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蜉蝣の家 作者:識島果
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3/15

彼はなんでも知っている

 意外にも男とはあっさりと再会することになった。
 僕はその日、最寄駅付近の大型書店で参考書を——生協で取り扱っていなかったので——探したあと、習慣で現代日本作家の棚を覗きに行こうとしていたところだった。何か興味を惹く新刊がないかと思ったのだ。目的の棚の一つ此方側に彼はいた。彼はあの夜と同じように清潔なシャツと古びたチェスター・コートに身を包み、佇立していた。
 僕が参考書を小脇に抱えたまま立ち止まると、彼も僕に気づいたようであった。軽く会釈をされたので、僕もぎこちなく返した。彼に初めて出会ったのが夕暮れどきだったので、日中のこんな時間帯に彼を見るのはなんだか不思議な気がした。彼はやはり整った容姿をしていたが、明るい店内で本を選ぶ姿はまったく平凡な外国人のように見え、正直に言うならば僕は軽い失望すら覚えた。言葉を交わしたのはあれきりのほんの一瞬だったが、列車の逆光の中に浮かび上がる彼の姿は、奇妙に美しい映像として僕の網膜に烈しく焼きついていたのだ。
「どうも」
 前回不調法にも腕を掴み、連絡先を尋ねた者の礼儀として、僕はそう言った。
「何を探してらっしゃるんですか」
「特に何を探しているというわけではないのですが」
 彼は静かに答えた。その声の響きはやはりあの日ホームで聴いたものと同じで、僕は落ち着かなくなった。
「時間があるのです。もし君さえよければ、喫茶店にでも行きませんか」
 意外にも彼の方からそう言いだしたので、僕は頷いた。若干の幻滅はあったものの、彼への興味が消えてしまったわけではなかった。レジは空いていた。僕が手早く会計を済ませる間、彼はじっとそれを待っていた。

