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蜉蝣の家  作者: 識島果
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僕がいかにして彼と出会ったか

 僕がその男を見つけたのは、仕上げたばかりのレポートをぎりぎりで医局の提出箱に放り込み、安堵の溜息を吐きながら大学を出たその帰りのことだった。僕は明日からの連休をどう過ごそうかと思案しながら、駅のプラットホームで乗り換えの鈍行を待っていた。

 黄昏時だ。

 燃え立つような橙の時間は過ぎた。夕陽の残滓が未だ雲の輪郭を名残惜しげに縁取ってはいるが、既に夜の気配が辺り一帯をうす青く染めている。僕はこの時間帯が好きだった。ぼんやりと見つめる秋の空は、薄幕を広げるように滑らかにその濃淡を変えていく。気圏の果てを透かすようなうす紫から、深い青のタンザナイト、そしてインクを混ぜ込んだような濃紺へと。そうしてぽつりと針で突いたように、その中に一番星が浮かび上がるのだった。

 ひんやりとした微風を頬に感じながら、僕は電光掲示板を一瞥した。急行を一本やり過ごさなくてはならないが、鞄から本を出すほどの時間はない。

 踏切が闇を切り裂くような警告音を鳴らしはじめた。僕は鞄を持ち直し、点字ブロックの内側へと後ずさった。

 そのときだった。すぐそばに佇む男の姿が、突然に僕の注意を惹いたのは。奇妙なことに、僕はまさにそのときまでホームは無人だと思っていた。それほどに静かだったのだ。男はこの静謐な夕闇の中にそっくり溶け込んでいた。薄手のチェスター・コートに身を包んだその男は、ポケットへ両手を無造作に突っ込み、掠れた白線と点字ブロックの間にただ突っ立っている。人気のない林道にぽつりと佇む寂しげな道標のように。僕は手のひらがじわりと濡れるのを感じた。あとになってみれば馬鹿馬鹿しい話だが、僕は彼が今にも線路に飛び込むのではないかという烈しい予感にうたれたのだ。

 ホームの薄暗い蛍光灯に照らされて、男の足元からはいやに長い影が伸びていた。その淡く曖昧な輪郭すらも、そのときの僕にはどうにも不吉に思われた。僕の背筋をぞわぞわとした感覚が駆け上った。この駅には、転落防止柵がない。

 けたたましい踏切の音が頭蓋の中に染み込んでくる。音は矢状縫合をすり抜けて、硬膜を貫き、やわらかな脳実質を乱雑に揺らした。闇の中に、ぎらぎらとした猫の目のような光が近づいてくる。急行列車が通過する。視界の中心で、男はもう一歩を踏み出そうとしているようにみえた。

 僕は思わず声を上げ、男の腕を掴んだ。

 男が振り向き、その背後を轟音と共に急行列車が埋めた。走り抜ける列車の灯りで、男のシルエットが断続的に浮かび上がる。

 列車が通り過ぎたあと、僕は男の顔を見てたじろいだ。男の顔立ちは、どう見ても東洋人のそれではなかったからだ。それまで彼の顔は完全に暗がりの中に沈んでいたのだが、今は蛍光灯に照らされて、よく見える。男はまだ若く、なんとか青年と言っていい年齢のように思われた。年季の入った服装からもっと年嵩だと予想していたのだが、僕よりも幾分か歳上と言ったところだろう。ゆるくうねる髪こそ暗い色合いだが、彼が白色人種であることを示す透けるような白皙の顔、その中心を高い鼻梁が真っ直ぐに走っている。切れ長の目は憂いを帯びて、薄い唇と共に繊細な印象を与えていた。そして何よりも、彼の瞳は日本人離れしたうつくしい琥珀色アンバーなのだった。

 動揺しながらも、僕はなんとか自分の行為の意味を説明しようと口を開いた。僕の口は何度か意味のない呻きを上げ、結局何も言わずに閉じてしまう。「貴方が自殺をしそうに見えたので」とそのまま口に出すのはあまりに不躾な気がしたし、それをオブラートに包んで伝えるほどの語学力を僕は持ち併せなかったのだ。

