第十六話:匂い
「何よ……離して──!」
怒鳴っても、嫌われても、今この体温を感じていたかった。
──寂しかったのかも、な。
長い睫毛に雫がついて、瞬かせるたびにさらに透明な水は目尻に溜まった。見かけよりも全然細い腰に手を添えて、そのままベッドの上に押した倒す。背後で、クリスの殺気のようなものが感じるが気にせず事を進める。
「やめ──……」
抵抗する気力はないはずなんだ。そういえば、ケイトは風邪引いてたっけ。頬を高揚させて、熱が苦しいのか息を荒げるケイト。寝込みを襲うとはこのことだな。思わず苦笑して、こんな自分に嫌悪する。
血の匂いに慣れてしまいそうな、自分。MAを殺すことに躊躇しなくなった自分。仲間が死んでも、他の痛みに走る自分。知っているだろうか、脳は痛みを感じても他にさらなる痛みがあればそちらを優先させるらしい。
だとすれば今俺は『シュラが死んだ』という痛みを『少女の苦悩を共有する』という痛みで麻痺させようとしているのかもしれない。
「大丈夫だから」
目を見開いて、そのまま固まるケイト。頬を伝う雫を何度も舐め取って、そのまま見つめる。熱さを感じる。結局、この言葉に俺は逃げた。そういう理由にしておけば、今のこの行為を正当化できると。半開きになったケイトの唇に、背筋がゾクゾクした。
──汚い自分に嫌悪して。次の瞬間クリスの蹴りが横腹に入ったことに至極感謝した。
「ぐっ…!」
床に転がる俺をまさしく鬼の形相で見下ろすクリスは先程の近いオーラを出していた。
「お前…!自分が何をしようとしたのかわかってるのか!!」
耳が痛くなるほど怒鳴られ、心臓が疼くのを感じた。
何をしたか。言葉という道具に頼り、弱さやもろさを少女に預けた。助けてもらったのは自分だ。胸元を右手で押さえ、痛む心を握りつぶす。
「──っるせぇ」
剣を形作って、目の前の長身に切りかかる。クリスは俺の行動を予想していたかのように、自らも瞬時に太刀を形作り抗戦した。
「やめ─「お前だって、俺が一人MAと戦ってるときにケイトの傍に居たんだろうが!」
懇願するケイトの声を掻き消すように、先程怒鳴られたのと同じ音量で怒鳴る。それを聞いたクリスは口元をゆがめて、不自然な笑みを浮かべた。
「ああ、だからどうした…?」
「お前──それなのにシュラ一人も助けられないのかよ!?仲間もいたんだろう!?」
そうだ。どうして、ケイトを守るのにシュラが動く。
「あれは…っ!」
ガギンと、なぎ払われ、数メートル吹き飛ばされる。あまりの腕力に、先程廊下でよく殺されなかったと今更ながら恐怖が沸く。──恐怖?いいや違うな、それにも増すのは、憎悪と怒り。行き場のない感情は近くのものに当たることで発散するしかない。先程の感情はようやく解き放たれたように唸り始める。
「──あれは、誤算だった」
「誤算…?」
体中の産毛が逆立って、まるで獣になった気分だった。何か、今クリスがつまらないことを言ったら、即、爆発だ。
「ああ、まさかMAが──」
そこまで言って、クリスは我に戻ったように口を閉ざした。
「何だよ!?MAが何だってんだ!!」
「とにかく、その場にいなかったお前にとやかく言われる筋合いは毛頭ない!」
「──っ!」
この組織に入ってから、俺はもともと切れたら歯止めがきかない性格が益益表面化している気がする。ケイト、ごめん。やっぱり、お前のいうように俺は『自分で自分がコントロールできない人間』になりつつある。でも、それは至極当然のことだと思うんだ。
誰でも、この状況下ならそうするはずだ。事実お前がそうしたように。
「くだらねぇ!!」
叫んで、クリスへ向かって突進する。医務室が広くてよかった。ケイトに被害が及ばないように。懐に入り込むのを許さないクリスのスピードについていくのは苦労したが、しかし動体視力は良かったのだろう、目が慣れて、徐々に剣がクリスという物体に近づいていく。逆もまた叱り。クリスの間合いの長い太刀は直に俺の腕を切り落とそうとハヤブサのように迫ってくる。息を呑む暇もなく、一瞬剣先が腕に触れる。慌てて避けるが、五cmほど傷のついた腕からは血が吹き出た。鮮血が飛び散り、痛みが走ったので思わず腕を押さえた。
