坂東蛍子、花束を貰う
移動教室の先にラクガキを見たことはないだろうか。視聴覚室、理科室、家庭科室、そういった所には学生時分必ずと言っていいほど何処かにラクガキがあって、席に当たった生徒を一喜一憂させる。
ラクガキにも簡単な挨拶から、風景を描いた力作まで様々な種類があるが、それらに共通していることが一つだけあった。それは「誰かに返事を求めている」ということだ。自分の過ごした今日の日を、自分の感じたこの思いを、誰かにも同じように知っていて欲しい――そういった感情が、多感な自我に翻弄される学生達の中には往々にして渦巻いているものなのである。大人はそれを承認欲求等と呼ぶだろうが、子供はそれをお遊びだと照れ臭そうに頬をかく。子供の言い分の方が詩的で美しいので、ここでは後者を参考に話を進める。
「移動教室のラクガキ」は、お遊びであると同時に公開型の手紙でありメール・システムでもあった。誰の目にも留まるものだったため内容に制限があったり、相手の顔が分からなかったりと、独特の個性がある文通だったが、中でも最も特徴的なのは「相手が必ずこの学校の中にいる」ということであろう。顔も知らない相手と自分は話している。そしてその相手は級友や先輩や、今すれ違った相手かもしれない。顔の見えない相手とのコミュニケーションにはどうしても脳内での補完が必要になるものだが、同じコミュニティに所属しているという特異なシチュエーションは、その補完を否応なしに加速させ、ともすれば二人の交流を特別なものにした。唯一もたらされる文字の書き味という情報から「きっとこういう性格だろう」「顔や背はこうだろう」と様々な想像を膨らませて、彼らラクガキ倶楽部は今日も鉛筆を手に取る。
先ほどから坂東蛍子がタクミに話しているのは、そんな相手についてである。河川敷の草をむしる手を止めて、蛍子はタクミに向かって続きを話し出した(蛍子はボランティアというものが大好きだった。周囲の尊敬の眼差しがとても気持ち良いからだ)。
「でね、アーヤは前世でその虎を倒した蛙の一族の王女だったんだって。だから今も虎の一族に追われてるって書いてあった」
アーヤとは蛍子の机文通の相手だ。夕飯の献立に悩む短文の下に蛍子が気紛れで「アジ」と書き足したのが交流のきっかけであったが、月に一回程度の会話を重ねる内に蛍子はアーヤの存在をしっかりと意識するようになり、今では彼女の移動教室における最大の楽しみとなっていた。机の端の不思議な文章は時を経ることで少しずつ文量を増していき、今ではちょっとした交換日記のようになっていた。アーヤの書く文章は他の人の目を気にしてか暗号文のようになっていることが多々あり、時折突飛で奇妙なエピソードが当然の顔をして挿入されていて、そういった強烈な個性にも蛍子は惹きつけられていた。
「虎の一族は現世で凄腕のハッカー集団で、手からビームも出すの。アーヤはプライベートがなくて大変みたい」
それはさぞかし大変だろう、とタクミは蛍子の友人の気苦労を慮った。タクミは合衆国の中央情報局にて極秘裏に開発された特務用擬装アンドロイドであり、情報戦においても専門家であったので、ハッカーの恐ろしさについては身をもって理解している。蛍子の話を聞くに、アーヤという人物も妖魔の類ではあろうが、未成年が腕部に兵器を搭載したハッカーの妖怪に日夜狙われるというのはかなりのストレスであろうな、とタクミは人間の世界の暗部を想像して機械の肌を僅かにふるわせた。
「そうそう、ウチの学校宇宙人もいるんだって」
「それは私も把握しています」
「ふふ、タクミの冗談珍しいね」
勿論タクミの発言は冗談ではない。
「ね?アーヤって変な子でしょ?でもアーヤは“雪ちゃんの方が変な子”って言うのよ、えへへ」
