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用務員さんは勇者じゃありませんので 作者:棚花尋平

第四章 立ち寄った地で

99/141

97-遅すぎた事情

 
 衝立の奥から、白い湯気がうっすらと立ち昇っている。
 湯気は木製の盥に張ったお湯から生じ、その先にしっとりと濡れた白い背中と黒い髪と狐耳、そして尻尾が見えた。
 盥のお湯に布を浸し、宵児は半裸になって身体を拭き清め、長い黒髪をしごくように洗っていた。

 蔵人はしばし見とれ、そして熱風を頬に感じた。
 直後、それは弾けるような風に変わって蔵人の髪と首に巻いたアズロナの鬣を揺らした。


 卜の字型の通路の奥にトイレがあり、分岐点を曲がってすぐに湯浴み所がある。その分岐点にいた蔵人を守るように雪白が立ち塞がり、蔵人に小さな黒炎を放った黒陽を睨みつけていた。
 湯浴み所では物音を聞きつけた宵児が、布で身体を隠しながら蔵人を親の仇でも見るような目で睨みつける。

 蔵人は、あからさまに一つ、溜め息をついた。
 そして、まるで敵対する相手に向けるように酷薄な目で宵児を見てから、ゆっくりと視線を黒陽に向けた。
「――貧相な身体だ、大した価値もないだろ。怒るなよ」
 火に油を注ぐような蔵人の物言いに、黒陽はさらに激怒した。
 美児に大事な用があると呼ばれていた。蔵人と雪白が巧妙に気配を隠していた。蔵人は来ないのだと思い込んでいた。
 すぐに駆けつけたとはいえ、宵児の柔肌をこんな男に見せてしまうとは、黒陽にとって一生の不覚であった。

 黒陽はまるで狐火のような黒炎を発現させる。
 今までどれだけ怒り狂っても黒炎を使うことはなかった。黒炎を使えば必ず相手を傷つけてしまうからだ。以前、蔵人に放ったのは黒炎の幻で、先刻放ったのは脅かすための種火程度のものであった。
 だが、それは失敗であった。この男は、一度痛い目にあわせなければならない。
 そのためには黒炎を使うほかなかった。目の前の雪白を突破し、守られている蔵人に一撃を入れるために。

 黒炎が飛ぶ。
 まるで黒い火矢のようなそれは雪白にぶつかる瞬間、拳ほどの爆発を起こしてかき消えた。
 黒陽は雪白を睨んだ。
 一体何をしたのか。先刻も消された。
 黒陽はもう一度、黒炎を放つ。
 そして気づく。
 雪白の目の前に白煙を上げる拳大の玉が現れ、黒炎を相殺した。

 蔵人が開発した冷玉であった。
 黒陽も驚いたが、誰より蔵人が驚き、そして気づいた。気づいて、気が遠くなった。
 己が強くなる。
 すると、それを学んで雪白も強くなる。
 差は永遠に縮まらないのではないか、と。
 蔵人は密かに落ち込んでいるが、そもそも雪山の主とも呼べる雪白の前で何度も冷玉を使用しているのである。こと氷に関することならば雪白が使えたとしてもなんらおかしいことではない。

 あっさりと黒炎を打ち消し続ける雪白に、黒陽はさらに怒りを爆発させて飛びかかった。
 黒炎と幻、さらには尻尾も織り交ぜた。
 雪白もそれを迎え撃ちながら、虎視眈々と蔵人の喉元に食らいつこうとする黒陽を牽制する。

――クォオオオオオオオオオオンッ
――グルゥアアアアアアアアアアッ

 実のところ、黒陽の頭にはもう蔵人(雑魚)のことなどなかった。目の前の雪白()にひと泡吹かせてやる。それだけしかない。
 無意識の内に黒陽は、雪白を認めていた。
 今まで知能も力もここまで対等に渡り合える者とは会ったことがなかった。そのせいで色々と増長していたのだが、同時にストレスも溜めていた。
 なんだかんだ言いながらも蔵人は雪白に付き合うことができるが、芸女である宵児には無理である。山野を駆け巡り、肉弾戦をすることなどできない。
 黒陽はそれが不満ではないが、無意識の内にストレスを溜めてしまっていた。