「──っ」
さすがに、強い。だけど──。一瞬、クリスが油断した隙に剣を翻し一番面積の広い胸を狙う。恐らく今の動きは一般人には見えもしない。
剣先は避けようと体を捻ったクリスのわき腹をかすめ、制服が見事に切れた。次こそ致命傷、と思い少しばかり距離を取った瞬間。戦いに水を差すかのように呑気な声が医務室に響いた。
「お前らー遊んでないで寮に戻れ」
「……」
パンパンと、両の手を叩きながらロイス隊長が入り口に立っていた。
「あーあーあー派手に扉吹き飛ばしやがってぇ…ま、修理費は俺が出すんじゃないからいいけど」
降り積もった木の欠片を革靴で蹴り飛ばしながら、半ば呆れ顔のロイス隊長は顔面蒼白のケイトの元へ歩み寄った。
「ケイト、大丈夫か?熱は?」
突然目の前が日常的な雰囲気になったのだから、ケイトも驚くだろう。しばし呆然として、それから自らを心配そうに覗きこむ隊長に目をやった。
「あ、熱?熱は、もうちょっとだけしか──」
「ちょっと?どれどれ、見せてみろ」
そういって、ケイトのおでこに手をやると、大袈裟に表情を変えて隊長は叫んだ。
「何かがちょっとだ!!まだまだあるじゃねぇか!ほら、早く寝ろ!」
「え、だ、大丈夫。ですから」
「いーから!」
そんな会話を聞いていれば、戦闘意欲も削がれるという者で。それはクリスも同じだったらしく、太刀を肩に乗せ上下させながら俺を見た。
「ここは一時休戦だ」
偉そうに。むかついて、自らの剣を消滅させながら返事する。
「当たり前だろ」
なんとかケイトを横たわらせることに成功した隊長は気だるそうに俺達を交互に見た。
「お前らなぁ、よくそんな元気残ってるよな、これが年の差かぁ〜」
手をこめかみにやりため息をつく隊長に少しばかりの満腹感を覚えた。思わず我慢していた疲労が一気に体にやってくる。
「ん?」
そこでようやく、隊長はシュラに気がついた。獣に変身できるほどなのだから、嗅覚は鋭いのだろう。少し鼻を動かし、その場で事態を把握したようだった。恐らく、嗅いだのはシュラから出る死臭だろう。
「…シュラ・マーチスだったか。死んだのか?」
俺は隊長の態度に愕然とした。何の気なしにシュラの死体に近づき、体の観察を始めたのだ。拳を握ろうとして、しかし自分の体にはもう、一滴の力も残されていないことに気づく。握力すら、ないのだ。ごつい手でシーツをめくり、内部を覗き込むと少しばかり眉を寄せた。
「腹部に鋭い切り傷。MAの牙を直に受けたらしいな」
「──隊長」
隣のクリスが、震えるような声で呟いたから、少し驚く。彼の横顔は、何かを後悔するようだった。ブロンドの髪がウェーブして、整った顔立ちは苦悩に歪む。呼ばれたのでクリスの方を隊長が向くのは当然の流れだ。しかしクリスは目を伏せた。
「……なんでもないです」
それを見た隊長は一瞬不審そうに目を細めたが、それ以上詮索することはなかった。
「…変なやつだなおい。じゃ、二人とも体を休めろよ!明日は、大変だ」
ヒラヒラと手を振りながら、恐らく他の団員の様子も見なければいけないのだろう、少し小走り気味に隊長は出て行った。
静かになって、感情の高ぶりも収まり、俺は気恥ずかしさで死にそうだった。自分は先程、ケイトを襲おうとしたのだ。それをクリスに怒られて、それにぶち切れて。身勝手なこと甚だしい。逃げるようにして医務室を後にした。ケイトの顔は見れないし、クリスの顔も見れなった。最大の痛みが和らいだことで、シュラが死んだという現実が矢のように心に突き刺さる。
寮に戻って、自分の部屋に入る。鍵もかけて、ベッドに倒れこむ。無臭だった自分の部屋に、血の匂いが混ざった。それは自分の体に血が染み付いている証拠。
「……くそっ!」
嫌になって、ラフな普段着に着替える。普通日中は制服を着ておかなければいけない仕組みなのだが、そんなものを今更気にしていられなかった。血の匂いやMAの匂いが染み付いた服は、廊下を巡回する洗濯用のワゴンに放り込んだ。
そうして、そのまま俺は深い眠りについた。苦しみのない、真っ暗で静かな世界へ──……。 |