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私は土の上に存在する
作:慈牟


土という字を書く時、彼が思い描くのは血だった。
土と血の関連を私達は理解できないが、今から私が説明していく。

彼は彼女を知っていた。
彼女は沈黙で、身動ぎすらしないような印象だった。
まるで土のようだ、と彼は思った。
人を指す言葉にはほど遠いが、これは彼女にぴったり当てはまる唯一の言葉だ。
温もりもなく、墓石の冷たさもない。
その上金属のような輝きも鋭さもなく、水のように手を滑り抜けて流れることはない。
生ぬるくて、不揃いな角と丸みを持った、なんとも形容しがたい姿は土そのものだった。
もちろん、彼女は人間だ。
平温は少し低い方だと言うくらいで、私達と大した差はない。
それでも、彼は彼女を生暖かいと表現するよりも冷たい、けれど強いて低温でもないと感じていた。
他の人が彼女についてどう感じていたか。
それはここでは語られない。
彼女は時に、液体でも固体でもない、どろどろの泥水だったり、少し湿った程度の土だった。
完全に干からびた土の時もある。
それでも、常に痩せた土地の土壌を思わせていた。
決して、栄養を含んだ黒土のようではなく、生き物が死に絶える地面のようだった。

そんな土と彼は、いつの間にか隣に居合わせていた。
足で踏みつけるでもなく、寄り添う訳でもなかった。

彼女はあまり喋らなかったため、いまだに彼は彼女の性格はおろか、名前すら知らずにいた。
彼女が口にする言葉は以下の三つだけだった。

「寒い」

「暑い」

そして、最期に「赤」と。

彼女には何か生まれつきの障害か持病があったのかも知れない。
その名の通り、土気色の肌が赤みを帯びるのを彼は一度も目にしたことはなかった。
他の人もそうだろう。
そもそも、彼女の存在は彼以外に認識されていたのだろうか。
彼には分からない。
彼女は、土は存在していたのか。

ある日、白みがかった空に赤い朝日が映し出された頃、彼は土を見つけた。
やせ細った骸骨のような身体は華奢という表現を超えていた。
彼とおおよそ同じ色調で存在するはずの彼女は、なぜか薄く見えた。
彼はとっさに空を連想した。
死んだような白い空。
いや、白ではない。
少し灰色がかった、何とも言えない色。
無限にある色の中で、最も印象の薄い色だ。
彼は何か話しかけたのを覚えていた。
それが「おはよう」だったのか、「こんにちは」だったのかは覚えていない。
地面と彼女の靴が擦りあう音だけが、その存在を示しているようだった。
彼女は無言だった。
生きているのか、死んでいるのか・・・そう考えた時、彼の頭に浮かんだのが土という言葉だった。
彼は彼女の手を引いた。
冷たいと感じ、次に温かさを少し感じた。
彼女はそのどちらでもなかった。
彼を振り返った彼女の動きは駒撮りで撮られたアニメーションのようにぎこちない印象だった。
再び彼は彼女の生死を疑った。

彼は彼女を家に連れ帰った。
彼はどうやって家まで土を運んだのかも覚えていない。
手を引いていたか、黙って彼女が付いてきたのか、無理矢理連れ込んだのか。
まるで靴底にいつの間にか付着した土のように、彼女は彼の部屋にいた。
その時、彼は彼女の沈黙を楽しんでいる所だった。
音もなくソファに腰掛ける彼女の足元を見て、彼はいつの間にか靴脱いでいた事に気づく。
その時、初めて彼女が口を開いた。
「寒い」
その声を彼はもう覚えていない。
低くも高くもない声が彼女の容姿にぴったりだったと言うくらいしか。
彼はぎこちなく、彼女を抱きしめた。
しばらくそうしていると、突然奇妙な気持ちになった。
我に返った彼は、彼女がその瞬間自分の下で身動ぎ一つせずに横たわっていることに気が付いた。
いつの間にか、一糸まとわぬ姿になっていた彼女を見ても、彼はそれが裸だと気づかなかった。
服を着ていても、着ていなくても同じように見える人なんてそういるもんじゃない、と彼は冷静に考えた。
覚えていなかったが、彼は一度彼女と確かに繋がっていた。
彼女の手が感じないほどの力で彼を押し返す。
「暑い」
彼女のその言葉は彼にとって奇跡のようだった。
生きているのか、死んでいるのか分からない土が言葉を紡ぐのを彼は耳にし、その唇に目を走らせた。
まるで、目の端で背後の物陰を追う時のようだった。
動いた気がする・・・動いたんだ、絶対に。

具体的にいつ彼女が現れ、どのぐらいの日数を彼と共にしたのかは全く謎だった。
一時間なのか、10年なのか。
確かなのは、彼は彼女といる間ずっと彼女だけを見ていたと言うこと。
飲み食いをせず、風呂も入らず、歯も磨かず、用も足さずにその時間を彼は彼女と過ごした。
一時間なら驚くことはないし、十年なら超自然現象とも言えるが、それは定かにならない。

「赤」
「えっ?」
彼女の三つ目の言葉に、彼は驚きの声を上げていた。
本当に赤がそこにあった。
何色とも言い難かった彼女に赤が生まれている。
それも、床一面に。
その赤は一見血のようだった。
今でも、彼はそれを血と認識しているが、実際は血ではなかった。
その血のような赤は液体でも、固体でもなかった。
赤土、と見れば別のものを連鎖しがちだが、それを文字にするなら、これが適当だろう。
鮮血のように赤いそれは、確かに土だった。
彼はそれを摘んで手のひらで感じた。
感触は土そのものだった。
その時、土は冷たかった。

その数日後、血の海に座り込んでいる彼を私は見つけた。
私は驚いて彼に駆け寄ると、彼が手に握っていたのは土くれだった。
血で濡れた手のひらを見るのはそう、珍しくもないだろう。
血まみれの土くれを握っていた彼に比べれば。
私は彼の手から、とっさに土くれを払おうとした。
が、よくよく見てみると、彼の手から土くれが少しずつ、湧き上がるように出てきた。
もちろん、目を疑ったが、確かに出ている。
私は何も言えなかった。
ただ、血の海の床に腰を下ろし、突然話し始めた彼に耳を傾けた。

話が終わると、目の前の光景は少し変わっていた。
血の海の中に既に彼の姿はなく、こんもりと土が山盛りになっている。
私はその山を手で崩して探ってみたが、何も見つからなかった。

彼は彼女を土と形容したが、私も彼を土と呼んでいた。
目の前で彼が土に還ったからだけではなく、少し離れたところに何の変哲もないボールペンと紙が落ちていたからだ。
紙はぐしゃぐしゃの線で塗りつぶされている様に見えたが、手に取ってみると、何百回、否、何千回も、土と書き殴られていた。







私は土の下に眠っている













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