 それが、雪白との衝突で解消された。
 傷つけてはいけないという制約はあるが、どれだけ力を入れても、雪白は力を拮抗させて返してくる。
 黒炎を使ったのもそのせいだ。こんなところで黒炎を使えば惨事になる。雪白が必ず受け止めると思わなければできない所業であった。

――クォオオオオオオオオオオンッ
――グルゥアアアアアアアアアアッ

 黒陽は決して認めないが、二匹が炎と冷気、尻尾と尻尾、額と額をぶつけるさまは、どうみてもじゃれあっているようにしか見えない。
 極めて物騒なじゃれあいであり、本人たちは至って真剣に戦っているのだが。


 しばらく続いた雪白と黒陽の戦闘は、駆けつけた美児の叱声により終息する。
 覗いた蔵人が悪いなどという言い訳を美児が聞く訳もなく、黒陽は美児の説教を受けることになる。
 まるで売られていく子牛のような背中を見せて、黒陽は美児に連行されていった。


 未だ蔵人の背中を着替えた宵児が睨みつけていた。視線で人が殺せるなら蔵人は何度も死んでいただろう。
 だが、蔵人は謝らない。
 湯浴みを覗いたのは、美児に頼まれた仕事であった。
 ゆえに雪白も密かに湯浴み所を通り過ぎたトイレ近くに潜伏し、来るであろう黒陽を待ちかまえていたのだ。

 遠方の座敷に呼ばれると、相手が信頼に足る常連客ならば宿泊することもあるという。準備に多大な手間のかかる食事や湯浴みを勧められて断ることは非常に失礼なことに当たり、断るわけにはいかなかった。
 そこで、覗きがたまに発生するらしく、蔵人の覗きはその訓練であった。セクハラなんて言葉は存在しない。覗かれたくらいで相手を傷つけていては商売にならなかった。
 もちろん芸女側も対策は立てる。
 いつ覗かれてもいいように衝立を背に身体を洗うという習慣がそれであった。見てもいいのは背中まで、ということだ。
 芸女を呼んだ側も、背中を見る以上には無粋なことをしてはいけないという暗黙のルールがあった。

「……お前は芸女じゃないのか? 芸女の流儀も身についてないとはな。師の教えが悪いのか、生まれが悪いのか」
 こんなことを言いたくないが、仕事である。
 蔵人はそれだけ言って、雪白とアズロナを連れて背を向けた。そもそもトイレなど行く気はなかった。
 宵児は蔵人の言葉に言い返そうとしたが、唇をきつく結んで押し黙った。


 案内された部屋で横になっていた蔵人だが、興奮状態が続いたせいか、眠れなかった。寝台から降りて、ふらりと歩きだす。
 トイレである。なんとなく出そうな、出なさそうな、そんな微妙な尿意であったが、眠れないせいか気になってしまった。
 寝台の横で寝そべっていた雪白が薄目を開け、蔵人の背中を見送った。

 明かりのないシンとした通路を、ぼぅっとした思考のまま蔵人は進んだ。
 卜字の分岐点に差し掛かった時、昼間の宵児を思い出して、ふと湯浴み所に目をやった。

 衝立の先に、背をこちらに向けて身体を洗う美児の姿があった。
 宵児よりも少し胸が大きいせいか、髪を洗うために腕を上げると背後からでも胸の輪郭が見える。
 座って形を変えた臀部の近くに、しっとりと濡れた鹿の尻尾があった。

 見入りそうになる目を引きはがし、蔵人は尿意も忘れて即座に引き返した。
 なんの理由もなく、女の湯浴みを直視するような性根はしていない。
 一瞬の内に見えたものはしょうがない。こんな構造になっているこの家が悪い。そんな言い訳を内心で呟きながら、蔵人は足早に逃げていった。

 その背を見つめる視線には気付かずに。

 蔵人が去る直前、美児が偶然にも振り返って、足早に引き返す蔵人を見つけていた。
「――おや、これは悪いことをしましたね」
 美児は乾いた布で身体の水気を拭ってから、服を着込んだ。



 濡れ髪の美児が、蔵人の部屋を訪問した。
「先程はお見苦しいものをお見せしまして。どうぞ厠へ」
 悪いことをした、とはトイレに行くのを邪魔してしまった、ということであるらしい。さすがの貫録であった。
 逆に、蔵人のほうが面くらってしまう。
「……覗く気はなかった。すまない。眠れなくてうろうろしていただけだ。行きたいというわけでもない」
 美児は蔵人の言葉を疑うことすらしなかった。
「……では、ちょうどいいので魔法を教えてくれませんか?」
 蔵人は拒否する理由もなく、覗いた引け目もあって快く了承した。


