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17.王宮にて 1

リシェルは女王の居城である白薔薇宮で起居を始めて5日。

アディーリアの仕草や、姿勢のくせ、話し方、歩き方などを観察して自分のものとするため、公務と眠る時以外は常に一緒に行動を続けている。そして眠る時でさえ寝室の隣に部屋を用意して貰い、集中が削がれないようにしていた。



聖女王になりきるために。



その甲斐あってか日常の仕草、態度などは女官頭エロルも感心するくらいアディーリアに近しくなっているらしい。

本業の女優をやっている時でさえ、こんなに真剣に役作りをした事はなかったリシェルにとって、この経験は新鮮且つ真剣なものであった。

「リリったら目が怖いわ」

「今の私は冷厳な観察者ですから。諦めて下さい、アディ」

こんなやり取りもこの数日で何度繰り返されたか。

女王が公務についている時間は教養、学問である。一応ダレルノ公国で10年間の義務教育を修めたリシェルであるが、それ以降はこの国の殆どの民衆と同じように大学へは進まず、伯父の劇団に入ってしまったため、高度に専門的な教養は無いに等しい。

幼いころから本を読むのは好きだった。が、それは学問と言うよりは物語が多く、女優になったのも、好きな物語を自分で表現してみたいなぁと何となく思ったのがきっかけだった。



ほんとお気楽に考えてたわよねぇ・・・私って。だから今、こんなに大変なのかも。勉強は嫌いではなかったはずなんだけど



分厚い「エイティス国史」と書かれた本をつくづく眺めてリシェルは溜息をついた。歴史も嫌いではなかったはずだが、どちらかと言うと逸話的なものに興味が引かれる彼女にとって、真正面から事実をのみ淡々と綴った正史の固い文脈はなかなか頭に入ってこない。

来週からはアディーリアの公務にも女官の一人として付き添う予定である。影武者の本来の活躍の場は公の場であるから、王宮に慣れ次第こちらを真剣に取り組まねばいけない。必然的に勉強の時間はさらに短くなる筈で。今週の内に必要最低限の知識は突貫工事で詰め込まなくてはならなかった。



「ご精がでますね・・・少し休憩されてはいかがですか?」

控えめなノックの後、イビサと言う女官と共に午前のお茶の用意をしにやって来たオーガスタは、眉間に皺を寄らせたリシェルを見て気遣わしげに言った。それは召使としての儀礼ではなく、彼が本当に自分を心配してそう言ってくれているのだとリシェルは感じている。

なぜなら学問を彼女に教授するのは、実は他でもないこのオーガスタなのだ。彼は必要最低限の、それもできるだけ優しい言葉で書かれた書物をリシェルに示し、読むように言った時も済まなそうにしていた。今日も少しの休憩の後、この日読み進めた分を彼の前で解釈する事になっている。

「ありがとうございます。でもなかなか頭に入らなくて・・・すみません」

「そんな事はおっしゃらないでください。こちらこそ申し訳ありません。お若い姫君に歴史なんて灰色の学問だと思うのですが・・・それでも一番の教養は歴史だと申しますので・・・ああ、それにそこは」

オーガスタは、リシェルがやっとのことで半分ほど読み進めた項を見て笑った。イビサも微笑んでリシェルにカップを渡す。お茶は熱くて濃く、疲れた頭に染みた。

「はい?」

「今リシェル様が読んでおられるのは、割合平坦・・・と申しますか、戦の無かった時代ですね。こう申してはなんですけれど、歴史を学ぶものにとって興味深いのは動乱期ですから」

「そうなんです。エイティス建国の辺りの章はとっても面白かったんです」

「そうでしょうとも・・・でも、たった数日で、ほぼ近代まで読み進められたリシェル様の熱心さには敬服いたしますよ。なかなかこのようにはいきません」

「でも、きっとしっかり覚えきれていませんよ。この後、お聞きになるのでしょ?きっと笑われるか怒られるかしてしまいます」

自信がなさそうにリシェルは開かれた項に目を落とした。ついでに肩まで落としてしまったのをみて、オーガスタは焼き菓子の皿を差し出す。リシェルが顔を上げると穏やかに細めた緑の目があった。

「怒ったりなぞ致しません。それにお間違いになられても構いません。間違った所は私が導きます。やり取りして行くうちに身につく知識もありますし、何より楽しくなくてははかどりません。さぁ、少し休憩致しましょうか。このお菓子はリシェル様を励まそうとさっきイビサが焼いたのですよ。どうぞ召し上がってください」

