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花冠の鎖

作者: 梶川


 お山の奥に入ってはいけないよ。

 そこにはお山のぬしさまがいるから。



       *


 鈴がその少年と出会ったのは、小学校に上がる少し前の春だった。

 長く続いた冬の終わりを告げる柔らかな光に誘われ、近所の山裾に母と弟と共に遊びに出かけた日のことだ。芽吹きはじめた草花を眺め、花冠を作って遊んでいるうちに、山の奥に入ってしまい、母らとはぐれてしまったのだ。

 せっかく完成したのに贈る相手のいない花冠を片手に、少女は一人、深い木立の間を彷徨った。

 そのうちどんどん日は傾いてきて、なのに人影一つ見つけることができない。

 心細さに泣きべそをかいていると、茂みの向こうから澄んだ声が聞こえてきた。

「迷子になったの?」

 少女はびっくりして泣くのを止め、声のした方を振り向いた。

 そこに少年がいたのである。

 彼は茂みを軽々と飛び越えて、少女の傍へとやってきた。

 少年は、鈴よりも少し年上に見えた。昔の人が着ていそうな古風な着物を身に纏い、素足に下駄を履いている。後ろで一つに結われた黒髪は流れるようで、近所の子供たちの誰よりも白く、綺麗な顔をしていた。

「……おかあさんたちとはぐれちゃったの」

 鈴が答えると、少年は小さく首を傾けた。

「そう、かわいそうに。では、麓まで送ってあげようか」

「ほんと?」

 ぱっと顔を明るくすると、少年はにこりと微笑んで、顔と同じ白い肌の綺麗な手を差し伸べてきた。鈴がその手を取ると、ひんやり冷たい感触がした。

 少年に手に引かれながら夕日の差し込む木立と斜面を通り抜け、しばらくすると、見覚えのある麓の道へと出た。

「ここからは一人で行けるね」

 そう言って手を離し、踵を返そうとした少年を、鈴は慌てて引き止めた。そして、もう片方の手に握りしめたままだった白い花冠を、おずおずと差し出した。

「あのね、これ……あげる」

 ありがとう、とうつむきがちに囁くと、少年は黙ったまま花冠を受け取った。そして拙い作りのそれを、流れるような黒髪の上に載せた。

 それを見て鈴が顔を綻ばせると、少年も微笑んだ。そして、

「──またおいで」

 その言葉を残して、山の木立の向こうへ消えていった。



 母は迷子の娘と再開するなり泣きながら抱きしめてきたので、鈴は、山で迷子になったとき不思議な格好の少年に助けられたということを話しそびれた。しばらくの間は山に近付くことも禁じられたので、少年に言われた通り、また会いに行くこともできなかった。

 二度目に彼と出会ったのは、夏祭りの夜だった。

 山の麓にある小さな神社の境内で、ささやかな出店を見て回っているうちに、暑気に当たって歩けなくなってしまった。向こうの方でやっている催し物を見に行きたいと駄々をこねる弟の手を引いて、母は少し困ったような顔で言った。

「鈴、ここで少し待っていてね。何か冷たいものを買ってきてあげるから」

 鈴はこくりと頷き、小さな薄暗い拝殿の傍で、母と弟の後ろ姿を見送った。

 ほんの少し先では出店の明かりに照らされて、幾人もの人々が楽しそうにしているのに、鈴がうずくまっている拝殿の傍は怖いほどに静まり返っている。向こう側と見えない壁で隔絶されてしまったような、そんな心細さを感じたとき、耳元で声がした。

「見つけた」

 驚きのあまり声も出ず、目をまん丸に見開いて振り向くと、そこにあの少年がいたのだ。

「こんばんは。鈴」

「こ……こんばんは」

 少年は、以前会ったときと寸分違わぬ姿形をしていた。洋服姿が想像できないくらいに似合った、古風な白装束に白木の下駄。鈴の知っている誰よりも綺麗な顔が優しく微笑んでいる。