「――魔法のほうはどうだ?」
 前回親和性を調べた結果、美児の親和性は水に特化していて、あとは並み程度の風があるだけで、他の獣人種と同様に他の親和性はほぼ壊滅的に低かった。
 もしかすると親和性の高い水精で精霊魔法を始めたことが、あの覚醒の早さにつながったのかもしれない。
「精霊魔法の方はどうにか。命精魔法の治療が、少し掴みにくいですね」
 いきなりこの世界に飛ばされたとはいえ、蔵人はまがりなりにも日本で小中高大と教育を受け、さらには絵を描く関係からそれなりに人体構造も把握している。おおざっぱに治療する者よりも、治療効率は高かった。
 そんなことを知らなくても大雑把に治療は出来るし、魔力次第ではどうにでもなるのだが、深い傷の治療ともなれば専門的な知識か、長い経験が必要であった。

 だが、人体構造を教える時間などない。
 蔵人はヨビに教えたときのことを思いて、助言した。
「……種族特性は使えないか? おおよその構造を直感的にでも理解できるなら、それをそのまま治癒にあてればいい。日常的に種族特性を使って人体構造を覚えるって手もあるが」
「……覚えるのはちょっと無理ですね。本当に直感的なものですから。ですが、感じたままに治癒するのはできそうです」
 本来獣人種は、外的魔法である他者治癒や障壁構築を苦手とするが、美児ならば腕の良い治癒師になれるやもしれない。


 美児は手の平の少し上に水の玉を浮かべ、精霊魔法を練習していた。
 僅かな灯に照らされた横顔は真剣そのものであった。
 蔵人はそれを横から眺めていたが、おもむろに雑記帳を取り出し、描きだした。

 しばらくすると、いつのまにか美児のほうが絵を描く蔵人を見つめていた。
「……勝手にすまん。不快なら捨てるが」
 今は嫌な客としての仕事中ではない。勝手に描くのはあまりにも不躾であった。
「いえ、構いません。でも、見せてください」
 蔵人が雑記帳を丸ごと渡すと、美児はそっと受け取った。蔵人が仕事中に描いている絵が気になっていたのだ。
「……これが、外国ですか」
 蔵人の絵はほとんどが女性をモデルに描かれている。しかしその背景にはミド大陸の景色があった。

 サレハドとアレルドゥリア山脈を背景にしたイライダ。
 ラッタナ王国の海とジャングルの狭間に立つヨビ。
 バルティスの雪夜に立つエスティア。
 美味そうに飯を食うジーバ。
 他にもオーフィアたち月の女神の付き人の一番隊が山で野営をする姿や剛猿人との宴、漁村で治療師をする老婆のイラルギとその娘や孫娘の絵まである。

 蔵人が今までに滞在した場所の絵であった。海難事故で失った絵は記憶を頼りに描き直したものである。
「……一つ、お聞きしたいことが」
「ん?」
「なぜ、女人の絵を?」
 蔵人は僅かに躊躇いを覚えたが、正直に答えた。隠すようなことでもない。
「……単純に女が好きで、男を描かないのは興味がないからだ」
 あまりに明け透けな言葉に、さすがの美児もどういう顔をしていいか分からないようであった。
 蔵人は続ける。
「俺自身が男で、根源的な部分で女を理解できないから、理解したくて描くのかもしれない。あとは……弱い、いや儚いからか」
「……儚い?」
「俺より賢い女、優秀な女、強い女は腐るほどいるし、したたかなのも知ってる。だがそれでも、俺が男だからか、それとも勘違いなのかは分からないが、どんな女もそんな風に見えて、無性に描きたくなる。花が散る前に描いておきたい、ってのと似てるかもしれん。女からしたら、いや他人からみたら世迷言かもしれないがな」
 蔵人は恥ずかしげもなく、言い切った。恥ずかしいものを描いているわけではない。

「……やっぱり捨てるか?」
 黙り込んでしまった美児だったが、首を横に振った。
「いえ。芸とはそういうものかと。……わっちは、食べるために二弓二胡を始めました」
 蔵人が描く理由を告げることを躊躇ったのは、これを想像したからであった。芸女にとって二弓二胡は生きる手段である。対して蔵人の絵は、趣味でしかない。描くことに後ろめたさはないが、それでも美児に気楽な身分でと正面切って罵られたくはなかった。

