132ー砂流の果てに
蔵人がぶち抜いていった天幕の天井をちらりと見て、バスイットは鼻を鳴らした。
もとより想定外の存在であった。示威のためにジャムシドを連れてきていたことで運良く雪白の抑えになった。
一度負けたジャムシドに期待はできないが、ここで退くわけにもいかない。アナヒタを確保する間まで抑えてくれればそれで十分である。もしそれが気に入らないと雪白たちが暴れたところで、バーイェグ族さえ抑えてしまえば動けまい。
「武器を捨てろ。貴様らにはここにいてもらう。なに、アナヒタ様にお越しいただければ同じ連合の仲間よ。悪いようにはしない」
そもそも人質はグーダルズたちの足止めという意味でしかなく、人質を利用して無抵抗のグーダルズを殺す気はなかった。そんなことをすれば卑怯の誹りは免れず、すべてが終わったあとにさらなる人質とすることもできないのだから。
「同じ連合の仲間? 奴隷の間違いであろう」
不和を招けば部族連合は瓦解するという僅かな希望にかけて、グーダルズは言葉を返した。
(……ここは儂らが残る。族長とファルは舟団と合流せよ)
小さな呼気だけでそう告げた長老衆の腹は、既に決まっていた。
一騎打ちでアルワラ族最強の戦士たるバスイットに対抗できるのはグーダルズ、そしてファルードくらいであろうか。それも勝算は良くて五分五分。
ここでバスイットを倒しても意味は無い。族長とファルードという戦力が舟団に戻り、アナヒタを守ることこそが重要なのである。
グーダルズも後ろ手にした指を動かして長老衆に同意するが、そこでファルードが異を唱えた。
(……自分が残る)
長老衆が残り、グーダルズとファルードが逃げた場合、マルヤムは確実に殺される。現に長老衆とグーダルズはそのつもりで話していた。
それならば自分が残り、バスイットと戦い、マルヤムを救い出す。
ファルードもマルヤムも決死の覚悟を固めてはいたが、諦めたわけではなかった。
時間がなかった。グーダルズと長老衆は躊躇いつつも頷く。
ファルードがこうと決めたら決して譲らない。
ほとんど前例のない女船頭にニルーファルがなれたのも、ニルーファルの強い意志と弛まぬ努力、そして頑固ともいえるファルードの強力な援護があったからこそである。
「――族長たちよ、アルワラ族の思惑がわからぬわけではあるまい。アナヒタ様を得てしまえば、メルガド殿を殺し、すべてを己の手で掴もうとするのは明白だ。砂漠の男たちよ、何を恐れている。誰かの風下で安穏とすることをよしとしない、誇り高き男たちではなかったかっ」
追い詰められたグーダルズが命乞いを始めたと誰もが思い、嘲笑った。
「見苦しいな、グーダル――」
「――確かにっ、我らの知る砂漠の男は野卑で粗暴で容赦のない苛烈な戦士であった。だが、いかに生活に窮していようとも、砂漠で迷った客人を盛大にもてなした。部族のためならば誰一人として血を流すことを厭わなかった。そんな砂漠の男は、我らの憧れでもあった」
強い口調でバスイットを遮り、侮辱した。そこから賞賛し、唐突な告白までを一息に言い切った。それは一面において、嘘偽りのない言葉でもあった。
だからこそ、侮辱や賞賛、告白に命乞いらしからぬ真実味を与えた。あのバーイェグ族がそんなことを思っていたのかと、族長たちは訝しみ、そして迷った。
そのほんの僅かな意識の間隙を、グーダルズは狙っていた。
櫂剣が一斉に抜き放たれ、一戦交えることすらなく、くるりと身体を翻すと、天幕を切り裂いて一気に駆け抜けた。
「チィっ!」
グーダルズに合わせてマルヤムも行動を起こしていたが、バスイットはマルヤムまで逃がしては示しがつかぬと、その背に向けて一閃する。
鮮血が尾を引いた。
「――ウルクっ」
斬られたのは主であるマルヤムの危機に天幕へ飛び込んだ瘤蜥蜴のウルクであった。
「パラスっ、ラハっ、来ちゃだめ駄目っ」
だがそんなマルヤムの制止も聞かず、天幕に飛び込んで来た毛長大鳥のパラス、牙猫のラハがバスイットに跳びかかる。
「――邪魔だ」
二閃。
無造作に振るっただけのそれは呆気なく二匹を切り捨てた。
だが、その間にファルードが駆け寄ってマルヤムを抱き起こし、背に庇う。