そう言って蛍子は楽しそうに笑った。「雪」というのは二人の交流の間で蛍子が用いている名前である。“蛍雪の功”の雪だ。坂東蛍子は校内では知らない人はいない程の才女であり、文武両道で容姿も優れた皆の注目の的であったため、机のラクガキに本名を用いることは出来ない立場にいた。もし仮に品行方正の化身である彼女が理科室の机に好きな焼き魚の名前を書いていることが明らかになってしまうと、教師側は驚嘆と絶望のあまり深酒で胃を壊し休職する者が三人はいるだろうし、生徒側は多くのファンが学校側の制止を振り切り、机の該当箇所を削り取って朝礼台の上に設置し大切に祀り上げることになるだろう。
しかし、蛍子が自身の名前を伏せざるを得なかった一番の理由はそれらとは全く別のところにあった。蛍子はアーヤに、文通の相手が「坂東蛍子」であるということを知られることで、二人の良好な関係が変化してしまうことを何より恐れていたのである。
「ねぇタクミ、私ね、アーヤと会ってみたいんだ。友達として、ちゃんとお話したい」
「そうですか」
「うん。でも私学校じゃ有名人だしさ、それで相手に距離とられちゃうかもって思うと怖くなっちゃうんだよね。友達として見てもらえなくなるかもって」
タクミは背中に投げかけられる彼女の言葉に相槌を打ちながらも、せっせと手元を動かし続けている。
「それにさ、私だって同じかもしれないじゃない。私はアーヤがどんな人だって絶対大好きになる自信があるけれど、それだって今だから好き勝手に言えるだけであって、実際に会ったらそう上手くはいかないかもしれないでしょ?」
人間は期待する生き物である。呼吸を大切にする間は大なり小なり未来に期待しているものである。美味しい話が飛び込めば心中穏やかではいられないし、顔の見えない友人がいれば出来うる限りの美化をしてしまう。蛍子も紛れも無くそんな人間の一人なのであった。
「・・・アーヤの不思議な人生、頭の中でいっぱい想像しちゃってるもん。口だけの酷いヤツになっちゃうかも」
蛍子はそうポツリと呟くと、俯いて手に握っていた雑草を引っこ抜いた。彼女はアーヤとやりとりする時には確かに感じている「会いたい」という考えが、今はよく分からなくなっていた。会いたいのか、会っていいのか、会うべきなのか、全然分からない。坂東蛍子はこういった自分の優柔不断な側面が嫌いで仕方なかった。いつもは全く悩まずに物事を一刀両断出来る性格であるため、尚のこと我慢ならなかった。
「ホタルコ」
「何?」
顔を上げた蛍子は、タクミの手に握られたものを見て目をまんまるにした。彼は春と夏の雑草が咲かせた色とりどりの花で作られた、小さな花束を少女に差し出していた。
「わぁ、すごい!」
蛍子は花束を受け取り、太陽に透かして嬉しそうに目を細めた。そして、一通りの観賞を終えた後で、ハッと身を竦め、タクミの方を向いてムスっと口を尖らせた。
「さっきまで悩んでたのに、軽いヤツだなって思ってたでしょ」
タクミが穏やかに首を横に振った。
「いいえ。ホタルコは何にでも真剣なだけです。目の前のことに真剣になるから、悩んだり熱中したりする。それは素晴らしいことだと私は思います」
タクミはロボットであるため、感情や心理といったものを正確に掴み取ることが出来ない。そのため人間の持つ心の動きを何より羨み、尊んでいた。世界中の任務先で様々な人間と出会い、彼らの一喜一憂の中にいつも輝きを垣間見る。中でも坂東蛍子はとりわけ心に素直な人物だ。机のラクガキに一喜一憂出来る人間。なんて美しいのだろう。
「会うべきです」
「でも、嫌われたら?」
「花をあげましょう。そうすれば人間は笑顔になる」
【拓海前回登場回】
今際の際で笑む―http://ncode.syosetu.com/n0870ce/