『第2章』
『第二章』
平穏な日常。それでも俺は嫌じゃなかった。
特別変った事が起きなくても良いと思っていた。
そうさ、ここまで人生が変る事を俺は望んではいなかった。
五月四日 放課後
その日は結局最悪だった。テストには集中出来ず。あの二人のせいで……まぁ昼食の事がなくても集中は出来そうもなかったけどね。開始二十分で諦めて、疲れた体を癒していた。要するに寝てしまったのだ。
勿論、担任には注意をされた。後ろからは軽く笑いが聞こえて、斜め前からは「バカみたい」と小声で聞こえた。
いつものようにね。だから逆に安心したよ。気まずいままなら俺も困るからな。
それから時は流れて、今の時刻は夕方六時。俺の居場所はと言うと屋上だ。でも学校ではない、今は沙耶のいる病院だ。今日は莉奈も一緒に来ている。で、いつも通り、俺が屋上で絵を描いていて、莉奈は沙耶と病室で遊んでいる。
たまには俺も病室で遊ぼうかな、そんな事を考える事はよくある。でも、結局は空に魅せられて、その場から動けなくなる。
今日だってほら、晴天快晴だった午前から時間が過ぎて、紅く色付いてきた。俺はこれが好きだ。何度も言うように大好きだ。絵は描く度に違う色が出る。今日のは少し暗い色だな、どうやら気分の色がそのまま出るらしい。
「もう、帰るか……」そう呟いてから沙耶の病室に向かった。
「おーい、莉奈、もう帰るぞ」
「えっ? あぁ、もうこんな時間かぁ」
「お兄ちゃん、明日も来てくれる?」
「あぁ」
「じゃあ莉奈さんもね!」
「うん! 私も来るよ、沙耶ちゃん」
「約束だよ!」
「うん、約束」
「じゃあ沙耶、静かに寝ろよ」
「じゃあね、沙耶ちゃん」
「バイバイ!」
少し長い別れの会話を終えて、俺と莉奈はいつもの帰り道を歩いていた。とりあえず、俺は莉奈に聞きたい事が幾つかある。今の時間を使って一つ一つ片付けていくか。
「なぁ莉奈、幾つか聞いていいか?」
「なに?」よし、今日悩んだ解答が一気に出るぞ。あっ! でもテストは別だ。あれの解答はもっと他にある。
「まずさぁ、昨日俺ん家に来たとき態度おかしくなかったか?」
「態度?」
「こう……なんか優しさがあったというか……いつもの莉奈じゃなかったような気がするんだよ」
「いつもの私に優しさがないって言うの?」
「いやっ、そうじゃなくて……」
「まぁ、確かに昨日はね……」
「何かあったのか?」
「うん。実は………」
『ベツルート 坂崎莉奈 編』
私は今考え事をしている。何故かって? それは朝、ある女の子に興味深い話を持ち掛けられたから。
それは「ありがとう」という、言葉について。一番簡単な言葉で意味が重い言葉。今はそう思うようになった。でも、やっぱり「ありがとう」って感謝の言葉だよね。その辺は私が悩んでも解決できる事じゃない。そうだ、今はまだ、「感謝」という意味で留めておこう。
今の私にとってもその方が嬉しいから。
「莉奈、今日は沙耶の所に行かないのか?」和哉だ。
「うん、ちょっと家の用事があってね」
「じゃぁ、俺は行くから」
「うん、沙耶ちゃんによろしく伝えて」
「分かった、じゃあな」
「うん、じゃあね」
あぁ、私って素直じゃないよね。ちょっと考え事してると周りの事が頭に入らない。今日だって家の用など一切ないんだから。はぁ、今日は真っ直ぐ家に帰って寝ようかな。
私は一人、学校の下駄箱の前で立っていた。走っていく和哉の背中を眺めながら。本当は私だって沙耶ちゃんの所に行きたかったのに。素直じゃないなぁ。
「一人の帰り道。なんか久しぶり……」
そんな独り言を呟いたせいか、意識をしたわけでもないのに溜め息がドッと出た。私が落ち込んでもしょうがないか、本当に悩んでいるのはある女の子なんだから。私は相談を受けただけ、それだけなんだから。一人で帰るのってなんか悲しい……
「わぁ!」誰かに強く背中を押されて、私は前に転びそうになった。一体誰がこんな事……
「莉奈、なんか今日、元気ないじゃん?」
「ずっと、暗く見える」
そこに居たのはクラスメイトの夜凉南と六分儀乙女だった。この二人は高校に入ってからの友人。まだ会って一ヵ月くらいしか経ってないのにお互いの事を分かり合えている仲だ。
私にとって、とても大切な二人。学校ではいつも一緒にいるからね。
「そう? 元気ないかなぁ〜」
「うん。なんか暗いって!」
「そう、暗い」
南は普通の女子高校生で「暗い」って言われても真面目に受け止められるけど、乙女はいつも暗くて、言葉も短い文ばかり。だから乙女に「暗い」って言われると「それはお前だろ!」って突っ込みたくなる。
「そんな暗い莉奈さんはどうしたのかなぁ?」
「何故、暗いの?」
何故って言われてもなぁ〜……詳しい原因は良く言えないけど、何でだろう? 私自身でも分からないや。でも、きっと分かっているんだと思う。素直じゃないから。
「もしかして……恋の悩みとか?」
「南! それは違う!」
「怪しい……」
「違うってば! 違うの!」
なんだ、こいつらは! 何故、私が恋の悩みなんかで暗くならないといけないんだ!
