自宅のマンションの側で、電信柱でうずくまっている「犬」を見つけた。
ジーパンに黒いTシャツを着た少年。
気を失っているのか、寝ているのかはわからなかったが、自分よりもずいぶん若いことはわかる。
小さく背中を丸め心なしか寂しげに見えるその様子から、直感的に「犬」のようだと感じた。
厄介なものを捉えてしまったと内心舌打ちしたが、このまま見過ごすのも後味悪い。
夜の十一時過ぎの、しかも土砂降りの雨の中でこの「犬」が自分以外の人間にこれから発見される可能性は低いだろう。
和葉はため息をついた。
そして持っていた赤い傘を犬の上にかざした。
「もしもーし。起きてるー?」
屈んで少年の肩を揺らしてみたが、応答は無い。
その代わりに、肩を掴んだ時、彼の体の所々に傷があるのに気付いた。
(仲間内で喧嘩でもして、ここに逃げ延びたんやろか……でも、ヤンキーっぽくは見えへんよなあ)
身分証明になりそうなものが無いか、ポケットを観察するが、何も入っていないようだ。
「やっぱ警察に電話せなあかんかな」
そう呟いて和葉がバッグから携帯電話を取り出そうとした時だった。
うっすらと少年がまぶたを開けたのは。
「あっ、だ、大丈夫?」
「……警察は嫌や」
「え?」
「嫌や……」
そして再びすうっと彼の意識は途切れたようで、がくりと和葉のほうに倒れ掛かってしまった。
条件反射に彼の体を抱きかかえてしまった彼女は、そのままの状態で暫く呆然とする。
次に肩を落とすと、立ち上がって少年の腕を引っ張り上げ、自分の肩に回したのだった。
「……あれ、ここどこや」
平次が目を開けると、天井の温かいライトが自分を照らしていた。
足元を見れば、ソファのヘッドが。
どうやらソファに寝かされているらしい。
乾いた髪をがしがしとかいて、上半身を起こす。
自然とお腹に力が入るが、瞬時に鈍い痛みが走り顔をしかめた。
思わず両手でその辺りを抑えると、毛布がかけてある。
それを取ると、新しい真っ白なTシャツを自分が着ていることに気付いた。
さすがにトランクスは元のままだが、ジーパンは黒いスラックスに変わっている。
確か「あの後」何とか郊外まで出て、雨によって奪われる体温に危機感を感じながら思わず電柱にもたれかかった辺りまでは覚えている。
そこからの記憶が無い、ということはそこで気を失ったのだろう。
そんな自分は誰かに拾われて着替えまでさせてもらったのか。
まだはっきりとしない頭で事態を把握しつつ、寝たまま辺りを見回す。
薄型テレビに観葉植物、可愛らしいじゅうたんにおしゃれな置物。
割かし広めの部屋だが、ここはどうやら一人暮らしの若い女性が住んでるところのようだ。
仕事柄、数秒の観察でそれがわかった。
「あ、気付いた? 怪我は切り傷よりお腹の打撲のほうが痛そうやったけど、今はどう?」
背後からの声にはっとして振り向くと、そこには二十代前半と思しき女がカップを持ってこちらにやってくるところだった。
髪の毛を高い位置で一つにしばり、薄い化粧を顔に施している綺麗な人だ。
「あ、ああ。ちょお痛いけど、歩けんほどやない」
「そう。良かった」
そうして、和葉はソファに座る平次にカップを手渡した。
彼は受け取って中をのぞくとココアが入っていた。
芳しいにおいが鼻にかかる。
頂きます、と頭を下げてから口に運んだ。
思った以上に自分は冷えてたらしく、体の芯からじんわり温かくなるのを感じた。
「えーと、色々聞いてもええか?」
「ええよ。あたしもあんたに聞きたいこといっぱいあるけどな。そっちが終わってからにしてあげる」
彼女は自分の分のカップも持ってきて、彼の正面にある椅子に腰掛けた。
