case1 遊子の受難
「現在、空座町には、乾燥注意報が出ております。火元には十分気をつけ・・・」
俺を眠りから引き戻したのは、女の無機質な声だった。
乾燥・・・そんなアナウンス精霊廷にあっただろうか。初めて聞いた。
精霊廷では、ひどい火事の鎮火は俺の仕事だ。氷輪丸を一振りで大概の火事はなんとかなる。
その後の氷輪丸の機嫌の悪さにはいつも参るが。
カチ、コチ・・・と規則正しく時を刻む時計の音。
それが部屋に響き渡るくらい、あたりは静まり返っていた。
蛇口から水が滴るシンク。カバーが取れかけた古ぼけた黒電話。
ポスターをはがした後がいくつも残る壁。
そして、誰も空間に内包しないそれらの空間が作り出す、どこか垢じみたような沈黙。
それははじめての空間でありながら、ずっと知っているみたいな懐かしさだ。
・・・はじめて?
そこで俺はやっと目を開けた。そしてがばっと布団から起き上がる。
起き上がった右隣は窓になっていて、見ると遠くで電車が走っていくのが見えた。
遠くが煙のようにかすんだ街並みが、ずっと広がっているのが見下ろせた。
「現世・・・」
つぶやいた俺の声は、われながら寝ぼけてた。
そうだ。
俺は昨日、十刃と戦って・・・
「に、しても・・・」
なんだこの部屋は。
カーテンはピンク。意味を成さないほど透けたレースカーテンが、空間をますます異様に見せている。
しかも俺が寝ていたベッドは、シーツも布団も全てがピンク色で、ディフォルメしたキャラクターがあちこちに描いてある。
じゅうたんはベージュ。そしてベッドの逆の端には、机が置いてあった。
俺は何となく慌てて起き上がった。
あんなピンクのベッドにいつまでもいたら、妙な花みたいな香りが移ってしまいそうだ。
そのとき、布団の上から何かが滑り出た。
そいつを空中で受け止めてみると、それは一枚の紙。
繰り返すのもしつこいが、またも紙の色はピンク色だ。
その色に似合わない、これでもかというくらいヘタクソな字が書かれている。
――ここで待ってろ。
その紙に残されたかすかな霊圧から、その字の主が黒崎一護だと知る。
さぐってみれば、かすかに部屋の空気にも霊圧が解けている。
おそらく俺はあの戦いの後気を失い、そのままこの家まで運ばれてきたのだろう。
そして何かが起きて、他の奴は俺をここに寝かせたまま置いていった、と。
どうせ碌でもないことが起きているんだろうが・・・
に、しても。
「ここで待ってろ」の字を再び眺める。そして周りの風景も。
こんなとこで待てるか!
つーか、ワザとやって人を遊んでんのか。
俺はベッド脇に立てかけてあった氷輪丸をひっ掴むと、早足でドアに向かった。
体のあちこちがギシギシと音を立てたが、こんな冗談みたいな部屋にいるとこを、部下に見られるよりよっぽどマシだ。
バン、と遠慮も何もなくドアを開けた瞬間・・・俺は固まった。
ドアノブに外から触れた瞬間にドアが開かれたのだろう。
50センチほどの距離に人間の女が1人、呆然と言葉を失って立ち尽くしていた。
栗色の髪。丸い大きな瞳。身長は俺よりもちょっと高めだが、子供だ。
「・・・黒崎一護の妹か?」
ぴくっ、とその肩が動いた。
「お兄ちゃんの、お友達?」
おそるおそる、目を丸くしたまま尋ねてくる。
どうも疑うということを知らない子供らしい。
決して同意したくはない質問だか、ここは頷いておくほうが無難だろう。
俺はあいまいに頷き、手にした紙を少女の前に示した。
「こ・・・こで待て。ヘタクソな字だね」
妹でもそう思うのか。
「・・・おにいちゃんがこの部屋で待つように言ったの?」
「つーわけだ。邪魔したな」
俺はそのまま、女の横をすり抜けて廊下へ出た。
とにかく、アイツらの後を追うことが先決だ。
アイツらがどうなっても知るかと一日千回くらいは思うが、これも仕事だからしょうがねえ。
頭は完全に外に向いてた・・・そのとき、俺は急に家の中に意識を引き戻された。
腕に感触を感じてわずかに振り返ると、俺の肘を女の小さい手が掴んで引き戻していた。
「ダメだよ」
俺が何か言う前に、女がやたらきっぱりと言った。
「君、あちこち怪我してるでしょ。歩き方でわかるもん。動いちゃだめ」
「別に歩けねえほどじゃねえよ」
普段と違う歩き方をしてたつもりはないが、こんな子供に気づかれるとはよっぽど俺もぼうっとしてるらしい。
俺がそういっても、女は手をはなさねえ。
「あのなあ・・・」
俺が肩越しに振り返って女を見たとき。俺の視線は一気に女を飛び越した。
「・・・なに?」
女がキョトンとして、後ろを振り返り・・・その全身が瞬時にこわばるのが手を伝って感じられた。
女のどこまでもピンク色の部屋の窓に、泥を煮たみてえなズタボロの着物をまとった虚が、べたりと張り付いていた。
その中身のない瞳が、じっと俺たちを見つめている。
・・・にたり。
その顔に亀裂のような笑みが浮かんだ・・・と思った次の瞬間。
そいつは窓を何もないかのようにすり抜け、俺たちに向かって音もなく突進してきた。
ガツッ!