「少し具合が悪そうだけれど、大丈夫?」

 問いかけながら、彼は鈴の手を取った。

 すると不思議なことに、少年のひんやりとする手と繋がれた手の方からじんわりと心地の良い感じが広がってくる。しばらくすると、鈴の気分はすっかり良くなっていた。

 楽になったことを告げると、少年は良かったというように頷いた。そして、

「鈴を一人にするなんて、お母さんたちはいけないひとだね。前にも迷子になったのに」

 不意に咎めるような口調で言われた言葉に、鈴は少し驚いて、すぐに首を横に振った。

「ううん。まいごになったり、あるけなくなったりしたのは、すずだから」

「でも、鈴のお母さんは、鈴より鈴の弟を優先しているよ」

 少年の言葉は、鈴の胸の奥をちくりと刺した。それは弟が生まれて以来、鈴の中にぼんやりと存在していた感情でもあった。下の兄弟を持った子供の多くが抱く、ありきたりな寂しさ。

 けれども確かに感じる、その痛みをごまかすように、一層強く首を振る。

「……すずは、きょういちのおねえちゃんだから、がまんしなくちゃいけないの」

「そう。鈴は良い子だね」

 少年は鈴の頭を撫でてくれた。あまり家にいない父が時々してくれるように優しく、丁寧で、労りの心が指先から伝わってくるような、そんな撫で方だった。

 母と弟が戻ってくるまで、鈴と少年はそうして短い時間を共に過ごした。

 やがて母が鈴を呼ぶ声が聞こえてきたとき、少年はすっと立ち上がって、こう言い残した。

「寂しくなったら山においで、鈴。わたしは、鈴を一人にはしないから」

 軽やかに身を翻し、拝殿の陰に消えていく白装束の背を見送りながら、ふと鈴の心に不思議がる気持ちが泡のように浮かんだ。

 ──どうしてあの子は、鈴の名前を知っていたのだろう。

 けれどもその疑問は明確な疑念になることなく、鈴の中に沈んで消えていった。



 それから鈴は、度々少年と会っては、とりとめのない話をしたり、一緒に山で遊んだりするようになった。少年が口止めするので、親にも弟にも内緒の関係ではあったが。

 少年は鈴の住む町ではなく、山の向こうの方に住んでいるのだという。

 町では、危ないからあまり奥に行ってはいけないと言われている山だが、少年は鈴の手を引いて山の色んなところへ連れて行ってくれた。まるでその隅々まで詳しく知っているような、迷いのない足取りで。

 鳥の巣を抱いた大きな木々や鮮やかな緑に苔生した岩場、清らかな小川の流れる谷間、そして色とりどりの花が咲き乱れる花畑。山にはたくさんの素敵な場所があって、鈴と少年は日が落ちるまで夢中で遊び回った。

 彼の手に引かれながら走ると不思議と疲れを感じなかったし、時には飛び立ってしまいそうな身軽さで、獣道も足場の悪いところも共に駆けることができるのだった。

 鈴が小学二年生になって、三年生になっても、二人の関係は変わらなかった。

 鈴が山の麓に駆け足でやってくると、すぐに少年が白装束で現れる。少年は変わらぬ優しい仕草で鈴の手を取る。そうして二人で手を繋いだまま、木立を駆け抜け、山のどこか綺麗なところで一休みする。小鳥が鳴いているのを眺めたり、小川の冷たい水に足を浸したり、花が咲いていれば花冠を作ったりもした。

 鈴が作った花冠を少年の頭に載せてあげると、彼はとても嬉しそうに微笑んで、鈴の手をぎゅっと握り、

「鈴は良い子だね」

 と、綺麗な顔で微笑んでくれるのだった。

 鈴も大きくなるにつれ、これが極めて不思議な関係であることは次第に自覚していた。だが鈴はこの綺麗な顔をした秘密の友達が大好きだったし、彼も鈴を好きだと言ってくれた。

 幼すぎて恋とも呼べない密やかな交歓は、鈴の十歳の誕生日を数日後に控えたその日も変わらずに続いていた。



「学校でね、この山のふしぎなうわさをきいたんだよ」

 鈴はいつものように山へ遊びに行き、迎えに来てくれた少年といつものように手を繋いで木立の合間を歩きながら、ふとそんなことを口にした。

「お山の奥の、ずっと奥にね、ふもとの神社とは別に、山のぬしさまの住むお社があるんだって。それはふつうの人の目には見えなくて、特別な人だけが行くことができるんだって」

