マルノヴァ・アフター
……また長く<(_ _)>
前回と同じくらいあります<(_ _)>
アンクワールで発生した同時多発的な『魔主』の出現と魔獣の暴走の後処理を終えたイライダとヨビは、魔獣車を乗り継いで北上し、バルティス、そしてマルノヴァに到着した。
ハンター協会でサウラン行きの船を問い合わせたのだが、すでに出航してしまっていた。
「困ったね」
イライダが呟く。確実に決まっている次の船は半年も先のことだった。
「いっそニルレアンまで行ったほうがいいかもしれませんね」
隣にいるヨビの提案にイライダは頷く。
ニルレアンはアルバウムの持つサウラン大陸や東南大陸へでることのできる東側唯一の港であり、エルロドリアナ連合王国の港街オスロンとほぼ同じ航路でサウラン大陸まで行くことができた。
イライダと行動を共にするようになったヨビは、アンクワールでの後処理で六つ星に昇格していた。若手ハンターの育成を得意とするイライダの実地教育と底辺ながら探索者として生きていた強かさ、陸亀系獣人種を両親から隔世で生まれた蝙蝠系獣人種としての潜在能力、それに本人の勤勉さも合わさり、ヨビはその能力を開花させつつあった。
今も日常会話程度ではあるが、、イライダに教わったユーリフランツ語を話していた。
「――イライダさまにご依頼がございます」
協会のエントランスにあるテーブルで話し合っていた二人に、協会の幹部職員が頭を下げた。
聞くと、先日襲来した怪盗スケルトンが問題の発端であったと言う。
地下墓所から溢れ、街に散乱した遺骨の中に、身元不明の巨人種やエルフの骨が見つかったのだが、それをマルノヴァにいた巨人種やエルフが問題視した。
巨人種やエルフの遺骨は直近の里や集落に移送される協定が結ばれており、地下墓所にあってはならないものであった。
マルノヴァ側がいくら怪盗スケルトンが外部から持ち込んだもので、地下墓所にあったものではないと説明しても、巨人種やエルフの窓口は聞く耳を持たず、遺骨の返却は当然として、事実の究明と関係者の処断を要求してきたという。
「ですので、巨人種側との仲介をしていただけないかと。もちろん報酬のほうはしっかりと支払わせてもらいます」
ただでさえ、秘密裏に行われようとしていた『魔封じの聖杖』(種族特性を減衰もしくは封印することができる)の取引が怪盗スケルトンによって暴露され、人種以外の種族から抗議が殺到しているというのに、さらに遺骨問題までこじれてしまえば、商業都市であるマルノヴァにとっては大打撃であった。
だがイライダは鋭い目を幹部職員に向けた。
「アタシとて巨人種の端くれだ。ご先祖様を敬う気持ちはある。もし、あんたらが全ての骨の真相を追究し、関係者全ての罪を断罪するならば、そして真実を公にする気があるなら、顔役に仲介してもいい」
サウラン砂漠に行きたいところだが、放置もしておけない。
「そ、それは……」
「だろうね。なんでも金で解決できると思わないことだよ」
巨人種やエルフの骨が地下墓所にあった理由として考えられるのは密かに奴隷とされていたものが殺されて隠蔽されたか、それとも事件に巻き込まれたかである。
怪盗スケルトンを骨人種として認め、敵対関係にない巨人種やエルフにとっては、白系人種の過去の所業のほうが圧倒的に疑わしかった。
それでもまだ食い下がろうとする幹部職員を無視し、イライダとヨビは協会の出入口に向かう。
だがそこで、またもや足止めされた。
「イライダ・バーギンさんですよね? お噂はかねがね。ぜひ我がパーティに――」
「――ヨビと組んでるからな。ほかを当ってくれ」
単独狩猟者として有名なイライダ・バーギンがパーティを組んだ。
その事実に声をかけたハンターは驚き、その間にイライダは協会を出た。
イライダとヨビはマルノヴァに向けて移動する間、なんども声をかけられて鬱陶しくなり、パーティ登録を行った。断る口実にもなるし、パーティ登録者をしつこく勧誘すれば協会に訴え出ることもできる。
『砂漠へ』。
イライダとヨビはそれぞれ事情があってサウラン大陸を目指しているだけで、パーティ名などどうでもよかった二人は、適当に目的地をパーティ名として登録したのだった。
「よかったのですか?」
二人はニルレアンに向かうべく魔獣車の乗り合い所に向かう。
「顔役の仕事さ。爺どもが頑固で困ってるっていうなら喜んで行くが、あの対応じゃあね」
巨人種の集落は各国にいくつかあり、それぞれ共通する窓口として顔役の存在がある。おおかた、マルノヴァの行政府は顔役との交渉で下手を打って、泣きついてきたのだ。
イライダが話題をかえる。
「それにしてもあいつは目立ってこそいないが、必ずいろんな話の隅っこにいるね」
アンクワール諸島から北上する間に土地土地でハンターから話を聞いたが、漁村のドノルボでは海賊の襲撃事件の後に起きた残党の始末を、バルティスでは暴動に巻き込まれ、さらにはようやく設置される協会の紋章に、尻尾に小さな飛竜を巻きつけた雪白が採用されていた。このマルノヴァでも古臭い決闘騒ぎを起こし、あの怪盗スケルトンの戦いに巻き込まれて瀕死の重傷まで負っている。
「雪白さんのことですから飛竜を捕まえて従えたか、それともご主人様が飛竜の子供を拾って面倒みたか、ではないでしょうか」
「……あんた、いつまであいつのことをご主人様なんて呼ぶつもりだい? 誰かに聞かれたら勘違いされるよ?」
「いえ、そのほうがご主人様と会ったときに面白い顔が見られるかと思いまして」
イライダがぷっと吹きだす。
「……あはははははっ、そうだね。アタシも呼んでみようか」
嫌そうな顔の蔵人が目に浮かぶようだった。
蔵人の存在がちらつく事件の数々は、イライダが面白半分に蔵人の影を探すからこそ出てきたのであり、でなければよくあるハンターの決闘やトラブル、強制徴収がかかった怪盗スケルトン戦、というごく普通の事件でしかない。