別に好きな人なんて〜いないもん。うん! 居ないの!
「はぁ〜まぁ大体、莉奈の好きな相手なんて簡単に想像できるけどね」
「うん」
「誰よ?」
「あらがっ……」
「わぁ〜〜あぁ〜〜聞こえな〜い!」
「莉奈」
「何?」
「隠せてないって」
隠すも何も、私にそんな気なんて無いんだから! 本当だよ! 本当にそんな気は無いの!勝手に南と乙女が言ってるだけなんだから。もぉ。
「まぁいいわ。帰り道暇だし、なんか遊びながら帰ろう!」
「南、良い提案」
「っでどんな遊び?」
「あの、じゃんけんして、『グ〜リ〜コ』って進むやつ!」
今時、そんな古臭い遊び? もっとなんか無かったのかなぁ……ちょっと恥ずかしいような気がするけど……周りの人の視線が怖いなぁ……
「じゃあ、ここの玄関から、学校の門までね! 負けた人は罰ゲーム!」
「内容は?」
「今日、男子一人にこれから会いに行って、ちょっと可愛い仕草とか言葉を言ってすぐ立ち去る! 期限は今日中ね。もし今日やらなかったら……明日から一週間学食おごり!」
なんて厳しい罰! まぁまぁ、負けなければいいんだよ。うん、この私が負けるものですか!私こそ、キング・オグ・グリコ、ってところ見せてやる!
あっ! でもグリコで王とか王者になっても、逆に恥ずかしいな……
「じゃぁ始めるよ! 最初は、グー!」
じゃんけん、ぽっ!
それから十分後……
「あらら〜莉奈、完敗だね」
「弱い」
「くそぉ……私が負けた……」
そう、私は誰が見ても分かるくらい、完全なる負けを喫した。まさか、罰ゲームを受ける事になるとは……この生涯、最大の恥……
「じゃあ、莉奈は行って来な! 愛しい彼のもとへ♪」
「じゃあね」
「…………………」
そして二人は気分が良いのか、ハンバーガーショップを目指し、スキップで遠ざかっていった。別れる時に「夜メールするから!」と、南が言い残して。
罰ゲーム……男子に会えって……今から会える奴? でもそんな気は無いんだから!
たっ、ただのご近所さんで幼馴染みなだけだから。そう、自分に言い聞かす。
そんな感じで気付けば家に着いた。和哉の家にピンポンダッシュをしたが出てこない、という事は家に居ないのだ。
「まだ、病院から戻って来てないのかなぁ……」
そんな事を考えながら自分の部屋で寝てしまった。
気付けば、夜の七時。
「もぉ、和哉いるかなぁ?」
そう思って和也の家の前まで行った。自転車がある。居るのかなぁ? 部屋の電気もついている。あぁ、やっぱり居るんだ。仕方ない、約束は約束だ。ちゃんと罰ゲームをやらなくちゃ。
ピンポーン、ガチャ……
『再び 第二章』
莉奈の態度の秘密は解き明かされた。莉奈が言うには、「友達と遊んでゲームに負けたから、罰ゲームを受けた。それで……」
と言う事だった。それなら俺も納得がいく答えだ。そうだよな、莉奈があんなに可愛いような仕草とか台詞を言うわけ無いよな。(ハッハッハッ……)ちょっとは期待したんだけどな……
こうなんか……「今まで、きつくしてゴメンネ。これからは和哉に優しくするから」とかね。
まぁ実際、そんな事はある訳が無い! 期待した俺が馬鹿だった。
「じゃあ、あと一つ」
「なに?」
「今日の昼の事……」
「それはなんでもない」
即答? というか拒絶に近い解答だった。
「あっ、あぁそうか……」
「うん」
どうにも話を進めにくい。そんなにいけない事を聞いたか? ってくらいの場の雰囲気だ。
その無言のまま、場はもう家の近く。莉奈は俺の前方を歩いている。会話を拒絶しているようだ。俺もそれは同感。会話を続けられる自信が無い。
昔から一緒に居るから莉奈の性格も、もう分かりきっているようなものだ。このまま家に帰してやろう。何故、俺を拒絶しているのかは分からないが、それは気にしない事にする!
