私はその方を、心の中でこっそり“姫薔薇さま”と呼んでいた。
さらさらと流れるような黒髪も。
冷たく澄んだ、黒曜石のような瞳も。
聞く者の心に響き渡る、その至高の歌声も。
まるで、おとぎ話に出てくる姫君のように美しくて。
凛としたその麗姿が、私の憧れであり、すべてだった。
「―――…ロサ・カニーナ」
薔薇さま選挙が終わって、季節がどんどん移り変わる。
冬は徐々に終わりへと近づき、春のやわらかな風が、マリアさまのお庭を包み込む。
もうすぐ3月。あと少しで卒業式。
私は、はやる心をどうにか抑えつつ、学校の廊下を大急ぎで歩いていた。
本音を言えば、このまま一気に全速力で目的地まで駆けつけてしまいたいところだったのだけど、リリアン女学園の生徒として長年培ってきた心得と習慣がそれを抑制した。
リリアン生たるもの、はしたなくバタバタと走り回ってはいけない。セーラーカラーを翻さないように、スカートのプリーツを乱さないように。いつでもどこでも、マリア様が見ていらっしゃるのだと自身に言い聞かせて。
「確か、ここにいらっしゃるはず…」
クラブハウスの一室。ようやく目的地へたどりついた私は、早歩きのせいで少し荒くなった呼吸をしずめながら、ドアの上に掛けられたネームプレートを見上げた。
合唱部。
見るだけで胸がきしんだ気がする。あの方に憧れて入部した、私が所属しているクラブの部室。
そしてもうすぐ、憧れのあの方が出て行ってしまうであろう、この場所。
落ち着け。落ち着くのだ。あの方の前で、みっともなく取り乱したところを見せたくなどない。きちんと平静を装うことが出来るように、私は目を閉じて深呼吸を1つした。
――――よし。
ゆっくりと瞼を上げた私は、ドアノブに手をかけ、がちゃりと扉を開いた。
「ごきげんよう、ロサ・カニーナ」
「…あら。ごきげんよう、鈴子さん。やっぱり来たのね」
振り向いた拍子に、顎のラインで潔く切りそろえた黒髪が優雅に揺れた。その方は私の姿を認めると同時に微笑すると、僅かに首を傾けながらこちらを見つめた。
ああ。
胸の痛みが、かすかな甘さを伴って私に襲いかかる。
憧れの君である蟹名静さま―――通称、ロサ・カニーナを前にして、私の心はいっそ憎くなるくらいに正直だった。
「何をしていらっしゃるのですか」
「まあ。わかっているくせに」
ロサ・カニーナはそう言いながらも小さく笑って、「荷物の整理をしていたのよ」と、私の言葉に応えてくれた。
「もうここを出て行くのに、いつまでも私物を置いていては他の部員にも迷惑でしょう?」
「…イタリアに留学なさるという話は、本当だったのですね」
「ええ。けじめもついたから、そろそろ潮時と思って」
「そう、ですか」
ロサ・カニーナのいう“けじめ”が何のなのか、私にはよく解らなかった。
おそらく、選挙に落ちたことか、彼女の長年の思い人であった白薔薇さま、佐藤聖さまとのことを指しているのだろう。
それきり私が黙っていると、ロサ・カニーナは再び荷物の整理を始めた。束になったスコアをとんとんと机の上でそろえて、手際よくファイルに閉じていく。それが終わると、奧にあるロッカーの方へ歩いていって、中に入っていた古い楽譜をすべて取り出した。一年生の頃から使っていた、思い入れのあるものだと聞いたことがある。
―――…この方は、本当にこの場所を出て行くのだ。
改めてそのことを感じ、私は再び胸の痛みに襲われた。
先ほどのような甘いときめきとは程遠く、喪失感ともよく似た痛み。
いやだ。いやだ。
私は、あなたに憧れてこの場所へやってきたのに。歌を歌うことの素晴らしさを教え、私に居場所を与えてくれたのは他でもないあなたなのに。あなのその輝きこそが、私の歩むべき道を照らす、唯一無二の灯りであったのに。