しかしそれですら、事件の片鱗でしかなかった。
慎ましく収穫祭を祝っていたバルティスを襲った暴動では、暴動者側多数死亡し、他にも鳥人種の少女が一名、そしてマルノヴァの娼婦が一名、巻き込まれて死亡したとされている。
マルノヴァで売られている新聞の紙面の片隅にはそれだけしか書かれておらず、市井でも同じような話がほんの少しの間だけ流れ、そしてすぐに怪盗スケルトンの話題にとってかわられた。
真実を知る者は涙をのんで口を噤むか、すでに街を去ってしまっていた。
白月もあと数日すれば終わり、一年の終わりである『隠れ月』を迎えようとしていた。
アルバウム王国とユーリフランツ共和国に挟まれた小国群に、月の女神の付き人の本神殿があった。
雪に覆われた山の麓にある針葉樹に囲まれたその神殿は、ミド大陸に現存する最も古い建造物の一つであるが、今もなお付き人たちが修行の場として使用し、神聖で荘厳な気配を発していた。
日が暮れると、それはさらに神秘性を増す。
本神殿の内部に蝋燭の灯明にも似た魔法具の明かりが灯され、窓から外に漏れた光が針葉樹に積もった白い雪をオレンジ色に染めた。
その本神殿内のとある一室に、円卓と十二の椅子が置かれた『満月の間』がある。
橙色の明かりに照らされたその部屋に、円卓に座る十一人の女官長とそれぞれの背後に立つ女官長補佐の険しい表情があった。
今日は一年に一度行われる月の女神の付き人の会合であり、本来であれば各隊の一年の活動報告、今後の方針などが話し合われるはずであった。
だが先頃バルティスで発生した深刻な問題の事後処理のため、いつもは三分の二ほどしか出席しない会合には、サウラン大陸で活動している一隊を除いた十一隊全てが、筆頭女官長の権限において招集された。
老エルフであり、紅蓮のエルフとも名高い筆頭女官長のオーフィアが重々しく口を開く。
その視線は円卓の真向かいに座る白系人種の老婆、アガサ・イゼット次席女官長とその背後に立つ女官長補佐のダウィを見据えていた。
「――各人、すでに資料を読んでいることと思いますが、今回、二番隊が引き起こした問題は月の女神の付き人の根幹に関わる問題です。ある事情から公にはなりませんでしたが、これは厳正に対処せねばならない問題です」
オーフィアが各女官長を見回してから、続ける。
「まず、ラッタナ王国にて一族を粛清されたクンドラップ・ノクル・ルワン・ファンフという少女を保護したこと、その少女が仕掛けたクランドというハンターとの決闘を妨害し、少女を救出したこと、保護した少女を現地にて更生させようとしたこと。その全ては月の女神の付き人の理念に反してはおらず、女官長の権限の範囲からも逸脱は見られません」
それを聞いて、アガサ・イゼットの背後に立っていた白鷲系鳥人種のダウィがほんの僅かにこわばっていた身体から力を抜いた。
「――しかし」
その言葉にダウィは耳を疑う。
「――保護した少女の暴走を許し、無辜の女の命を目の前で奪われてしまうなどあってはならぬ失態です。そのうえ、こちらの都合で押し付けた誓約を無視して対象のハンターに危害を加えようとするなど言語道断といえましょう」
保護した少女、ファンフの暴走を止められなかったこと。
そのファンフへ感情移入し過ぎた結果、誓約を無視し、決闘に割って入ろうとしたこと。
この二点をオーフィアは問題とした。
それ以外は、ラッタナ王国ガルーダ王の勅命である粛清からファンフを庇った事も、多少強引であったとはいえ決闘を妨害した事も問題ではなかった。活動中に起こったハンターとの衝突も現地対応の範囲内である。
これは、オーフィアを含めて他の月の女神の付き人たちも大なり小なり行っていることでもある。女を救うためには綺麗事ばかりは言っていられなかった。
「よって次席女官長アガサ・イゼット及び女官長補佐ダウィ、両名ともに一切の役職と権限を剥奪。本神殿にて『千年祈月行』を行ってもらいます」
千年祈月行とは、一日一食の食事以外は人と接することすら許されず、この本神殿の一室で一心に祈り続ける苦行である。
昨今の国際情勢下では宗教組織が私刑を行うことは許されなくなってきており、この神殿にて隔離、幽閉するために修行という体裁をとるしかなかったのだ。本来は破門である。だが、事情が事情だけに二名を放逐するというわけにはいかず、さりとて殺すわけにもいかず、こういう処置となった。
「なぜ――っ」
役職上はオーフィアとほぼ同等の権限を有するはずの各女官長から擁護の声が上がらないため、ダウィが抗弁しようとするとオーフィアが鋭く睨みつけた。
老獪。そんなイメージが畏怖と共にダウィを射抜く。
「――発言許可を求めてから口を開きなさい」
この『満月の間』にいる者全てに発言は許されている。もちろん好き放題に発言すれば話し合いにならないため、手の甲を見せて肘から先を挙手をする必要があった。
ダウィが改めて挙手し、オーフィアが発言の許可をした。
「なぜ、力なき女を守るべき月の女神の付き人が男を擁護するのでしょうか」
「……はぁ、まったく理解していないようですね。確かに我々は女を保護します。ただしそれは、女に罪科がない場合です。場合によっては濡れ衣を着せられた女を保護したり、仇討ちを手伝うこともありますが、今回ファンフという少女はエスティアという何の関係もない女を巻き込んで、事に及んでいます。
ただ一人生き残ってしまった少女の憐れな身の上は察するに余りありますが、同じく守るべき女を殺したことは月の女神の付き人として看過できません。知っているはずです。 月の女神は確かに苛烈で男を寄せ付けませんでしたが、たとえ女といえど許されざる行いをした者を救いはしなかったと」
そんなことは当然知っている。
だがダウィはなおも食い下がる。
「……月の女神は年若い者の罪を許し、更生へと導いています。少女を助けることが間違っているとは思えません」