「あ・・・頂きます。・・・わぁ美味しい、焼き立てね。イビサはお菓子を作るのが上手なのね」

「ありがとうございます。焼き菓子は得意なんです」

リシェル程ではないが、髪の色の濃い女官のイビサは嬉しそうに言った。後で聞いたのだが、白薔薇宮の若い女官には髪の色の濃いものが数人いるそうで、これらも以前から万一に備えて集められた娘達だと言う事だった。

「昼食前にどうかと思ったのですが、お勉強とは疲れるものだと伺ったので」

「確かに」

つくづくと同意する。



その後、つっかえながらもリシェルは何とかエイティス近代までの歴史を解釈したが、オーガスタは大変良く出来ましたと評価を下した。きっと慰めてくれているんだと、褒め言葉を素直に喜べないリシェルに対し、彼にしては珍しい断固とした調子で言った。

「私はお世辞は言いません。侍従としては、だから三流かもしれませんが」

「そ・・・うなんですか?侍従のお仕事の事は良く分からないんですけれど、オーガスタさ・・・オーガスタは優しいと思います。お世辞じゃないのなら褒めて貰った事は嬉しいです。ありがとうございます。次はもっと上手に解釈できるよう、ご本を読み込んでおきますね」

分厚い本の表紙を撫でているリシェルを好もしそうにオーガスタは見ている。

「リシェル様は本当に素直にお育ちになったのですね。お育てになられたご両親様や伯父上様のお人柄が偲ばれます」

「えへへ・・・そうですか」

「そうですとも。さ、朝一番につまらない予定をこなしていただきましたから、午後からは少し体を動かしてみましょうか?」

「何をするのですか?」

期待半分、不安半分でリシェルは尋ね、心配ないと言うようにオーガスタが頷く。

「舞踏・・・ダンスです。外交の場ではよく舞踏会が催される事が多いのです。陛下は大変御上手な踊り手ですので、よく外国の方々から申し込まれるのですよ。リシェル様はダンスのご経験は?」

「以前、お芝居で王宮の物語をやった時に端役で少しだけ。円舞の基礎は習いましたけど・・・でもそれだけで」

やっぱりアディーリアは何をやっても上手なんだ・・・とリシェルは感心した。もう、落ち込むつもりはなかった。自分がやろうと思った事で、これ以上みっともなくなりたくない。へたくそならば教えて貰って少しでも上手になればいい。

「十分ですとも・・・昼食後、私と少し練習をしてみましょう。サザビーの弦はなかなかの腕前ですよ」

「へぇえ」

サザビーと言うのはリシェルがここにやって来た時、オーガスタと共に会った年配の方の侍従の名である。リシェルがイビサに給仕をされて軽い昼食を済ませると、オーガスタが二階のホールに案内する。彼がイビサに耳打ちすると彼女は直ぐに出て行き、少ししてサザビーが楽器を携えてやって来た。

「失礼いたします」

サザビーが入って来た時、リシェルとオーガスタは基本的なステップの確認を行っていた。二人は向き合い、リシェルの手は背の高いオーガスタの肩によいしょと言う感じで添えられている。足元が気になる様子で俯き加減なリシェルに対して、オーガスタは安心させるようにゆっくりとステップを踏んでいた

「はい。前の先生が良かったのですね。基礎はしっかりできています。これなら上達はお早いでしょう。サザビー、早速ですがお願いします」

「はい」

「リシェル様、いいですか?」

「・・・はい」

サザビーは壁際で弦楽器を構える。代表的な円舞曲が流れ出た。オーガスタのリードで二人はゆっくりと踊り始める。リシェルのステップは贔屓目に見てもかなりぎくしゃくしていた。

「リシェル様、少し力を抜いて・・・」

「は・・・そのつもりなんですが・・・うっかりすると指が滑り落ちそうで」

「ああ、すみません。少し身長差があり過ぎました・・・。私はシュトレーゼル伯爵様とほぼ背の高さが同じなので練習相手にいいと思ったのですが。お靴を高くすればよかったですね」