「もしも選挙に勝っていたら、日本にとどまってくださったのですか」
気づけば、そんな言葉を口にしていた。もしも、なんて。声に出すだけ無駄なことだと解っていたのに。
とっさに後悔したけれど、一度出した言葉は取り返せない。ゆっくりとこちらへ振り向くロサ・カニーナの綺麗な瞳を、私はおそるおそる見つめ返した。
「鈴子さん…いまさら何を言っているの?」
感情のこもらない声で、ロサ・カニーナは私に問い返した。
私はどうしようもない悲しさに目を閉じて、「申し訳ありません」と呟いた。
「私、悔しいのです。…私なんかが悔しがる資格など持ってはいけないと、解っていますけれど…でも。でも私は今、悔しくてたまらないんです」
「…何が?」
ロサ・カニーナは楽譜を整理していた手を完全に止めて、じっとこちらを見ている。
冬の終わりの、弱々しい陽光が部室の中へ差し込んだ。上品なアイボリーの壁と薄色のカーテンをバックにして、淡い光の中で立つ彼女の姿は、まるで一枚の絵画のように美しい。
ぼろっ、と。私の目から涙がこぼれ落ちた。
ああ、どうしよう。
止まらない。
「…どうして…どうして、どうして、どうして…っ。なぜロサ・カニーナが選ばれなかったのでしょう…なぜ…なぜ一年生が…あなたを差しおいて次期白薔薇に…!」
「鈴子さん」
「ええ、ええ、わかっています、ロサ・カニーナ。今更どうこう言っても仕方ないことなのですよね。いえ、それ以前に…私なんかがどうこう言う資格など、ないのですよね」
「わかっているのなら、なぜ」
「悔しいんです。言わずはいられないのです、ロサ・カニーナ。どうしようもなく、悔しいんです…っ!」
現白薔薇の佐藤聖さまは、自分の後継であるべき妹に、二学年も下の藤堂志摩子さんを選んだ。蟹名静さまほどの方に思いを寄せられながら、それに気づかず、ただ自分の心のみを優先させたのだ!
「悔しい、悔しい…っ。―――…ああ、ロサ・カニーナ。あなたほど、薔薇の名にふさわしい方などいないのに…!」
許せなかった。白薔薇さまも。白薔薇のつぼみも。
どうして、あなたたちがそこにいるの。そこは、静さまの場所。麗しの姫薔薇、蟹名静さまが立つべき場所。
許せなくて、悔しくて、悲しくて、何も出来ずこうして喚いているだけの自分が歯がゆくて。
さっき、部室に入る前に深呼吸したのは何のためだったのか。
旅立っていかれる憧れの君に、少しでも良い印象を残しておきたかったのではなかったか。
もう、すべてが水の泡だ。感情のままに泣いて、叫んで。
ロサ・カニーナに嫌われた。
「ごめんなさい…っ」
それだけを絞り出すように言って、私は部室を出て行こうと身を翻した。これ以上、無様な自分の姿をこの方の前で曝すわけにはいかなかった。
でも。
「お待ちなさい」
凛とした声に呼び止められ、反射的に足が止まる。
反応してしまった以上は無視することなど出来なくて、私はゆるゆると後ろを振り向いた。
ロサ・カニーナが一歩、こちらへ近づく。
「勘違いしないで、鈴子さん」
「かん、ちがい…?」
「そうよ。私は選挙に負けたからイタリアへ行くのではないし、聖さまにふられたからって、泣き寝入りするほど弱くはないわ。見損なわないでね」
「わ、私は見損なうなんて、そんな」
「知っているわ。あなたはいつも、私を心から慕ってくれた。ちゃんと知っていたのよ。気づかないふりをしていたけどね」
「ロサ・カニーナ…」
瞬きをすると、目に溜まっていた涙が落ちて、視界が晴れた。いつのまにか泣きやんでいた私は、「なら、どうして」と、半ば無意識に呟く。