マルヤムはファルードの背に庇われながらも、倒れ伏した魔獣たちを見つめる。その目には涙が滲んでいた。
「――ハイサム、追えっ。わかっているな」
バスイットは斬り捨てたことなどなかったかのようにハイサムに命じ、そして他の族長にも目配せをする。
ハイサムは一瞬だけマルヤムに目をやってから、逃げたグーダルズを追い、それに族長たちも続いた。
******
「――舟団と合流させなければそれでいい。メルガド殿の指示に従ってくれ」
ハイサムはグーダルズたちを追いかけながら若衆に指示を出し、ガズランの支配者であるメルガドに頼む。
走っていると、浮艦に追突された舟団が見えてくる。
あれはラファルが探していた浮艦であった。
難破していたところをたまたまアルワラ族が見つけ、密かに確保した乗組員と移民を拷問して従えた。一族のすべてが短期間で精霊魔法を得たのはラロだけではなく、彼らがいたからである。
頑強に抵抗したという乗組員も移民や政府高官が人質となっては逆らうことはできず、こうしてバスイットの指示どおり舟団に追突した。
だが、政府高官を除き、人質の男は塩造りや鉱山で奴隷として働かされ、女はすべて男衆の戦利品となっていた。アルワラ族に従えば悪いようにはしない。東の地へ逃がしてやるという約束を、バスイットはあっさりと反故にした。
バスイットは、いったいどこに向っているというのか、ハイサムにはわからなかった。
本当に西の国と争って、勝てると思っているのか。
グーダルズの言っていることのほうが、現実味はある。相当に難しいことはわかるが、今は内輪で争っているときではない。
略奪も奴隷も誘拐婚も、砂漠の男として生まれたからには受け入れる。
血の報復もこの砂漠で生きるためには致し方ない。
ならば、それだけでよかったのだ。
奪って、奪われて、殺して、殺されて。
そうして砂漠の砂へと帰っていく。
それが砂漠の男の生き方であったはず。
国を相手にするなど手に余る。この砂漠でさえも、届かない場所があるのだから。
そうして生きるのなら、まだ諦めもつくような気がしていた。
******
ファルードはバスイットと対峙していた。
相手はアルワラ族最強の戦士。安易に動くわけにはいかなかった。
「ファルードか。その名は聞いている。儂のもとへ来い。貴様が来れば、その女はくれてやる。アナヒタ様もバーイェグ族も悪いようには扱わん」
「……断る」
「舟団もグーダルズも、そして貴様も、本当に逃げられると思っているのか? あの呪術師に何ができる。白き守護魔獣のいないあの男など、貴様の足元にも及ばぬであろう」
「……心配無用だ」
ファルードは話ながら隙を探すが、まったく見当たらない。
「仕方ない。ならば、死ね」
バスイットは背後に立てかけてあった大斧を掴むと、身体をふらりと前のめりに倒した。
それを見た瞬間、ファルードが勘だけで構えた櫂剣を衝撃が襲う。
バスイットが振るうのは小剣と戦斧を混ぜ合わせた、鉄塊のような無骨な剣斧と、ラロから奪った『体感重量無視』の大斧。
「……っ」
ファルードは砂漠の風を体現したかのような、素早くも強靱な体捌きに翻弄される。
櫂剣を振るう暇もなく、勘を信じて櫂剣で受けることしかできなかった。
まるで両手が別の生き物であるかのように、信じられないような角度から剣斧と大斧が襲い来る。それは獅子と飛竜を同時に相手取っているようですらあった。
「――ぐっ」
ファルードの腕が、足が、背中が深々と抉られ、骨身に重い衝撃が残る。
剣斧と大斧の鈍い一撃は斬撃と打撃の両方をファルードに蓄積していく。
技術、経験、膂力、速度、センス。そのどれを取ってしても、かなわない。
殴り合いで人を解するファルードはすでにそれを悟っていた。
「儂とこれほど剣を合わせて生きているのは兄弟だけよ。誇るがいいっ」
ファルードはすでに全身を抉られているというのに、バスイットには息切れ一つもない。このままでは敗北は必至であった。
だが、背後にはマルヤムがいる。負けるわけにはいかなかった。
ファルードは身体の前に構えていた櫂剣を右肩に乗せ、両手でその長い柄を握る。
その構えを見たバスイットの表情から余裕が消え、躊躇無く櫂剣の間合いから離れた。
