最終話・無償の愛
「おめでとう」
練習するように繰り返し発音してみた。
僕は、ガラスの向こうに広がる交差点を眺めていた。駅前から程なく歩いたところにあるビルの二階。カフェは全面ガラス張りで、外を眺めるには絶好の開放感だった。眼下を歩いていく人々を眺めながら、僕は彼女を探していた。
十年という月日は経ってみればあまりにも足早だった。足重に通ったこのカフェも、今ではすっかり様代わりして、十年前の面影はすっかりない。それでも、目を細くして探せば、過去の傷跡のようなものがほんの少しだけ残花のように残っていた。
僕は、数分前にアイスコーヒーを注文した。
コースターの上には、汗を纏ったアイスコーヒーがあり、溶けてバランスを崩した氷が、店内に清澄に響いた。ピアノの音のように、風鈴の音のように。
使い果たしたはずのミルクのプラスチック容器から、白い液体がこぼれていた。めくれたふたにも同様の白い液体が付着していた。僕は、ガラスのテーブルからこぼれたミルクを手でふき取り、舌で舐め取った。ほんのりと甘い感覚が、口の中に薄く広がった。不意に、僕は何を思ったのか、横に重ねてあるナプキンを取り出して、テーブルを拭き、ミルクの容器をテーブルが汚れないように別のナプキンの上に置いた。行為自体に意味があったわけではなかった。だが、僕は突然それをしなくてはいけないような気がした。テーブルの上を汚してはいけないような気がした。
そして、また外を眺めた。
僕の左手の薬指には、指輪が鈍い光を湛えている。外を眺めつつ、僕はその指輪を回したり、外したり、またはめたり、そんな落ち着きのない所作を繰り返していた。
僕は、指輪を右手の薬指にはめかえた。
彼女を待つ間、僕はいろいろなことを思い出していた。事前儀式のような、スタートラインに立つ前の心の準備のような感覚で。
氷が、またバランスを崩した。
「…久しぶりね、真司」
外の景色を見ていた僕の後頭部に、声が届いた。
「十年ぶりかしら」
そう言いながら、彼女は、僕の向かいの席に音もなく座った。僕は、顔を上げるのを少々戸惑いながら、アイスコーヒーの汗から、彼女の顔へと、視線を上昇させた。
本音を言えば、僕は彼女の顔を見る度胸がなかった。十年の歳月は、自分が意識しているよりも長く、そして膨大な辛苦の賜物だった。苦労は、感情に小波を呼び、小波は表情に波浪をもたらす。波風に荒らされた表情は、その砂浜に大きな傷跡を残してしまう。その残滓がしわとなり目尻や、額に刻まれる。それは、年端を重ねた証拠であり、肌が水を弾かなくなっていく前兆であり、鏡を見るたびに憂鬱になっていく日々の始まりである。
僕は、思い出のアルバムをめくるたび、写真に切り取られた若々しい姿を瞳に宿してきた。そこに写った彼女は何年の月日を経ても若く、そして、弾けるような笑顔を僕に送り続けてきた。映画『マイ・フェア・レディ』で今も尚輝く、オードリー・ヘプバーンのあのつぶらな瞳と、唇の稜線が永遠にあのままであるように、僕の中で彼女はあのときのまま輝いている。しかし、今ではどうだろう。過去を追想し続けてきた僕にとって、今の彼女を正面から見据えることは出来るのだろうか。もしも、現在の彼女を直視して、僕の心に一部でも後悔や、落胆することがあったとしたら、僕はあの手紙で書いたことを信じることが出来なくなってしまう。
そう鑑みるとあの手紙の行き先は、現在の彼女ではなく、十年前の彼女に送った手紙だったのかもしれなかった。
「今日、家を抜けてここへ来るの、大変だったのよ。強引な理由を作って飛び出してしまったけれど」
僕は、そっと彼女の面影を現在の彼女になぞった。
「やだ、あんまりじろじろ見ないで。恥ずかしいじゃない」
照れ笑いをした彼女は、確かに年輪と呼ばれるものを感じさせた。
だが、僕は、脳を揺さぶられるような衝撃に襲われた。それは、一瞬のうちに過去の幻想を破砕してしまうほどの、果てしなく深い衝撃だった。