ルーム用のワンピースがふわりと一瞬浮いた。
「あんたの名前は?」
「遠山和葉。ここの部屋の主」
「あんたが俺を拾ってくれたんか」
「そ。電柱の下でうずくまってたあんたを見つけたんや」
「この服は?」
「先日別れた彼氏が置き忘れていったやつ。あんた雨で濡れてたし、そのままやと私の部屋まで濡らされるし、着替えさせたんや」
「……あんたがか?」
「当ったり前やん。他に誰がいんねん。あ、もしかして女の人に裸見られてショックやったとか?」
「あ、アホ! そんなんとちゃうわボケ!」
「あはは、ごめんごめん。まあ気にせんといて。私も男の子の素肌見てキャーキャー言うほどの年齢やないし」
からかわれた上に、年の功を見せつけられて平次は憮然とした顔になる。
子供らしいくるくる変わる表情に彼女は頬を緩めたが、コホンと咳払いをして居住まいを正した。
「じゃ、こっちからも質問させてもらうで。――あんたは何者や? 何であそこに倒れてたん?」
「俺は探偵や」
「探偵? あんたみたいな子供がか?」
「子供言うな! 俺は高校二年生やで。そんで、今日は梅田を歩いてたら、以前関わった事件の関係者が逆恨みして俺に突っかかってきてこんなことになったんや」
「じゃあそのお腹の打撲は蹴られた痕?」
「そうや。集団で襲われたからガード仕切れんかった。腹蹴られて気が遠くなりかけて、こらやばいと思ってな。重傷負う前にあいつらをおもいっきし殴って逃げたんや」
「そっか、えらい災難やったんやなあ。で、あんたの名前は?」
「……池波平次」
「ふうん」
これは嘘じゃないかと和葉は思った。
池波と名乗ったとき彼の目が一瞬揺らいだような気がしたのだ。
名前はともかく、苗字は確実に偽っている。そんな女の勘があった。
この少年には色々複雑なものが背景にあるようだと感じたが、それに関わるつもりはない。
そもそも、明日も自分は仕事なのだ。
これ以上ごたごたに巻き込まれては自分の生活に支障をきたす。
「ほな、池波平次君。親に電話してもらおか? 未成年は家に帰る時間やで」
側にあったコードレスフォンを手にとって、彼の前に差し出した。
しかし彼はその電話を受け取らず、戸惑ったように見つめるだけで。
「なんや、やっぱりあんた家出か?」
名前を偽り、家に電話までしたくないのなら、家出しか思い付かない。
和葉はため息をついたが、それでも平次は何も答えなかった。
仕方ないと彼女が受話器を再び寄せて通話ボタンを押す。
「じゃあ、警察に――」
「ちょ、ちょい待て!」
「”待て”やってぇ?」
「あ、ちゃうちゃう、待ってください! 警察は勘弁してくれへんか。なんちゅーか、その……色々まずいねん。親にも警察にも連絡するのは」
慌てて頭を下げる彼に、彼女は電源ボタンを切った。
そういえば、電信柱で拾うときも彼は警察を拒否していたなと和葉は思い出す。
探偵と名乗ってるくせに、後ろめたいものが警察にあるのかといぶかしむ。
「あんたなあ、これ以上あたしも面倒見切れへんで。学生のあんたと違って、あたしは明日仕事やねん。はよ寝てはよ起きて洗濯して食事して掃除して……」
「じゃあそれ俺がやったるし、ここに暫く置かせてくれ」
「はあ?」
「家事一通りのことなら出来るし、早起きも慣れてるし。それに俺武道も習ってるから、ボディガードも出来るで」
「おあいにく様。あたしも合気道やってたから、護身術は身についてんの」
「帰宅したら年下のイケメンがおかえりって言うねんで」
「年下には興味ありませーん。確かに、可愛い顔はしてるけど」
「んー…じゃあ、ペット!」
「ペットぉ?」
