煙草盆の縁
1.
「ほら、煙草はやめなさいってば」
「煙草の一服くらい吸わせてくんない。 ……こちとら、手前さんで働いた銭で買ってんだ。
四の五の言われる筋合いじゃあねえ」
「問答無用!」
何かの手品でもつかったかのように、手に持った煙草がすぱりと消えた。
次の瞬間、それは哀れにも真ん中からへし折られ、ゴミ箱の中に出現する。
「あ……! それ、貰い物のダビドフ……!」
ひと箱1,200円という高価な紙巻煙草をへし折られ、彼はさすがにカチンときて怒鳴った。
「おい! なんつうことをしておくれだい! そいつぁ、一服五十五円の……!」
「黙りなさい!」
帰ってきたのは彼に倍する怒鳴り声だ。
だが、どこかでこの状況を面白がっているのか、柳のような彼女の目の端が、少しだけ笑みを湛えている。
「……ったく、いくら古い家だからって、年がら年中煙草を吸っちゃ煙を吐いて!」
「……だけどこの家は俺の給料で……」
「あと江戸弁禁止! 田舎者がやっても恥をかくだけよ」
「……はい」
先祖を辿れば秋田だが、幕末の頃からの江戸っ子である彼女ーー彼の妻、美咲は、それこそ生粋の東京人にしか話せない、滑舌の良い東京弁でまくし立てた。
「あのね、世間様じゃ禁煙がルールなのに、懲りもせずに暇があればすぱすぱすぱすぱ。あんたの頭の中は明治時代で止まってるんじゃないの?
少しは家の美化に協力してくれたらどうなの? 大体ね……!」
(ああ、こいつは長くなるな)
神妙に顔を下に向け、正座して彼――鈴木雄一は新妻の説教を聴いているが、項垂れているのは何も妻の機嫌を損ねたからではない。
残り一本の大事なダビドフ・マグナム。
葉巻屋のダビドフが満を持して作り上げた究極の紙巻煙草を一本、お釈迦にしてしまったからだ。
(ああ……すまねぇ、すまねぇ、俺はなんて無駄なことを……)
夫がそんなことを思っているとも露知らず、妻の説教はその後、3時間近く続いた。
ここは、門前仲町の古ぼけたアパート。
鈴木雄一は、妻とともに先日、家賃月五万五千円という破格の安さでここを借りたばかりであった。
だが、新婚の甘い気分など欠片もない。
妻の美咲とは既に付き合って十年近くであり、いまさら互いを見て恥らうような浅い関係でもないし
そもそも雄一にはいくつかの悪癖があった。
その最たるものが、中毒に近いほどの煙草好きということだ。
美咲にしてみれば、付き合っている間は我慢できても、一つ屋根の下に暮らすとなれば許しがたい。
折しも嫌煙ブームである。
友人、同僚、近所の医者までも味方につけ、あの手この手で彼女は夫の喫煙癖を止めさせようと躍起になっていた。
だが、やめろやめろといわれれば余計に吸いたくなるのもまた道理というべきもので、
その日も黙って3時間の説教に耐えた後、雄一は土曜日の午後にさっさと家を逃げ出したのだった。
*
「やれやれ」
雄一は駅の近くの灰皿に行き、手元でシュボ、と火をつけた。
含んだ紫煙はダビドフほどのふくよかさはないが、それでも少々の満足は出来る。
「……親の副流煙で燻されて育った俺が五体満足で生きてるんだから、何ほどのことでもねぇでしょうよ。
大体、排気ガスで体壊した野郎はとんとみねぇが、煙草の煙でくたばった奴もこれまた、いねぇ。
要はにおい、女の香水みてぇなもんでしょうが」
ひとしきり、誰も聞いていない愚痴をしゃべったところで、ふと雄一は周囲にやけに和服の人間が多いことに気がついた。
「……祭かい」
家に戻るのもくさくさする。
彼は飛び出してきたときの粗末なシャツにジーンズという格好のまま、煙草をもみ消すと人ごみの中にふらふらと混ざっていった。
富岡八幡宮は、江戸のはじめ、長盛法師の建立により創立したそうな。
八幡神――応神天皇を祭神とし、江戸時代は徳川家の崇敬厚く、深川の砂州を埋め立てた社域は見渡す限りに広かったという。
今は工場と住宅のコンクリートに埋め込まれたような元八幡――富賀岡八幡宮と違い、ここはいまだ江戸の昔を髣髴とさせるそこはかとない情緒がかすかに残っていた。
「へぇ、古物市か」
ぶらりぶらりと境内を回りながら、雄一は地面に茣蓙やビニールシートを張って売っているものを気の向くまま見物していた。
雄一がたどり着いた富岡八幡宮で催されていたのは祭ではなかった。
骨董市――その日は普通のフリーマーケットもやっていたから、古物市といったほうが適切だろう――だったのだ。
だがさすがに土地柄か、古本や子供服といったものの中に、古銭や着流し、衣文掛けといった昔の道具が売られている。
中にはどうやって保存したのか、火縄銃を売っている老爺すらいた。
(どうやって持ち込んだんだ、あれ?)
