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超・ご主人様の話

 ――ガチャン

 という、陶器が割れる音が響く。食堂の中にいた皆は音のした方角に目を向ける。そこにはメイドのシュガー・ポットが顔面を蒼白にして立ち尽くしており、目の前には紅茶のカップが二つに割れて床に転がっていた。カップにわずかに残っていた紅茶がこぼれ、床に小さく染みをつくっている。

 大慌てで、シュガー・ポットはしゃがみ込む。

 「申し訳、ありません」

 そして、そう言って割れたカップを片付け始めようとする。

 彼女にとって最悪だったのは、そのミスを犯したのが、彼女が最も恐れる“ご主人様” アイレント・カイリの目の前である事だった。

 アイレント・カイリ。

 この館の主人である彼は、使用人がミスを犯すと喜ぶ。いかにも嬉しそうに狂気じみた笑い顔をつくるのだ。それは、それでその使用人をお仕置きできるからだ。彼は誰かを傷つける事に無上の悦びを覚える、そんな性質の人間だった。だから、使用人を罰する口実を常に探している。

 トタ、トタ、トタ。

 と、主人はゆっくりとした淡々とした足取りでシュガー・ポットに近付いて行く。ご主人様が近付けば近付く程、シュガー・ポットの表情は恐怖に歪んでいく。そして、ご主人様が傍にまで来て立ち止まると、彼女は酷く怯えた様子で許しを請うた。

 「お、お許しください。ご主人様」

 目は涙ぐんでいる。その光景を、周囲の使用人達はただ見守っているだけだった。誰も主人には逆らえないからだ。唯一、意見できるのは彼の妻のアニーくらいだったが、彼女は使用人をいたぶりこそしないが夫のそれを止めようともしない。呆れてはいるが、既に諦めているのかそれとも無関心なのか、いつも傍観しているだけなのである。

 その時もそうだった。

 妻のアニーは、シュガー・ポットの傍で恐らくは罰する為に立っている自分の夫を、腕組みしながらただ眺めていた。まるで、その行動を確かめるように。そして、それ以上は何もしない。

 立ち尽くし、何も言わないでいるご主人様に向け、シュガー・ポットはもう一度、許しを請うた。「お願いです。お許しください」と。そしてそれを聞くと、彼女の冷徹なご主人様はいつも通りに笑みをつくった。ただ、その笑みはいつものそれとは少しばかり違っているように思えた。狂気的な雰囲気がない。しかし、彼女はそれを特に気にしなかった。恐怖感で判断力が鈍っていた所為かもしれない。

 そして、彼女のご主人様は、それから身を屈めるとこう言ったのだった。

 

 「はい。大丈夫ですよ。お怪我はありませんか?」

 

 周囲の空気が、それで固まった。

 はい?

 という響かない疑問符を伴った声が、使用人達や彼の妻のアニーから同時に発せられ、集合して大きくなって、時間を止めているかのようだった。

 意表を突かれた、というよりも何か高度なジョークを見せられたような感じ。

 一呼吸の間の後、

 使用人達はその主人の異変に顔を見合わせ、妻のアニーは顔を大きく引きつらせた。執事のクリックは片眉を吊り上げている。

 シュガー・ポットはその主人の優しい言葉を聞いて初めて気が付いた。彼女のご主人様のその笑顔が、自分を安心させる為につくられたものである事に。それは今までの彼女のご主人様“アイレント・カイリ”では、およそ考えられない表情だった。

 一体、なにがあったのか?

 「怖がらなくても大丈夫ですよ。誰でもミスはありますからね……」

 そう言いながら彼女のご主人様は、割れたカップを拾い始めた。まるでそれが当然の行動だとでもいうように。その彼に向け、アニーが速足で歩き近付いて行く。そして傍まで来るとこう言った。

 「あなた。ちょっと、お話があります」

 そして、カップを片付ける為に屈んでいた夫を半ば強引に立たせると、「シュガー、あなたはそこでしばらく待っていなさい」とそう言って、夫を隣の部屋に連れて行った。ご主人様であるはずの夫は何故かそれに無抵抗だ。執事のクリックもそれに続く。扉を閉める。バタンッというやや大きめの音。

 

 「オリバー・セルフリッジさん」

 

 と、扉を閉めるなりアニーはそう言った。“オリバー・セルフリッジ”という名で呼ばれたのは、この館の主人であるはずの“アイレント・カイリ”だった。彼はそれに困ったような表情を浮かべつつこう返す。

 「なんでしょう? アニーさん」

 アニーは目を怒らせながら応える。

 「“なんでしょう?”ではないでしょう? さっきのあなたのあの行いは何です? 私の夫はあんな行動は執りません。使用人にはとても厳しく、かつ権威をとても重視すると説明してありましたよね? あの場合、使用人をきつく折檻するが常です」

