バッターの脛辺りに150キロ近いストレ−トが直撃した。観客はざわめき、テレビは額の汗を拭う当てたピッチャーの背中と、脛を押さえてうずくまるバッターを映す。
「あぁ、おい、頼むぞ! 立て!」
父が、ブラウン管の向こうへ吠えた。
「お前の代わりは居ないんだからな!」
ひいきの選手なのか、力が入っている。お前の代わりは居ない。
そんなこと、言われたこともない。父の中での私の存在価値は、あのテレビの向こうのバッター以下なのかな。一人暮らしを始めて一年、久々にこの実家に帰ってきたのに、父とはまだ、まともに会話を交わしていない。「ただいま」「ああ」「元気?」「んん」とか、せいぜいこのくらいだ。
なんとなく一年前と同じ場所に座る父の顔を見てみても、こちらを向く気配の無い横顔からは、少し老けた気がするだとか、酒の入ったコップを一時も手放さないだとか、そんなことしか発見できなかった。そういえば、一年前に家を出た時、最後に見た父も横顔だった。
立ち上がってみる。それでも横顔は横顔のままだった。私は適当に歩き出し、気付けば、キッチンに来ていた。お母さんが、洗い物を鼻歌交じりにこなしている。
「ねえ、母さん」
「なに?」
お母さんも私に振り向かない。
「……なんでもない」
「どうかしたの?」
「暇だっただけだから」
なんでか、お母さんは笑った。ただその後いくら待っても話しかけられなかったから、私はキッチンを出て、玄関に向かった。近頃では珍しくなったガラス戸の玄関を引いて開けると、夜のくせに月も出ていない空が私を迎える。なんだ、お前まで私を見てくれないのか、とか思ってみたり。
サンダルを履き空を見上げながら一歩足を踏み出すと、「むぎゃあ!」と、何かが鳴いた。驚いて咄嗟に足を退けた場所には、黒猫が居た。抗議するように私を見ている。黄緑色の目が私に何か、語りかけようとしていた。「私の体が黒くて夜には見えにくいからってな、少しは気をつけろ」、ってところだろうか。そう言ったことにした。
「ごめんね」
手を伸ばしても逃げない。毛並みは良いようだった。毛はサラサラと尻尾へ向けて流れ出していて、それに沿って撫でると、なるほど。病み付きになりそう。しかし、なんでこんな場所に黒猫が居たんだろう。首輪は着けていないから、キミは野良か。
「あーお」
やっぱり言葉は喋れなかった黒猫は、今度はこういう鳴き声で私に何か語りかけた。餌かな。寒いのかな。どっちだろう。
黒猫にそう問いかけても返事はないので、仕方なく自分で、「餌だよ、ご飯を頂戴」と変な裏声で言って、私は黒猫の代弁者になった。振り向かない人間よりも、自分でセリフを決めれる猫の方が、私の話し相手には合っている。
「そうか、餌かぁ」完全なる一人二役。私は冷蔵庫の中身を思い出す。「……何かあるのかな」思い出せなかった。いかんせん、一年もブランクがある。うちの冷蔵庫の中身を忘れた代わりに私は、独り言と、動物と友達になる方法を覚えたのかもしれない。
あんまり待たせると猫が逃げる気がして、私はキッチンに向かった。洗い物は終わったのか、お母さんはもう居ない。
冷蔵庫を開けてもあったのは、猫に食べさせるには向いてなさそうな物ばっかり。最後の希望を胸に、私は横顔の野球応援会場に向かった。
あったのは横顔と、横顔の後ろに座る母と、酒のつまみなのか、小さく切られたかまぼこ。
「なんだか寒いわね」
母が振り返った。そういえば玄関を開けっ放しにしてきてしまったなと思いながら、かまぼこを一切れつまむ。
「あら、くろちゃん」
チッチッチッチ、母が舌を鳴らしながら手招きする。黒猫が、家の中に入ってきていたのだ。
「くろちゃん?」そのセンスに否定の意を込めて、疑問形で問い返した。「あの黒猫の名前?」
「そう、もう何ヶ月も餌をあげてるの」
私はとりあえずその、『くろちゃん』とすれ違って玄関を閉めてから、戻ってきた。
くろちゃんはさっきまで私が横顔を眺めていた座布団の上で、かまぼこを頬張っている。
「その子、その場所がお気に入りなの。ごめんね」
適当に返事をしながら、座る場所を探す。座布団は三枚しか出てないし。仕方なく母の隣に、正座して座る。あ、かまぼこをつまんだまま、まだ持ってた。
見るとくろちゃんは、どっしり座って動く気配がない。この座布団は私の物。丸まって落ち着いた態度がそう、私に言う。
……私の、居場所は?
「寂しいからってね、この人が餌付けしたのよ」
「は?」
横顔の耳に届かぬようにか、小声で言う。
「あなたが居なくなって寂しいからって、何も猫をそこに置かなくてもねえ」
「……」
この位置からは、父は背中が少し丸まった後姿しか見えない。背中は何も語らない。
「私の……代わり?」
「そう……なのかしら」
代打、黒猫? いや、代走?
それはともかく、まさかこいつが私の代わりだったとは。
私はなんとなく、父の横顔を覗き込んだ。
「たまには顔見せろ」
「え?」
テレビを見遣ったままの横顔が語るとは思ってなくて、少し驚く。
「お前の代わりは居ないんだからな」
「……はあ」
嫉妬したその言葉に私は、変な返事しか返せなかった。こんなことを言う人じゃないのに。きっとお母さんが父のぼやきをキッチンで聞いて、私の態度を見て、入れ知恵したに違いない。証拠に、楽しそうに笑っている。
「……わかった」
私はつまみっぱなしだったかまぼこを、ようやくくろちゃんにあげた。
「また帰ってくるよ」
横顔はもう語らない。お母さんはまだ笑顔だ。黒猫は。
「……」
かまぼこを食べながら、私を見てる。「酔っ払いの相手は大変なんだから、たまにはお前が相手をしろ」。そう言っていた、ことにする。
「はいはい」
その代わり頼むぞ、代打黒猫。
「あーお」
やっぱり喋れなかった黒猫は、こういう鳴き声で私に答えた。
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