一本の若い梢は、それ自体では木陰は作れない。しかし、年を経た太い梢は、そこにはっきりと影を作ることが出来る。影の下で、動物が休み、人間が涼をとる。誰かを優しく癒し、愛し包むことが出来る。
彼女が持っていたのは、まさしくそれだった。
淡雪のように刹那的に輝く笑顔ではなく、月のように当たり前のように存在し周囲を明るく穏やかに照らしてくれる笑顔。まさしく、母の持つ慈愛のような、それでいて包容力を持った笑顔だった。
僕はそこで初めて彼女に対し口を開いた。
「変わったね」
彼女は、微笑した。それは遠い過去を眺めるようで、少し悲哀に満ちていた。
「あなたもね」
小悪魔のような囁きだった。
「でも――」
彼女は続けた。ウエイターが届けてくれた水を口に運んでからの言葉だった。
「――あなたは、十年前に比べれば、ずいぶん大人になったわ。中身は分からないけれど」
僕を値踏みするように見てから、微笑む。
「もういい歳の大人に向かって、そういう言葉もないんじゃないかな」
「ふふ、そうね」
僕が飲み干したアイスコーヒーを下げる際に、彼女はコーヒーを注文していた。おしぼりで手を拭いている彼女の手を不意に見下ろせば、台所用洗剤に負けてかさかさに荒れた両手が、痛々しそうに、夕陽の赤のようにそこにあった。
「慣れてないのよ」
僕の視線に気がついた彼女は恥ずかしそうに僕の死角へ手を隠した。
「いや、もっと見たい」
僕は、自分でも驚くくらい大胆に彼女の手をつかみ、僕の目の前に引き出した。彼女の手をつかんだ感触は、えもいわれぬほどの快感だった。いや、快感ではなかっただろう。全身に駆け抜けた歓喜は、僕を震え上がらせると同時に、現実の衣をなくした過去へと剥落させた。
まるで自分が今、彼女と付き合っているような錯覚。恋人同士でいるような心地が漂った。
しかし、僕はその夢心地が、左手の薬指を見た瞬間に脆くも瓦解してゆくのを、はっきりと理解した。
「見ないで」
それは拒否だった。彼女の抵抗は、手を見られたことではなく、別の何かに対してであるように見えた。たとえば、左手の薬指にある刻印に対して。たとえば、今の自分に対して。
「本当に…結婚したんだね」
その僕の言葉は彼女に何を思わせたのか。まぶたを閉じた彼女がその瞳を僕の前に晒すまでにしばしの時間が経過した。
ゆっくりと息を吐き出した彼女は、僕の手を逆に握り返した。溜息だったのか、決意の息だったのか、息はまもなく空気中に混ざり合い、僕は判別できなくなった。
「結婚したわ」
おめでとう。
僕はその言葉が喉から出なかった。
「今では、立派な母親よ。考えられないでしょう。十年前なんて、こんなことは考えても、一笑のうちに終わっていたことですもの」
僕は、何も言わず頷いた。
「そうだ、見て」
彼女は、バッグから携帯電話を取り出して、僕に見せた。液晶に映っていたのは、カメラ付携帯電話で撮られた、一人の赤ん坊だった。
「男の子よ、かわいいでしょう」
太い腕の中ですやすやと安眠する赤ん坊の写真。赤ん坊を抱きかかえているのは、夫だろうか。そう、息子の父親だ。
「確かに、君に似たからかな」
心なしか僕の声は震えていた。彼女は、僕の顔をちらりと見て、微笑んだ。
「生後六ヶ月なのよ。子育ての苦しさと楽しさが身に染みてきたわ」
言いつつ、彼女は携帯電話の液晶に映し出された赤ん坊をうっとりとした表情で見つめる。
僕は言葉を失っていた。
彼女は、もう立派な母親の顔をしていた。家事などまったく不得手だった彼女が、必死に家事に取り組んでいる。子供が、ピーマンが嫌いだと言ったら、ハンバーグに刻んで入れるのだろう。玩具屋で駄々をこねだしたら、きっと我慢を覚えさせるために、叱るのだろう。幼稚園には、彼女が送迎するのだろうか。それとも、バスがそうするのだろうか。授業参観では、きっとドキドキしながら我が子が黒板に解答を書くのを見守るのだろう。