 だが蔵人の予想に反して、美児の表情に否定する気配はない。
「ですが、生きていくために弾いていたはずなのに、わっちの中には侠帯芸女としての自負が芽生え、二弓二胡は誇りになっていました。
 芸は残酷です。手慰みにやっていようが、食べるためにやっていようが、人の心に響かなければなんの意味もありません。どんな立場にあろうと、誰かの心に響けばそれは芸なのだと、わっちは思います」
「……」
「なぜ旦那が絵を描いているのか、ふと気になって聞いてみただけなんです。困らせてしまったなら謝ります」
「……いや、いい」
 共感、と呼べばいいのだろうか。
 絵と二弓二胡という違いはあるが、蔵人は勘違いであるかもしれないが、そんなつながりを美児に感じていた。

 美児は再び精霊魔法の練習をしようとするが、もう一度蔵人を見た。
「……一つだけ」
「ん?」
「捕吏に見つかるとお縄をちょうだいすることになるかと思いますので、ご注意を」
 禁書、つまりエロ絵扱いされるということらしい。
 蔵人は納得できない気持ちと、納得する気持ちの半々という複雑な気分で頷いた。



 翌朝、蒼月の七十六日。
 蔵人は早々に元商家を後にする。この場所を借りる者がいるというが、茶館の妨害なのは明白であった。
 一緒に薄化粧をした美児と宵児も元商家を出た。
 二人の衣装は変わりないが、化粧が最低限しかされておらず、どこか仕事感が薄いのが新鮮であった。そんなことを楽しむのも泊まりで芸女を呼ぶ醍醐味だという。

 渋る宵児を先に行かせ、姿が見えなくなってから、美児は蔵人の耳元で、小さく囁いた。
 吐息が蔵人の耳をくすぐる。
「……予定とは違いますが、旦那は今日の夜、時間がありますか? もし可能であれば仕事をお願いしたいのですが」
 蔵人も釣られて小声で返した。
「……なにかあるのか?」
「三日後、宵児が居留地の慰労会で芸を披露することになりました。もちろん、わっちは行きませんので、初めての独り立ちということになります。慰労会は言葉こそ通じませんが、客筋は悪くありませんので、いい機会だと考えています。そこで急ではありますが、最後の仕事をお願いしたいと」




 その夜。
 蔵人は嫌な客としての最後の仕事をした。
 場所は粗末な夜店を借り切って行われた。すぐに都合がついたのが、この名もない小さな夜店であった。
 最後とはいっても、いつもと同じように手をさすったり、暴言を吐いたり、基本的と言ったらおかしいがごくごく普通の嫌な客を演じただけである。
 慰労会での独り立ちを控えて気合が入っているのか、宵児も黒陽も耐えきった。美児に並んだとは言えないが、それなりに芸女として振る舞えているように蔵人には見えた。
 だが、蔵人が頼まれたのはこの後のことである。
 タイミングを見計らい、酌をし終わった宵児に何気なく言った。

「――居留地の慰労会で独り立ちするらしいな。おめでとう」

 宵児も黒陽も訝しげな表情で蔵人を見た。
 嫌な客でしかなかった蔵人が突然褒めたのだから、そんな顔にもなる。
「……ありがとう、ございます」
 数秒の間が流れ、思い出したように宵児は応じたが、その疑わしげな声色は隠し切れていなかった。

 これで、嫌な客としての仕事は終わりだ。
 蔵人はほっと一息つき、帰り支度を始める。
 そこで、なんとなく聞いた。サウラン行きの船が出るまでに一度は大星と会っておきたいような気がしていた。
「――大星はいつ帰ってくるんだ? ……それともくたばったか?」
 すぐに、嫌な客が大星を心配するのはおかしいと思って悪態をつけ足した。
「どうでしょうか。具体的な日数までは聞いておりません」
 美児はいつもの芸女然としたまま、そう答えた。
 だが、宵児は違った。
 一瞬だけ心配そうな顔をして、蔵人が悪態をつけ足すとすぐに怒気を漂わせた。だが、それもすぐに押し殺した。
 いつもどおり冷淡に素っ気なく返事をすればいいだけのはずだが、宵児の態度には違和感があった。
 それが何を意味するのかは分からない。
 蔵人はなんとなく気になりつつも、そのまま店を後にした。