「その通りですね。しかし二度目は許しませんでした。少女が決闘を仕掛けたハンターは勝利目前で妨害され、それでもなお譲歩して誓約書を落とし所としてくれました。これを一度目とするならば、二度目の暴挙はもはや許されない所業です。少女の二度目の罪を許さなかったハンターを咎めるよりも、二度目の暴走を防げなかった己の不明を恥じなさい」
ダウィは顔を顰めるつつも、さらに食い下がる。
「暗闇の中の決闘など、卑怯このうえない手段ではありませんか。暗闇の中では何をしているか分からない。正々堂々、公明正大であるべき決闘を汚す行為であり、月の女神がそれを許すとは思えません」
「では、貴女、そしてファンフと言う少女もその翼で空を飛ぶことが可能ですが、かのハンターは飛べません。空からの一方的な攻撃など卑怯ではありませんか? 決闘中に飛行したと報告は受けてますよ」
「これは、我ら鳥人種の誇りですっ。筆頭女官長は我らを侮辱するおつもりかっ」
「同じことですよ。生まれ持った手段を駆使するのは人として当然です。己の命を賭けた決闘ならなおさら。それよりも、その場を闇で覆われたこと自体を恥じなさい」
「何をおっしゃるのか。暗闇は奴が己の卑怯な手段を隠すた――」
「――その暗闇は周囲からの妨害を防ぐためでしょう。かのハンターは闇精魔法で多少感知できるとはいえ、人種に過ぎません。暗闇では目も見えず、獣人種ほどの嗅覚もない。それでもなお闇で覆ったということは、貴女たちの妨害こそを恐れたのでしょう」
そう言いながら、オーフィアは苦い思いでサレハドでの勇者ハヤトとの決闘、そして場外からの第三王女アリスの妨害を思い出していた。あの事件も多大に、蔵人の決闘方法に影響を及ぼしているといえた。
ダウィは言葉を探すが、見つからなかった。
月の女神の信仰に教典の類はなく、月の女神の神話と歴代の付き人の事案を踏まえて活動する。
それに従えば、確かにファンフの行いは許されない。オーフィアの言うとおりである。
だが、それではあまりに杓子定規で、ファンフが憐れではないか。
蔵人がヨビという女の仇討ちを手伝ったまではいいが、ガルーダ王と以後の不干渉を約束したせいでファンフは帰るべき一族を失った。飛雪豹などという高位魔獣を従えているのだからそんな約束をしなくて蔵人はも生きられるではないか。それにヨビという女への危害を恐れるならば、最後まで面倒を見るのが筋だ。
エスティアという娼婦にしても巻き込んでしまったことは可哀想ではあるが、仇に近づいたのだから本人の責任も多少なりともあろう。そもそも蔵人が仇持ちだと話していないほうが悪いのだ。
それにあの女がいなけばファンフは仇を討てたやもしれない。あの女が蔵人に依頼などしなければファンフとあのハンターが遭遇することもなかったはずだ。
ファンフが殺されてから、ダウィは次第にそう思うようになっていた。
実のところダウィは、エスティアと蔵人の詳しい関係性をオーフィアから配られた手元にある資料により知った。後付けの知識と当時の知識をまぜこぜにしてしまっているのだが、ファンフを実の妹のように思っていたダウィは都合よく記憶を改変してしまっていた。
擁護してくれる者を求めて、ダウィは周囲を見回すが、誰も何も言わない。厳しい視線を向けてくるだけであった。
ダウィは悔しさを滲ませて押し黙る。
そもそも紅蓮のエルフの異名をとり、二百年前の大戦時すら現役だった、事実上の月の女神の付き人の最高権力者であるオーフィアに誰が、何を言えるというのか。最初から出来レースではないか。
そこでようやく、アガサが口を開いた。
「――ファンフの暴走を止められなかったことは、おっしゃるとおり私の罪です。処分は謹んでお受けいたします。ですがダウィは、当時還俗しています。ですので、あの誓約書に縛られるいわれはありません」
ダウィは驚いたように前に座るアガサの背を見た。
確かに誓約書には『ファンフ及びファンフの関係者』までを誓約の対象にしている。
だがだからといって、関係者という意味をどこまでも拡大解釈できるわけではなく、その範囲はその誓約書を結んだ当人と誓約を知る組織ということになる。
極めて曖昧な部分であり、当時すでに関係者ではなかったと強弁することもできないわけではない。だが――。
「――そんなたわ言が、本気で通じるとお思いですか? 今回は幸いにも間に入ってくれる者がおり、被害を受けた当事者の関係者たちも涙を呑んで我々の名誉を守ってくださいました。それゆえに、こんなにのんびりと会合を開いていられるのです。それを本当に分かっているのですか?」
そもそもオーフィアは事件を公にする気でいた。見過ごしてきた月の女神の付き人たちの偏った意識を正し、一から組織を立て直そうと考えていた。その過程で蔵人の存在も公になってしまうが、それも致し方ない、と。
月の女神の付き人は問題を公にし、罰を受け、襟を正す。
それが、筋である。
その結果、蔵人が罪に問われることはないだろうが、そのの存在が公になってしまうのは防ぎようのないことであった。
それだけではなく、救える女の数も激減するだろう。
月の女神の付き人を妻浚いと苦々しく思っているサンドラ教やサンドラ教徒の多いミド大陸の国々、そして精霊教国レシハームがこぞって責め立て、入国禁止や各国にある分神殿の撤去を行うはずだ。
現在月の女神の付き人はケイグバード侵攻を非難しているためレシハームとの関係は悪く、サンドラ教とはそもそも信仰、いや神話の段階から微妙な関係にあった。
サンドラ教は太陽神サンドラを唯一神とし、苦々しく思いながらも月の女神を太陽神に従う月の天使としているが、月の女神の付き人は月の女神を『神』として信奉している。
一神教であるサンドラ教と多神教である月の女神の信仰。