「つくづく、貴様が我が息子でないことが悔やまれるな」
捨て身。
ただ奪われるだけの弱小部族が持つ唯一の牙は、何度も略奪を繰り返してきたバスイットにとって最も警戒すべきものであった。すべてを奪わないという慣習を守っているのも、捨て身という万が一を恐れたからに他ならない。
ファルードは疑い深く探りを入れるバスイットへ、無造作に間合いを詰めた。
一瞬の不意であった。
待ちの一手と思われたファルードが自ら間合いを詰めた、その意外性にバスイットは不意を突かれた。
だが、ほんの僅かに生まれたその隙をたった一歩で消し去り、バスイットは隙だらけのファルードの肩に剣斧を突き立て、すれ違う。
鮮血が噴き上がる。
バスイットはさらに一撃をくれてやろうと、高速の体捌きで振り返るが、そこに――。
――櫂剣が振り下ろされた。
速過ぎる。
剣斧どころか体感重量無視の大斧を構える暇すら無く、バスイットは深々と袈裟切りにされた。
前のめりに倒れるバスイットから飛び退き、様子を窺うファルードであったが、がくんと膝をつく。全身から一気に力が抜けていた。まるで赤子に戻ったかのように、力が入らない。
それもそのはずで、ファルードは『身体強化魔法』を用い、そして『英雄』としての力を失っていたのである。
かつて精霊魔法を試し、まったく使えなかったとき、蔵人が教えてくれたもの。それが身体強化魔法であったが、これには大きなリスクが予想されていた。
『英雄』とは修練と実戦の果てに、身体強化魔法を意識することなく発動させている者たちのことである。その英雄が身体強化魔法を意識して使用するというのは、『二重に身体強化を行う』という矛盾が発生することになる。
もしかすると強大な力を手にする可能性がある。蔵人はそう推測した。
だがまったく発動しないかもしれないし、仮に発動したとしても、そのあとは英雄としての力を失う可能性が高いとも予想していた。二重に身体強化魔法を行うという矛盾があっていいはずがないと。
だからこそ、方法だけをファルードに教え、試すことは禁止した。
ファルードはぶっつけ本番でこれを用いたのだ。
すれ違いざま、剣斧が肩に突き刺さった瞬間、身体強化魔法を最大限に発動し、身を翻しながら右肩に担いだ櫂剣を渾身の力で薙いだ。
その一瞬、その一撃だけ、身体強化を『二重』に発動させるという矛盾を現実のものとした。
もし身体強化魔法が発動しなかったとしても、相打ちにでもしてみせるつもりであったが、存外に上手くいった。
今は櫂剣を持つ力すらないが、それでも構わなかった。
「ファルっ、そんな無茶ばかりして」
マルヤムが駆け寄り、倒れそうになっていたファルードに肩を貸す。
「……舟団に戻ろう」
いつものファルードの声に、涙を流しそうになりながらもマルヤムは何度も頷く。
「でも、ちょっと待って」
ファルードに一言断ってから、自分を庇って倒れた三匹のもとへ行くマルヤム。
まだ死んではいないが、意識はないようだった。
致命傷ギリギリだが、蔵人ならば治せるかもしれない。マルヤムは希望を捨てずにそう考えたが――。
「――ガァアアアアアアアアアアアアッ!」
胸に走る深い傷から血を迸らせながら、バスイットが立ち上がった。
バスイットの魔力に、雷精が活発化する。
悪鬼の如き形相をして立ち上がったバスイットは、闘争本能のままに、自らを省みることなく全力で雷精魔法を行使した。
鉄を引き裂くような短い雷鳴。
だが、マルヤムもそれを庇ったファルードも無傷であった。
倒れたのはバスイット。
バスイットよりも先に雷精魔法を放ったのは、――ラロだった。
ラロも今回の紛争に参加させられそうになったのだが、バスイットやハイサム、四兄弟という強力な戦力が前線に出向いている隙をついて逃亡した。一度もその力を示さず、周囲が弱小呪術師と思い込んで侮った油断をついたのである。
そうしてバスイットを討つ機会を虎視眈々と狙っていた。
バスイットを集束式の中級雷精魔法『雷鎚』で貫いたラロは、『体感重量無視』の大斧『ラブリュス』を奪い返して背中に括り、ついでとばかりに剣斧と翻訳の魔法具もいただいた。
「――自業自得だ。死ね」