 それに“オリバー・セルフリッジ”という名で呼ばれた男は、不思議そうな表情で首を傾げつつこう返した。

 「あの…… 権威を重視する人が、どうしてあの程度の事で使用人を折檻するのでしょうか?」

 それは本心から言っている言葉のように聞こえた。続ける。

 「あの程度で怒っていたら、むしろ軽蔑されてしまうのではないですか? 権威なんて保てないと思いますが」

 人間は他人の心理について述べる際、自分の心理を観るもの。つまり、その言葉はセルフリッジというその男の性質そのままを述べているようなものだった。

 それを聞いて執事のクリックは、軽く目を瞑った。“そうか、彼はそういう考え方をする男なのか”とそう思う。本物の主人とは、ほとんど相容れない性格だとそんな感想を持つ。恐らく、本物の主人のアイレント・カイリは、彼のこの言葉を聞いても理解などできないだろう。そこでアニーが言う。

 「だから、恐怖を与える事で権威を保つのよ。皆は主人を恐れる。そうすれば、それが権威になるでしょう?」

 クリックはそれを聞いて、心の中で軽くため息を漏らした。どうやらアニーにもあまり彼の言葉が理解できないらしい。もっとも、彼女は主人に比べれば随分とマシなのだが。使用人を傷つける事には反対している。

 「はぁ」

 と、アニーの説明を受け、セルフリッジはいかにも困ったという風にそう返した。眉を歪めている。彼にとってはアニーの考えこそが理解できないのだ。見かねたクリックはアニーの傍にまで行くと、そっと耳打ちをした。

 「あの男は、人を支配する立場になった事などありません。ですから、そもそも恐怖で誰かを縛るなど思い付きもしないのでしょう。そんな言い方では分からないかと」

 それを聞くと彼女は「そうかしら?」とそう小声で言う。クリックはそれに頷く。そして「ええ。それよりも、普段アニー様がアイレント様の行為について思っている事そのままを述べた方がよく伝わるのではないかと」と、続けた。決して自分からは主人の悪口を言わないよく考えられた言い回し。そういった処世術に、彼は非常に長けていた。

 執事のクリックはもうかなりの高齢だが、頭も気もよく回り、使用人達からもそれなりに頼りにされている。薄くなった白髪も欠点には見えず、むしろ“長老”といった彼の立場を強調しているように思える。それでアニーも彼には一目置いている。彼の意見にはよく耳を傾けるのだ。

 「ふぅん」

 と、アニーはクリックの言葉を受けるとそう声を発し、戸惑っているセルフリッジに顔を向ける。

 「分かったわ。セルフリッジさん。もっと簡単に言ってあげます。私の主人のアイレント・カイリは最低の男なのよ。使用人達を見下していて、何かミスを見つけては罰し、その怯えた表情を見るのが大好きなのです。さっきのシュガーって女の子にだって、主人に鞭を打たれた傷痕がまだ残っているはずよ」

 それに彼は驚いた顔をする。彼にとっては信じられない事らしい。

 「あの女の子に鞭を? 本当ですか? だって、あの子、まだそんなに大きくないじゃないですか」

 シュガー・ポットはまだ少女と呼んでも通じるくらいの年齢なのだ。

 「そうよ。それは、もう、本当に嬉しそうに鞭を打っていたわよ」

 それを聞き終えると、つくったような不自然に固まった微笑みを浮かべ、セルフリッジはこう静かに言った。

 「それは、確かに、最低な男ですねぇ」

 その時、アニーはそれを気にしなかったが、執事のクリックには彼がとても怒っているように見えていた。ただし、何も告げない。面倒に巻き込まれる可能性を考えての事だった。それに、手助けをする気はないが、この男がこの館の…… いや、この館をも含めたアイレント・カイリの支配する事業に何か手を入れてくれるのであれば、それは彼にとっても望ましい事だった。

 従業員達の待遇が改善するかもしれない。

 なにしろ、彼は身代わりとはいえ、それが可能な立場に今現在いるのだから。

 「とにかく、セルフリッジさん! 主人の身代わりの仕事を引き受けたからには、ちゃんと主人だと思われるように演技してもらいますからね」

 アニーがそう言った。

 「うちの最低の主人の振りをしてください」

 そう続ける。

 

 ――身代わり。

 そう。今更かもしれないが、この男、オリバー・セルフリッジは、この館の本当の主人アイレント・カイリの身代わりとして、この家に雇われているのだ。

 

 この館の主人にして、カイリ財団チェリー部門の事業主、アイレント・カイリは、カイリ財団の三男としてその生を受けた。ただし、家は裕福だったが、その家庭環境は健康とは決して言い切れず、富豪であるが為に培ってしまった高い自尊心とも作用し合い、彼のその危険性をはらんだ歪んだ性格は、少しずつ成長の過程で醸成されていってしまったのだった。