本来であればサンドラ教が吸収もしくは排除・弾圧していてもおかしくはないのだが、その活動は黙認されている。一般人に流布する月の女神の信仰が太陽神サンドラを否定するような性質になかったことも一つの要因だが、もう一つ、両者に共通する神話にその理由があった。
太陽神に仕えるほぼ全ての天使が滅び、太陽神サンドラも魔王に身体の大半を封じられ、世界から光が失われようとしていた。
漆黒の炎や雷、風が暴れまわり、岩と氷が禍々しい姿で隆起し、水は赤く染まった。
黒衣の魔王に従う吸血鬼、骸骨騎士、闇精人、青肌羊角の悪魔、ドラゴン。さらに魔獣やアンデッドといった百万もの軍勢が地と空の果てまで埋め尽くそうとしていた。
世界が闇に覆い尽くされるのは時間の問題であった。
だが、夜天には煌々と輝く月が残っていた。
月の女神は太陽神の求婚も、魔王の求婚もばっさりと断り、逃げるように旅をしていた。
力の弱った太陽神では捕まえることは出来ず、太陽神のように戦うことなく逃げまわり続けるため魔王も手を焼いた。
魔王の闇から、月の女神が逃げるさまは、期せずして地上に月光をもたらし、光を失って絶望していたカ弱き人々を慰めた。
月の女神が逃げ回る間に、ほんの僅かな時間的猶予を得た太陽神は、残された力の全てを勇者ミドに与え、勇者に試練を課すことで魔王討伐を成し遂げさせた。
月の女神のお陰で民衆は絶望せず、時間を稼ぐことができたのだが、結局魔王との戦いに参加することのなかった月の女神に太陽神サンドラは不信を募らせる。
再びその身を捧げるように勧めるが、やはりあっさりと断る月の女神。
それでも、功績を考えれば処分するわけにもいかず、昼間だけ大地の鎖で繋ぐことで折り合いをつけた。
太陽神サンドラと月の天使の関係はそのまま今も続いていると伝えられていた。
サンドラ教と月の女神の付き人の複雑な因縁はここから始まり、現実的には辺境の魔獣討伐という利益と妻浚いという実害により、微妙な天秤の上にあった。
さらに、紅蓮のエルフといわれるオーフィアが女官長となって二百五十年以上経過し、その影響力と力は歴代と比べても過去最高のものとなっていた。そこに時代の変遷期も重なって、新しい時代の風潮に合致しつつある月の女神の思想は、サンドラ教を警戒させていた。
何かあれば、月の女神の付き人の信用を失墜させようとすら考えているはずである。
予想もしなかったアキカワという勇者の思惑に乗る形で、今回は事態を強引におさめてしまったが、それは問題を後回しにしかねない劇薬でもある。オーフィアとしては今後このようなことが起こらないように、組織の規律を締めていかねばならなかった。これには他の女官長も危機感を持って、同意した。
「――それはオーフィア筆頭女官長の私的な感情ではありませんか? 貴女は当事者であるクランドというハンターと懇意にしており、深緑の環を授けています。今回も誓約書の件とは別に詫び金を支払っています。私情ではないと言い切れますか?」
アガサの言葉に事情に疎い女官長や女官長補佐がオーフィアを見るが、筆頭女官長は微塵も揺るがない。
「まず、前例のないことではありません。過去に二例、今回を含めて三例目となります」
これにはアガサやダウィ、他の女官長たちも驚いた。
「といっても一番近いものですら三百年以上前のことで、私がここに入ったときの筆頭女官長に聞いた話です。確か、書庫に当時の日誌が残っていたはずです」
女官長には報告書兼日誌を残しておく義務があった。
「それにも書かれていますが、男性への深緑の環の貸与は極めて限定的な状況でのみ許されます。対象者の性質に問題がなく、月の女神の付き人に貢献があり、かつ対象者が救われるべき場合です」
「かのハンターは男で、我らの行動理念と反する気がしますが……」
ある女官長が挙手し、疑問を投げかける。
「月の女神は男も救っていますよ。女と比べると酷く厳しい条件で、その数も片手の指で足りるほどですが。現実的に、女を保護する場合は近くの村か街で生計を立てられるようにするか、付き人となるか、いくつか方法があります。しかし男性の場合は、付き人となることはできません。さらに近くの村や街で受け入れられなかったり、対象者が共同体に戻ることを望まない場合があります。その場合において、条件を満たすことで深緑の環を貸与することができます。というより、それしかその男を救う術がない、ということでしょう」
「まだ詳しく報告書を読んでいないのですが、クランドというハンターはどのような貢献を?」
「かのハンターは魔獣災害により自らの一族を失ったにも関わらず、濡れ衣を着せられた勇者アカリ・フジシロの救出に多大な貢献をし、怪物の襲撃では自らの信条を曲げて付き人たちと共闘しました。アカリさんを匿うだけではなく住居の提供、武器や食料の供与、協会支部の不正摘発への協力を行ってくれました。人との関わり合いを避け、隠棲していたにも関わらずです。それほどの貢献があった者を男だから、という理由で見捨てますか?」
オーフィアの答えに質問した女官長は納得するが、アガサが問う。
「しかし、性質に問題がありませんか? 無礼で不躾で、他者の立場を重んじることはなく、情け容赦がない」
「女神とてある側面からみれば情け容赦はないですし、個人的にクランドさんを知る者の立場から言うならば、良くも悪くもあの人は鏡です。もしあの人のことが無礼で不躾、思いやりがなく情け容赦がないと感じたなら、それは貴女がクランドさんに対してそう接したためでしょう。悪意には悪意を、善意には善意を、そういう人です」
「それは女神に対して不埒な事をしようとしたり、卑怯な行いをしたからでしょう。そんな輩と同じにされたくはありません」
「女を保護するために決闘を妨害すること自体は否定はしませんが、決闘の妨害というものは一般的に卑劣といわれる行いです。私も他の女官長もそれを自覚しつつ、やむをえない場合においてのみ妨害を行っているはずです。貴女はそんなことも分からなくなりましたか?」