「いいえ、そうするともっと足元が覚束おぼつかなくなりますから、最初はこれでいいです」

「やはり姫は努力家ですね・・・あ、そこはもう少し大きく右足を出して・・・そう、そうすれば優雅に回転する事ができます」

「あ、はい。・・・次ですね・・・こうですか」

「そうです。私に体を預けて・・・」

オーガスタはくるりとリシェルの体を回した。

「・・・」

「顔が赤いですよ・・・お疲れに?」

優しく体が横に引っ張られるが、ちっとも危なげはなかった。彼が相当優秀な踊り手だと言う事がよくわかる。

「いえ・・・ちょっと恥ずかしくて・・・」



男の人とこんなに近いのはあんまり・・・ていうか



初めてかも・・・と思い、直ぐにごく最近、彼女に迫った顔をリシェルは思い出した。鋭く強い瞳、意志の強そうなげた顎を持った男の顔を。



ドキン



「どうしました?益々頬が赤くなって・・・」

心配そうに覗きこむオーガスタから顔を背けて体をよじる。ただでさえぎこちない足運びが益々おろそかになってしまう。

「・・・」

「リシェル様?そんな風にされてはパートナーが困ってしまいます。もし顔を合わせるのがお恥ずかしければ私の喉の辺りをご覧になってくださいませ」

「は・・・はい」



な、情けな・・・



オーガスタが困っている。気持ちは既に覚悟を決めたはずなのに、中々体がついていかないリシェルだが、自分を叱咤しておずおずと顎を上げた。男性にしてはすんなりと伸びた首が目に入る。無理に視線を合わせなくてもいいと言ってくれたオーガスタの気遣いが心に染みた。

「そう・・・それでいいですよ。ずっと見つめ合っているのはいくらなんでも・・・という踊り手もいらっしゃいますから」

「そう・・・なんですか?すみません、慣れたらもう少し上手になると・・・」

つたない」

「!」

不意に楽器が鳴り止んだ。アレクシオンがいつの間にか部屋の隅に立っている。その横でイビサが肩を竦めていた。

「伯爵様!」

ついさっき脳裏に浮かんだ顔が、記憶通りの無表情で腕を組んでいる。不機嫌オーラの光背付きで。

「おや、シュトレーゼル伯爵。ご政務は終わられましたか」

「ふん」

丁寧な問いかけにアレクシオンは鼻息で応じた。

「・・・丁度ようございました。リシェル様、この後は伯爵様と踊ってみてください」

オーガスタはあっさり体を離す。

「・・・え?」

「何と言っても舞踏会や、夜会には陛下は伯爵を伴われる事が多いのです。慣れておいた方がいいと思いますので」

「はぁ・・・」

「伯爵様はよろしゅうございますか?リシェル様にダンスのご教授をお願いしても」

「・・・よかろう」

どう考えても自分への了承が後から取ってつけたように聞こえるのだが、賢明にもその点には目をつむってアレクシオンは面倒そうに応じた。

「そうだ、イビサ?」

「はい」

「直ぐにシシィを呼んでもらえますか?リシェル様に夜会のお支度をしていただきます」

「畏まりました」

「え?でも今はまだお昼で・・・」

リシェルは正式な夜会服など着た事がない。今も襟の詰まった普段着で踊っていたのだ。

「すみません。お召しものや、お履物に慣れて頂く丁度いい機会かとも思いまして・・・伯爵様、少しお待ちになって頂きますが」

「仕方がないな。出来るだけ早くしてくれ」

「はい。ではリシェル様、こちらに」





女王専属の美容師、シシィの腕は相当に確かなようだった。僅か半時の後、再びオーガスタに伴われて部屋に戻ってきたリシェルは黒髪を後ろで結いあげて、華やかな夜の化粧を施されていた。黒い巻き毛が引き立つようにとの配慮からか、真珠色のドレスを纏っている。広くれた襟ぐりから寄せられた胸の谷間が覗いているのがあどけない顔立ちと相反して酷く煽情的に映った。

「陛下のお衣装をリシェル様用にお直しするのが間に合わないので、適当に選んで補正いたしましたが大層よくお似合いでしょう」

「・・・」

「どうですか?これでも陛下に似ておられないと?」

まるで自分の作品を自慢するかのようなオーガスタの誇らしさを滲ませた声にも、伯爵は心を動かされない風でそっけなく頷く。

「さぁな。だが、踊るのだろう?・・・さっさと来い」

ばっさり切って落とした言葉にも関わらず、アレクシオンは扉の傍に突っ立っているリシェルの前に大股でやって来ると、意外にも優雅な所作で腰を折った。この青年からこんな風に礼をされるのは初めての経験だったが、これが男性が女性にダンスを申し込む時の儀礼だと言うことぐらいはリシェルにも分かった。教えられた通りに膝を折って貴婦人の礼を返す。慣れない動きに少し膝が震えたが、体に纏わりつく柔らかなドレスのせいで気付かれていないだろうと少し安心する。