 彼の父親は仕事に忙しく、既に大きく成長し仕事の手伝いをし始めていた長男のクライシスにばかり気をかけ、三男の彼はほとんど目に入っていなかった。母親は遊びにばかり夢中で子育てには熱心ではなく、二男はアイレントに多少は同情的ではあったが、彼は家を嫌っていて、できる限り関わりを断とうとしていた為、やはり接点は少なかった。

 もっとも、アイレント・カイリが特別不幸な生い立ちだったのかといえば、それも違っているのかもしれない。彼以上に恵まれていない人間は数多くいる。ただし、何かがほんの少しでも違っていれば、彼が全く違った人生を歩んでいた事だけは確かだ。

 父親に認められていた長男のクライシスは、財団の上層部でその辣腕を振るっていた。その事実が、兄に嫉妬しているアイレントには許せない。それで偶々、長男であったため実力もないのにクライシスは過大に評価されていると考え、強い対抗心を燃やし、成人するとそれを隠す事もしなくなった。

 一方、長男のクライシスはそんなアイレントを疎ましく思っていた。相手にしたくはないが、多少は気にかけなければ、プライドの高い弟は更にへそを曲げ、どんな問題を起こすか分からない。それで、彼はある策を考え出したのだった。

 「アイレント。お前に、チェリー部門を任せようと思う」

 ある日、クライシスはアイレントにそう言った。カイリ財団は手広く事業を運営している。チェリー部門はその数ある事業のうちの一つで、財団の中では規模は小さい方だった。クーエルランドという片田舎に財団の所有する大きなチェリー畑があり、加工販売等も同事業内で行っている。そしてその場所は、財団の本部とはかなり距離が離れていた。そのチェリー部門を任せるというのは、実を言えば体の良い“厄介払い”だった。

 しかし、クライシスはプライドの高い自分の弟にこう説明した。

 「チェリー部門で、まずは実績を積み上げるんだ。そうすれば財団もお前の実力を認めざるを得ないだろう。やがては、本部でも高い地位を獲得して大活躍できるぞ」

 もちろん、それは嘘だった。チェリー部門は長い間停滞しており、拡大も縮小もしておらず、何か打開策があるとは思えなかったからだ。少なくとも甘やかされて育った自分の弟に、それを何とかできるとは彼は考えていなかった。

 だが、アイレントはその言葉を真に受けた。自信家の彼は、自分にならそれが可能だと信じ込んでいたのだ。それで機嫌良く、その仕事を引き受けた。その迷惑を被ったのは、チェリー部門とクーエルランドにあるカイリ財団の館で働く人間達だった。

 アイレントは知的階級を気取って敬語を使った丁寧な喋り方をしはするが、その発想はとても単純で野卑な男性原理に則っていた。アイレントの経営方針は、とにかく“労働者の尻を叩く事”。それだけだったのだ。労働者は放っておけば仕事を怠けるもので、能率が落ちるのはその所為だ。だから、厳しくし怠ける事を許さなければ、それで業績は上がっていく。そう彼は考えていたのである。

 彼はチェリー部門の事業主になると、監視体制を強化し、労働時間も長くした。館の使用人達にも厳しく接する。当然、反発があったが、それも彼は力で押さえつけようとした。そのような事をすれば、当然、労働者達の士気は下がる。それでそのうち業績はわずかに下降し始めた。それに彼は慌てたが、その原因が分からない彼は、更に労働者達に厳しくしてしまった。もちろん、それは事態の悪化を招いただけだった。

 アイレントの労働者達に対する体罰は、そのような頃に始まった。

 彼としては、最初は見せしめのつもりだったらしい。恐怖を与えれば、それで労働者達は真面目に働くようになるだろうとそう考えたのだ。ところが、それをやり続けるうちに、彼の中にある新しい感覚が生まれてしまったのだった。

 愉しい。

 鞭を振るうその度に悲鳴を上げる使用人達。男も女も少年も少女も。涙を流し、懇願し、無様に許しを請うその態度。自分が彼らを支配しているという、はっきりとした実感。そして、事業運営が思ったように成功せず、鬱憤が溜まっていた彼は、その悦びに直ぐに嵌ってしまったのだった。傷つけられたプライドの回復。自分の中の未知の蝋燭に火が灯ってしまった。

 それからは、日常的にアイレントは使用人や労働者達に体罰を加えるようになった。当初の目的は失われ、ただ愉悦を得る為だけにそれは行われるようになっていた。シュガー・ポットはそんな彼のお気に入りの一人だった。か弱く可憐な彼女が、自分に涙目で懇願するのを見るのが楽しくて堪らない。もちろん、他の使用人や労働者に対してもミスをすればやはり同じ様に彼はサディスティックな体罰を行った。

