west sea side sunset 1
午後7時過ぎ、僕は書類の整理を終え会社を出る。
6月の終わりのこの季節、
太陽が死の間際にこの街に託した希望の様な明るみがほんのわずか西の空に見て取れる。
西。
いい方角だ。
僕は西海岸について思いを巡らす。
もちろんこの街の西じゃない。
この街の西に海岸は無い。
僕が言っているのは
サンフランシスコの事だ。
ウェストシーサイド。
僕はビーチボーイズの曲のメロディーを思い出し、
その曲の名前を思い出そうとする。
なんだったかな。
まあいい。
とにかく素敵なメロディーだ。
もうすぐ夏が来る。
いや、厳密に言えばもうすでに夏の兆候は現れている。
それは4月の風の中に。
5月の雨の中に。
僕は多くの場合、
夕食時を洒落過ぎていないバーで過ごす事にしている。
この街に来てもう8年になるから、それなりのバーをすでに幾つか知っている。
基本的にはどれも会社から西にある。
西が好きなのだ。
そう、ウェストシーサイド。
今日もその中でもわりとよく行く店に行く事にする。
遠くもなく、近過ぎもしない。
近過ぎるのは駄目だ。
僕には太陽の残した希望の欠片を、
その消えゆく様をきちんと見届ける義務がある。
僕は今まで多くの消えゆく様を見届けててきた。
知人の死にゆく様、家族の死にゆく様、そして街が死にゆく様。
死はやはり悲しいものだ。
死はあらゆる可能性の終わりを意味する。
そして同時に「あらゆる可能性は終わる」という事実を、
残された全てのものに深く刻み込む。
僕は失われたもの達について考える。
今日の夕焼けは、それについて考える事を僕に要求している。
それについて、とても深く考える事を。
バーに着いた。
夕日はもうきちんと沈んでいる。
いくらかの痕跡はこの街にもうしばらくは残る事になるが、
それは僕の見届けるべきものではない。
僕に必要なのは、夕焼けの意思のようなものを見届けるという事なのだ。
僕はここでもやはり街が見渡せる西側の席を選ぶ。
特にどの席と決めているわけではないが、
とにかく西側じゃなければ駄目だ。
これは何かしら運命のようなものなんだと思う。
或いは奇跡と呼ぶべきものかもしれない。
このバーは確かにそれほど人気があるわけじゃないけど、
今の時間帯はそれなりに客も入る。
だが、僕がこのバーに来る時、
いつも西側の席が最低一つは空いているのだ。
他の3辺にある客席が全て埋まっていても、
何故か西側の1列のどこかにだけその空白はある。
今日もまた唯一にして確固たる空白が僕を迎えてくれる。
僕は席に腰を下ろし、ビールとオムライスを注文する。
何かの本に書いてあった事なのだが、
質のいいバーというのはうまいサンドイッチとうまいオムライスを出す。
その事について僕は1つの異論も無く賛成している。
「ねえあんた、ちょっといいかい?」
不意に僕の右隣に座っていた男が早口に言う。
誰に言っているのか分からないので無視をする事にする。
「おい、あんた、あんただよ。
こらこっちを見ろ」
男はそういいながら僕の肩を傲慢に掴み、
謙虚に揺すった。
「なんですか?」
見ると、まるで太陽のように丸く、赤い顔をした男がこっちを睨んでいる。
飽和出来うる限りの汗を吸い込んだ安っぽいグレーの背広は太った男特有の匂いを放ち、
その上に乗っかった顔は今日の暑さのせいだけとは思えない程にぐっしょりと汗ばんでいる。
申し訳程度に残った前髪も、そこから退去する事になるのは遠い未来の話じゃないだろう。
「あんた、さっきさ、
本当はしなきゃいけないことがあったのに、
それを何事も無かったかのように放棄しただろ」
男はまくし立てるような口調で言う。
きっとそういうしゃべり方が癖なんだろう。
「しなきゃいけないこと?」
男は一体何を言っているのだろう。
「あんた、ここに入る前、
すごく重要な使命があったんじゃないか?」
ふむ、と僕は言う。
「分からないな、何の事だろう」
男はそれを聞いてさらに憤慨する。
「あんたな、こんな事言いたくないが、
三分前の出来事も思い出せないほどの記憶障害でも患ってるのか?
それとも俺を馬鹿にしてるのか?