鈍い音と衝撃が俺の右腕に響いた。
俺がとっさに女の前へ出、柄ごと顔の前にかざした氷輪丸に、そいつの歯が食らいついていた。
俺のすぐ近くに女の顔があった。
恐れるところまで思い至っていない、放心した表情を俺に向けている。
・・・待てよ。
てことはこいつ、虚が見えるのか?
黒崎の妹なら、その程度のことは当然かも知れねえが。
「・・・目ぇ閉じてろ」
俺は左腕を女の顔の前に持っていった。そして口の中で小さくつぶやく。
「縛道の二十の二・・・『裏鏡門』」
通常の鏡門と異なり、外からの攻撃は受け入れるが、内側から外に出ることが出来ない。『禁』に系統的に似た鬼道で、メジャーではないが敵を閉じ込めるのには重宝な術だ。
だが、こいつをこのままここに閉じ込めてもしょうがねえ。
俺は右手で『裏鏡門』の型を保ったまま、更に詠唱を重ねる。
「破道の三十三、蒼下墜」
その瞬間、結界内を青い炎がいっぱいに覆った。
そいつが逃げる時間どころか、悲鳴をあげる時間も残さなかった。
俺が結界を解いたとき、部屋の中にはかすかに黒い煙が流れるのみ。
縛道系と破道系の鬼道を同時に使い、効率よく敵を殺す。
年次を重ねた年寄り連中がよく使う術だ。
でも俺は、子供の頃から割りとよくこの術を使っていた。燃費がいいからな。
「・・・大丈夫か」
目隠しに持って言ってた腕をどけると、放心したままの女の顔が見えた。
放心しながらも助かったことは理解できたのだろう、その全身から力がふっと抜けた。
「・・・っおい?」
いきなりガックリと後ろにのけぞったもんだから、俺は慌ててそいつの肩を掴んだ。
顔をのぞきこむと、よっぽど怖かったのか気を失ってやがる。
「しょうがねえな」
くにゃりと力を失ったそいつを担ぎ上げると、あの悪夢みたいな部屋にもどり、布団にそいつを寝かしておいた。
ぴくりとも動かないそいつを見下ろしながら俺は考える。
自然と手を、そいつの顔の前にかざしていた。
死神の掟のひとつ。
死神はその姿や戦闘を人間に見られた場合・または不都合が生じたときは、その人間のその件に関する記憶は消滅させること。
・・・
まあ、俺の死覇装姿を見られたわけじゃねえしな。
記憶の消滅は、ごく稀に他の記憶障害も、引き起こすことがある。
俺はゆっくりと、そいつの顔の上にかざした、手のひらをどけた。
とても、さっき恐怖体験をした顔とも思えねえ、平和な顔でこいつは寝ている。
仮に怖い夢になって記憶が残ったところで、あの黒崎の一族だ。
うまくフォローしていくだろう。
「・・・鏡門」
両手の平を顔の前で内側に向け、小さく唱える。
手のひらの間に生まれた、かすかに白く光る正四面体が一瞬でふくらみ、この家を覆う。
裏鏡門と対を成すこの術は、裏とは逆に外からの攻撃は一切受け付けない。
これで、数日は虚から襲撃を受けても、中には入って来れないだろう。
さて、と。妙なことに時間を食っちまった。
|