 山に詳しい少年なら、噂の真偽を知っているかもしれない。そんな淡い期待を込めて訊ねると、少年は期待通りの言葉を口にした。

「わたしは、その社のある場所を知っているよ」

「ほんと?」

 思わず身を乗り出すと、少年はくすくすと笑った。

「でもね、やっぱり特別なひとでないと、その場所に行っても何も見えないんだ」

「……じゃあ、鈴が行っても、お社は見られない?」

 幾分がっかりしながら肩を落とすと、少年はまたくすくす笑った。そして、とっておきの秘密を語るときのように声を潜めて、鈴の耳元に囁きかけた。

「大丈夫。これから、特別になればいい」

「どうやって?」

 少年は微笑んでいた。誰よりも綺麗な白い顔。黒々とした神秘的な瞳に、鈴の姿が映り込んでいる。

「鈴の髪と血をおくれ」

 美しく微笑みながら、彼は静かに言った。

「そうすれば、わたしがおまじないをして、鈴を特別にしてあげられる」

 鈴は戸惑った。髪はともかく、血だなんて、どうやって人にあげられるというのだろう。

 少女の戸惑いに、少年は何でもないことのように微笑んだままでいる。鈴はとりあえず後頭部に手をやり、髪を一本ぷつりと引き抜いた。

 それをおずおずと差し出すと、少年は黒い糸を摘むように手に取り、器用にくるくると自分の小指に巻き付けた。それから有無を言わさない強い力で鈴の手を取り、持ち上げるようにして少年の口元へと近付ける。

 無意識に怯えて身を引きかけた少女を、少年はやんわりと目で制した。

「大丈夫。痛くはないから」

「でも……」

「鈴はわたしのことが嫌いかい? わたしのことが、信じられないかい」

 慌てて首を横に振ると、少年は満足そうに頷いた。そして、そっと、壊れやすい硝子細工に触れるようにそっと、鈴の指先に口付けた。

 少年の言う通り、確かに痛みはなかった。けれどもその瞬間、鈴はなんだか怖くて目を閉じてしまっていたので、少年が口付けを止めたとき、赤く血に染まった二叉の舌でちろりと自分の唇を舐めたことには気付かなかった。

 鈴が恐る恐る目を開けたときには、少年は涼しげな表情に戻っていたし、鈴の指先に傷や血の痕跡は見当たらなかった。

 だが、小指に巻き付けていた鈴の髪はいつの間にか赤く染め上げられている。彼は糸巻きでも引っ張るように黒髪だったはずの赤糸を引っ張って伸ばし、端を鈴の小指に巻き付けた。

「これで、鈴は、わたしの特別なひとだ。……おいで」

 糸で繋がれた手をきつく握られ、促されるまま、鈴は立ち上がった。

 

 少年に手を引かれて山道を進む。生い茂る草木、きらめく木漏れ日。いつもと同じような、しかしどこか違うような景色の中をどれだけ歩いただろうか。

 不意に、枝葉の陰から見たことのない建物が現れた。

 噂に聞いた山の奥の小さな社は、鳥の声しか聞こえない静けさの中にぽつんと佇んでいた。もう何百年も変わらずそこにあるような、そんな古びた印象を与える造りなのに、白木の瑞々しさはつい昨日建てられたばかりのようだ。

 社の周りには、鳥居も手水場も賽銭箱も何もなかった。

 麓の神社の拝殿よりもずっと狭そうな、ささやかな規模の社殿だけが鈴の目の前に存在している。

「ここが、山のぬしさまのお社……?」

「そう。特別なものにしか見えない、特別な場所。おいで、中に入ろう」

 鈴は特別だからね、と微笑まれると、社の中に入ることへの抵抗感も薄れる。鈴は大人しく少年の後に従った。

 木の匂いのする床に足を下ろすと、かすかに軋んだ音がする。

 がらんとした社の中は案外広く、子供が二人駆け回ったり寝転んだりしても問題がなさそうだ。一番奥まったところには、神棚のようなものが設えてあった。

 その神棚の前に、鈴は少年と並んで立った。

 素朴なこしらえの棚の上には、緑の枝葉や御神酒の杯、よく磨かれた鏡などに混じって、見覚えのあるものが安置してあった。

 それは花冠だった。

 白い花の、緑の茎で編み上げられた、明らかに拙い不格好な花冠。この間、鈴が少年に作ってあげたものだろうか。いや、今の鈴はもっと上手に作れるし、今は春の花が咲く季節ではない。

