるエミュレイターが何故俗称なんだ? 自分で名乗らないのか?」
「名乗らない、な。いや、もしかしたら個体名がないのかもしれない」
「なに?」
「このエミュレイターはアモルファスだ」
アモルファス。
エミュレイターは、アモルファスとシェイプドライフの二種類に分類される。
アモルファスは人間や動物の精神に寄生し、意のままに操ることができるタイプのエミュレイターだ。
精神に寄生された人間は物理を無視した運動能力を有し、厄介な存在となる。
強い衝撃を宿主に与えればエミュレイターを引き剥がすことが出来るが、時間が経過するにつれて不可能になってしまい、最悪寄生元を殺すことになってしまう。
「……定形すら保てないエミュレイターが、魔王レベルの力を持っているのか?」
エミュレイターと言うのは、簡単に説明すれば世界の侵略者。この地球とは違う世界──裏界と呼ばれている──からこちら側に侵入してくる。
その際、力を持つものは形を持って侵入してくる。が、アモルファスと言うのはその力さえない脆弱なエミュレイターのことだ。
頻繁に侵入してはくるが、そこまで急激な力を蓄えていることはない。何かに寄生しなければ、こちらで生存出来ない弱い存在。それがアモルファス。
第一、魔王レベルの力があれば実体を持って侵入してくるものではないか。その場合は、シェイプドライフに分類されることになるが。
「幾度と人間のプラーナを吸収することで成長したのかもしれんな。だが完全に寄生して、肉体から離れられない。或いは使い勝手がよくて離れない。そんなところだろう」
では、と上司は青年に向き直った。指を組み、ふたつの眼球で青年を見る。状況説明が終わった今、何を言おうとしているのかは目が雄弁に物語っていた。
「──行ってくれるな、トレイター」
「了解、その任務引き受けた」
青年、トレイターは確かに任務を受託した。
向かうは、私立輝明学園秋葉原分校。
*
そこには剣があった。
素人が見ても恐れおののき畏怖を抱くだろう、目に見えない力を持っていた。覇気と言っても良い。
刀身は女性の裸身のように美しく、かつ精練された兵士のように力強い。この刃は鉄をも断ち、岩さえ砕くであろう言われれば、万人が頷いてしまう。
そのバスタードソードは、暗室に安置されていた。
これほどの業物が誰の目にも付かず、ただ忍んでいる。
魔剣と呼ばれるそれは、待っていた。
我を扱い、我を振るい、我を使いこなす。そんな担い手を。我と共に闘い、歩む半身とも言える存在になってくれる主を。
たった一振りで待っていた。
唐突に、永らく開かれることがなかった扉が開かれた。
打ちっぱなしのコンクリートで囲まれた部屋に足音を反響させて、誰かがそこに到達した。
魔剣の前に立つそれは、女だった。
バイオレットの膝裏まで届く流るる水のような長髪。顔は暗がりで窺えないが、素晴らしい造形であるのは分かった。
身体は裸身と言ってもいい。豊満な胸にバランスのとれた手足の肉付き。グラビアアイドルでも驚愕するような黄金比。
その艶めかしい肉体の胸元や下部は、辛うじてキチン質によって隠されていた。
女性は部屋の中を見回す。
至る所の壁や床には無数の不可思議な紋様が刻まれていた。魔剣を封印し、縛り付ける刻印。
「……消、えろ」
だがそれは、外部からの干渉には脆かった。いや、外的要因にもある程度の防御能力はあっただろう。しかし、"魔王レベル"の力は想定されていなかった。
女性の髪が縦横無尽に伸びた。
天井、壁、床など部屋中に突き刺さり、縦に、横に、斜めに髪が駆けた。
たった一瞬で、部屋中の内装に猛獣が暴れまわったのかと思うほどの数え切れない斬線が刻まれる。
各自を分断された陣は完全に効力を失う。
エミュレイター──紫稲妻は魔剣を手に取った。
*
「ん……あれ?」
上代刃太は自室で首を傾げていた。
陽も落ちた時間。
学校から帰宅して家族との夕食を済ませた刃太は、鞄の中を何度も探す。
なかった。
明日が提出期限の宿題が鞄の中になかった。
一応部屋の中も組まなく探してみたが、見つかる気配はない。
となると、学校に忘れて来たと言うことになる。
時計に目をやる。もう遅い。学校だって閉まっているだろう。それに最近は何かと物騒である。あまり外に出たくはない。
でも、
「あの先生、宿題忘れると面倒なんだよなぁ」
宿題を出した教師を思い出す。あの教師は授業も分かり易く、丁寧な性格なのだが、いかんせん提出物の扱いは厳しい。忘れたら色々と厄介だ。
なら、今から取りに行くべきだろうか。
刃太は夕食前に気付けば良かったのにと肩を落とした。