 大星にも美児にも、蔵人が読み取れるだけの異変はなかった。
 不審なのは先刻の宵児の態度だけ。
 たったそれだけであるが、蔵人は気になっていた。
 些細なことである。だが、その些細なことが面倒事の境目であった。
 誰にとっての面倒事かは蔵人には未だ分からないが、万が一にも自分たちに火の粉が降りかかってはたまらないと立ち止まり、急いで踵を返した。
 何度も痛い目にはあっている。蔵人が今まで遭遇した災難は、ここで僅かな前兆を無視させなかった。



 引き返した蔵人が再び夜店に近づこうとするも、雪白が尻尾で引きとめた。
 蔵人は何事かと考え、すぐに黒陽の存在を思い出す。
 近くの影に入り、闇精魔法でその影を纏う。
 それを見て、雪白は尻尾の拘束をといた。黒陽とは犬猿の仲である雪白だが、その力は認めていた。
 雪白も気配を消す。
 黒陽とは違って雪白はある意味で野生の最前線で生きてきた。足手まとい(蔵人)を抱え、サレハド、ラッタナ、マルノヴァとミド大陸をほぼ縦断した雪白が気配を殺せば、さすがの黒陽も察知は難しい。
 ましてやここは人の領域であり、拙い蔵人の気配も十分に紛れた。むしろ、一般人と混じって分からない程度に周囲と馴染んでいた。



 美児たちはまだ夜店の中にいる。蔵人と大星が夜店で反省会のようなものを開いていたように、美児たちもそうしていたらしい。
 蔵人と雪白は音も無く夜店の店主に襲い掛かって厨房を占拠し、無傷の店主に小声で適当な事情を話し、いくばくかのお金と美児たちと敵対しないことを条件に協力を取り付け、その場に潜んだ。
 蔵人は耳をそばだてる。



 美児が宵児を窘めていた。蔵人が最後に宵児を褒めたことに対して、宵児の態度を叱っていたのだ。
「……ですから、どんな嫌な客人だろうとも、褒められたのなら嬉しそうな顔をしなさい。なんですか、あの疑わしそうな顔は」
「……はい。――でも、あんな奴にっ……」
 溜まりに溜まっていた不満が、噴き出てしまった。
「あんな奴だろうと、こんな奴だろうとお客人です」
「……あれが、客人ですか? 侠帯芸女があんな下衆を相手にするのですかっ」
「客あしらいが出来て意地を張るのと、出来ずに意地を張るのではまったく意味が違います。それは侠帯芸女としての振る舞いにも影響します。そんなありさまでは、お客に愛想を尽かされてしまうでしょう」
 厳しい言葉に、宵児は押し黙る。
 分かっている。分かってはいるが、相手は美児の敵である。なぜそんな相手に、と宵児は下唇を噛んで俯いた。


 美児とて侠帯芸女を自負している。宵児の言いたいことは分かっていた。
 蔵人が演じたような客を相手にすることは、ほとんどない。
 しかし、宵児が侠帯芸女として生きていくことができない環境に陥ってしまったとき、客あしらいもできないでは生きることすら覚束ない。それこそ娼女になるしかなくなってしまうだろう。
 そうならないためにも、蔵人を宵児が最も反感を持っている茶館の連中だと勘違いさせた。宵児にとって最悪の客をあしらえるようになれば、どんな客を相手にしても問題ではなくなるはずだから。


 宵児は美児がなぜ敵である蔵人をかばうのか、分からなかった。
 だから余計に、苛立っていた。
 師であり、親である美児に盾突きたくはないが、それでも言いたかった。
「でっ――」
 だが、意を決して言いかけたところで、美児の優しい微笑みに喉が詰まった。
「あなたが十のときですから、もう八年ですか。長かったような、短かったような。あまり良い師ではありませんでしたね。結局、あなたの人嫌いを治せませんでした。それが唯一の心残りです」
「……そんな、今生の別れみたいに。もう諦めてしまったのですか?」
 美児は微笑みながら、信じきった声で言う。

「――わっちは大星を信じています。でなければ、結婚の約束などできませんよ」

 美児は玉英に感謝してもしきれなかった。
 妾としてでも大星と一緒に生きたいと頼んだとき、いつもの様子で朗らかに許可してくれた。それどころか、妹が出来たと喜んでくれた。世に聞く正妻は二番目以降の妻を手足のように扱うというが、玉英は血もつながらぬ獣人種を妹のように扱ってくれると言い、実際、そうしてくれた。