ラロは未だ息のあったバスイットの首を大斧で切り落とした。
これでようやく自由になった。あとは――。
「さて、一緒に来てもらおうか」
アルワラ族を生きたまま捕らえ、引き渡すこと。それがラファルとの取引だった。
今となってはそんな取引を守る必要もないのだが、このまま東の地へ逃げるよりも、交渉材料があったほうが何かと身を守ることができる。
「……」
倒れ伏す三匹の魔獣と身体に力の入らないファルードを抱えたまま、キッとラロを睨みつけるマルヤム。
「はっ、奴隷を使っておいて、奴隷に反逆されると思わないとはな」
ラロにとってアルワラ族だけではなく、この砂漠のすべてが気に入らなかった。奴隷制度を横行させているのだから、すべての部族が同罪である。
「好きにしろよ。まあ、そっちの男は回復させてやれないが、その三匹の魔獣くらいなら回復させてやってもいいぞ。そのかわり、大人しくついてこい」
毛長大鳥も瘤蜥蜴も人の腰ほどまでには成長している。ファルードを運ぶのにちょうどいいだろう。
マルヤムは迷った。
普段ならば奴隷に落とされようが必ず舟団が助けに来てくれる。だが、この緊急事態にそんな余裕があるだろうか。
「迷ってる暇なんてねえよ。別にお前を殺してその男だけ連れてきゃいいんだからな」
この紛争中にラファルと合流する予定である。もたもたしている暇はない。
「わかった。ウルクたちを助けて」
ラロは手早く、動ける程度に三匹を回復させる。
「……よし、行くぞ。連れてこい」
マルヤムは僅かに笑みを浮かべた。
「――ウルク、ラハ、パラス、逃げなさいっ」
マルヤムが叫ぶ。
もとより命乞いなどする気は無い。どこに連れていかれるのかはわからないが、バーイェグ族が誘拐などされたらあとは悲惨な結末しか待っていない。その度に仲間が助けてくれるのは事実であったが、ほとんどの場合は間に合わないことのほうが多いと父から聞いていた。
ラロは舌打ちして、三匹とマルヤムに精霊魔法を放つ。
その瞬間、轟音と稲光、衝撃が天幕を切り裂いた。
******
砂流の流れが変わった。
その瞬間、ニルーファルは毒も冷気も考えずに蔵人のもとへと飛び出していた――。
――が、それを遮るように白い颶風が横を通り抜ける。
ガズランに到着してからずっとジャムシドと戦っていた雪白であった。
ニルーファルはその強く頼もしい風に足を止めるが、微かな音に夜空を見上げる。
一筋の蒼い流星が蔵人の下へと降下していた。
******
雪白はガズランに着くなり、ずっと戦っていた。
下品な笑みは消え、ただただ殺意のみを漲らせたジャムシドを相手に、うんざりしながらも油断できない戦いを強いられていた。
本来ならば大会合で睨みを効かせてやろうと画策していたのだが、ジャムシドのせいでそれもできず、雪白は苛立っていた。
――グガァッ!
殺す、殺す、殺す。
口を開けばそればかり。ジャムシドはそれしか言わなくなっていた。
とっぷりと日も暮れ、雪白に優位なはずの夜であるにも関わらず、ジャムシドは鬱陶しい雷撃を撒き散らし、自傷を厭わず全身に纏った灼熱の血晶を射出する。
かつてあった余裕は微塵もなく、雪白を殺すことのみにすべての力を注いでいた。
だが、強い。
爆炎はないとはいえ、強力な雷撃に鉄壁の血晶と再生能力、そして以前にはなかった灼熱の血晶。
ガズランから蔵人とアズロナが飛びたち、舟団に浮艦が追突しても、そちらまで手が回らない。ちらちらと蔵人の様子を窺えば、また無茶をしている。
苛々し、はらはらし、目の前のジャムシドを早く倒さねばと焦るばかり。
そのうちに一瞬だけ気を取られ、頬を抉られた。
気を取られたのは、蔵人の魔力が爆発的な発散と消耗を繰り返していたから。
切り札となる『自爆』は雪白も知っていた。
そんなものを使わせる気は毛頭無かったが、使わせてしまった。
使わせてしまったのなら、迎えに行く必要がある。行かなければならない。自分を信じて、『自爆』を用いたのだから。
不甲斐ない。
何度目であろうか。
リュージのときもそうだった。
絶対に守り切ると決めたのに、使わせてしまった。
なぜか、幼い頃に見た親の勇姿がちらついた。
敗れ、倒れ伏すその瞬間までを。
――グオンッ!