「それは――」
「それにかのハンターが苛烈なのは、必死に生きているからです。ハンターとして最低限の身分は得ることはできましたが、各国での流民出身者の扱いはよく知っているかと思います。私も最近は老眼などに悩まされていますが、貴女の目は老眼どころか何も見えなくなってしまったようですね。昔とて強引なところはありましたが、多少なりとも男性へ思いやりもあったでしょうに。でなければ、少女を男性であるジョゼフ殿に預けはしないはずです」
アガサは思うところがあったのか、それ以上は食い下がらなかった。
「処分に異論がある者はいますか?」
オーフィアが他の女官長たちを見まわし、異論がないことを確かめた。
「一つ、忘れていました。深緑の環の剥奪については咎める気はありません。女官長の権限として認められていますから。しかしそれゆえに私も、再びかのハンターと出会い、以前のままであるならば深緑の環を授けるでしょう。だからといって遠慮など必要ありません。出会ったなら、各々で見極めてください。深緑の環に相応しいかどうかを。それについて罰する気はありません」
オーフィアは再び周囲を見回し、ダウィの不満そうな顔を無視して命じた。
「ではアガサ・イゼットとダウィの両名を即刻、『影月の間』へ。他の隊員については各隊に割り振ります。しばらくは戒めとして二番隊は空席と致します」
オーフィアが命じると、満月の間の外に待機していた月の女神の付き人たちが二人を連行していった。
一人欠けた円卓を見つめるオーフィア。一度どこかに想いを馳せるように瞑目してから、告げた。
「――それでは今回の事案を鑑み、いくつか改善を行います。まず、任地での活動を最大でも十年と致します。もちろん場所は考慮しますが、単一種族の多い地域での長い活動は知らず知らずの内に思想に偏りを生みます。付き人である以上、偏った種族意識はあってはならないものです」
アガサは長くミド大陸の白系人種勢力圏で活動を行ってきた。それによりコネクションなども増えたかわりに、白系人種の持つ人種以外への差別意識と戦い続けることとなり、人種への偏見を持つに至った。オーフィアはそれを問題視したのだった。
「言い方は悪いですが、今が良い機会です。思うところがあればどんどん提案してください」
一つ、二つと手が上がり始めると、議論は過熱した。
夜は更け、日を跨いでなお女たちの会合は続く。
「――次にサウラン砂漠横断の要請がアルバウムからアカリ・フジシロの元へ来ています。アカリさんが参加することを決めた場合、基本的には所属する一番隊と現在レシハーム周辺にいる十二番隊が対応していくことになります。それに伴いインステカで発生した魔獣災害の復興を……」
結局、会合は払暁まで続いたとか。
幾夜かを経て、隠れ月から産ぶ月に変わろうとしていた。
本神殿の中では付き人たちが、月の女神の死と生誕の儀式を行っている。
だがオーフィアは本神殿の外、正確には二階バルコニー部分で溜め息をついていた。
予想はしていた。だからこうして備えていたわけだが、それでも気が滅入った。
オーフィアの視線の先に、ダウィがいた。
ちょうど神殿から抜け出したところである。
頭上から、声をかけた。
「――愚かですね。貴女も手引きした者も、そして行き過ぎた男性蔑視を放置した私も」
ダウィは驚きつつも、飛び退いてオーフィアを睨みつける。
「――権力に縋りつく老エルフほどみっともないものはないな。政治と称して男に媚びを売るしかできないのだから」
「老いたというのは同感です。付き人たちの男性蔑視がここまで行き過ぎていたことに気づかなかったのですから」
「分かったようなことをっ。私は、ファンフの無念を晴らさねばならんのだっ」
ダウィは背中に吊るしてあった大振りの曲刀を抜き放ち、大地を蹴った。
「……貴女は確か、元奴隷でしたね。両親を奪い、奴隷として生きることを強制した人種への憎悪が、少女の家族さらには少女自身を奪ったクランドさんへの筋違いの報復感情を抱かせた。同じ鳥人種という近縁種への親近感から少女と己の境遇を重ねてしまった、というところでしょうか」
まさしく飛ぶようにバルコニーへと迫るダウィに、オーフィアは持っていた古木の杖を構えた。
「――分かったようなことをぉぉぉぉっぉぉぉぉっ!」
ダウィとて三つ星とまではいかないが、四つ星のハンターである。いかに紅蓮のエルフと謳われるオーフィアとて後衛の魔法士に過ぎず、この距離ならば遅れをとるはずもない。
肩がけにした大振りの曲刀を猛然と振り下ろすダウィ。
交錯の瞬間、ダウィの曲刀は確かにオーフィアを袈裟がけに切り裂いた、はずだった。
だが目の前に、ぶわりと赤い焔が立ち昇る。
ダウィは精霊の動きなど微塵も感じとれなかった。
なのに、燃えていた。
「――ギャァアアアアアアアアアアアアアアッ」
ダウィの絶叫が月が消えゆく夜に響き渡る。
熱い。
痛い。
ダウィは曲刀も捨てて、羽ばたいた。ダウィが使える精霊魔法は風精と光精。全身に纏わりつき、燃え続ける炎を消すほどの精霊魔法はない。その場から逃げ出すように、水場を求めるように飛ぶしかできなかった。
全身を炎に包まれたダウィが空高く闇夜へと飛んでいくが、やがて炎がその命を奪う。
ダウィはかくんと力を失い、闇深き森の中へと墜落していった。
オーフィアはダウィの最期がまるで月の女神に救いを求めるかのようにも見え、消えゆく月に黙祷を捧げた。
「――これもまた女官長の役目です。許せないならば、去りなさい」
森の影から、アカリとマーニャが姿を見せた。
二人はオーフィアに言われ、全てを見届けた。そして改めて進退を決めろと告げられた。
これが、月の女神の付き人の暗部である。そしてそれは全ての女官長にのみ許されている最終手段であった。
ダウィを見逃せば、かならず蔵人を害する。
ゆえにオーフィアは決断した。そして次代を紡ぐ二人には、真実を見せておきたかった。