「はい・・・お願いします」

心得たようにサザビーが弦を鳴らした。先ほどとは少し趣の違った落ち着いた優雅な舞曲だった。これも有名な舞曲なのだろう。

アレクシオンは慣れた動作で中央にリシェルを導き、もう一度礼をするとリシェルの手を取った。正式な夜会服と言う事で、彼女は肘の上まである手袋をしているが、アレクシオンの方は普段王宮に出入りする時の黒い服のままで、舞踏用の服装ではない。手袋も勿論していない。だから、もう一方の手が彼女の腰に回された時、その大きさと熱さが薄い生地を通してリシェルに伝わってきた。

「何を俯いている。顔を上げろ、お前は女王だろう」

「・・・!」

厳しい声に触発されるようにリシェルはぱっと顔を上げた。今度はオーガスタの時のように喉仏を見るのではなく、男の顔に焦点を合わせた。途端に自分を冷たく見下ろす砂色の瞳にぶつかる。だが、もう怯みはしない。いい加減この青年の不機嫌そうな態度にも慣れてきた。これで何度目の睨めっこだろうか?

シュトレーゼル伯爵の身長は確かにオーガスタと同じくらいだが、彼の方が肩幅が広い。けれどさっきより楽に肩に手が置けるのは高くなった踵のおかげだろうか?しかし、その分、今度は足元に神経を走らせないと、慣れないヒールのおかげですっ転びそうになる。

でも、もう顔は下げられない。

リシェルは自分のつま先が何処にあるのかを意識しつつ、背筋を伸ばしてアレクシオンの眉間の辺りを見る事にした。彼を押しやる様に大きく前にステップを踏み出す。











「・・・!」

夜会用の装いに改めて戻ってきた娘を見た時、アレクシオンは鋭く息を引いた。もし傍に誰かが立っていたなら何事かと訝しく思われかもしれない。しかし、幸いにも彼は部屋の中央に立っていたし、扉からは割合離れているため小さな動揺は誰にも気づかれずに済んだ。

ダーレの下町、さして大きくもない舞台に立つ海の女神。

あの時と同じ白い服を着ている。何故髪を背に流していないのだろう。その方が似合うのに。大きな目は目尻を筆でなぞられたのか、一層くっきりとなっている。

オーガスタが何か言ったようだが、口調が気に入らないのであっさりやり過ごす。ともかく舞踏だ。気に入らないがこれも役目の内なのだから。曲が鳴りだしたのをきっかけに腰を引きよせる。



違う



女王とは。

とアレクシオンは即座に断じた。アディーリアとは何度も踊っていたからその感覚は覚えている。彼女は何処までも華奢で肉が薄い。しかし、今彼が抱きよせた腰は細さこそ同じようだが、ずっと柔らかくて、それでいて力強く彼の掌を押し返す弾力を持っている。そしてまた―――



・・・困る



夜会用の婦人服は大抵胸が広く刳れている。これまでアレクシオンも不本意ながら、数々の夜会に出席してきたからそんなものには慣れている・・・はずなのだが。

彼に向って優しくせり出した隆起は白くて、魅惑の谷間が覗いていた。首筋から伝うくるくるとしたおくれ毛が唯一の飾り。柔らかそうな薄い皮膚は味わうとどんな風になるのだろうか・・・



畜生!誰がこんな服を着せやがった・・・



目のやり場に窮するとはこの事だった。

こんな服をアディーリアは着ないし、この娘も着るべきではない。これではフロア中の男の視線を集めてしまうではないか。決して気付かれてはいけない替え玉の女王なのに。アレクシオンは苦り切ったが、その場所から視線を引っぺがすのにかなりの努力を要した。



くそっ、なんで俺が・・・



視線の行く先を見咎められるかと思ったが、娘も俯き加減だったため、ほっとしつつ誤魔化すような言葉を吐く。吐いてから後悔した。娘が顔を上げたからだ。

女王より僅かにぽってりした唇は如何にもキスがしやすそうだった。淡くした紅はアディーリアと同じ色なのに全く異なって見える。奪えばどんな風に応じるのだろう。



・・・・・・



人間知らなくていい事もある。25歳にもなればいい加減そんな事も分かるし、任務や職務以外でなら知らなくていい事など別に知りたくもなく。深く自分を顧みる事も今は必要ないと仕事に邁進してきたのに。


彼の冷たい言葉に応じ長い睫毛がゆっくり上がって彼を見た時、アレクシオンは否応なく知ってしまった。絶対に知りたくなかった事を。





俺はこの娘が欲しい





彼はまだ自分の間違いに気付かない。










三回目の睨めっこでした。

  




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