 苦い表情を作った僕に、ふと、それまで驚いたように目を見開いていた男が微笑んだ。

「ここの島型ホームは自殺に適していない」

 意外にも流暢な日本語で彼がそう言ったので、今度は僕が驚愕に目を瞠る。

「前後にきついカーブがあるから、停車しない列車も減速するのです。決定力に欠ける」

 男の声には一種不思議な響きがあった。染み入るような静謐さに満ちながら、それでいてどこか気怠げな甘さを纏ったような、独特の響きだった。

 僕が黙りこくって返事をしないので、男は首を傾げた。

「私が自殺志願者に見えたのでは?」

 そこに至って、漸く僕は顔を赤らめ、掠れた声で「済みません」と言った。すると「いいえ、私が紛らわしい素振りをしたのでしょう」と男がまた微笑した。それがまたあまりに「しずかな微笑み」とでも形容すべき笑い方であったので、僕は更に気後れしてしまった。

 草臥れたチェスター・コートとシンプルなスタンドカラー・シャツ、ポケットから覗く懐中時計の鎖や年季物の革靴は幾分懐古趣味ではあったが、そのどれもが男には不思議としっくり来ていた。その上、男が身に纏っているものはどれも相当に仕立てのよいものだと感ぜられた。一般的な中流家庭に生まれた僕は、所謂ブランドというものには決してあかるいほうではない。しかし本物というのは知識がなくとも一見しただけで分かるものなのだと、僕はこのとき初めて知った。

「日本語、お上手なんですね」

 僕は吃りながら言った。男の瞳は、光の当たり具合によって高貴な黄金色にも見える。

「外国のかたでしょう。此方でお仕事をなさっているんですか」

 男は曖昧に頷いた。彼が「外国のかた」であることに頷いたのか、「日本で仕事をしている」ということに頷いたのか、僕には今ひとつ判別がつかなかった。男は呟くように言った。

「遠いところから来て、色々なところを転々としているのです」

「旅行者ですか」

「そんなものかな」

 控えめな笑い声を上げ、男はまた首肯した。僕はこのとき、この夜を体現したようなしずかな男に奇妙なほどの引力を感じていた。否応なしに全てのものを吸い寄せ、光さえも飲み込む貪欲なコラプサー——ブラックホールのような。

 再び踏切が鳴り始め、視界の隅に赤い光がちらついた。鈍行列車が速度を落としながらホームに滑り込み、ゆっくりと止まった。

「それでは」と小さく言った男を、僕は思わず呼び止めた。どうしても彼を知りたいという切迫した気分に、頭からつま先まで支配されていたのだ。アンバーの瞳がすっと細まり、僕を見つめる。僕は躊躇いがちに、あなたに興味があるので、もし差し支えなければフリーのメールアドレスでも電話番号でもなんでも、連絡先を教えてほしいと告げた。ホモ・セクシャルの気があると誤解されるかもしれないと思ったが、男は存外気にした風もなく、軽く首を傾げただけだった。

「携帯電話は持っていないんです」と断ると、男は聞き覚えのあるホテルの名前を呟き、何ヶ月か滞在する予定だと付け加えた。

「そこだったら、ちょうど僕の最寄駅近くですよ」

「そう、それならまた偶然会うこともあるかもしれない。君の名前は」

じょう、佐々山譲」

「ジョー。いい名前だ。覚えておきます」

 愉快げに笑いながら男は踵を返し、扉の開いた列車に乗り込んだ。僕は馬鹿のように薄く唇を開き、彼の後ろ姿を見ていた。

 僕が彼の名前を聞き損ね、そうしてすっかり電車にも乗りそびれてしまったことに気づいたときには、列車の扉はぎこちなく閉まり、がたごとと動き出してしまっていた。

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