「じゃあな」
「うん、明日も迎えに行くから……」
「おぅ、じゃあ」
「バイバイ……」
明日になったら直っているさ。莉奈は飽きっぽいからな、きっと忘れてまた朝殴りに来るだろう。殴られるのには抵抗があるけど……
早朝
莉奈は俺を迎えに来なかった。学校に行っても会話は交わさない。ずっと友達と一緒に居る。
まぁ、幼馴染みから旅立った、と考えれば俺も気が楽になる。
放課後、沙耶の所には一緒に行くらしい。ただし、行き帰りは無口で、沙耶の前だけ今までと同じ接し方だった。そこは確かにそうしないと、沙耶に心配は掛けたくないからな。
「なぁ莉奈、おいっ! 聞こえてるのか?」
「…………………」
「もういいや……」
こんな帰り道が毎日のように続いた。あの日からずっと。
あの日、もう一人の女の子がいた。釘月ゆみ子。
彼女は莉奈のようには変らず、どちらかと言うとあの日からもっと親しくなった。昼食は毎日、俺と屋上で食べるようになったし、休み時間も話す事が多くなった。
五月十五日 休み時間
「おいっ! 和哉、最近釘月と仲良くないか?」
「あぁ? まぁ……」
今話しかけてきたのは俺の前の席、高校に入ってから仲良くなった俺の唯一の友達と言うか、まぁ友人の古河陽介だ。こいつの特徴は……ごく普通の高校生って事? あと、女好き。そこは誰が見てもそうだと思う。黙って席に座ってれば少しは良く見えると思うけどな。
ちなみに彼女はいない。高校に入ってもう、四回告白したらしいけどその全てがノー。
まだ関係も何も持っていないのに告白するからだ。自業自得だぞ!
「なぁ和哉、俺にも誰か良い女の子紹介してくれよ……」
「そんな心当たりは無い!」
「じゃあ、釘月をくれ!」
「ゆみ子は俺の物ではない」
「あぁ〜神は差別を俺に下す……」
「はいはい……」
俺が呆れながら返事をすると、陽介は机に崩れ倒れた。もう伸びてるなこれは。机の上でこう、デレェ〜って。
「なぁ和哉」
「なんだ?」
「お前、最近坂崎と一緒に居ないな」
「あぁ、あぁ……」
「なんかあったのか?」
「別に、お前には関係ないだろ」
「坂崎、なんか悲しそうだぜ」
莉奈が悲しそう? お前にはそれが分かるのか? 俺には莉奈の気持ちが分からない。女心が分からないからって訳じゃなくて、たぶん親し過ぎたのだ。昔から一緒に居たからその気持ちが分からないんだよ。
そういえば、昔もこんな事あったような………
『ベツルート 過去編 莉奈、和哉』
「おい、莉奈!何処行くんだよ!」
「………」
莉奈は走って何所かに行った。俺から逃げて行く様に。なんだよ、転校してきた奴と話してただけなのに。なんで急に逃げ出すんだよ。本当、莉奈は分からねぇ。
俺は今、親父と妹。三人で暮らしている。母親は俺が小さい頃、病気で死んだらしい。俺はその事を全く覚えていない。三人でなんとかやっていけているから気にしてもいない。
俺の家の隣に住んでいるのが、幼馴染みの莉奈。莉奈のお母さんが俺の母親のように、料理を作ってくれたりしている。今、莉奈はなんか機嫌悪いけど。俺が知ったことか。
「はい、授業始めましょう」担任の若い女の先生が言った。さっき来た転校生は俺の席の後ろに座って本を読んでいた。まだ小学二年なのに、ずっと小説を読んでるなんて大人だなぁ。
「じゃあ、ここの問題を……」転校生が指された。この算数の問題は難しい。俺には暗号にしか見えない。でも、転校生はさらに凄い奴だった。
「はい、良く出来ました。完璧ですね」完璧? こんな問題が解けるなんてかなりの人間だぞ。目指せ東大! 君ならきっと夢じゃない。
そして、全ての授業が終わって下校の時間。いつも莉奈と一緒に帰っているのだけど、今日は莉奈だけ前の方を歩いている。俺からわざと離れてやがる。あの野郎〜!