そんなことは絶対にさせない。
短くも、夜気を振るわせる咆哮。
灼熱の赤い爪を振り下ろすジャムシド。
雪白は真正面からそれを食い破った。
ジャムシドは何が起こったのか理解できない顔で前脚を見る。
――ガァアアアアアアアアアアアアッ!
半分ほどが消失していた。傷口は凍りつき、血すら流れていない。
自らの熱でそれを溶かすが、生殖器と同じで失ったものは戻らない。
怖れ。
雪白に敗れたときに感じたそれが、背筋を這い上がる。
怯え。
ジャムシドは怯んだ目で雪白を見た。
その全身は金色に輝き、その周囲を高速で何かが循環している。
雪白はようやく本気になった。いや、本気になれた。
これまでも全力であったのは間違いない。
だが、人の社会で生きる上でのルールが、無意識の内に雪白を縛っていた。攻撃されても、反撃しない。威嚇されても、無視をする。それは確かに人の社会では必要なことであったが、雪白の野性をも封じていた。ある意味でそれは蔵人のせいであったかもしれない。幼き頃から人と暮らしてきた弊害であった。
だが、ここに来て、それが完全に解き放たれた。
真紅の腕輪に嵌められた紅蓮飛竜の命精石は雪白の溢れんばかりの魔力に反応して輝き、雪白の全身を赤と黄の入り交じった金色に染め上げる。
さらに氷精、そして石精との融合。
この砂漠では氷を纏うことは出来ないが、砂鎖鋸の要領で極低温の冷気と砂を高速で循環させて纏わせた。
人の身ではかなわぬ精霊との融合も、魔獣である雪白には可能である。だが、同時に『二種』の精霊との融合はできない。いや、出来なかった。雪白の親ですら氷精のみとしか融合していない。
だが雪白は野性を覚醒させ、これまで積み上げてきた修練と学習、経験を加えることで、想像を現実へと昇華させた。
凍砂の嵐を凝縮して纏い、交錯の瞬間にジャムシドの前脚を凍らせ、瞬時に粉砕した。
その傷口は凍りつき、治癒すら許さず壊死させる。
――グルァッ!
雪白が唸ると、ジャムシドは怯んだ。
そして、――逃げ出した。
本能のままに雪白を屠ろうとしていたジャムシドであったが、その獣の本能は雪白に敵わないと察するや否や逃亡を選択した。殺すまでは殺されるわけにはいかないのだから。
だが、雪白はそれを許さない。
回り込んで、横っ腹からジャムシドの心臓を食い破った。
ついでとばかりに砂流へ蹴落とし、ジャムシドの死を確認してから、雪白は即座に身を翻す。
蔵人の膨大な魔力の行使が、いままさにぷっつりと途絶えた。
******
――ぐるるっ
すれ違いざまに、後は任せなさいという雪白の唸り声を聞き、ニルーファルは己の役目を思い出して踏みとどまった。
毒と冷気の影響が減り、足止めを食らっていた軍勢が蔵人、そして舟団へと押し寄せようとしていた。
その出鼻を雪白が挫く。
寄らば斬るとばかりに、凍砂の嵐を纏って軍勢に襲いかかる。
噛みつき、振り回し、凍らせ、粉砕する。
「足っ、足っ、あひぃいいいいっ」
「ば、化け物っ」
「やってられるかっ」
軍勢は一瞬にして混乱した。
その間に毒の効かないアズロナが蔵人の下に墜落するが、墜落の痛みに涙を浮かべることなく蔵人を咥え、また羽ばたく。
そう、ここまでが、蔵人の仕込みであった。
自爆用の多重連結式であるが、そもそもは生きるための自爆である。自分の命を賭けることと、自分の命を捨てることはまったく違う。
蔵人は生きるために、多重連結式が途切れたあとは、雪白とアズロナにその救出を委ねていた。
ゆっくりと上昇するアズロナに精霊魔法や矢、投石が放たれるが、そのすべてを雪白が叩き落とし、手を出した相手をも地獄へ叩き込んだ。
ようやくアズロナは十分な高度に達すると、雪白が尻尾で指し示す方向へと加速した。
――グォンッ!