「うちはここのみんなを家族と思ってるにゃ。でも家族だって叱られるにゃ。罪を犯したら裁かれるにゃ」 マーニャははっきりとそう答えた。
「……私は、人を殺したくありません。絶対に。でも、そうしないと大事な人が殺されてしまうなら、私はきっと殺してしまうと思います。ですが、今の私にはオーフィア様を裁く基準も、二番隊の行いの正邪を判断する基準も持っていません。ですから……えっと、これからしっかりと見て、あっ、何を言ってるか分かりませんよね? ご、ごめんなさい」
わたわたと頭を下げるアカリを見て、オーフィアは微笑んだ。
「――かまいませんよ。しっかりと見定めて、見極めて、心を養ってください。私は貴女の判断を尊重します」
「オーフィア様……」
「――ただし、そのためには修行あるのみですよ?」
「――え゛っ」
「――にゃ゛っ」
アカリとマーニャの驚きが重なる。
「明日は産ぶ月です。新年の回峰行が待ってますよ。今年は特別に山を二つほど超えてみましょうか」
悲鳴が上がった。
「いやにゃ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! あ、アカリのせいだにゃ、余計なことを」
「な、な、何言ってるんですか。女神の生誕から成長を模した回峰行は毎年やってることですっ。マーニャがやりたくないだけじゃないですか」
「そ、そ、そ、そんなことないにゃ。アカリのほうが体力ないから嫌なはずにゃ」
「か、か、勝手に解釈しないでくださいっ。マーニャはいっつも昼ね――」
「――っなにを言ってるにゃっ、それは秘密だっていったにゃ、うそつきにゃ」
そんな二人の言い争いをオーフィアは楽しげに見つめていた。
一方、処分を受け入れたアガサは終生神殿で祈り続けた。
決まりにより、一度の食事の差し入れがある以外、誰と話すこともなく祈り続け、看取られることもなく、死んだ。千年祈月行を始めてから十年後のことで、その亡骸は丁重に葬られ、月の女神の元に送られた。
アガサはミド大陸において違法奴隷を救出し、生きる術を仕込み、導いてきた。旧貴族や商人の横暴、村の因習に苦しむ女たちを救ってきた。
敵対する相手はほとんどが人種の男であった。
冷淡ともいえる判断は厳しい世を生きるがゆえの割り切り。エスティアがファンフに殺されてなおファンフを庇ったのは生者を優先した結果。蔵人への偏見は月の女神の付き人として生きた長い闘争の歴史ゆえであった。
だがそれでも、アガサは死ぬまで蔵人に悪いことをしたなどとは微塵も思っていなかった。
強い力を持つならば、弱者を救うべきだと考えていた。
だが巻き込んでしまったエスティアには申し訳ないことをしたと悔いていた。
処分を受け入れたのも、それが理由であった。
アガサは救えなかった少女と己の失態により死んでしまったエスティア、さらにいままで救えなかった女たちに祈りを捧げ続けた。
二つの命が失われた日を境にジョゼフは剣を置き、死の前日までバルティスに通って、名もなき墓標に祈り、詫び続けたという。
ジョゼフ・バスターは傭兵として激動の時代を駆け抜け、剣聖と呼ばれるまでになった。
前半生が傭兵、後半生が探索者である。
精霊魔法が発見され、百余年。ジョゼフの全盛期は激動の時代であった。傭兵として生きた者で共に生き残っているものは片手の指で足りる程度しかいない。
戦友はジョゼフに心と技を残して死んでいった。
弟子を取らなかったのは、彼らの技を託すに足る才能がいなかったから。
弟子を取ったのは、彼らの技を託すに足る才能を見つけたからだった。
だが、失った。
己のせいで、失ったのだ。
あの日以降も人はジョゼフを剣聖と讃えたが、讃えられれば讃えられるほど苦しかった。
傭兵として、探索者として生きた彼にとって、傷の痛みはこらえることができた。だが、悔やんでも悔やみきれないあの雪の夜のことは、いつまでも心に突き刺さり、剣聖と呼ばれるたびに痛んだ。
魔剣を殴り折ったあのハンターの叫びも、昨日のことのように思い出された。
ファンフを救うと大言を吐き、名声をちらつかせて決闘を妨害した。
だが結果は、その名声こそがファンフ、そしてエスティアという女を殺すことになってしまった。
誰もが称えるその名声がエスティアを殺したのだ。
あのハンターはそう言いたくて、名声の象徴である魔剣を折ったに違いなかった。
すでに事の真相を知るものはマルノヴァにいない。
バルティスの者たちは苦渋の決断で無言を貫いていた。
ジョゼフがバルティスを行くと無数の視線に晒された。だがそれはジョゼフを責めるものばかりではない。真実に口を噤んだ罪悪感や後悔も入り混じっていた。
誰もジョゼフの罪を断罪しなかった。
だがそれこそが、ジョゼフにとって苦しかった。
それでも死ぬこともできない。戦場で死んでいった戦友たちに申し訳が立たない。
ジョゼフに出来ることは生きている限り、侘び、弔い続けることだけであった。
少女と女の、名もなき墓標に。
「相変わらずすごい人ね。まったく、外に出ることもできやしない」
エリカが緩くウェーブした髪を指でいじりながら不満を口にするが、その表情はまんざらでもなさそうであった。
ハヤトたち『暁の翼』はアルバウム王国とエルロドリアナ連合王国の間にある小国群の一国であるポラン共和国の小さな宿屋にいた。
エリカが視線を向ける宿の下には、ハヤトたちを称える市民で溢れかえっている。
「なんだかんだでどうにかなったが、独裁者側にしろレジスタンス側にしろ、死んだのはこの国の人たちだ。あまり嬉しそうな顔をするな」
「……分かってる。いっぱい、死んじゃった。あのおじいさんも、あの男の人も」
エリカのしんみりした言葉に、カエデやアリス、フォンが何かを思い出すような顔をした。
ハヤトは慰めるようにエリカの頭を撫でてやる。
くすぐったそうな顔をするが、嫌がりはしない。