と、莉奈が急に止まった。俯いたままずっと、そのままで。
「莉奈? どうしたんだ?」
「…………」
「なぁ、どうしたんだよ?」
「…………」あぁ〜もう! 何か言ってくれないと分からないだろう!
「和哉……」
「なんだ?」
「そこに居る?」
「あぁ。居るよ。いつもお前の近くに居るよ。そのくらい分かってるだろ? 昔から一緒に居たんだからさ。いつも一緒だったじゃねぇかよ」
「そうだよね……」泣いてる? 急に泣かれても困るよ! だって俺はさぁ……なんと言うかそういう女の子の接し方に慣れてないし……あっ! でもこいつは幼馴染みだ。女の子とは考えなくても……
「なんで、泣いてるんだ?」
「かな……かった……」
「なに?」
「悲しかったの! 和哉が他の女の子と仲良く話してて、なんか悲しかったの!」
アニメやドラマでよく言う「嫉妬」ってやつかな? 前、辞書で調べたけどこんな感じだった気がする。そうだよな。ドラマではどんな風にやってたっけなぁ……
「俺はいつも莉奈と一緒に居る! だから泣くなって」
「本当に?」
「本当だ」
「うん………分かった。泣かない」
「よしっ、じゃあ帰るぞ」
「うん!」
莉奈だって女の子って所があるんだな。初めて知ったよ。
それから、俺の後ろの席に座っていた転校生は、転校一週間でまた転校した。理由はと言うと、良く分からないけど、どうやら両親に何かあったらしく、違う施設の人に育ててもらう事になったらしい。俺には良く分からないけど。
そしてその年、俺の親父が交通事故で死んだ。
それから俺が小学校を卒業する時、妹が入院する事になり、俺は莉奈のお母さんの実家がある伊勢御崎市に引っ越した。莉奈も一緒に。その時、いろいろあって坂本さんという人にも出会い、家を設けてくれる事になった。莉奈の家のすぐ側に。妹の病院になるべく近い所に。
『再度 第二章』
「お〜い、和哉? 和哉!」
「あぁ、何だよ陽介」
「すっげぇ、ぼぉ〜としてたぞ」
いつのまにか俺は思い出の中に入り込んじまっていたらしい。
「とにかく、坂崎になんか言ってやれよ。あれはマジに悲しそうだ」
「あぁ」
悲しいか……やっぱりちゃんと莉奈と接し合わないとな。このままじゃ俺も本当に困るし。
今日のうちにでも莉奈に言ってやるか。
そして放課後。今はもう七月になっていた。何故こんなに時が過ぎてしまったかって?
何故なら俺がなかなか莉奈に言い出せずに過ぎてしまったからさ。子供の頃は恥ずかしさなんてあまりなかった。莉奈だってガキだったから。でも今はもう高校生だ。恥じらいというものを俺も知り始めている。だから、なかなか言葉に出来ないんだ。
勿論、沙耶の所には毎日のように莉奈と通っている。そして、同じ様に昼食はゆみ子と屋上に通っている。莉奈の事で悩んでいる俺を唯一、支えてくれるのがゆみ子だった。話し相手にもなってくれるし、元気をくれる。あの日から変った事は、ゆみ子の絵を昼休みに描く事が習慣になろうとしている事だ。その絵は、完成度がいい物は絵画展とかに出展して、他はゆみ子にあげている。
今日も晴天快晴。そろそろ夏だね。もう暑いや。汗がどんどん、どんどん出てくる。地球温暖化とはこんなに進んでいたのか。
だから、病院の中はクーラーで涼しくて快適だ。放課後が嬉しい限りだね。
今日も莉奈は沙耶と遊んでいる。どうやらトランプをしているらしい。で、俺はいつものように病院の屋上だ。夏はなるべく外に出たくないけど、絵を描く時だけは別もんだな。汗が紙に垂れないように、ハンカチで拭く。そして、またペンを持つ。拭く。持つ。拭く。持つ。
もしかしたら、「王子」なんて呼び名がつくかもしれない。期待などしたくないけど。
今日こそ、今日こそ、と毎日思っても莉奈には何も伝わらない。思っただけじゃ思いは伝わらないからね。だから人間って奴は皆、不器用なんだよ。俺はそう思う。
「ふぅ〜莉奈に言えるだろうかねぇ……」そんな悩みは何処拭く風で、と成る程、驚きを隠せなかった。今から起こる事にね。
ガチャ。ドアが開く音がした。
「和哉! 和哉!」
「どうしたんだよ?」そこに走って来たのは莉奈だった。とても深刻な顔をして。って話し掛けてきたな。久しぶりだ。
「沙耶ちゃんが……沙耶ちゃんの体調が急変して……」
「何だって!」
俺は普段、走ってはいけない病院の廊下をただ必死に駆け抜けた。一人の人間を探して。