周囲の人だかりに向けて射撃方法を教えている老人を尻目に、また歩く。
雄一がそれを見つけたのは、境内もかなり外れ、さすがに客の影もない、ある木陰でのことだった。
そこは、お世辞にも魅力的な露店ではなかった。
小さな茣蓙の上にいくつかの古道具を並べ、奥で一人の老婆がぽつねんと座っている。
蝉しぐれが振り込めるような、熱気にあふれた神社の中で、そこだけは不思議と静謐な空気があたりを支配しているかのようであった。
客は、ない。
サービスででもあろうものか、小さな魔法瓶に『冷えて枡』と書かれて貼られた紙が、夏風にぱたぱたと揺れていた。
老婆は顔を俯かせ、汗がたらりたらりと皺の寄った顔から滴り落ちている。
そんな光景に、ふと雄一はその店を見物する気になった。
「……いらっしゃい」
元気のない声に迎えられ、雄一は雑多に置かれた売り物を手に取る。
古い茶碗。 瀬戸物だろうか。土臭い色合いが風味をかもし出しているが、雑器だ。
同じく古ぼけたトースター。 コンセントは三つ足だった。これでは使えなかろう。
他にもいろいろとあったが、どれも目を引くようなものではない。
もう少し人のいる辺りに行くか、あるいは江戸風の道具を前に出すかすれば客も寄ってくるのだろうが、目の前の老婆にはそのような元気もないようだった。
それぞれに貼られた値札にも、まともな商売をする気は感じられない。
(……ん)
その時ふと。
並べられた商品たちの向こうから小さく除く箱に、雄一は目を留めた。
「!!」
それまで気だるげだった彼の目が不意に見開かれ、ふらふらと茣蓙に近づくとひざを突いてにじり寄る。
老婆が不審そうな目をするのもかまわず、彼は商品たちの中からそれを引っ張り出すと、ためすすがめつ眺めた。
それは、煙草盆だった。
いわゆる江戸のころの喫煙具、いうなれば古民具だ。
屋根のない木の箱の中に、炭を入れて火をつけるライター代わりの火入れ、吸い終わった煙管の灰を落とす灰落とし、一見して茶壷にも見える煙草入れがセットになって載せられている。
江戸時代、紙巻煙草のない江戸の人々は、これで煙管――煙草を思うさま楽しんだのだ。
今は絶えて久しいが、当時は旅行用に帯に結べるようなものや、当時の旅行道具として必須だった枕と一体化したようなものもあったという。
また、将軍家や大名、大商人の持ち物ともなれば、自然石や銘木を彫り抜き、金銀や玉で飾ったものもあったというのだから、日本人の凝り性も半端なものではない。
雄一の目の前に現れたそれは、そこまで変わった、あるいは豪華なものではなかったけれども、煙管が文化としてはほとんど絶滅した時代にあって、奇跡的なほどに状態を保っていた。
「おばあちゃん、これいくら?」
「……一万円」
高い。
思わずうめく。
一万円もあれば、買えるものはいくらでもある。
煙草道具に一万円も散財したことを妻が知れば、離婚も覚悟せねばならなかった。
だが。
雄一は良くも悪くも、即断即決する男だった。
「よし、買った!」
「……毎度あり」
差し出された手に触れた奇妙な感触に老婆が目を開けてみれば、そこにあったのは紙ではない。
妙に構えた顔の目の前の客が映った白いカード――運転免許証だった。