アリスがそれを見て羨ましそうに近づいてきて、ハヤトは苦笑しながらも撫でてやった。
ポラン共和国は独裁政権による激しい弾圧が続いており、ミド大陸の安定を望むアルバウムにとっては目下の悩みごとであった。
密かにポランの民主化組織と接触し、独裁政権を倒してくれないかとアルバウム上層部に頼まれたハヤトであったが、情報の乏しい中でアルバウムの云う事のみを鵜呑みには出来なかった。
だがアルバウムとの関係維持のためには完全に断ることも難しく、独裁政権が放置し荒れ放題であるポランの田舎を回る魔獣退治のみを受けることにした。
だが、そこで見たのは精霊教徒、もしくは精霊の民と呼ばれる者たちへの虐殺であった。
独裁政権は自らが招いた社会的不安をなすりつけるように精霊教徒排斥運動へと誘導し、農民や市民を煽っていた。政策として精霊教徒の排斥を合法化し、密告を奨励した。村にスパイを送り込み、率先して煽り、虐殺の口火を真っ先に切った。
精霊の民はミド大陸において長い間迫害されており、小人種と同じく国を持たぬ民であった。
精霊を感知できるのがエルフだけであった時代から、精霊とそれを統べる精霊神なるものを信仰していた。人種にも関わらず、エルフの信じる精霊を奉じる異端者たちをサンドラ教徒たちは不気味がったのだ。その独特の宗教意識や決して国家に従属しない姿勢は、次第に差別へと転じた。
精霊の民も迫害が酷くなるたびに国を転々とし、記録の真偽が怪しい伝説的な歴史を除くと精霊教国レシハームが建国されるまでは一度も国を持ったことがなかった。
そんな虐殺を見てしまえば、ハヤトとしては動かずにはいられなかった。対症療法では虐殺はなくせない。独裁政権を倒すしかなかった。
アルバウムの手の平で転がされるのは癪であったが、目の前で虐殺される者を見過ごせるわけもない。
やると決めれば、時間をかけてはいられない。時間をかければかけるほど、人は死んでいく。
ハヤトは勇者と教会の威光を用いて強引に首を突っ込み、アルバウムの力をも利用し、民主化組織と共闘して独裁者を打倒したのだった。
そんなわけで、ここ数日は窓の下からハヤトらを讃える、弾圧されていた民衆の声が途切れなかった。
「――あれは……」
ハヤトは死んだ者たちの面影がちかついて窓の外の民衆から目を逸らすが、空から何かが飛んでくるのを見つけた。それは一直線に窓へと向かってくる。
「――キャッ」
ハヤトはエリカを押しのけ、窓を開け放つ。
窓下から歓声が上がるが、それを無視し、飛来物を受け止めて即座に窓を閉めた。
――くくるっぷぅーっ
弾道鳩のコメットであった。
魔獣使いが訓練がてら街にいた無害な魔鳥に片っ端から加護を用いた結果、偶然発見した新種の魔鳥で、一見するとただの白い鳩でしかない。しかしその飛行方法は独特で、大気圏外近くまで飛び上がりそこから大陸、いやおそらくはエリプス全域を超長距離を高速飛行することができた。さらに帰巣本能も強く、最近では緊急時の伝書鳩のように使っていた。
ハヤトはコメットを撫でながら朝食のパンをやり、足についた手紙を外す。
「……リュージが死んだ」
一心不乱にパンを啄むコメットを可愛がっていたエリカやアリス、なにやら武術談義をしていたフォンとカエデは驚いてハヤトを見た。
「……そんな」
「あいつが……。殺しても死なないような奴だったんだがな」
リュージの行き過ぎた捜査に何度かハヤトが抑えに向かい、『暁の翼』もそれに参加したことがあった。
「怪盗スケルトン対策で現地にいたアキカワ先生が確認したらしい。深追いし過ぎたんだろう」
怪盗スケルトンとやり合ったこともある。ハヤトも全力で戦えたわけではないが、怪盗スケルトンも殺戮が目的ではないようで、ある意味では見逃されたともいえた。
「……怪盗、スケルトン」
カエデもあの硬い身体に剣が効かず、あっさりと見逃されたことがあり、借りを返そうと修練を積んでいた。
しかし、ハヤトたちの胸中を占めていたのは別の感情であった。リュージに対する反感、怪盗スケルトンへの対抗心や反発心を二の次にするほどの衝撃は、死であった。
召喚者の中で、初めての死者である。
行方不明者などもいるが、はっきりとした死者は初めてだった。
昨日まで内乱のただ中にいたハヤトたち召喚者組にとって、死は想起しやすかった。
明日は我が身。
そんな当たり前のことが、強い切迫感を伴ってハヤトたちにのしかかっていた。
「とっとと戻るぞ。そろそろサウラン横断の準備もある」
のんびりとはしていられない。
すぐにアルバウムへ戻り、他の召喚者たちと緊急ミーティングをしなくてはならない。アルバウムからサウラン大陸の横断も依頼されていた。
気が滅入ることばかりだが、まったく収穫がなかったというわけでもない。
ハヤトは部屋の片隅でひっそりと立つローブを着込んだ女を見た。
勇者、いや召喚者たちの光明になるかもしれない女であった。
リュージの死は、海を超えてレシハームにも届いていた。
ミド大陸では冬といってもいい季節であるが、サウラン大陸にある精霊教国レシハームは灼熱の外気が多少なりとも緩和され、一年の中で一番過ごしやすい時期を迎えていた。
そんなレシハームの中心都市にある館の一室に、二人の勇者がいた。
一人は男性で髪は長く、柔和な顔つきをしている。
レシハームに招かれた勇者の一人、『精霊召喚』のトール・ハギリ。日本名を羽切亨というのだが、こちらの世界に来てからはトール、トールと呼ばれており、面倒なのでトールで通すようになっていた。
もう一人は丸眼鏡の女で、ユキコ・アカガワ。日本名で赤川雪子という大人しそうな印象の女である。
召喚当時二人は二年生であった。
トールが見ているのは一枚の絵であった。
ユキコは机の上に所狭しと置かれた、見たこともない珍品に目を丸くしていた。これはトールが商人の多い精霊の民に依頼して世界中から集めさせたものである。