近づけば殺すっ、と威嚇しながら、雪白は圧縮していた凍砂の嵐を解き放ち、アズロナを追った。
軍勢は散々に蹴散らされ、最後に解放された凍砂の嵐が追い打ちとなって、完全に瓦解した。
雪白は最後にちらりと振り返った。
その目の先には、死体となって仲間に担がれたリサの姿があった。
馬鹿な娘、とでも言いたげに一瞥すると、すぐにアズロナを追いかける。
その背中はどこか寂しげなものであった。
舟団は無事に離岸した。
雪白とアズロナによって瞬く間に蔵人が救出された。
ニルーファルはひとまず安堵したが、舟団の行く先を見て、目を剥いた。
「――散開しろっ」
総船頭代理の叫びに男衆が反応するも、間に合わない。
砂流の流れが変わり、前方部分を切り離して浮艦の脇を抜けようとしていた舟団であったが、そこで突然、行く手を遮るように浮艦が動き出した。
それは内部で反乱を成功させた乗組員たちの必死の逃走劇であったが、舟団にとっては不幸以外の何者でもない。
衝突する。
誰しもがそう思った瞬間、二番舟の船頭と副船頭、さらに男衆たちが浮艦に跳びかかった。
舟団と浮艦の間で物理的に緩衝材の役目を果たすことで、舟団への損傷を防ぐ。
その間に舟団はさらに分離し、ばらばらの砂舟となって浮艦を抜けた。
無事に抜けたとは言い難かった。
浮艦との緩衝剤になって死んだ者や傷ついて砂流に落ちた者もいた。
それでも、バーイェグ族は分離した砂舟を集めて、この場からの離脱を成功させた。
軍勢は瓦解、舟団にも逃げられた。
残されたアルワラ族と部族連合の残党は呆然と舟団を見送るしかなく、のろのろと逃げだそうとしている浮艦を追う術すらなかった。
突然、砂流が隆起した。
ジャムシドが砂流から抜け出し、砂漠へと降り立った。
いや、それはもうジャムシドという存在ではなく、ただただ生者を呪うだけの血晶獅子のアンデッドであった。
前脚はなく、尾は半ばから千切れ、胸もごっそりと抉れている。
骨と皮と血晶だけが妙に目立つ赤黒い獅子は、声にならない声にならない雄叫びを上げた。
雷が破裂する。
ジャムシドアンデッドを中心に雷が四散し、幾多の雷鳴が鳴り響く。
浮艦も部族の軍勢も、ジャムシドアンデッド自身すらもその雷撃に蹂躙された。
すでに撤退を始めていたラファルと精鋭部隊、そしてリサの屍も例外ではなかった。
「チィッ」
ラファルは最後に砂流へと身を投げた。ラファルの身体にはさまざまな魔法具があり、それをここに残していくわけにはいかなかった。
ジャムシドアンデッドは駆けだした。無くした前脚で幾度もバランスを崩しながらも、お構いなしに加速していく。
生者の数が減るほどに怨念は薄れたが、そのかわりに雪白への憎悪を思い出した。
雪白の匂いを追ってどんどんと進むが、途中、生者の気配を感じるたびに、生者への怨念が湧き上がり、そのたびに襲った。
そしていつしか東の地へと侵入し、そこで殺戮の限りを尽くした。
そこで『業火の弓』や『岩窟鎧』、『風の外套』といった勇者たちと北部三国の軍人や神官たちが討伐に向ったが、暴れ狂うジャムシドアンデッドに苦戦を強いられた。
彼らは夜明けとともにジャムシドアンデッドを討伐したが、その被害は浮艦にまで及ぶほど甚大で、移民計画は大幅に遅れることとなった。
雪白はアズロナに蔵人を預けたまま、周囲を警戒しながら駆けていた。
ときおり、まっすぐにしか飛べないアズロナの進路を調整し、襲い来る魔獣を次々と蹴散らしていく。
不意に、雪白の耳がぴくりと後ろを向いた。
それはジャムシドの強大な気配を感じ取ったがゆえであったが、雪白は振り返ることすらなかった。
蔵人を救う。
今の雪白にあるのはそれだけだった。
*******
マルヤムに出し抜かれそうになったラロが精霊魔法を放つ直前に、ジャムシドアンデッドが撒き散らした雷撃がラロとマルヤムたちの頭上に降り注いだ。
ラロは咄嗟に砂で避雷針を立て、自らも砂に潜る。