「何です、これ」
「ごめん、おばあちゃん、今手持ちが五千円しかないんだ。
すぐひとっ走りして戻ってくるから、それまで少し待っちゃぁくれまいか」
滅茶苦茶な話である。
日は既に午後も遅く、後しばらくすれば市は閉まってしまうだろう。
そもそも、古物市とは、今ある銭で好きなものを買っていくのがルールだ。
金を持ってくるから待ってくれ、とは朝も早くの客が言うせりふであって、烏が啼く時分の客の台詞ではない。
だが、両手で伏し拝む雄一に、ひとつため息をついて老婆は頷いた。
「私は、まだ仏さんじゃございませんよ。お早く」
その言葉に、雄一が最近浮腫んできたような体を勢いよく翻す。
家族連れを避け、カップルの間を潜り抜けながら、雄一は走った。
もちろん、先のことなど何も考えず。
2.
(ああ……馬鹿な約束をしちまったもんだ。 煙草盆なんて、美咲が許してくれるわけもあるまいに)
家に向かう道筋を歩きながら、雄一は早くも後悔していた。
何しろ煙草嫌いの妻に、『煙草道具を一万円で買ってくれ』である。
雄一は必死に考える。
プラン1。これは喫煙具ではないと騙す。 ……駄目だ。絶対にばれる。
プラン2。こっそり買って外で吸う。 ……無理だ。そもそもあの煙草盆は屋外用ではないし、隠すところもない。
プラン3。真実を話す。 ……一言で断られるのが目に見えていた。 場合によったらくすぐられるか泣かれるか。
夫婦の仲が裂かれては、あの煙草盆も、大事に扱ってきたかつての持ち主たちも浮かばれまい。
「あら、あんた」
そんな彼は、横合いから聞こえてきた声に思わず飛び上がった。
「み、みさ、みさき?」
そこには買い物に行く途中なのか、エコバッグを小脇に抱えた妻が立っている。
不思議そうな彼女は、不意に子悪魔のようなにやりとした笑いで囁いた。
「なに? 煙草を吸っていた自分を恥じて、ジョギングでもしてるわけ?」
「え、ああ、いや、その」
雄一の頭の中のシミュレーションが音もなく崩れ去っていく。
彼には、音を立てて自身の頭の回転が鈍くなっていくのがわかった。
そんな夫を、珍獣を見るような目で美咲はじっと眺めている。
「なに? なにかまた後ろ暗いことでもしてるわけ?」
そういえば、妻の先祖にイタコがいたという話を聞いたことがある。
彼女は霊能力は受け継がなかったが、人の顔を読む察しのよさは譲られていたようであった。
(ええい、ままよ)
雄一は、自分でも思っても見なかった行動に出た。
すばやくステップを利かせて妻を自分と塀――ここは歩道だ――の間に挟みこむと、だん、と足を踏み出して妻の頭の横に手を伸ばしたのだ。
伸ばされた手は、ごく自然に塀に着き、近づいた雄一の鼻に、妻の髪の匂いがふわりと漂った。
通りを歩く人が、何事かという奇異の視線を夫婦に向けていく。
「ねーあれさ、『かべどん』だよね、『かべどん』」
無邪気に指差す子供の視線がなんとも痛いが、もはや雄一に後はなかった。
「……美咲」
「何よ。 後10秒以内に辞めないと、お仕置きするけど」
「君に、来てほしいところがあるんだ。 私と一緒に来てはくれないだろうか?」