 脳裏に浮かんだのは、一番最初の記憶だった。

 少年と初めて出会ったあの日、せめてものお礼として差し出した下手な花冠。

 だがそんなはずはないのだった。あれはもう何年も前のことで、あの時の花冠が残っていたとしても、今目の前に飾られている花冠の花のような瑞々しさを残しているはずがないのだから。

 花冠に気を取られていると、不意に少年は鈴の背に腕を回し、そっと抱きしめてきた。身を寄せ合って笑うことはあっても、こんなことを両親以外にされたのは初めてだったので、鈴はびっくりして声も出なかった。だが嫌ではなかった。鈴は少年が好きだったから。

「わたしは、鈴に寂しい思いはさせないよ。いつまでも」

 耳元で囁かれる、やさしいやさしい声。

 二人の小指を結んでいた赤糸が見えなくなっていることに、鈴はふと気が付いた。いつの間にか解けてしまっていたのではなく、肌の内側に溶け込んで目に見えなくなってしまったのだけなのだ、と、鈴は誰に教えられたわけでもないのに理解していた。だがそれがどういう意味を孕んでいるのかということまでは考えもしなかった。

 鈴と少年は、古びた社の中でしばらくの間遊んだ。覚えている限りの手遊びをして、唄を歌い、ひんやりと心地良い床でごろごろと寝転がったりした。

 山奥の社に来てからそうやってどれほどの時間を過ごしたのだろう。ごく単純な指遊びをしている途中、ふと、聞き覚えのある声がどこかから聞こえた気がして、鈴は社の外の方を振り向いた。

 開け放たれた木戸の向こうは柔らかな昼間の日差しで満たされている。もう随分長いこと遊んでいたような気がしたのだが、まだ日が傾く気配はないようだ。

「どうしたの、鈴」

「お母さんや、お父さんや、恭一の声が聞こえたの」

「……わたしには聞こえなかったな。気のせいじゃないのかい。ここは山の奥の奥だもの」

 少年の言葉はもっともだった。この社は山の奥の特別なところで、両親や弟がこの近くまでやってこられるとは思えない。だから鈴は納得して、また少年と二人、他愛もない話をしたり、しりとりをしたり、いつまでもいつまでも、時間を忘れて遊び続けた。

 それでも時折、ふとした拍子に、誰かに呼ばれた気がして振り向いてしまうことがある。

 すると少年は決まって、

「気のせいだよ」

 と、鈴の頭や頬を優しく撫でるのだった。



 ……遊ぶうちに、いつの間にか眠り込んでしまったようだ。鈴が目を開くと、そこはあのお社の中ではあったが、少年は傍にはいなかった。

 日はまだ高いので、そう長く眠っていたわけでもないようだ。

 少年はどこに行ったのだろう。声を出して呼ぼうとして、そこで初めて、鈴は少年の名前を知らないことに気が付いた。もう何年もの付き合いなのに、どうして名前を訊ねることを思いつかなかったのだろう?

 仕方なく、鈴は白装束の姿を探して社を出た。

 手を引かれずに一人で山の中を行くのはあまり経験がなかった。まして社のある辺りには今日初めて来たのだから、詳しい道が分かるはずもない。鈴は木立に足を踏み入れて間もなく、すっかり迷子になってしまった。

 それでも下り続ければ見覚えのある場所に出るかもしれない。

 そう考えてしばらく進んでみると、どうにかこうにか、よく少年と通る岩場を見つけることができた。ここを基点に、いつもの遊び場へ少年を探しに行ってみようか、と思ったそのとき、木々の合間に見知らぬ小さな人影を見つけて、鈴は驚いた。

 この山であの白装束の少年とは別の子供と出くわしたのは、これが初めてだった。普通の町の子供は、山には近付いてもせいぜい麓だけで、奥には足を踏み入れないように言い聞かされているから。