「真司は…今でもこう呼んでいいのかしら」
「かまわないよ」
「真司は、今何をしているの?」
彼女は、僕の返答を待つ間に、先ほど注文していたコーヒーを口に含んだ。ミルクは入れなかった。
「クローク」
「クロークってホテルの?」
「そう。あんまり大きなホテルじゃないけれど、経営は安定しているし、給料も悪くはないよ」
彼女は、僕の現在を満足そうに眺めているようだった。それが、なぜか母親が子供を見ているように感じられて不快だった。
「付き合っている人はいるの?」
僕は、彼女を睥睨した。右手にはめかえた指輪の感触が鬱陶しく感じられた。
「僕は、君しか考えられなかった。十年前に君を失ってから今まで、思い続けてきた。君のことを考えずに生活していても、不意に思い出してしまう。突然昔の思い出がよみがえってくる。その瞬間、胸が震える。泣きたいほど、痛いほど、分かる。まだ君のことが…」
「分かっているわ」
「分かっていたのならなぜ」
僕は、思わず席を立ちそうになる勢いを何とか堪えた。握り締められた両手の拳はわななき、今すぐにでも何かを叩き壊してやりたかった。この抑えがたき破壊の衝動は、十年前から堆積してきた彼女への思いの裏返しだった。
「そうしなければ――」
彼女の目が強烈な光を放った。
「真司は、子供のままよ」
僕は、浮いた腰を椅子にどっかりと落ち着かせた。
「私は、真司を愛していた。今の夫も愛している。でもそれは、真司を失った結果に過ぎないわ。時は流れているし、過去は過去のまま。現在への糧とはなりえても、現在には成り得ないわ」
「…愛していた」
僕は、生気の抜けたような声でそう紡いだ。
「ええ、真司を愛していた。その気持ちは絶対に偽りではない。ここに確かにあったんですもの」
彼女は胸を押さえた。
「でも、真司は子供だった。付き合い始めた最初こそ、甘えられているということが恋愛の一手段、一方法に思えたけれど、年月を経てこう思ったの」
体が動かなかった。金縛りにあったようだった。
「私は真司にとって母のような存在ではないかって。真司は私を恋人と思っていても、私から見ればあなたはまるで子供のような存在にしか見えなかった。私を支えようとするのではなく、何か、真司は、無償の愛を受け取ろうとしているように見えたわ」
彼女は間を置こうとはしなかった。この十年間にためていたものを一気に爆発させているような様相を呈していた。僕と付き合っている当時、彼女の心の中にはワインの澱のように、不満が蓄積されていったに違いない。
「つまり、真司は、母親が子供に注ぐような、受け入れるだけの愛を渇望していたのよ」
喉もとに鋭利な刃を突きつけられたようだった。僕が白装束を着た罪人で、彼女が僕の首を落とす介錯人のように見えた。
「無償の愛。そう。これだけ明瞭で、完璧な言葉はない」
「僕は、君を愛していた」
「分かっている、分かっているわ。私があなたを愛した気持ちは嘘ではないし、いまさらそれを後悔する気持ちもない。あの日々は、私にとって輝かしい日々だった。真司に抱かれたときの声は演技ではないわ。私は、心で、身体で感じていた。それは、真司がくれた恍惚よ」
目尻のしわから滲み出してきたのは、過去の遺物だった。それは、長い年月を経て干からび、風化した悲哀そのものだった。砂漠に乱舞する砂のように、彼女の目尻から落下していた。
もしかしたら、彼女の目尻にあるしわは、僕が作ったものかもしれなかった。
「母親になって…」
悲しみの谷底へ、声は自由落下していった。悲しみの深度の分だけ。
「やっと気付いたのよ。今更になって。本当に今更。なぜあのときに気付かなかったんだろうって。ぼんやりとは分かっていても、それを真司に伝えることは出来なかった。言葉に出来なかったから。私の勘違いだと早合点したから」
彼女は、深く、とても深く溜息をついた。
「…きっと二人とも子供だったのね」
僕は、何も言えずに呆然としていた。
