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蜉蝣の家 作者:識島果
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レヴィンの手紙・3

「朝目を覚ましたときには、全部が夢だったのではないかという気になっていました。抑圧された私の精神が見せた、一つの願望だと。私は夢みがちではありましたが、それと同じくらいに疑り深い子どもでもありました。しかし、ふと思い出してヘッドボードの裏を覗いてみると、そこには確かに汚れたタオルが挟まっていたので、最終的には私はその晩のことを本当にあったことだと信じざるをえませんでした。
 それからというもの、私は今までよりも少し屋敷の外に出てみることが多くなりました。窓の向こうを覗いているよりは、外にいた方がリカードに会える可能性が高いと思ったのです。私は——多くの病弱な子どもがそうであるように——本を読むことが好きだったので、湖畔に椅子を持ち出しては読書に耽りました。ばあやは物言いたげでしたが、私が『外に出ていたほうが、具合がいいんだ』と言うと、それ以上何も言えないようでした。『あんまり動くと身体に毒ですよ』などと独り言のようにぶつぶつ言ってはいましたが。
 思惑とは裏腹に、リカードとはなかなか再会することは出来ませんでしたが、その代わりに私はこの辺りに一匹の猫が出入りしていることに気付きました。白い毛並みのうつくしい雄猫で、随分と老いてはいるようでしたが、衰えない優美さがありました。野良にしては綺麗だったので、今思えばどこかの家で飼われていたのかもしれません。私はその猫に勝手にエドガーと名付けました。エドガーは気位が高く、決して私から触れることを許しませんでしたが、私がじっと本を読んでいるときにはふと足元に寄り添ってくることもありました。そういう猫だったのです。私は彼の、そんな気まぐれなところを気に入っていたりもしました。
 その日も木蔭で頁をめくっていた私は、屋敷から肩をいからせたナイジェルがやってくるのに気付きました。ナイジェルは傷だらけで、ひどく苛立っているようでした。彼は口を引き結んだまま私の近くまで来ると、そっぽを向いて地面に直接座り込みました。湿ったシダが、彼のズボンを濡らしていくのが分かりました。私はナイジェルのことを気にして見ていましたが、彼が何も言わないので、一応声を掛けました。
『どうしたの』
 ナイジェルはやっぱり何も答えず、私を無視していました。私からは彼の日に焼けた左の頬だけが見えていましたが、今は其処は赤く腫れ上がっていました。私は彼が泣いているのではないか、と思いました。
『ねえ、ナイジェル……』
 ちょうどそのとき、私の足元で丸まっていたエドガーがのんびりと身体を起こし、ナイジェルの方に歩いていきました。何か興味を惹かれるようなものがそちらにあったのかもしれません。ナイジェルはエドガーに気がつくと、徐に立ち上がりました。そして、エドガーの白く柔らかなお腹を強く蹴りつけました。エドガーは短い悲鳴をあげて転がり、私は思わず椅子から飛び上がりました。
『何をするんだ』
『うるさいな』
 私はこの漸くナイジェルの顔を真正面から見ましたが、彼は泣いてはいませんでした。ナイジェルは唸り、足元のシダを踏みにじりました。
『本当は、こんな猫じゃなくって……』
 その瞬間、私はナイジェルの瞳の奥に燃え上がる憎悪に気付き、息を詰まらせました。私の表情を見て、ナイジェルははっとしたように俯きました。彼の前髪が目元に影を落とし、瞳は見えなくなりました。その後で小さく呟かれた言葉は、罵倒よりも鋭く私の心を傷つけました。
『どうせ死ぬんだ。老いぼれ猫だ……』
 そう言い残して、ナイジェルは何処かへと立ち去りました。勿論エドガーはとっくにその場を逃げ出して、いなくなってしまっていました。ロットフォードの湖畔には、私だけがただひとり残されたのでした。エドガーは再び戻ってきましたが、けっして元の通りではありませんでした。おどおどとして、前よりも用心深くなり、歩き方も少し変になってしまったようでした。彼からは私の愛した自由さや、優美さが損なわれてしまっていたのです。私はひどく落ち込み、また深く考え込むようになりました。ナイジェルの言った言葉が、耳の奥にこびり付いていました。その夜、私はまた酷い発作を起こし、医者のお世話になりました。

 リカードと再び会うことが出来たのは、それから一週間ほど経った夜のことでした。
 湖のささやかな桟橋に私たちは並んで立ち、黙っていました。秋の深まったロットフォードの空気は冷たく、立っているだけで身体がじわじわと冷えていくようでした。
『今日は質問はないのかい』とリカードが言いました。『また一つだけ、してもいい』
『質問しても、答えてくれるとは限らないんでしょう』
 リカードは意表を突かれたように一瞬口を噤み、溜息を吐き出しながら、緩やかに口角を上げました。
『リカード、あなたはなんでも知っていると言った』
 私もまた、こわごわ微笑みました。
『死ぬっていうのはどういうことなんだろう』
 それを聞いて、リカードがゆっくりと瞬きをしました。月明かりが彼の白皙の顔を照らし、長い睫毛が影を落としました。
『生きるっていうのはどういうことなんだろう。どうして生きているんだろう。生きていたって、どうせ死ぬのに。ぼくはこんな出来損ないの身体で、ただ本を読んで、生きている。いつ終わりが来るともしれない日を生きている。どうしてだろう』
  私は幾つもの問いを重ねましたが、彼は今度は咎めたりしませんでした。問いかけの体を成しながら、その実そのどれもが自問自答に過ぎないことに気がついたのかもしれません。リカードは暫くの間沈黙して、ぽつりとこう言いました。
『君は、悲しいのかな』
 私はかぶりを振りました。
『悲しいんじゃないよ、きっと……淋しいんだと思う、僕は……』
 私はリカードの瞳を見つめました。琥珀のような彼の瞳は今はただ澄んで、静謐な色を湛えていました。
『僕は、どうしたらいいんだろう、この淋しさを。なんでも知ってるっていうなら、教えてよ。リカード』
 彼は長い間、何の表情も浮かべずに黙りこくっていました。そうして無表情でいると、彼はまるで石膏で出来たうつくしい一体の彫像のようにも見えました。私は彼の腕を掴みました。薄いチェスター・コートの内側からは、少しずつ、少しずつ体温が滲み出していました。彼も、生きたひとりの人間なのでした。彼はしずかに微笑しました。私は彼の瞳をいっそう深く覗き込んで、問いの答えが返ってこないことを知りました。彼のアンバーの瞳の奥には、それ以上に深い孤独の色が潜んでいることに気づいたのです。 そうして私に向けられた彼の微笑はあまりに淋しげだったので、私はそれ以上何も言うことができなかったのでした。」
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