しかも間の悪いことに、シャーペンの芯も切れかけてしまっている。ついでに買いに行かなくてはならない。
「行かなきゃ、駄目だよなぁ……」
陰鬱に溜息を吐いた。せめて物騒な事件に遭遇しないように祈るしかないだろう。まあ、早々危険なことに巻き込まれることはないと思ってはいるが、やっぱり少し怖かった。
財布をポケットに入れて部屋を出る。
自室から階下に行くと、リビングを覗いた。一応行き先は告げておこう。
「ちょっと買い物の言ってくるーっ」
「気をつけて行ってらっしゃいよー」
返事が返ってきたが、それは母親だけのものだった。
「あれ、姉ちゃんは?」
「さあ? 部屋に行ったんじゃないの」
それはそうだ。
でもこの時間は姉が好きな番組がやってるはずなんだけど、と刃太は小首を傾げた。
何か特別番組でもやっているのかもしれない。
さほど気にせず、刃太は靴を履き、玄関を開けて外に出ていった。
*
花川ひかりがそれを感じたのは、単なる偶然だった。
放課後、多恵に誘われて街で遊びに勤しみ、親に連絡は入れたものの少々遅くなってしまい、心配してるかなと慌てて帰宅しようとしていた。
そんな時、
「この力は……?」
何かが解き放たれ、力を漏らす感じがした。
その発信源は思いの外、近くにあった。
輝明学園。
幸いと言っていいのか、現在地から輝明学園まで対した距離は開いていない。
数瞬だけ逡巡するが、答えは決まっているように思えた。
「行ってみますか……」
スカートの裾を翻して、ひかりは上品な見た目からは考えられない機敏さで闇夜の中を走り出した。
ひかりの"ウィザード"としての感覚が、警鐘を鳴らしていた。危険なことが起ころうとしていると。
輝明学園の正門はすぐに見えてきた。門の左右には、阿吽の仁王像が厳格な顔をして立っている。見慣れているとは言え、夜に見ると怖いものがあった。
正門を潜ると現れる大鳥居を抜ける。神道や密教など伝統的なものを教えていた学園なだけあって和の風情を醸し出す品々も、今ではただ不気味なだけだ。不思議な頼もしさも感じたけれど。
鍵が破壊されている玄関から校内に入り、土足で入ってごめんなさいと清掃するであろう人に頭を下げて、感じた力の発生源に向かって行く。それへと近付くに連れ、さらにひかりは奇妙な感覚を覚えた。
「移動している?」
こんな力を持って移動している。解き放たれたような力の流失。不穏な気配。ここから導き出される答えはひとつ。
「エミュレイター……っ!」
ひかりは絞り出すようにその名を口にして、
窓から見える外の風景が、変化した。
世界を紅が照らした。月明かりでも電灯でもなく、紅が。
否、確かに月明かりではある。それが違う色に置き換わり、地球から見える月とは変わってしまっただけで。
ひかりは頭上を見上げ、目を見開いた。
「紅い月……月匣が張られたっ?」
月匣とは、一種の結界である。
世界からその空間を切り離し、人間を閉じ込めてしまう。ただし一般人はこの空間には取り込まれず、月衣と言う特殊な個人結界を纏った──つまりウィザード、エミュレイターと言う非現実の産物のみを取り込むもの。もし一般人の前にウィザードがいて月匣が張られた場合、取り込まれない普通の人間はウィザードが突然姿を消したように見えるだろう。
そしてこの中では、あらゆる事象が不思議ではなくなる。
だが何故いきなり月匣を展開したのか。ひかりが接近したからか?
違う。どうせ月匣を張るなら、もう少し近付いてからでもいいし、逃げ出すと言う手もある。先程ひかりが感じた感覚は、封印を紐解くようだった。このエミュレイターは何かの封印を解放したのだろう。なら、何故抗戦の構えをとるのか。大事な物かどうかは分からないが、普通は逃げ出しはしないか。
それをしない、或いは出来ないと言うことは、無闇に背を向けられない状況。
──誰かが戦っている。
それなら、急いで加勢しなければならない。
ひかりは宙空に手を差し入れた。見えない物に遮られるかのように、手首から先が消えた。中で何かを掴み、引き抜く。
ひかりの手には、機械仕掛けの杖が握られていた。
個人結界、月衣は不可視の空間にウィザードの所有物をしまえる便利な機能を持っている。そこから現れたのは、魔力増強、防護機構を組み込まれた科学と"魔法"の融合品した箒、ウィザーズワンド。
それを宙空に"浮かせる"と腰をかけた。ひかりの足が地面から浮き上がり空中で静止。
直後、ひかりを乗せた箒が校内を駆けた。
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