台詞だけを見れば一昔前のトレンディドラマの男優のような台詞を吐くと、そのまま有無を言わさず妻の手を掴み上げる。
「熱気で頭が変になったのかしら?」
「……私は至って真剣さ。何も言わずに付いてきておくれ」
そのまま、ほとんど引きずるような速度でもと来た道を走り始める。
夫が時たま奇行に走る――先日もパソコンのゲームを見ながら深夜に馬鹿笑いをしていた――ことを知る美咲には、目の前の夫が常態でないことは一目でわかった。
……その理由は大抵ろくでもないこともまた、付き合いの長い彼女には自明のことだった。
*
戻ってきたのは夕暮れの長い夏とはいえ、日が没する直前だった。
客はとうに去り、露店を開いていた人々も自らの店を片付け始めている。
カア、カアと烏が鳴き交わす夏の夕暮れ、人々が忙しく売れ残った荷物を車に詰め込んでいく姿は、どこかなんとも言えない物悲しい風景だった。
「なに? もうフリマも終わりじゃない」
そういう妻の声を無視して、老婆のところへ行く。
境内の相撲の碑を横切ったとき、二人は行く手から怒鳴り声が聞こえてくることに気がついた。
「だから、もうその客は来ないよ!! さっさと売ってくれ! 値札の三倍は出すから!!」
「……売れませんよ。 先約があるんです」
「だから先約なんてものはもう来やしないと言っているだろうが!」
影も濃い、境内のはずれ。
そこにいたのは、煙草盆を抱え込むように首を振る老婆と、その前で怒鳴る和服姿の老人だった。
老爺のがわはよほどに興奮しているのか、手にした杖をぶんぶんと振り回している。
今にも片付け切れていない商品にあたりそうだった。
「あんないいものを、そんな若造にくれてやる必要がどこにある! ああいった良品は、きちんとしかるべき保存をしないと失われるのだ!」
「なんと言われようと、その人が来ない限りは売れません」
そう老いた男女が言い合ったとき、雄一と美咲は駆けつけたのだった。
「おばあさんに何を怒鳴ってるのよ! 感じ悪いわね!」
「何だ、いきなり失敬な!!」
いきなり喧嘩を横から買ったのは美咲だ。
横からの罵倒に、老人も青筋を立てて怒鳴る。
そんな中、雄一は老人の横をすたすたと過ぎると、老婆の前に片ひざを突いた。
「すみません、遅くなりました。 ありがとうございました」
老婆が頷き、やってきた男女の正体に思い至った老人がいきなり彼の肩を掴む。
「君か! 悪いことは言わん、私に譲りたまえ! 君は、あの煙草盆がどういう価値があるのか分からんだろう!」
「いきなりなんですか」
老人ははっと気づいたらしく、息を整えると懐から小さな名刺入れを取り出した。
差し出された紙には、『代表取締役会長』と銘打たれてある。
社会人の本能か、両手で腰を折りながら名刺を受け取った雄一は、ひとつ眺めると答えた。
「申し訳ありませんが、私はその煙草盆の価値も使い方も知っていますよ。
その上で買おうとしているのです。 早い者勝ちとは言いませんが、あきらめてくれませんかね」
その口調に断固としたものを感じたらしく、老人が青筋を立てる横で、雄一の妻もまた、眉に雷を寄せた。
「……煙草?」
「それはいい! だが、君は吸えても紙巻だろう! 私はああいう古民具を蒐集しているのだ!
