第26話 不可侵条約
「…俺、行くね」
しばらくじゃれ合っていたが、遥はおもむろに呟き、疾風の肩を押した。
「行くって……」
どこに、と疾風が聞くより早く遥は立ち上がり、扉を開ける。疾風は彼女の行く先を察し、遥を追い掛けるように立ち上がった。
遥はドアノブに手をかけ、振り向く。
「だって、私いっぱい日向を傷付けた。たくさんのかさぶたを剥がした。きっと今ごろ、落ち込んでる!」
遥はそう叫び、勢いよく駆けて行った。疾風はそれを、複雑そうな面持ちで見つめる。だけど、不意にあれ?と首をかしげた。
「あいつ今、『私』って言った?」
――…なんで……。
「ま、いっか」
疾風の気にしない性格により、疑われないですんだ遥だった。
◇遥side
私、なんで走ってるんだろ。
夢中に足を進めるなか、そんなことを思った。どこに日向がいるか分からないから、がむしゃらに走り続ける。
全力疾走する私を寮生たちが変な目で見たのが分かったけど、それを気にする余裕はなかった。
――私はどうしたいの?
彼に会って何を言うつもりなんだろう。何がしたいんだろう。
謝罪? 慰め?
……違う。そんなんじゃない。そんなんじゃないんだよ。
「日向……」
今はただ、会いたい。
それだけなんだ。
他に理由なんてない。
「っ!!」
夢中で走っていたせいか、曲がり角で誰かとぶつかった。なんかデジャブ……。私って人と衝突率高くない?
「あ?」
低い声が降ってくる。私はその聞き覚えのある声に、ゆっくりと顔をあげた。
「……東条」
いつもなら沸き上がる逃げだしたい衝動。だけど今はそんなもの、ちっとも感じない。東条はそんな私を少し不審な目で見る。
眩しい金髪。翡翠のような瞳。耳にぶら下がったピアスが、きらきらと光って。
胸がどうしようもないくらい痛んだ。悲しみのあまり、変わった貴方。現金だけど、あれだけ心に抱いていた嫌悪感なんて、皆無に等しい。
「そんな目で見るな」
「…それは、こっちの台詞だよ」
彼は瞳をすっと細める。見下ろされ、少しばかり居心地が悪い。
しばらく視線を絡ませていた私達だったが、彼はフイと目をそらした。何も言わず、私の横を通りすぎる。
「…待って……」
声がかすれた。東条の背中が遠ざかる。私は深く息を吸い込み、叫んだ。
「日向の場所知らない!?」
彼は立ち止まる。日向、という名前に反応したのだろうか。複雑な思いを抱きながら、私は東条の隣へ走り寄る。
彼の顔を覗きこんでも、私を見ようとしない。いや、何も見ていない。そんな風に感じた。ポーカーフェイスの裏に隠れた表情は、何?
「さっき屋上に来た。それ以外知らない」
淡々と言う。そしてまた、何事もなかったかのような顔して私から離れた。
「ちょっ……待てよ!」
「さわるな」
パシッと乾いた音が響く。振り払われた手。冷たい瞳。低い声。
だけど、恐いとは思わなかった。私には、彼の歪んだ表情が悲しそうに見えて。
「放っておいてほしいなら、そんな顔するなよ」
勝手に口が動いた。
「言いたくないなら、強制しない。無理に聞きたいなんて思わない。触れてほしくないなら、黙っていたいよ」
「………」
「本当に大丈夫なら、何でもないって顔しててよ。そんな虚ろな目で、寂しそうで。そんなの、助かを求めてるのと同じだ」
私は震える手で、彼の腕を掴む。止まらない言葉。静かすぎる廊下で、私だけの声が響いていた。
東条はピクリとも動かない。逃げる気配もなかったけど、反応が無さすぎて不安になる。
私はそっと仰いで、彼の表情を見た。
「……!」
喉が詰まった。目を見張る。
緑の瞳が揺れていた。眉間に皺を寄せて、口唇を噛み締めている。今にも崩れてしまいそうだ。
「…じゃあお前は、どうすれば気が済むんだ」
苦しそうな声で、東条は吐き捨てるように言う。
私は一気に後悔の波が押し寄せてきた。だけど、覆水盆に返らず。もう遅い。
「今まで通り笑っていれば良かったのか? それとも涙が枯れるくらい泣けば良かったのか? 罪に嘆いて謝れば良かったのか? そうすれば、納得したのかよ!」
ダムが壊れたように、荒波が揺れるように、彼はいきりたつ。一度に捲し立てられ、困惑した。
こんなことを言わせたかった訳じゃない。傷つけたくなんかなかったのに。
「東条…っ」
「そうすれば、日向とも疾風とも、こんな風にならなかったって言えるのかよ!」
「違う。東条、違うよ」
痛々しい言葉の数々。そのひとつひとつが、鋭利な刃となって胸に突き刺さる。
こんな余裕のない彼は初めて見た。こんな風に叫ぶ彼は、初めて見た。
窓がガタガタと震えている。強い風が叩きつけて、耳に痛かった。私は誰も通らない廊下に、そういえば夕飯時だとどうでもいい事を思う。
握りしめた腕は、まだ放されていない。
「……っ。俺が、俺が」
「東条、落ち着いて。俺の話を聞けって!」
ひどく混乱した様子の彼に、私は必死に名前を呼び掛けた。だけど、まったく届いてくれない。私の声など聞こえていないようだ。
「俺が、殺した」
その言葉を頭で理解するより早く、胸に圧迫を感じて。尻餅をつき、突き飛ばされたのだとわかった。
「俺が佳奈を殺した!」
東条はそう叫び、走り去っていく。
「…東条、待ってよ。東条っ。──ッ、健!」
初めて呼んだ名前。だけど、彼の姿はもう見えなくなっていた。
私はしばらく、立つことができなかった。ただ呆然と人影のない廊下を見つめる。
あの東条が、泣いていた。
……ううん、違う。泣かせたんだ。これ以上、傷つけて、どうするの。
自分の愚かさに、どうしようもなく苦しくなった。
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