「だから大星が迎えに来てくれれば、心残りはあなただけです。大星にも相談してあなたがきちんと独り立ちするまでは見守るつもりではいますが……」
「――独り立ちはします。慰労会でそれを証明して見せます。それに、もしだめなら私と黒陽が――」
「――だめです」
 美児は眦を釣り上げて宵児を見るも、宵児は言い返す。
「……なら、どうやって蹄金千枚も集めるんですか。あと四日、いえもう三日です。もし万が一、あの人が間に合わなければ……」
「間に合います。そう約束しましたから」
 美児は大星と出会った頃から今に至るまでを思い出していた。


 最初に出会ったのは、美児が街で武芸者に絡まれているときのことだった。
 それから何度か付き合いが始まり、劇的な何かがあったわけでもなかったが、大星に惹かれていった。玉英という妻がいることもすぐに知るが、それでも惹かれてしまった。
 大星は物腰が柔らかく粗暴なところなど微塵もなかった。しかしスジだけは決して外さないその侠者ぶりが、侠帯芸女を自負していた美児の琴線に触れたのだった。
 しかし大星には玉英がいる。この想いは、一生秘めて生きていくつもりだった。
 だが、今年に入ってすぐ。
 ほとんど関係が切れていた父の借金が判明した。父はどこかに逃げてしまい。娘である美児に取り立てがきた。元々、酒と博打にはまり込んだろくでなしである。
 蹄金千枚。
 どうすればそんな借金が出来るのか分からないが、胡州茶館の林清が突きつけた証文の文字は父の拙い手によるものであった。
 期日までに返さなければ胡州茶館に所属し、密かに身体を売る芸女になるしかない。
 その日から金策に走ったが、林清そして後に知ることになるが、豪商として名高い王伯が手を回して、誰も金を貸してはくれなかった。そもそも侠帯芸女とはいえ、なんの保障も身請けもなしに芸女ごときに金を貸す者はいない。
 もうどうすることもできなかった。
 そう諦めそうになったとき、借金を聞きつけて大星が現れ、何も言わず金策の手伝いを始めた。
「なぜ、わっちに」
「……玉英に助けてあげてって言われたのもあるが、まあ、おれのおせっかいさ」
 美児は、深く頭を下げることしかできなかった。
 そしてすぐに玉英の元に行き、妾でもいいから一緒にいさせてくれ。恩返しがしたいと頼み込んだ。いや、恩返しは口実でしかなかった。
 ただただ、好きだった。
 大星に気持ちを告げたのはそれからだった。
 大星は渋ったが、すでに玉英に了承を得ているというと頷いてくれた。
「……分かった。必ず美児の借金を返してみせる。そしたら、一緒になってくれ」
 その言葉を、美児は信じていた。



「――間に合います。そう約束しましたから」
 美児の気持ちの籠った言葉に、盗み聞きしていた蔵人の心には寂寥感が広がっていた。
 それでもめまぐるしく思考できたのは、美児が莫大な借金を抱え、そのために大星が命を賭けて金を稼ごうとしているからだった。
 三日後ということは、期日は蒼月の八十日。慰労会の翌日である。
 知らなければ、慰労会を終えて宵児の独り立ちを見届け、この国を去っていた。おそらくは全てを知ることすらなく、いや気づくことすらなかったはずである。
 だが、知ってしまった。
 知ってしまったからには、放っておけるはずもない。
 大星にはアズロナを助けてもらった恩がある。
 いや短い間であったが、朋友とすら呼んでくれた。妙に気が合ってもいた。

 美児と宵児の会話は続いていたが、蔵人はそっとその場を立ち去った。



 蔵人たちの去り際、黒陽がちらりと厨房の奥に目を向けた。蔵人たちに気がついていたのだ。
 気づいたのは蔵人たちが潜んでからかなり経ってからのことだ。
 そして雪白も、気がつかれたことに、気がついた。
 が、どちらも動かなかった。
 黒陽としては少しは美児の事情を知って悔むがいいと考え、宵児に知らせなかった。
 雪白にしても蔵人が聞きたいことを聞ければそれでよかった。