こんなに必死になって走るのは、たぶん生まれて初めてだ。
「和哉! さっき担当の先生が手術室に運んだの! だから今は会えないわ!」
そんな声、聞こえたって殆ど聞こえないのと同じだ。会えないとかそんな事言うなよ、俺は毎日沙耶と会ってたんだ。会えないはずがない。それでも俺は手術室に向かって走った。
「すみません! 廊下は走らないでください!」
そんな看護婦さんの言葉だって、今の俺には無意味だよ。なんせ我を忘れているからね。
きっと今の俺に届く言葉は無い。動揺を隠し切れない顔をして、真っ青になりかけている顔をして、その俺の顔は血の気も引くほど呆然として、前を見ている。今、頭の中は真っ白だ。何故走っているのか、それすらも忘れてしまいそう。漢字二文字。ただ、それだけが頭の中に浮かぶ。「沙耶」それだけがね。
「沙耶……沙耶、沙耶、沙耶、沙耶………」
手術室は、手術中になっていた。赤く光るライトが俺に不安を届ける。ドアを開けようと試みたけど、頑丈に閉められていた。
「…………………………………」
今の俺には椅子に座って待っている事しか出来ない。俺は沙耶の兄だぞ。妹の側に行って何が悪い! 何が悪いんだよ……くそぉ……
「和哉……」莉奈も俺の横に座った。こいつは本当に悲しそうな顔をしている。俺なんて笑っちゃいそうだぜ。さっきまで側で笑ってた人間が今は扉の向こう側で会えない、本当に笑いそうだ。身が震えていくよ。寒気とかじゃない、もう体もコントロール出来ないほど頭の中はおかしくなっている。
莉奈はそんな俺の手を握ってくれた。ただただ震える俺の手を。震える事しか出来ない俺の手を。ギュット強く握ってくれた。
それから、五時間が経った。まだ手術は終わらない。
俺はずっと同じ体勢のまま、沙耶の帰りを待っていた。早く帰って来いよ、もう外はすっかり真っ暗だぜ。そんなに遊んでると変な奴に襲われるからな……
今は何を考えればいいか、今は何をすればいいのか、今は何を信じればいいのか、分からない。分からないんだよ。何もかも、分からねぇんだよ!
「和哉、今日はもう帰ろう……」
「帰るなら一人で帰ってくれ。俺はまだいる」
「そう、じゃあ私もいる。お母さんに電話してくるね」
「……………」
俺が待っていたって助かるかどうかは分からない。もしかしたら待たなくても大丈夫かもしれない。また、いつものように沙耶は笑顔なのかもしれない。俺は何故待っているんだ。
それは、身に嫌な予感を感じたからだろう。正直、そうだ。
今まではこんな事なかったから、俺は聊か戸惑っている。確かに沙耶は重い病に罹っている。病名は知らないけど、長年だ。俺だってそのくらい勘付く人間にまで成長した。
落ち着け……落ち着け……落ち着け……俺が変な事考えるから気が落ち込むんだ。
「莉奈、もう帰ろう……」
「えっ?」
「帰ろう。俺達がこんな事してても、沙耶は元気にならない」
「うん……」
「行くぞ」
「うん……」
それから……
「じゃあな」
「うん。じゃあね……」
莉奈を家まで送った。外はもう深夜。高校生が歩き回るような時間ではない。莉奈が一人で帰って襲われたら困るからな。幼馴染みを守るのは当たり前の事だろう。
「よし、じゃあ行くか……」
そして、俺はまた病院に戻った。一人で、暗い夜道を自転車で走りながら。
ただ一人の人間を目指して。
俺に出来る事など殆ど無い。
ただ、祈る事しか俺には出来ないから。
神様、本当に神様なら人の命くらい救ってください。
「もう朝か……」
俺があの後、病院に戻ってからも沙耶の手術はずっと続いた。もう朝だって言うのに手術中という文字が、ただ虚しく赤い色に光っていた。陽が差し込んでそれも、もう確認はほぼ出来ない。俺の気持ちだけが黒く、闇のように落ちていた。
寝ていないせいか、頭が痛くなってきてさすがにクラクラと疲れが出てきた。何もしないで、ただ椅子に座って明かす夜を経験したのは初めてだ。
お母さんとは直接会った覚えはないし、親父はそんな事する前に、ぽっかり死にやがった。 俺だけが安全、健康状態正常で生きてきた。だから、俺には甘えられる相手も居ないし、叱ってくれる人も居ない。一人身で生きてきた。莉奈が側に居てくれたから一人じゃないって気で居られた事もあるけどな。
「和哉……」
莉奈が着た。こんな朝早く。どうしてだ?