 マイルス・デイヴィスが小さな音で流れる薄暗い店内、その奥まった場所にあるテーブルに僕と男とは案内された。僕はアールグレイの紅茶を頼み、彼はコーヒーを頼んだ。全く知らない人間と向き合って一つのテーブルにつく、という非日常的な状況が、僕を微かに昂奮させていた。彼も僕同様押し黙っていたが、緊張しているようには見えなかった。
 殆ど声も交わさないまま、紅茶とコーヒーとが運ばれてきた。僕は紅茶に温まったミルクを垂らし、スプーンで適当に攪拌した。そうして顔を上げ、僕ははっとさせられた。彼はその長く白い指でコーヒーカップを持ち上げるところだった。琥珀色の双眸はぼんやりとした光を帯び、くろぐろと波打つ液面へと落とされていた。その全てが絵画的で、一つの芸術作品のように僕の目には映った。暗がりの中でこそ彼はより謎めいて、不可思議な魅力を放つのだった。この人の持つ繊細で仄かなオーラとも呼ぶべきものは、ぎらつく太陽の下ではぱさぱさに干からびて死んでしまうのだろう。
 コーヒーを一口啜ったあとで、「リカードです」と彼は名乗った。
「そう呼んでください」
「等価定理の?」
 高校時代の記憶を刺激された僕が反射的にそう返すと、彼は笑った。リカード。名前からして、イギリスの人なのだろうかと思った。喫茶店のバックミュージックはデイヴ・ブルーベックの「テイクファイブ」へと切り替わった。
「本、お好きなんですか」
 彼が書店にいたことを指して僕が尋ねると、リカードは頷いた。
「今はいいです、本が安い」
 昔は高価でしたから、と呟く。
「そうですか? 寧ろ最近は値上がりしてるように思いますが」
「最近、『こころ』という本を読みました」
 僕の言葉には答えず、彼は突然こう始めた。
「夏目漱石の本ですか」
「君は読んだことがありますか」
「中学か高校の頃に、一度だけ」
 そうですか、とリカードは頷いた。
 後から分かったことなのだが、彼は本物の読書家で、その上非常に博識だった。僕と彼とはこの後何度も顔を合わせることになるのだが、その度に僕は彼の知識の幅に感嘆させられるのだった。彼は哲学者であり、科学者であり、文学者であった。そのうえ日本の文化にも造詣が深かった。思い返せば、書店で顔を合わせたときの彼の会釈は非常にこなれていた。
 こんなこともあった。
 これは別の日の話だが、僕たちが同じ喫茶店で飲み物を注文していると、隣の席に座っていた中年の男が突然胸を押さえて苦しみだした。コーヒーが零れ、ウェイトレスが振り向いた。
「どうなさいましたか、お客様」
 ウェイトレスが頓狂な声を上げた。中年男は歯を食いしばり、呻き声に似た返事をした。
「済みません、平気です。ときどき胸が痛くなるもんで……」
 男の顔色は蒼白で、冷や汗をびっしりとかいていた。僕もドッと冷や汗が出た。僕はスチューデント・ドクターの認定も受けた医学生だが、お恥ずかしいことに健康な人がこうして突然目の前で苦しみ出すのを見るのは初めてだった。実習では「患者」が痛みを訴えるのは当然のことだったし、そういう「患者」は大抵の場合統一された清潔なパジャマを着てベッドに横たわっていた。ところが、僕はこういった有り触れた場面で「一般の人」が「患者」へとドラマティックに切り替わる事態に慣れていなかったのだ。僕の中で「日常」と「病院」とは明確に分断され、隔絶された場所だった。僕は俯き、机の端からよく磨かれた床へと滴り落ちるコーヒーの雫を見た。内心はすっかりウェイトレスと一緒になって動顚していた。僕はこのときのことを恥ずべき記憶として今も心に刻み込んでいる。
 僕の向かいに座っていたリカードはというと、音もなく立ち上がり、苦しむ中年男の傍へと屈んだ。そして、左右の脈を取りながら、「背中は痛くありませんか」と尋ねた。彼の流暢な日本語にウェイトレスは面食らったようだったが、男の方はそれどころでなく、噛み締めた奥歯の間からすぐに応じた。
「痛い、背中が……」
「その痛み、移動しているんじゃあありませんか」
 すぐさま重ねられた質問に男が弱々しく頷くと、リカードはトレイを抱き抱えたウェイトレスの方を向き、「救急車を呼んでください」と言った。「今すぐに」
 彼は大動脈解離を疑ったのだ。
 男が救急車で運ばれていき、ざわついていた店内が少しずつ元の落ち着きを取り戻しはじめたころになって、僕は漸く彼に声を掛けた。彼はとっくに二杯目のコーヒーに口をつけていた。
「どうして」
 彼は僕の問いかけの意味を考えていたようだったが、やがて小さな声で答えた。
「彼は酷い冷や汗をかいていたし、顔色が悪かった。皮膚は冷たく、脈は弱く左右差があった。それだけのことです。敢えて言うなら、彼、歯が黄色かったでしょう。長い喫煙習慣がある証拠です」
 知っていた。教科書の上では。僕は苦々しく惨めな思いでコーヒーカップに視線を落とした。すっかり意気消沈して、僕はぽつりと言った。
「もしかして、医師のかたですか」
 今思えば、そのとき僕は自分に失望していただけでなく、なんだかリカードに裏切られたような気がしていたのだ。この浮世離れしたような男が自分と同じ世界にかかわっており、そこで働いているのかもしれないということは僕にとって衝撃的なことだった。
「それならば、僕の先輩だ。さっきの出来事のあとで言うのは本当にお恥ずかしいのですが、僕、医学部の五年生なんです」
「いいや……」
 僕の予想とは裏腹に、リカードはそれを否定した。
「そういうことを学んだ時期もあった、というだけです」
 僕は呆気に取られた。男を診ている間中、リカードは冷静そのものだった。
「そんな、だって……」
「いやになる程時間があるので」
 リカードは事も無げに言い、それ以上の追求を嫌うように目を伏せた。そして、またコーヒーカップを傾けた。その仕草は、恐ろしく様になっていた。
 そういったリカードの振る舞いは、ますます彼をミステリアスにした。
 羨ましい、と僕は素直にそう思った。奇妙だと思う以上に。僕はもっと彼を知らなくてはならないと思った。それは小学生のような幼い子供が教師に向ける憧憬に似ていた。

「君は、Kが死んだのは何故だと思いますか」と別れ際にリカードは言った。彼の突飛な発言に、何のことだろうと僕は沈黙した。そんな僕を見て、リカードは面白そうに微笑んだ。
「済みません、『こころ』の話です。読んだのでしょう」
 僕は彼の真意を図りかね、眉を顰めた。
「何が言いたいんですか」
「人を殺すのはいったい何だと思いますか」
 その鋭い響きに、僕は絶句した。
「考えておいてください。次に会うときまでに」
 そう言って、リカードは立ち去った。
 僕は、一人暮らしの家に帰るまでの間、ずっと彼の言葉の意味を考えていた。途中で引き返してもう一度書店に寄り、文庫版の「こころ」を買った。四百三十二円であった。
 帰宅して上着のポケットからスマートフォンを取り出し、リカードと会っている間切っていた電源を入れると、母親からの不在通知が十三件も入っていた。僕は再びスマートフォンの電源を切り、充電器に繋いだ。それから適当な夕飯を作り、風呂に入って寝る支度をして、「こころ」を机の上に置いてからベッドへと潜り込んだ。
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