まあいい、面倒くさいが説明してやる。
あんた、ここに入る前、
夕日を見てある考えが浮かんだはずだ。
浮かんだはずなんだ。
それは、失われたものについて、深く考える、という事だ。
そうする事が必要だと感じたはずなんだ!」
男はほとんど息継ぎもせず言い切ると
テーブルにばん!と汗ばんだ手を突いて立ち上がり、
そしてぶるぶるとその興奮を持て余し、
結局またその太った体を揺らしながらゆっくりと座った。
その椅子とテーブルに僕は少し同情した。
まだ何か言いたそうだったが、
言うべき言葉を意識の壷からうまく絡め取る事が出来ないでいるといった感じだ。
「そういえば、そんな事を考えていた気もします。
でもそれが何故あなたに分かるんだろう?」
素直な疑問だ。
なぜ、この男に分かるんだろう?
「何故?何故だと?
そこじゃないだろ?
俺が言った事をよーく思い出せ。
何故俺にあんたの考えた事が分かったのかなんて、
俺が今言った事に比べたらそりゃあもうどうでもいいことだ。
あのなあ、大事な事とそうじゃない事の区別くらいつくだろ?
そんな事から俺はあんたに説明しなきゃいかんのか?」
男はせっかく整えた呼吸をまたすぐに乱す。
「すみません」
謝ってみた。
男は謝った僕を見て、はあ、と気の抜けたため息を一つついた。
少し効果があったみたいだ。
この男は一体何者なんだろう。
「OK,あんたを責める前に、
まず俺が先に名乗るべきだったな。
あんたには今何が起こっているのか分からないんだものな。すまん。
俺は、おれは、えーと、あー、
なんだっけな」
「夕焼け」
と僕は言ってみた。
「そう、それだ夕焼け。それが俺の名前だ。
俺は夕焼け。
で、あんたは?
あ、いや、いい。
あんたは名乗らなくて結構。
それは必要の無い情報だ。
それを俺が知っていても知らなくても、
あらゆる利益と損益にどんな種類の変化もない。
その情報はあんたの利益、俺の利益、
そしてあんたの損益、俺の損益にはならないってことだな。
利益と損益のバランスを考える事は非常に重要だ。
損益ばかりでは自分の首が回らなくなっちまうし、
利益だけ求めたらいつか誰かに、ばきっとやられちまう。
人は誰かの不当な利益を許せないもんだ。
だからそのバランスをいつも考えてなきゃいけない。
それを怠ると、
利益ばっかか損益ばっかになっちまうと
それがどっちであれ不幸が待ってるぜ。
で、あんた名前は?」
僕は少し呆気にとられ、状況を見失う。
この場合は名乗るべきなのだろうか、
状況を進めるために名乗るべきなのだろう。
僕は自分の名前を言う。
「へえ、いい名前じゃないか。
うん、いい名だ。
せいぜい親に感謝するんだな。
じゃあ、なんて呼べばいい?
ふむ、んー、
まあ、あんたでいいか。
これからもあんたって呼ばせてもらうよ。」
僕は頷く。
「で、そんな素敵な名前の持ち主であるあんたがさっき考えようとして中断しちまった、
失われてしまったものについての考察をほんの少しばかりお手伝いするために、
俺ははるばる遠いところからやって来た。
どこから来たのかなんて下らない質問するなよ?
そんなのはさっき言ったチョーどうでもいい事の内の一つだ。
あんたは失われたものについて、
きちんとした知識を身につけなきゃいけない。
そうしなければあんた、本当に不幸な目に遭っちまう事になる。
それこそさっき言った、利益損益の話の比じゃないぜ?」
僕は沈黙し、彼の次の言葉を待つ。
「ん?なんだ、知りたくないのか?
あんた勘違いしない方がいい。
俺は好意であんたにそれを教えに来たんだ。
そんな態度じゃとても教えてやる気になれないな。
どうだ?聞きたいのか?聞きたくないのか?
どうなんだ?」
どうやら僕に「聞きたい」と言って欲しいらしい。
しかしこれはどう好意的に見ても厄介な状況だ。
なるべくなら厄介な事に巻き込まれたくは無い。
そんなことを考えていると男は今度は急に弱気になった。
「ああ、ごめん。悪かった。
俺が悪かったよ。
そうだよな、別にあんたが悪いわけじゃないんだ。
それにあんた、まだ「事」の内容もその重大さも分かっちゃいないんだものな。
そんなあんたを責めるような言い方をしちまった。
すまん。
でもな、あんただってもう少し言い方があるだろう?