精霊召喚を行えるトールは精霊教を国教とするレシハームにとって象徴的な存在であり、多少の我儘は聞いてもらえる立場にいた。最も、政治的に取り込もうとする輩や昼夜を問わず襲来するハニートラップのことを考えれば、対価としては少なすぎるともいえるのだが。
「――宝の持ち腐れか。優れた加護も使い手があれではね」
「何か、ありましたか?」
トールが呟くと、ユキコが問い返した。
「ついさっき、リュージが死んだよ」
それを聞くと、ユキコの表情が真っ青になった。苦手な人であったが、死んだという事実は気弱なユキコにとって衝撃的だった。
実のところ、召喚者の中で最も早くリュージの死を知ったのはトールであった。
自律魔法『死者の描く絵』。
これは密かにリュージにかけておいた自律魔法で、死んだ直後の状況を一枚絵のように確認できるというもである。これによって、トールはいち早くリュージの死に気づいたのであった。
この自律魔法はユキコが、日本語を用いて、開発したものである。
自律魔法は膨大な試行錯誤を必要とするが、言語の違いだけで同じような魔法式も存在する。
ならば、日本語でも作れるのではないか、トールはそう考え、実行した。
だが未開発分野である日本語とはいえ、膨大な思考錯誤はやはり必要であり、それを大幅に短縮したのは『役立たず』の烙印を押されたユキコだった。
トールはこの国に招待される条件として、アルバウムに残しておけば見捨てられるような召喚者の何名かを引き抜いた。
その一人が『暗算』の加護を持つユキコであった。
文字どおり、計算機のような速度で暗算することができるというだけの加護である。もちろん経理など他分野に力を発揮するのだが、いかんせんこの程度の力では普通の人間でも多少の手間をかければできることである。
結果、一部の召喚者たちからも『ソロバン』と侮られ、アルバウムも重要視しなかった。
だがトールが考えるに加護は全て有用なものだ。そんな計算機がわり程度の能力であるはずがない。それはトール自身が良く分かっていた。
レシハームに到着したトールはすぐにユキコと相談し、意思疎通が下手で自己評価の極端に低いユキコと根気強く付き合い、その力を引き出すことに成功した。
それは『計算機』、ましてや『ソロバン』なんてレベルではなく、『スーパーコンピューター』といっても過言ではない演算能力を発揮した。
ユキコはトールの提案で日本語の自律魔法の開発に取り掛かり、膨大な思考錯誤を加護でこなし、見事に日本語の自律魔法を作り上げた。
とはいえ、能力はスパコン並みでも本体は人間でしかないわけで、開発出来たのが目的の効果を発揮しなかったり、ユキコの体力が尽きたりと、目的の魔法は開発出来ていなかった。『死者の描く絵』はその副産物に過ぎない。
トールの目的は一つだけ。
日本に帰ること。
せめて、ユキコや双子たちだけでも帰してやりたかった。
「……やはり、用務員さんも来てたようだね」
「えっ、そうなんですか?」
リュージが天井のない商会で怪盗スケルトンと対峙し、死んだとき、傍にはリュージの配下と蔵人とおぼしき姿が小さく描かれていた。
トールは机の上に乗せられた珍品の中の、ある品を手に取る。
「これは作業着だ。当然、この世界にはない」
あっとユキコは驚く。ただのぼろきれにしか見えなかったが、よく見れば確かに作業着の上着であった。
トールは召喚された当時から用務員さんの存在すら知らなかったが、日本へ帰る手段がありはしないかと珍しい品を商人に頼んだのだが、その中に偶然作業着を見つけ、蔵人の存在を予測していた。
それが、死者の描く絵により、確定した。
「ど、どうしましょう。た、助けたほうがいいのではないでしょうか?」
ようやく意思疎通が出来るようになってきたユキコが、心配そうな顔をした。ユキコもこの世界に蔵人が召喚されていることは知らなかったが、用務員である蔵人とは挨拶をしたり、図書室に籠り過ぎて下校時間を過ぎてしまったときに一言二言、話したことがあった。言葉は少ないが、優しい人だと感じていた。
「……この件は決して誰にも話さないでほしい。それが用務員さんのためであり、僕たちのためでもある」
トールがそう言うなら、ユキコに異論はない。
しばらく思考を巡らしていたトールだったが話を切り上げ、話題をかえた。
「サウラン砂漠横断の話は聞いてるかい?」
ユキコは頷く。
トールはレシハームの上層部に直接打診され、一応受ける気でいた。未開の地に帰還の魔法具や魔法式があるかもしれない。
おそらくは、北部の連中もハヤトを使ってやろうとするはずだ。
問題はいくつかある。
北部列強やレシハームの目的はその土地の権利である。当然勇者だけで横断させるわけもない。
権利などどうでもいいが、もしも帰還方法が見つかったときが問題である。
偶然とはいえ召喚は行われ、トールたちが召喚された。そしてそこに送還方法まで見つかってしまうと、エリプス側が地球にいつでも来られるようになってしまう可能性があった。秘密にしていればすむことなのだが、秘密が漏れないという保障はない。
それにサウラン砂漠の先に現地民がいないとは限らない。あまりにも過酷な環境であるため人種に類する存在はいないとされているが、存在したとわかったときに考えるのでは遅すぎる。
未だ植民地が残り、骨人種を人と認めない世界である。どうなるかは、想像に難くない。
「まあしかし、今はそこまで考えても仕方ない。まず当面は、掃除だな」
「……掃除?」
「あまり愚かではないことを祈るよ」
トールは時折よくわからないことを言うが、ユキコにとってそれは他の人も似たようなもので気にならなかった。
「……結局のところ、己の信じる道を行くしかない、か」
善も悪も無い。
食うか、食われるかである。
この世界に来てからは、こんなことばかりだったが、それが現実である。
嘆くだけでは、道は開かれないのだから。