新しい感情が、螺旋状になって上ってくるのを感じた。胸を突くような苦痛を伴った、やり切れない、とても重い、感情。
彼女は、何かに笑いかけるようにそっとつぶやいた。
「真司」
僕は、耳をそばだてる。
「真司よ。この子の名前」
携帯電話に映し出された赤ん坊が、僕を見ている。
「なぜ」
「それしか思い浮かばなかったのよ。生まれた瞬間、霞む景色の中で我が子を腕に抱いたとき、私は思わず、真司、って呼んだの。真司。私の真司」
僕は、どうしようもなく、悲しくなった。
「どうして、そんなことをしたの。僕は、ここにいるのに」
「きっと、今でも愛しているのね。まだ、真司とは本当の恋愛をしていない気がするの」
彼女は、コーヒーで満たされたカップを目線の高さまで上げた。黒い液体が波打つ。
「このコーヒーにミルクを入れて飲んでいたのよ。甘い…とても甘美な、恋。本当は、苦いものでもあるのに…」
カップを置いた衝撃でコーヒーが揺れる。コーヒーは縁から飛び出そうと右に左に揺れていたが、しばらくして収まった。
そして、彼女はそのコーヒーを僕に差し出した。
「お互い、惹かれあうのはもう止めにしましょう。こんなつらい生き方をなぜ私たちは選んでしまったの。お互い、もう十分年をとったわ」
「…」
「真司…ひとつだけいいかしら」
僕は彼女の瞳を見つめた。十年前の彼女が、そこにいるように見えた。十年前の彼女の弾けるような、太陽のような笑顔が、僕の脳裏に満ちていく。若さに頼り切った、十年前の彼女は、とても美しかった。
しかし、僕は、十年後の彼女に本当の美しさを見出した。
衰えてくるはずの美貌を、保とうとする姿勢。昔は、何もせずとも美しかった。それは、若かったから。年を経た今では、そうはいかない。衰えて然り。なのに、彼女はより綺麗であった。美を求める姿勢にこそ、本当の美があると僕は気付き、卓越した技術と経験に裏打ちされた彼女に舌を巻く。この十年もの間、どれほどの男に愛され、どれほど男のために美しくなろうと尽力したのだろうか。その動機付けにより、彼女はここまで美しくなってきたのだ。
彼女は唇を動かす前に、まず、コーヒーカップを僕の方へさらに寄せ、その脇にミルクを置いた。
「このコーヒーを飲んで欲しいの」
彼女の口紅が、コーヒーカップの縁に薄く残っていた。
僕は、ただコーヒーだけを目の前にして座っていた。
「このコーヒーを飲んで欲しい…か」
ガラスの外を眺めると、雑踏に呑まれていく彼女が見えた。質素な服を着てはいるが、僕の視線は確実に彼女を一瞬で捕らえた。振り向かない彼女の背中を僕はずっと眺めながら、コーヒーのカップに手をかけた。
波紋の広がる黒い液体の上で、僕の顔が揺れていた。そこに映し出された僕の顔は、明らかに十年前より大人びていた。大人びてはいた。
僕は、唇をそっとカップにつけ、口内に液体をほんの少し流し込んだ。途端、苦味が口の中に広がっていき、僕は思わずむせてしまった。
「苦い」
僕は、カップの脇に転がっているミルクを見ながら言った。そのミルクは開封されておらず、だからといって使う気も起きなかった。
「でも、悪くはない――な」
彼女の姿はもうどこにもなかった。
僕は、残りのコーヒーを、彼女の口紅が付いている場所で飲んだ。彼女の口紅とコーヒーが混ざり合った味は、僕の気持ちを落ち着かせる。
十年間、僕が求め続けたものが何だったか。
それは、この苦味だったのかもしれない。そう、思えた。
店を出、僕は、先ほどまで恋人のように二人で座っていたテーブルを見上げた。ちょうどウエイターがテーブルの上を拭いているところだった。
もはや、二人が座っていた形跡は残っていなかった。そして、またそこにウエイターに案内された客が座る。二十歳ぐらいの男女。
二人は、まるで恋人のようだった。
《終わり》
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