そんな突き放す言い方しなくてもいいじゃないか。
少なくともあんたと俺はこれからしばらく、
お互いの未来の為に行動を共にする事になるんだから」
僕の言い方?
僕は何かを言ったっけな?
言い方云々の前に発言自体ほとんどしてない気がするけれど。
「なあ、聞いてるのか?
謝ってるんだからもういいだろ?
こっちを見てくれ。
俺を見るんだ。
ほれ、見ろ。
よく見ろ。
何かを感じないか?」
ふむ
「いえ、特には何も感じません」
「なんだって?何も感じない?
あんた、分かってる人間じゃないのか?
はあ、通りで。
そうか、あんたにはそこから説明しなきゃなんないんだな。
OK,俺達に時間は多く与えられていないけど、
まあいいだろう、これは説明しておかなければならない事だもんな。
うん、そうする事が必要だ。
俺は」
そこまで言って彼は一旦言葉を区切った。
沈黙。
それは、まるで氷河期のマンモスがその意地と名誉にかけて踏み固めた永遠に解けることを知らない氷のような、そんな種類の密度を持った沈黙だった。
もちろん僕なんかにはそんな、途方も無く理不尽な密度を持つ沈黙を破る事は出来ない。
その傲慢で高圧的な沈黙の中、
彼は彼自身が作り出した圧力を、あらゆる力学的法則の根源からを無視し、
ゆっくりとした動作で両手を真横に広げる。
一つの伝説の始まりから終わりまでがその動作に内包されているようだった。
「俺は妖精なんだ」
沈黙がぐにゃりとその形を変える。
ビッグバンによって途方も無い広さまで広がった宇宙が
ある地点で一気に収束するような、
そんな種類の変化だ。
僕がどんな言葉を頭に思い浮かべても、
それは全てブラックホールに吸い込まれてしまう。
「どうだ、驚いたか?
驚いたろう。
今時妖精なんてそう滅多に見れるもんじゃないもんな。
せいぜいもうちょい郊外に行かないと、
こんな都会じゃ妖精に出会うような機会なんて普通そんなにないもんな。
よし、じゃあそんな妖精と初めて出会っちまったあんたの質問に、
俺様が特別に答えてやる。
さあ、なんでも聞いてくれ」
僕はブラックホールの"へり"にぎりぎりこびり付いた一つの質問を引っぺがし、
ほこりを払ってから彼に投げかける。
「今時の妖精はグレーの背広を着て、
バーで夕食をとるものなんですか?」
彼は、はあ、っとため息を付き、
やれやれ、というように頭を2,3度横に振る。
「あんたなあ、妖精を何だと思ってるんだ?
俺達にだって食べるもんが必要だし、
寝るところが必要だし、セックスだってする。
もちろんそれをする為には金を稼がにゃならん。
実に面倒な世の中だよ。
でもな、
不満を言ったところで国が俺達に援助金を出してくれるわけじゃないし、
不思議な声が天から聞こえてきて、
あなたは妖精なのですね?じゃあ妖精であるあなたに、
食べ物と寝る所と性欲を処理する為の魅惑的な女性を授けましょう
ってな具合になる訳でもない。
じゃあどうするか?そう、働くんだよ。
働き蟻のように朝から晩まで身を粉にしてせっせと働く。
もちろん背広を着ないでいい仕事をしている妖精もいるし、
バーなんかで飯を食わずに、フランス料理屋で夕食を食べる妖精もいるし、
コンビニ弁当で済ます妖精もいる。
でも俺は違う。
背広を着なきゃいけない仕事をしてるし、
何の仕事かは言えないけどとにかく背広を着ない事には仕事にならない。
そして仕事の後にゃこんなバーで夕食を食う。
まあ、そんな訳だ。
なんか文句あるかい?」
「いえ、特に」
もちろん僕は今まで1度も妖精なんて言うものを見たことは無いから、
彼の言う事が本当なのか、嘘なのかを僕に判断する事は出来ない。
パッと見の印象からすれば論ずるまでも無い事だが、
なんせ彼は僕がこの店に入る直前に考えていた事を言い当ててしまった。
その事が僕にもたらす混乱は、この場面においてもその効力を発揮している。
いや、それだけじゃない。
不吉な警笛がどこかで鳴っている。
僕に向けられた警笛か、それ以外の何かに対して向けられた警笛かは分からないけど、
とにかくそれはけたたましく鳴っている。
「で、あんた、あんたの失ったもの。
その中にもう一つ追加しなきゃならんものがあるんだ。
本当に残念な事になってしまったとは思うけど、
どうか俺を恨まないでくれ。
こればっかりは俺にはどうしてやる事も出来ないんだ。
あんたのガールフレンド、あれ、名前なんつったっけ?