「なんで莉奈が居るんだよ?」
「来ちゃ悪いの? 和哉の自転車が無かったから、まさかと思ってね。始発の電車で着た。っで、沙耶ちゃんはどうなの?」
「見ての通り。まだ手術は終わってない」
「そっかぁ……」
莉奈は昨夜のように、俺の横に座って俯いていた。まるで自分の妹かのように悲しんでいた。
俺だって本当は泣き叫んで自殺したいぐらいさ。でも、そんな事しても沙耶は元気にならないだろ? だから、俺はもう胸を張っていられる。沙耶が元気になって俺に寄って来る時、両腕で抱き締めるから。もう、会えなくならないように……
それから、また時が過ぎる。
「莉奈、学校行かないのか?」
莉奈は制服姿で学校の鞄を持っていた。どうやら学校に行く準備はもう出来ているらしい。
「和哉は今日、何時に来たの?」
「さぁな」
正確に言うとお前を送ってからすぐ。家には帰っていない。だから何時に来たというか……
その事を素直に言ったら、また莉奈がうるさくなるだろ。だから、黙っておこう。心配も掛けたくないからな。
カチャ、
手術中のランプが消えた。
「沙耶……」
そして、扉が開き、中から人が出てきた。転がしているベッドの上には沙耶がいた。決して元気そうには見えない。口にはマスク、点滴もしてあり、目は閉じたままだった。
でも、あれは正しく沙耶だ。俺が毎日見てきた沙耶本体だ。
また、会えたな……
沙耶は体の調子は良くないらしい。でも、一命を取り留めた。意識は未だに戻ってこない。だが、目の前に沙耶の姿がある。それだけでも、今の俺は幸せを感じた。
目が開いていなくとも、声が聞けなくとも、そこに居る沙耶が本当の沙耶である。それが何よりも嬉しかった。
医者が、「このまま、意識が戻るまで待ちましょう」と言っていた。意識が戻る。その日は近々来るだろう。そんな希望が俺の体を覆いこんだ。
「莉奈、学校行かなくていいのか?」
「うん……もう行かなくちゃね。和哉は? 和哉も学校の準備出来てるんでしょう? 学校の鞄があるし、早く行きましょう」
「悪い、俺、今日学校休む。この鞄の中は昨日の授業道具しか入ってないし、沙耶が心配だからな」
「昨日のって……もしかして、あれからまた病院に行ったの? それからずっと今まで……?」
「さぁな、忘れたよ」
実際はそうだ。鞄だってただ持っているだけ。学校に行こうと思って持ってきた訳じゃないからな。沙耶の事で頭がいっぱいだったんだ。
「とりあえず、莉奈は早く学校行けよ、遅刻だぞ。俺は、沙耶の側に居たいんだ……」
「うん……わかった。学校終わったらまた来るから……」
「あぁ、わかった」
「じゃあ、行ってきます」
「あぁ」
それから、俺はずっと沙耶の顔を見詰めていた。今までずっと見てきた妹の顔。笑っている顔。泣いている顔。悲しんでいる顔。楽しんでいる顔。嬉しがっている顔。そして、寝顔。
でも、今の沙耶の寝顔は、今までと違う。どこか、違う……
眠った横顔。そこに沙耶を感じられなかった。
今までの沙耶を感じさせない寝顔。
開きそうもない、固く結ばれた瞼。
神様、今、沙耶はどんな夢を見ているのでしょうか。
貴方には分かりますか?
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