 もしかしたら、あの男の子も、かつての鈴のように迷子になってしまったのかもしれない。

 そう思って近付いてみると、男の子は木立の奥から現れた鈴を見て、びっくりしたように目を丸くした。どこかで見たことのあるような顔だ、と鈴は思った。

「迷子になったの?」

 いつかの少年と同じ言葉をかける。

 すると、鈴よりいくつか年下だろうその男の子は、ぴんと背を伸ばして鈴を見つめた。

「ぼく、どきょうだめし、にきたんです」

 意外にもしっかりとした声音だった。

「どきょうだめし?」

「むかし、ぼくのお父さんのお姉さんが、この山に入ったきりゆくえがわからなくなってしまったそうなんです。山のぬしさまにかくされてしまったんだって。それ以来、この山には女の子のゆうれいとか、あやかしとか、よくわからないけど、ひとでないものが出るんだって」

 そんな話はこれまで噂にも聞いたことがなかったので、鈴は首を傾げた。もしかしたら山の向こうの別の町から来た子供なのだろうか。それなら鈴の町とは違う話が伝わっていてもおかしくない。

「だから、ぼく、そんなものなんかいないって……おもって、山に……」

 それまでしっかりと話していた口調が急に自信なさげに揺らいだ。

 なので鈴は励ますように言った。

「鈴も、この山でよく遊ぶけど、おばけなんて今まで一度も見たことないよ。ぬしさまがいるかどうかはよくわからないけど、この山はきれいですてきないいところだよ。ねえ、ちょっと案内してあげようか?」

 変なことを言ったつもりはないのに、男の子は困惑したような、少しだけ怯えたような顔をして首を横に振った。そして、

「ぼく、ぼく……もうかえります」

 さようなら、と言葉を一つ残し、男の子はぱっと身を翻して行ってしまった。引き止める間もなく、木立の向こうへ駆け去ってしまった後ろ姿を、鈴は少し追いかけてみたが、すぐに見失ってしまったので諦めた。なんだかよく分からないが、変な子だと思った。

 

 気を取り直して少年を探しに戻ろうと、道なき道を軽い足取りでしばらく歩いていると、また見知らぬ人影に出くわしてしまった。

 今度の人物は、白装束の少年や、先程の男の子よりもずっと背が高く、ずっと年上に見えた。もちろん鈴よりもさらに年上の、高校生くらいの男性のようだ。

 驚愕したように目を見開いて鈴を凝視している高校生は、先程の男の子とよく似た顔立ちをしていて、やはりどこで見たような印象を受けた。もしかしたらあの男の子とは兄弟で、怪しい噂のある山に入っていった弟を連れ戻しに来たりしたのかもしれない。