ロサ・カニーナは苦笑にも似た表情で微笑み、遠くを見るような表情で目を細めた。
「遅かれ早かれ、留学はするつもりだったわ。たしかに、選挙や聖さまとのことが切っ掛けになったのも本当だけれど。…でも私、あの方がいなかったら、もっと早くにイタリアへ渡っていたと思う」
「え…」
「聖さまがいたから、私はリリアンにとどまった。その聖さまが卒業なさるんだから、もう私がここに存在する理由もなくなるわ」
淡々と語るロサ・カニーナの横顔は、私には美しすぎて直視できなかった。
まるで自分が汚いものになったように感じて―――実際、そのとおりなのだけど―――私はまた泣きたくなった。さきほどとは全く別の理由で。
ああ、なんて気高いのだろう、この方は。
そして優しい。
私の思いを、心の内を知っていながら、突き放すことも流すこともしないで、受け容れてくれていたのだ。
「―――――…」
荒れ狂っていた心が凪いでいく。
もういい、と私は唐突に思った。もういい、もう充分だ。これ以上なにも言うことなどない。今はただ、美しいこの人を目に焼き付けて、それで笑顔で見送れるようにしよう。
最後に覚えてもらうのが自分の醜い泣き顔だなんて、たえられないから。
「…解っていただけたかしら?」
「ええ」
私は顔を上げて、精一杯の笑顔を浮かべた。ちょっと引きつってしまって、ロサ・カニーナの麗しい微笑みとは比べることすらおこがましいくらいだけれど、でも。
これが、少しでもこの方の思い出に残るなら。
「ありがとうございます、ロサ・カニーナ」
この方は前を向いて歩いていくのだ。
ならば私は、ずっとその後ろを追いかけよう。灯りを見失わないように、たとえ追いつくことが不可能でも、私にはもう、歌うことしか残っていないから。そして、歌い続けるとするなら、この方を目標にするしか道はないのだから。
「…大好きでした」
「ありがとう」
私は、泣かない。絶対に泣かない。
まるで当たり前のように、私の自分勝手な思いを受け止めて。当然のように「ありがとう」と、そうやって微笑んでくれるロサ・カニーナの優しさを、無駄にしたくはなかった。
それから幾日か経って。
三学期が終わり、ロサ・カニーナがイタリアへ旅立つ日が来た。
たいへん恐れ多いことだったけれど、彼女自身に連絡をいただいた私は、最後に一目お会いしようと空港へ急いだ。
「ロサ・カニーナ!」
「ごきげんよう、鈴子さん」
私服姿で立つロサ・カニーナは、本当に今にも消えてしまいそうなくらい綺麗だった。凛として、私が憧れたあのときそのままの、蟹名静さまだった。
「…っ」
私は何を言えばいいのか解らず、じっと彼女を見つめることしか出来ない。
ロサ・カニーナも無言で、2人の間をただ時間だけがすぎていく。
周囲のざわめきですら遠く感じた。もうすぐ、この方自身も遠くなってしまうのだろう。
そう思っただけで、心に重いものがつかえて声が出なくなる。
どれくらい、経っただろうか。
私は、持てる力の全てを振り絞って、相手に近づいた。
「…静さま」
泣くな。泣くな。
笑顔だけを、覚えていてもらいたい。
「Arrivederci」
私が一生懸命練習して覚えたばかりのイタリア語に、彼女は少し驚いたように目を見張った後、ふっとやわらかに微笑んだ。
「ええ、また会えると良いわね」
「はい…!」
そのとき。
ロサ・カニーナが乗るであろうイタリア便の搭乗を促すアナウンスが、まるで終わりを告げる鐘のように鳴り響いた。
ごきげんよう。
私の憧れ、私のすべて。
麗しき薔薇の君。
次に会えたとき、あなたはもう私を覚えていないかもしれない。
でも。
それでも。
「本当に、本当に、大好きでした」
――――さようなら。
私の姫薔薇さま。 |