だが、そんな防御を嘲笑うかのようにジャムシドアンデッドの雷撃はラロたちを蹂躙した。
「ぐぎゃぁっ!」
食いしばった歯のさらに奥から悲鳴が漏れた。
マルヤムの悲鳴や魔獣たちの鳴き声も聞こえていたが、それはどこか遠い出来事のようでもあった。
それからしばらくして、ジャムシドアンデッドはさらに西へと去っていった。
天幕は跡形もなく、その周囲には幾多の屍が倒れていた。
すると雷撃の衝撃に吹き飛ばされた屍、いや半分砂を被ったラロがよろよろと立ち上がった。
「くそっ、たれっ」
応急処置程度に雷撃による火傷を治し、ふらふらとした足取りでマルヤムとファルードに近づく。
三匹の魔獣が二人を庇い、死んでいた。
避雷針の効果、さらに英雄としての力を失ってなお強靱な肉体を持つファルードがマルヤムを庇ったことで、二人はどうにか生きていた。
「……ちっ」
ラファルが言うには、女よりも男のほうが重要であった。
ここに来て取引材料を捨てるわけにはいかないと、ラロは意識のないファルードに治癒魔法を受け入れるよう声をかけ、応急処置を施す。
だが、そのとき、ラロの耳は男の声を察知した。
「くそったれっ」
ラロはファルードを連れていくのを断念して、ふらふらと砂漠の闇に消えていった。
*******
舟団はかつての十分の一の大きさとなり、砂流を漂っていた。
ニルーファルは女衆が守ってくれた自分の舟で、つかの間の休息をとっていたが眠ることはできないでいた。
一番舟の男衆は戻らず、舟団と浮艦に挟まれた二番舟の男衆はほぼ壊滅状態、三番舟と四番舟、八番舟の男衆も半壊状態にあった。女衆にも少なからず被害は出ており、数で言えば半分ほどまで減ってしまった。
族長のグーダルズや長老衆、ファルードもまだ戻っていなかった。
そして、雪白たちに救出された蔵人の行方も杳として知れない。その生死すら判らなかった。
なぜこんなことになったのか。
許嫁が殺されても、両親が殺されても、堪えた。
略奪を見過ごし、ときに誘拐婚も見逃さざるを得なかった。
蔵人たちをジャムシドと戦わせ、マルヤムが政略結婚することになっても、それでも堪えた。
決して誇れるようなものではなかった。平和と呼ぶなどおこがましい。
それでも幾多の犠牲と無数の忍従の末に保たれていた砂漠の日常である。
こんなにも呆気なく崩壊していいものではない。
一体誰が、一体何故。
押し殺していたはずの怒りが、憎しみがニルーファルの心を染め上げていく。
アルワラ族か、部族連合か、それともアルバウム王国か。
それとも、バーイェグ族の選択が誤りであったか。
「……そんなことが、あってたまるか」
ニルーファルは虚空へと呟き、血の滴るほどに拳を握った。
こんなときであっても、ニルーファルの目からやはり一滴たりとも涙は零れなかったが、額から溢れた血が目尻に溜まると、それはまるで血涙のように頬を濡らした。
それを拭い、首を振る。
じっとしていても碌なことを考えないと、ニルーファルは舟を出ようとしたが、ふと足を止めた。
舟の壁に貼られた砂漠の絵が妙に気になった。
僅かに白んだ空。
果てしなく広がる青暗い砂漠。
蔵人の忘れ物。
砂漠の早朝。今にも洗濯の音や水の匂いが漂ってきそうである。
だが、ニルーファルにとってはいつもの砂漠、何の変哲も無い砂漠であった。
ファルードが気に入って飾っていたもので、そのときこそニルーファルには理解ができなかったが、なぜか今は目が離せなかった。
すると、自分の裸婦画が浮かんできた。
馬鹿なと目を擦ると、今度はイライダやヨビの裸婦画も見えた。
何度か見直すと、次はファルード、マルヤムが見えた。さらには死んでいった戦士たち、両親、許婚など、日常の何気ない姿が浮かび上がってきた。
確かに、この絵には誰も描かれていない。
だが、ニルーファルの目にはさまざまな人が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。
彼らは生き生きと砂漠で営んでいた。
