賑やかな市場の一角で、その男は汚れた壁に背をもたれ、胡座をかき座っていた。近くにある青果店の主人が、チラリと視線を飛ばす。しかし男は一向に意に介さず、うなだれたまま中空を見続けている。
慌ただしく活気づく朝の城下町。行き交う人々は男に気付く者も少ない。
男が立ち上がった。
その動きは朽ちる前の老木に似て、おそろしく鈍い。それもその筈、その男は深いしわを幾重にも顔に刻む、弱々しい老人だった。
砂塵が舞い上がる。通りの向こうから馬車が近付いてきたのだ。勢いよく回る車輪の響音。通りの両脇に並ぶ店の軒先も、伝わってきた振動で揺れる。
男、というより老人は、ゆっくりと通りの中央に歩き出した。
誰が思おう? この時、城中へ向かう貴族の馬車に、生身の体ごと突っ込む人間がいようとは。ましてそれが老人だとは。
《ーーーー!!》
朝の空気を切り裂いた悲鳴と怒号。惨事の場に視線が集中する。汗馬の蹄鉄に踏みつぶされ、馬車の車軸に巻き込まれた老人の行方――
予想するまでもない。うすい肉ともろい骨、破裂した臓物をしなびた皮袋に収めた。それだけの存在と化した。誰もがそう思った。
従者が御者台より飛び降り、状況をうかがう。固唾を飲んでその様子を見る野次馬の群れ。
老人は―― しかし生きていた。まるで何事も無かったように立ち上がった。
信じられない。どうして生きていられるのか。何重もの視線が老人に集中する。
老人は粗末な衣服についた埃を払い、ゆるやかに歩き出した。そのしわだらけの表情に、苦痛の色は浮かんでいない。呆然とする人々を一顧もせず、老人は再び先ほど座っていた場所に戻り、腰を下ろした。
(やはり、死ねんのか)
そこで老人は深い溜め息と共に、悔恨の情を顔に滲ませた。その姿はまるで身動ぎひとつしない、即神仏と化した修行僧の様である。
(何故、あの時、わしは…………)
そして老人は回りの喧騒を気にすることなく、深い記憶の渦中へと入っていった。
かって老人は名を馳せた冒険者だった。幾つもの洞窟を制覇し、隠された財宝を天に掲げた。高まる声望。駆け出しの冒険者たちは、憧れの対象とした。しかし男が満足の気を抱くことは無かった。
更なる危険な冒険を求めて世界中をさすらう日々。ある妙薬の存在を知ったのは、立ち寄った宿場町でだった。
その薬は飲んだ者を時の概念から抜けださせ、あらゆる種が架せられた死の鎖より、逃れることを可能にするという。
――不老不死。
それは人間が求める一つの到達点。栄華を誇る王侯貴族といえどもかなえられない、最後の夢。
男の行動は早かった。聞くや否や薬が眠るという洞窟に向けて出発した。踏み入れた冒険者が誰一人戻らぬという、いわくつきの死の洞窟へと。
その頃の男の心中は複雑だった。不老不死などという薬を信じたわけではない。だいたい誰も帰ってきた者がいないのならば、噂はどこから出たというのか。男が強く惹かれたのは誰も帰還した者がいないという一事だった。
別に死にたいわけではない。ただ漫然とした生活を送るに男は危険を好みすぎた。踏み入れた際にまとう感覚に魅入られていた。糸くずが触れる間際、わずかな大気の揺れさえ察知させる緊張感。古人が遺した数々の罠。相対した時に聞こえる、飲む息が凍りつくほどの緊迫感。
経験という後天的に積み重ねた知力と、先天的に持ち、磨き上げた胆力とを総動員して行う、唯一無二の対決。それが自身の存在理由なのだ、と男は思い込んでいた。危難を愛し過ぎてしまっていた。
隠された財宝などより、冒険する行為、そのものを生きがいにしていながら、自ら死地に赴くような行動。常人には理解しえない男の心理にあって、しかし今回は宝にも少し興味を惹いていた。もし不老不死となれたなら、永遠に冒険し続けることが可能になるな、と。
男が一番、恐れていたのは年齢からくる衰えと、それが原因で死の顎に捉えられてしまうことだった。
妙薬が眠る洞窟内部は男にとって容易いレベルのものだった。数々の修羅場をくぐり抜けてきた男にとって、満足するトラップは何一つ無かった。