「あんたの仕事の疲れを癒したげる、ペットになったるわ。仕事柄、俺聞き上手やしあんたの文句も聞いたる。肩ももんだるで。あ、曲芸も出来るで。宙返りとかヘッドスピンとか」
いや、ペットはヘッドスピンなどしないだろうと思ったが、そこは今つっこむところではない。
四年制大卒商社勤務二十五歳独身。
そんな自分が高校生の男子を囲うなど、周囲の人間に知られたら何と言われることやら。
彼氏と別れて年下に走った挙句、ヒモ状態にさせたなんて思われるのがオチだ。
頭のめまいを感じながら、和葉はこめかみを押さえた。
「あんなあー……」
「ホンマ頼むわ、和葉。このとーり」
「呼び捨て禁止。今度呼び捨てしたら放り出すで」
「じゃあ、呼び捨てせえへんかったら放り出さへんやな」
「そういうわけやない!」
このまま押し問答が半永久的に繰り返される予感がして、どうしようかと思い悩む。
何となく、手を合わせて頭を下げる目の前の少年を見つめた。
探偵にも見えないが不良にも見えない。
真っ黒な髪の毛に、まっすぐな目をした、人好きのする顔。
先ほど、ココアを飲むときに頂ますとちゃんと言ったところからしても、家庭できっちり教養を身につけられたのだろうと思う。
彼を纏う雰囲気に品を感じるのもそのせいかもしれない。
しかし、そんな彼は家に帰りたくないのだという。
警察も嫌だという。
「……何か犯罪でも起こしたから、警察に連絡されたないってことじゃあないやんな?」
「それは無い。 天に誓って無い!」
「ホンマやな」
「俺は探偵やで。犯罪なんかするかいな」
目をそらさずに胸を張って答えるので、そこは信じていいだろう。
一番重要なことを確かめた和葉は、腹を決めた。
「じゃあとりあえず、明日の朝食」
「朝食?」
「明日の朝食を美味しく作れたら、ここに置くこと考えてあげる」
「ホンマか!?」
本当にぱたぱたと振る犬の尻尾が目に見えるくらいに、平次の顔が明るくなる。
「どんなんがええ?」
「冷蔵庫にあるやつでええよ。ただし、朝に食べやすいものね」
「りょーかい」
「あ、それと」
「何?」
「あんたが今日寝るのはここ。布団貸してあげるしここで寝なさい」
「ん、わかった。ペットやし別にどこで寝てもええよ」
「…ペットねえ……」
何だかんだで了解してしまったが、もしかして自分は結構アブナイことをしてるんじゃないだろうかとふと思う。
しかし、満面の笑みでココアを飲む少年を見ていると、一日くらいはいいかとも思えてくる。
するとリビングの扉の向こうから電子音が聞こえた。
お風呂が溜め終わった音だ。
彼女は立ち上がって、彼の座っているソファの側を通りすぎようとした。
その時、気まぐれな遊び心が彼女の中に沸いた。
くるっと向き直って、
「――お手っ!」
「っと!」
ぱしっという音ともに、手を差し出した和葉とその上に手を置いた平次の奇妙な格好が出来た。
手刀のごとき鋭さを持った速さで目の前に出された彼女の手を、平次がこれまた目にも留まらぬ動きであわせたのだ。
二人とも武道をたしなんでいるせいか、「お手」というには少々緊迫しすぎる空気が一瞬流れる。
手を合わせた状態で立ったまま見下ろす彼女を、ニヤリと平次が見上げた。
「いや、この場合はワン! やろか」
その言葉に和葉はぷっと吹き出す。
この状況の奇妙さに笑みがこぼれるのを抑えられなかった。
「じゃあ次の機会な」
「なんや、あんた結構乗り気やん」
「調子に乗らんとき。ちょっと遊びたくなっただけや」
そう言うと、彼女は差し出した手で彼の頭をぺしっと叩き、リビングから出て行った。
残された平次は扉が閉まるのを確認してから肩をすくめた。