 夜店を立ち去り、岩奇街を抜けた蔵人の姿は外国人居留地のハンター協会支部にあった。

「――百万ルッツ、全額下ろしてくれ。龍華国の貨幣で頼む」

 蔵人の口座には百万と少しの貯金があった。
 これはファンフの暴走を許したアガサたちが犯した失態の詫びにと、オーフィアから振り込まれた金である。
 誓約を破ったアガサとジョゼフから支払われた百万ルッツは確かにバルティスのレイレに渡したが、オーフィアから振り込まれた百万ルッツは丸々残っていた。レイレに渡そうとしてた断られ、口座にそのままになっていた。

「――出来るわけがないでしょう」

 閑散としたカウンターに一人座っていた蔵人とは極めて相性の悪い女職員、カミッラが馬鹿馬鹿しいという表情をする。
「なん――」
「いい? 百万ルッツ。こっちでいえばざっくり蹄金千枚。そんな大金を一度に渡せるわけないでしょう。最低でも十日、こんな僻地だとどれだけかかるわからないわ。それに為替じゃなくて、蹄金で用意しろ? 頭がおかしいんじゃない? 元流民とはいえ、それくらいの常識も分からないのかしら」
 カミッラは馬鹿にするように言い放った。
 だが言っていることに間違いはない。こればかりは、決して嫌がらせというわけではなかった。
 ここは日本ではない。いや、日本ですら銀行に突然訪問し、大金を即座に現金化するのは難しい。すぐに現金化しろ、さらに現地通貨でというほうが非常識であった。
 カミッラの正論に、蔵人は二の句が継げず、協会をあとにするしかなかった。

 蔵人はとんぼ返りで、閉門間際だった岩奇街に戻る。
 歩きながら、どうにかならないものかと頭を悩ませ、閃く。ほんの僅かな希望に賭け、消えゆく夜店の明かりの中を進んで行った。



 翌日の昼ごろ、蒼月の七十七日。
 蔵人は外国人居留地のハンター協会にある簡易宿泊所にいた。
 協会にいるのは金策のためであるが、いまだうまくいっていない。
 すでにやれることもなく、日がな一日絵を描いているしかなかった。
 大星、いや美児のことが気になって、いまさら遺跡に潜る気にもなれず。されどじっとしているのも落ち付かず、いつものように絵を描くことしかできなかった。
 蔵人の傍に、雪白はおらず、退屈そうにしているアズロナだけであった。
 雪白には万が一に備えて、黒陽を見張ってもらっていた。宵児が強行手段をほのめかしていたせいである。



 そして、蒼月の七十九日。
 蔵人の金策は実らず、大星も帰らないまま、外国人居留地で慰労会が始まった。



********


 一方その頃の大星一行は。
 とある村でついに堪忍袋の緒がぶちぎれた玉英の尻叩きが炸裂し、少女は大人しくなった。それどころか玉英にだけは懐いた。
 少なくとも大星たちにはそう見えた。
 少女を連れ、峻険な山道を越え、魔獣の蔓延る沼地を越えた。もうすぐ目的地であった。
 しかしそこで、刺客が襲いかかる。
 もう何度目かもしれぬ刺客の襲撃に傷つき疲弊した身体でありながら、即座に臨戦態勢を整える大星一行。

「――えっ」

 だが玉英の口から、驚きの声が漏れた。
 玉英の背に、短剣が刺さっていた。
 すっかり玉英に懐き、その背に庇われていた少女が、突如として背後から玉英に短剣を突き立てたのだ。
 短剣には高貴な紋章が施されており、その刃は天拳を修めた者の強固な肉体を容易に貫く宝具であった。そしてこれは、少女の身分を示す証明でもあった。

 よもや、であった。
 だが刺客は容赦なく襲いかかる。
 少女はある村の宿で、密かに接触してきた刺客の手の者に唆されていた。
 実は大星たちは少女を保護する気などなく、敵対部族に引き渡す気なのだと。少女の言うことを聞かないのも、尻を叩いたのもそのせいだと。
 少女は幼すぎた。
 それを信じて、玉英を刺した。
「わ、妾は死ぬわけにはいかぬ。妾が行かねばち、父上と母上、一族の者が皆殺しにされてしまう」
 まるで己に言い聞かせるように少女は呟く。
 玉英に刺さった短剣から離した小さな手は、小刻みに震えていた。


********


 
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