大事に保存できる! 失礼だが君は私ほど大事には出来ないだろう?」
言い方があるにしても失礼なジジイだ、と内心で怒りが湧きながらも、つとめて雄一は穏やかに答えた。
「ええ、私ではあなたのようには大切には保存できないでしょうね。 ……ところで」
「何だね?」
会話に応じたことに可能性を見出したのか、やや上調子の声で老人が答える。
「あなたはおばあさんから煙草盆を買って、どうなさるおつもりです?」
「もちろん、保存する。 仕立てからして江戸末期の品物、それも江戸物だ。
当時では二束三文の町人仕立てだったろうが、あの時代の、特に安物は雑に使われたり、震災や空襲で焼けているからな。
ああまで無事に残ったものは少ない。
いいコレクションになる」
老人の返答に、ゆっくりと雄一はため息をついた。 そして告げる。
「では、申し訳ありませんがお譲り出来ません。 ……お帰りください」
激怒した老人が怒鳴りつけるより先に、雄一はぴしゃりと言った。
「あの煙草盆でいい一服をなさる方ならば、とも思いました。 うちは妻が煙草が苦手なのでね。
ですが、使いもせずにコレクションするのはあの煙草盆が可哀想……いいえ、野暮ってもんです。
私はあれで思うさま煙管を吸いつけます。 過去の持ち主方――もしかしたらおばあさんのご先祖のようにね。
民具ってのは、皿でも壷でも茶碗でも、ガラス窓の裏に放り込まれては死んでしまいます。
使って使って、壊すまで使いぬくのが、作ってくれた人や、後代にそれを残して下すった方々への供養というものじゃありませんか?
だから、使いもしない方にお渡しは出来ません。 申し訳ない」
頭を深く下げた雄一を、睨み殺しそうな目で老人が見下ろす。
だが、二人の沈黙を破ったのは、二人のどちらでもなかった。
「ちょっと、おばあさん!!」
状況の傍観者と化していた美咲が、崩れるように座り込んでいる老婆を助け起こす。
その顔はうまく酸素が行き渡っていないのか、真っ青を通り越して土気色になっていた。
いきなりの急転に、老人も雄一も身動きひとつ出来ない。
そんな男たちに、今度こそ雷鳴を纏った雄叫びが放たれた。
「そこ! ぼさっとしない! 雄一! 人を呼んで! おじいさん! 119!! 早く!!」
慌てて雄一が禰宜を探して走り出し、老人が和服の袂からシニア用携帯電話を取り出して救急車に掛ける。
その中でも、美咲は老婆を静かに寝かせると、気道を確保して頬を叩いた。
反応がないと見るや胸に耳を当てる。 音は……かろうじてある。 だが息がない。
彼女は老婆の口を開かせると、ためらいなく自らの口を見ず知らずの老人に当てていた。
どこからか、救急車のけたたましい、だが頼もしい音が聞こえてきた。
*
「すまないねえ」
一週間後のことだ。
雄一と美咲は連れ立って、深川病院へと足を運んでいた。
倒れた老婆に会いに来ていたのである。
まさに間一髪だった。
救命措置がなければ、老婆は息絶えていただろう。
たまたま美咲がいたことが、老婆の命を救っていた。
にこやかに微笑む夫婦の横で、たまたま同じ時間に見舞いに来たかの老人が、今度は仕事着らしいスーツで気まずそうに笑っている。
「私はもう身よりも何もないものでね。 あの世に行く前に持ち物を人に譲ろうと思っていたが、なかなかこの年じゃ知り合いも少なくてねぇ」
体力が戻ってきたのだろう、老婆は初対面の時が嘘のように饒舌だった。
聞けば、5年前に夫を亡くして以来、ほとんど口を利かずに過ごしていたのだという。
親族代わりに病院に日参した美咲から聞いた話では、病院に担ぎ込まれたときはほとんど栄養失調状態だったそうだ。
87歳でそれでは、確かに瀕死にもなるだろう。
娘か孫娘と勘違いされた美咲は、医者の説教とともにそれを聞かされたのだった。
「お子さんはどこか遠くに?」
「……ええ、遠くですよ。 昔、空襲でね」
寂しそうな目をした老婆の前で、美咲が間抜けな夫の足を思い切り踏みつける。