アナヒタはいつも優しげに微笑み、族長はいつものように難しい顔で皆を見守っている。
口を開けば結婚して子を産めと言うおばさんたちがいて、舟団を駆け回る子供たちのイタズラを叱っている。
マルヤムはアズロナに抱きついてご満悦で、ファルードは黙々と櫂剣を振り、蔵人は牙猫と喧嘩する。そんな蔵人をやれやれと雪白が見つめ、ヨビ、イライダ、そしてニルーファル自身が雪白に同意するように頷いている。
「……だから兄者は気に入っていたのか」
こういう絵なのだと、ニルーファルはようやく気づいた。
絵を理解するような優雅さなど持ち合わせていないが、きっとそういうものなのだと。
それは正しくて、間違っていた。
蔵人は確かに砂漠しか描いていないように見える。
だが実際には、下絵の段階で何人もの裸婦を描いていた。極限までに水で薄めた黒と白で描かれたそれは、描かれては、白で塗りつぶされ、描かれては、白で塗りつぶされた。
それを繰り返したあと、その上から砂漠を描いた。
そのことに意味があるかどうかは蔵人自身も理解していなかったが、禁欲的なバーイェグ族の生活に対する蔵人のささやかなイタズラだった。直前でこればまずいと誰にも見せなかったが。
ニルーファルが最初に見たような気がした裸婦はそれであった。
だが、その裸婦が呼び水となり、ニルーファルは砂漠に己のすべてを見た。
そこには確かに、ニルーファルが守ってきたものが、守られてきたものがあった。
そう、まだ終わっていない。何も決まっていない。
ニルーファルは再び怒りを封じ込め、己の定めを全うするべく舟を出た。
******
東端で依頼を受けながら情報収集をしていたイライダとヨビであったが、砂漠に戻る予定であった日の当日に足止めを食らってしまった。
砂漠にて紛争が予想されるため、南北の国境が封鎖されてしまい、戻るに戻れなかったのだ。
そもそもは紛争に伴う難民の流入や略奪の阻止を目的としているのだから、出る分には構わないだろうとイライダたちは交渉したが、受け入れられなかった。
南の国境検問所近くで待つことにした二人は、野営をした二日目の夜に雪白の咆哮を聞いた。
咆哮の方角を見ると、白い点が微かに見え、それが雪白だと確信する。
一向に近づかない雪白に非常事態を察した二人は、雪白のいる方角、黒竜の断崖に向った。
イライダは身体強化を駆け、身体から湯気を上げながら草原、森、岩山と踏破し、ヨビはその後ろを駆け、そして岩山を一気に飛んで抜けた。
黒竜の断崖にある岩山で雪白と合流した二人は絶句した。
「これは……」
元は黒竜の巣であった岩穴に蔵人が横たわっていた。
全身に傷と凍傷を負い、耳は抉れている。顔色は悪く、息も荒い。高熱に異常な発汗もあった。
イライダは即座に治療を開始する。
他者に対する治癒が不得手なヨビは、涙目になっていたアズロナを連れて岩山を下り、麓の森や川で解毒草を採取する。まさかここでウバールの女衆に教えてもらったことが役立つとは思ってもいなかった。
岩穴に戻ると、すぐに解毒草の調合を始め、途中で雪白が狩ってきた魔獣の角や肝もそれに加えた。
そうしてできた解毒薬を片っ端から蔵人に口移しで飲ませ、体中の傷に塗り込んでいく。
「……うっ」
蔵人が呻き、指が微かに動く。
「――クランド、起きろっ。まだ逝くなよっ」
岩穴にイライダの必死の声が響いていた。
お読みいただきありがとうございます<(_ _)>
章としてはここで一旦終わりとなりますので、新章が始まるまでお待ちいただければと思います<(_ _)>
アフターは少し遅れると思います<(_ _)>
告知。
『用務員さんは勇者じゃありませんので』最新七巻の表紙がMFブックス様のホームページで公開されております。いつもながら格好良いイラストとなっております。(書籍は若干設定が違っておりまして、蔵人が作業服を着ているのは間違いではありません)<(_ _)>
http://mfbooks.jp/4856/