 そう考えたところで、鈴は今更のように思い至った。先程の男の子や、この目の前にいる高校生の面差しは、鈴の弟のものと印象がよく似ているのだ。

 世の中には顔の似た人間が三人くらいはいると聞いたことがあるけれど、不思議なこともあるものだ。鈴はそう思って、それ以上は何も思わなかった。

「ねえ、さっき、お兄さんとそっくりの男の子と会ったよ。もしかして、お兄さんの弟?」

 そう訊ねられた彼は、少し翳りのある表情で首を傾げた。

「……さっき、ですか」

「うん、あっちの方。今から行けば、もしかしたら追いつけるかも」

 指を指して示すと、高校生はちらりとそちらの方角を見てから、少し考えるようなそぶりをした。そして、何やら意を決したようにこちらを見据えた。

「あなたは……笠井鈴さん、ですよね」

 教えた覚えのない相手に名前を言い当てられたのは、これが二度目だ。

「うん。でも、どうしてお兄さんが知ってるの?」

「それは、あの……あなたとこの山でこうしてお会いするのは、これで二度目ですから。ぼくはあれから、色々と調べたんです」

 何のことかときょとんとする鈴に、彼は手を差し伸べた。鈴や少年のものと比べればずっと大きくて逞しい、もうすぐ大人になる男の人の手だった。

「鈴さん、ぼくと一緒に山を降りませんか」

 高校生は少し早口で言った。

「え?」

「道が分からないので、誰かに付いてきてほしいんです。帰る方角は同じはずですから、一緒に山を降りましょう」

 鈴は戸惑ったように辺りを見回した。静まりかえった山の木立には、他の誰の影も見えない。帰るときはいつも、少年と手を繋いで麓まで見送ってもらっていた。

「それなら、ええと……友達に一言、降りるって言っておかなくちゃ」

「それでは駄目なんです」

 強い口調に、鈴は眉を下げた。自分より何歳も年上の高校生は、どこか焦ったような、厳しげな顔をしていて、少し怖かった。

「どうして?」

「どうしても。帰るところのある人は、いつかは自分の家に帰るべきです。そうでしょう?」

「……でも、まだ夕方には早いよ」

 そう呟いて、身を引きかけた鈴の脳裏に、ふと違和感がよぎった。

 夕方とはいつのことだったろう。

 枝葉の向こうに輝く日は、一体いつからそこに、傾きもせずあったのだろう。

 ──『今日』は、いつまで続くのだろう?

「見つけた。鈴」

 唐突に、耳元で少年が囁いた。

 鈴が振り向く前に、ふわりと後ろから目隠しをされる。途端に何も見えず、何も聞こえなくなる。ひんやりとした手の主は、そのまま鈴を抱き寄せた。

「わたしがいないのに、一人で山を歩くのは危ないよ。わたしを怖がらせたいのかい?」

 咎めるような口調に、ごめんなさいと謝ったが、少年は目隠しを外してはくれなかった。

 視界を遮る冷たい壁の向こうで、少年とあの高校生は何やら言葉を交わしていたようだったが、こんなにも傍にいるのに、鈴の耳にはほとんど何も聞こえなかった。まるでこの目隠しが耳も塞いでいるかのように、周囲の音がくぐもっている。しかし、

「──まだ待っているんです!」

 高校生の、その必死な叫び声だけは、空気を切り裂いて鈴の耳の奥へ届いた。

「父も、祖父母も、まだ忘れていないんです! だから──」

「黙れ」

 これまでに聞いたことのないような低い声が急に飛び込んできた。

 それが少年の発した声だと認識するよりも先に、息の詰まるような圧迫感が全身に伝わってきて、背筋がざわりと震えた。ついに鈴は思考することもできなくなった。

 目隠しはされたまま、薄い闇の中で、段々と意識が遠のいていく。

「鈴は何も考えなくてもいいんだ」

 少年が囁く。

「何も知らなくていい。永久に幼く無垢なままで。ずっと、わたしが守ってあげるから」

 ──鈴。

 ──鈴さん。

 誰かが鈴の名を呼ぶ声が聞こえる。けれども鈴が振り向く前に声は途切れて、それきりもう聞こえなかった。

 何も聞こえなくなった。

 なんだかとても大切なものを失ってしまったような、寂しい気持ちがしたけれど、溢れかけた涙をつめたい指で拭われると、それも闇の向こうに溶けて消えて忘れてしまった。──何もかも。



 ……気が付くと、白い花の咲き乱れる花畑の中にいた。

 視線を落とすと、作りかけの花冠が手元にある。そういえば、少年のためにこれを作っていたのだ。

 少年は鈴の隣に座って、いつもの綺麗な顔に微笑みを浮かべている。

 ちらりと空を見上げると、中天から少しだけ西に傾いた位置に太陽が輝いていた。

 夕暮れ時はまだ来ない。家に帰る時間はまだ来ない。

「まだ、ここでいっぱい遊べるね」

 そう言うと、少年は嬉しそうに頷いて鈴の頬を撫でた。

「ああ、まだずっと、共にいられるよ」

 茎を束ねて上手く編み込み、作りかけの花冠を完成させると、鈴は少年の頭にそれを載せた。少年は笑みを深めて鈴を抱き寄せた。

「だから、鈴、ずっと傍にいておくれ」

 やさしい囁きと、ひんやりとしたぬくもりは、母にそうされるよりもずっと心地が良い。

「これからずっと、ずうっと、わたしの傍にいておくれ……」 

 白い花の冠は、少年の綺麗な黒髪によく映えて美しかった。

 美しく、愛おしかった。



       *


 お山の奥に入ってはいけないよ。

 そこにはお山のぬしさまがいるから。

 お山の奥で女の子に出会っても、声をかけてはいけないよ。

 それはお山のぬしさまの愛し子だから。

 お山の奥で女の子に声をかけられても、決して言葉を交わしてはいけないよ。

 お山のぬしさまのお怒りを買って、ぱくりと喰われてしまうから……。

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