声もなく悶絶する彼の横で、老人が済まなさそうに老婆に名刺を差し出した。
「私は、こういう者です。 元はといえば、私が煙草盆にしがみついたのも悪かった。
お詫び代わりに、治療代は私で持たせてください」
「いいですよ、見ず知らずなのに」
「いえいえ、どうか」
このあたりの緩急のつけ方は、さすがに経営者だろう。
結局老婆を説得し切ると、彼は苦笑して雄一たちの側に向き直った。
「君たちにも、大人気ない顔を見せて申し訳なかった」
「いえ、お気になさらずに」
「あの煙草盆、せめて大事に使って次の世代に残してくれ給えよ」
そういってぺこりと頭を下げると、手にしていた帽子を被り、会釈して去っていく。
不快な出会い方をしたが、思ってみれば親切な人物だった。
目の前で人が倒れたとはいえ、わざわざここまで足を運んでくるその心栄えが心地よい。
深く一礼する3人にもう一度頭を下げ、老人は病室のドアを閉めた。
外は一面の蝉の声だ。
個室の病室には夏草の匂いが漂い流れ、ふと雄一は懐かしい気分になった。
故郷で見送った、自身の曾祖母の病室を思い出したのだ。
受験のころ、毎日彼は帰り際に曾祖母を訪ねていた。
その時に感じた風の臭いと、今の臭いはどこか似ている。
「おばあちゃん、一人暮らしなの?」
「ええ、そうですよ」
「身よりは? ……その、親戚とか」
「もう音沙汰もないわねえ。 兄は戦争から帰ってきましたけど、その後早々に病死してしまったし」
「そう……あのね」
美咲が意を決したように言った。
「あのね。 うちは夫婦二人暮しで、両親はどちらもちょっと離れているんです。
まだ子供を作る気もないし、もし良ければうちに来ませんか?
……小さい借り物のマンションですけど」
「いいですよそんな、この年で人様のご厄介にはなりたくないですし。
一応これでも小さな家があるんですよ」
「ですが……」
「ではせめて、近くなら顔を出させてもらえませんか?
お医者様も、一人暮らしは危ないと仰っていたし」
今度は雄一が口を挟む。
実際、医者ははっきりとは言わなかったが、『孤独死』という危険を二人には告げていた。
「……そうですねえ」
老婆はしばし口を噤むと、思い立ったように言った。
「なら、若い方々には申し訳ないのだけど、うちに下宿されてはいかがです?
うちは戦後しばらく下宿館をやっておりましてね。 古いところで、ちょっと片付けもいりますが、
お安くしておきますよ」
老婆にとっては恥ずかしい言葉なのだろう。 最後は消え入りそうな声に、雄一と美咲は一つ目を合わせると、同時に頷いた。
「はい、ぜひ!」
「よかった、ああこれ」
老婆は、枕もとの机から小さなカードを取り出し、雄一に渡す。 彼の免許証だ。
騒動のために、結局老婆に預けっぱなしにしていたのである。
「じゃあ、敷金も礼金もなしでいいですし。 どうせもうお金なんて要りませんから。
あの煙草盆もよろしければ一緒にどうぞ」
老婆の気前の良い言葉に、美咲が眉を曇らせた。 思い出したのだ。
「ねえ、そういえば雄一。 煙草盆ってなんのこ」
「ええ、ありがとうございます!」
妻に二の句は告げさせず、雄一はありがたく煙草盆――荷物ということで病院の床にまとめて置かれていたのだ――を手にとって頭を下げた。
後ろからの怒りの雰囲気にも、勇気を総動員して耐え忍ぶ。
「そういえば、何でおばあさんと知り合いなのか言ってなかったわよね?
……後できっちりと聞くからね」
「おばあさん! なるだけ早く向かいますからね! 早く元気になってください! お大事に!」
「あ、ちょ」
そのまま雄一はおざなりな礼をして駆け出す。
妻が家事やら片付けで詮索を忘れるまでは、逃げるが勝ちだ。
さっさと逃げ出した夫に肩をすくめる美咲に、寝台の老婆がくすくすと笑いながら声を掛けた。
「あなたも大変ですね」
「ええ。 まあ」
祖母と孫娘のような年齢差の女性二人は、そう言って悪事の共犯者のように笑いあったのだった。
その後約十年間、3人は一つ屋根の下に住んだ。