ソファに深く腰を沈める。
まだあるココアを味わいながら、ぼんやりと天井を眺めた。
(とりあえず暫くは大丈夫そうやけど、それからはどないしよ)
気は強そうだが、良い人に拾われたと思う。
これで何日かは凌げるだろう。
しかし自分の父親は警察官僚だ。
家出くらいなら数日は見逃してくれるだろうが、数週間も居なくなれば事件に巻き込まれたと思われる可能性もある。
とはいえ、こちらにもそれを承知で家出するくらいの理由があるのであって。
「でも、あの和葉っちゅう女にとばっちり食わすのも嫌やしなあ……」
さっき見せた、彼女の笑顔が脳裏に浮かんでため息をつく。
あれは澄んだ心を持っているからこそ出せる顔だろう。
何せ、その笑顔の綺麗さに自分が内心びっくりしたくらいなのだから。
(あの笑顔を絶やすことだけは、絶対したらあかん)
自分のわがままに付き合ってくれた彼女を、せめて精一杯笑わせてやろうと平次は心に決めたのだった。
一方、和葉はバスタブのお湯加減を確かめながら、心が少しだけ弾んでいるのを否定することが出来なかった。
本気でペットと飼い主ごっこをするつもりは無い。
彼は未成年で家出しているのだ。
大人である自分が叱らないといけないのだ。
明日もう一度話し合って帰宅を説得するのが、筋だろうと思う。
しかし、生意気な年下を囲うのにそこまで悪い気はしないのも事実で。
お手、と言った瞬間出された案外大きな手のひら。
そしてこちらを見上げる、若者特有のぎらぎら光る瞳。
年上彼氏との破局や仕事のストレスで疲れきっていた自分の心に、それは思った以上に「楽しさ」を与えたようだ。
裕福そうに見えるのに名前を偽り家出する辺りも謎めいていて、面白い。
それは、宝物を見つけて大人の目の届かないところでドキドキしながら眺める、子供の興奮に近いような気がした。
「……あかん。あたし変な趣味あったらホンマどうしよ」
次の日の朝。
起きた和葉の目に移ったのは、かやくご飯と焼き魚と豚汁と菜っ葉のおひたしという立派な朝食。
それらがピカピカに磨かれたテーブルの上に並べられている。
いつの間に作ったのか、野菜ジュースまで置いてあった。
「あ゛ーっ! 何であんたそんなに何でも出来てしまうんやーっ」
「ええ!? 作れ言うたんお前やんか!」
理想的な朝食を前にして、一段と言う気が薄まってしまった「帰れ」の言葉。
いけないことだとわかってるのに、彼との生活は面白いに違いないと確信してしまう。
「もしかして、あんたうどんとかも手打ちで作れたりするタイプ?」
「ああ、出来るで。ようわかったな」
「やっぱりー…」
完璧だ。この少年は完璧だ。
それが自分の好奇心を刺激してたまらない。
勿論妖しい意味ではない。
ただ、興味深いのだ。この少年は。
欲望が良識を上回るのを感じて、和葉が頭を抱えた。
一方せっかく作ったのに何故かキレられた彼は、頭を抱えたいのはこっちのほうだと言い返す。
「日本人王道の朝食を作って何が悪いんや」
「ああ、しかもちゃんと栄養まで考えてあるしー…ホントどないしよ」
「オバハン俺の言うてること聞いてるか」
「誰がオバハンや!」
そうして、彼らは暫くの間ぎゃいぎゃい言い合う。
「ああーもう! こんだけ作っといて他にどんな不満があるっちゅーねん!!」
「無いから困るんやー」
「はあ?」
互いに困惑した気持ちで迎えた朝は、それでも気分は悪くない。
ここから始まる彼らの奇妙な生活。
思いも寄らぬ事態が次々と起こるとは、この時の二人は知る由も無かった。
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