それが油断を引き起こしたのだろうか。
両脇に伸ばした手が壁に触れるほどの狭い窟内。十センチ四方の床が敷き詰められた一本道の奥に、これ見よがしに薬は置かれていた。拳大ほどの首ながの瓶が二つ。
男は慎重に歩を進めた。あまりに安易に置かれている宝。
(……なにかあるな)
目前まで近づいた時、男は最後の仕掛けに気づいた。薬に手が届く場所、数メートルの距離の床に違和感を覚えたのだ。
(ふん、死の罠か。最後まで安直な)
それはよくある罠のひとつで、財宝を前にした冒険者が喜び勇んで猪突すると作動し、床が崩れて奈落の底に真っ逆さまという仕掛けだ。
仕掛けそのものは単純ながら、目的を達成したという安堵感、陥穽をつく心理的要素があり、冒険初心者は穴底に待ち受ける剣山により生命を落とすことが多い。
(二つの瓶ということは、どちらかが本物で、どちらかが偽物ということか)
床を調べ終えた男は結論を下した。注意深く小瓶に向き直す。
台座らしきものもなく、床に無造作に置かれているため、どちらが正解なのかが分からない。踏み込んでしまえば男の反射神経を持ってしても一つを手にすることが席の山だろう。
(ええい、ままよ)
この場において逡巡することこそ、らしくないと男は決した。本物であれば落ちるあいだに薬を飲んで、不死になればよいことなのだ。
深く息を吸い込む。これは最後の深呼吸ではない。そう言い聞かせる男。額から、首すじから、握り込んだ手から汗が噴き出した。
(……そうだ。これだ。これこそが俺が望んだ俺であるための!)
意思を篭められた四肢が躍動する。予想通り落ち込む床。傾いた体を重力という笑い声が男を誘い、引きずり込んでゆく。伸ばす手。届く指先。掴んだ感触と同時に男はふたを外し、胃袋へと流し込んだ。
『おお、お!』
穴底で待ち受ける剣山の群れ。笑い声で導いた男を鈍い剣先の歯で咀嚼する。男の胸を、腹を、脚を突き刺し、流れ伝わってきた血を嚥下することで、剣山は始めての食事を終えた。
男は他人事のように串刺しになっている自分を認めて声を上げた。ほとんどかすれて声にならなかったが、喜悦の叫びを。
『……ですか。あの、お体の方は大丈夫なんですか?』
突然かけられた声によって男は老人へと現実の世界に戻された。薄目の先には一人の婦人がこちらを鑑みている。
『…………』
老人は黙して見ていた。おそらく自分の半分にも満たない年の婦人だろう。朝食に用いる食材の買出しに来ていたのか。手には色鮮やかな野菜、果物をぶら下げている。
婦人の心配そうな目の色に、好奇の彩りが重なった。どこにでもいる平凡な主婦。安穏とした毎日に飽きていることが伺えた。
本日、何度目となるか分からない溜め息を漏らす老人。どこで選択を間違えたのか、それだけが老人を支配する問いかけだった。
(あの時、瓶は二つあった。もしかしたら片方が不死で、もう片方が不老の薬だったのだろうか)
老人は何度も何度も反芻した。あの時、不老の方を手にしていれば良かったのか。しかしそれでは剣の山から逃れることは出来なかった。不死になったからこそ、今も老い晒ばえながらも生きているのではないか、と。
無視をされた婦人が怪訝な面持ちで老人から離れていく。危ういことなど皆無な平和な日常へと。
(何故、あの時わしは……)
不死となった老人。しかし今の衰えて、でも死ねない肉体では冒険に旅立つことは出来ない。どんな罠からも生還できても、死ねない体では心が躍ることがないからだ。
(なにを誤ったというのか……)
太陽が日をかざすため、中天へと昇っていく。老人は過去だけを振り返るため、記憶へと下っていく。
平穏な日々。それに価値を求められなかった老人は、いつまでも答えられない問いかけを続けた。それだけが今の老人にとっての安寧かも知れなかった。
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