あの乳がでかい女だ。
うーん、名前が出てこないな」
空気が一層強張る。
不吉な警笛はまだどこかで鳴っている。そう遠くは無い。
その硬質な音は僕のあらゆる感情をあらゆる方向に、無造作に引っ張り上げる。
彼が作り出したこの特殊な質量の空間に、
僕は無理やりリアリティーを引きずり込む。
そうする必要がある。
「彼女に何かしたんですか?」
僕の声はとても僕のものとは思えないような、
まるで拡声器によって拡大された音を正しくない方法で無理やり縮尺したような、
そんな響き方をした。
しかしそこに込められた感情は、
今の僕にしては上出来なくらいにリアルなものだった。
「いや、話は最後まで聞け!
俺の言葉選びはいつも冗長だが、どれもあんたを思っての言葉なんだ。
そこは分かってくれよ。な?
確かにあんたの大事なガールフレンドの身にあることが起こった。
だがそれは俺のせいじゃないし、
その事自体には俺は全く関わってもいない。
あんたがあの女の事を思ってここで俺に怒りを向けるのも分かる。
でも俺のせいじゃない事を俺に対してあんたが責めても、
俺にはどうしてやる事も出来ないし、
あんたの納得のいく結末へはたどり着けない。
そこんところを分かってくれよ」
僕は僕の中に巻き起こる感情を、一つ一つあるべき場所に収めていく。
もちろんどれをいつどんな形で引っ張り出す事になってもいいように、
そのどれもに印と手綱をつけておく。
「あんたのガールフレンドは今眠っている。
肉体的に障害が発生したわけじゃない。
体は至って健康だ。それは安心していい。
目を覚まさせる事さえ出来れば、
あんたはまたいつでもあの綺麗な体を抱く事が出来るわけだ。
ただ、これがすごく厄介な問題なんだ。
目を覚まさせる事が出来るのか。
それはあんたと俺にかかっている。
いや、厳密に言えばあんた一人にかかってる。
俺はそれを補佐する役目さ。
もちろん眠ったままの彼女をそのまま放置しといたら、
あっという間に死んじまう。
だからきちんと病院に運んでおいた。
俺はあんたの補佐だからな。
補佐の仕事第一号としてすでに運んでおいたぜ。
あんたんちのすぐ近くにでっかい病院あったろ?
あそこだ。あそこに彼女はいる。いや、あるというべきかな?
彼女の肉体はそこにある。
今日はもう面会は無理だが、明日にでも行ってやるといい。
まあ、彼女の核はそこには無いわけだが」
僕の混乱は加速度的にひどくなる。
本来ならこんな話に信憑性など1つも感じないのだが、
今、ここにおいては、全てが真実なのだ。
僕ははっきりと感じる事が出来る。
彼女が深い眠りの中で、
何かに対して誰かが便宜的につけた名前を呼んでいることを。
それは多分僕の名前だろう。
彼女は僕を待っている。
「僕はどうすればいい?」
彼は眉を八の字にして哀れむような目で僕を見て一呼吸し、
それから、哀れみを目に称えたまま口元だけ優しい笑みを作って言った。
「あんたにはしてもらわなきゃならない事がいくつかある。
こんな事になっちまって、ほんと難儀だと思うし、
でもそれでも、それを堪えてしなきゃいけない事があるなんて本当に辛い事だ。
だから俺はあんたを全力で補佐する。
それが俺の仕事だし、俺の望む道だ。
だがまずは、明日の朝だ。
明日の朝病院に行ってやれ。
話はそれからだ。
こんな状況で、そんな気持ちで今日の残りを過ごすのは辛いだろうけど、
でもきちんと準備をして、心を決めて挑むんだ。
彼女を愛してるんだろ?」
「うん」
「まあ、こんなもんじゃ心は晴れないだろうけど、
今この場で俺がしてやれるせめてもの事だ。
ここで一番上等なウィスキーを一杯奢ろう」
僕達はウィスキーをロックでグラス一杯飲み干し、バーを出る。
彼とは明日の朝、病院で落ち合う約束をして別れた。
僕は帰る途中駅で彼女に電話をかけてみたが、やはり彼女は電話に出なかった。
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