 そして、そんなある日の事だった。アイレント・カイリの暗殺を企てている者達がいるという噂が流れ始めたのだ。その信憑性は大いに疑われたが、アイレント自身はそれを信じてしまった。やはり自分の行為に幾何かの罪悪感は覚えていたのだろう。それで信頼できる(と彼が思っている)、別の地域で働いている昔の部下にそれを相談した結果、犯人達を捕まえるまで、或いは単なる噂だと分かるまで、身代わりを立てるということにしたのだった。結果として、オリバー・セルフリッジにそれを依頼したのである。

 もちろん、身代わりを立てたいからといって、都合良くアイレントに似ている人間が現れるはずがない。プロセスは実は逆で、以前からオリバー・セルフリッジというアイレント・カイリに瓜二つの男がいる事をその部下が知っていたからこそ、この身代わりの案が出たのだ。

 オリバー・セルフリッジは都市の貧民街に住んでいる貧乏な学者だった。主に社会学を専門に研究しているが、時折は大学などにも足を運ぶ事がある。セルフリッジをアイレントの部下が知っていたのは、かつてその大学に通う学生だったからだ。オリバー・セルフリッジは社会制度や風習や文化を、機能的役割から考察するという研究を行っており、経済にも詳しかった。だから知識面では問題なくアイレントの代わりができそうだった。しかも、先にも書いたが本人は貧乏で、研究費用を欲している。つまり、多額の報酬目当てで身代わりの依頼を受ける可能性が高いと思われたのだ。

 アイレント達が極秘で、セルフリッジにその依頼をすると、彼は快くそれを引き受けた。彼の方からも条件を出したが、それは充分な自由な時間の確保と、プライベートには干渉しないということだけだった。どうやら彼は自分の時間を使って研究を進めたいらしかった。

 事業において、アイレント・カイリだけが行っていたのは部下の監視と体罰くらいで、後の重要な仕事は他の者でも行えた。彼が研究をやる時間くらいは簡単に作れそうだった。彼が研究をしているのが見つかれば、身代わりではないかと疑われる可能性もあるが、それだって充分に隠し通せるだろうし誤魔化しもできる。恐れられているアイレントに覗くなと言われれば、彼のプライベートを暴こうとする人間もあまりいないはずだ。そう考え、アイレント側はその条件をあっさりと受け入れた。

 そして、そうしてオリバー・セルフリッジは、アイレントの身代わりとして、クーエルランド、カイリ財団の館の“ご主人様”になったのだった。

 

 ――割れた紅茶のカップは既に片付けられてあった。床も綺麗に掃除されてある。紅茶の染みの跡はまったく目立っていない。

 シュガー・ポットは、手持ち無沙汰な様子で食堂に立ち尽くしていた。周囲に人はほとんどいない。皆、持ち場に戻ってしまった。彼女も本来なら仕事を始めていなくてはいけない時間だ。もっとも、それで叱られる事はないだろうが。何しろ、彼女がここで待っているのは奥様の言い付けなのだから。ただ、それでも彼女は皆に対して、多少の後ろめたさを感じていた。他の使用人たちは彼女に対してむしろ同情していたのだが。

 『これから、シュガー・ポットはご主人様から酷い体罰を受けるはずだ。先程は許されたように思えたが、あれは恐らく何かの間違いだったのだろう。だからこそ彼女は、食堂でそのまま待たされている』

 使用人達はそのように考えていたのだ。

 食堂には時計がある。シュガー・ポットはそれで時間を確認している。まだ三十分程しか経っていなかったが、数時間も待っているように彼女には感じられた。

 これから、どんな酷い罰を受けるのだろう?

 そう彼女は不安に思っている。その所為で、強いストレスが彼女にかかっていた。直ぐにでもこの場から逃げ出したい。

 更に五分ほどが経過して、やっと扉が開いた。扉の向こうからは、ご主人様の姿が見える。先ほどのように笑ってはいない。表情が硬い。その後ろには、奥様のアニーと執事のクリックの姿があった。アニーは腰に手を当てていて、やや不機嫌そうにしている。クリックはいつも通りだった。

 ご主人様はゆっくりとした動作でシュガー・ポットの目の前にまで来ると、困ったような顔で彼女を見つめた。

 ――何か変だ。

 彼女はその視線に酷く不安になる。怯えた目をご主人様に向ける。それを受けて、ご主人様…… オリバー・セルフリッジは、非常に困った顔になった。彼は思う。

 “こんな子を、きつく折檻しろと言われても……”

 彼はアニーを振り返った。アニーは顎をわずかに動かし「やりなさい」とそう命令する。再び彼は視線をシュガーに向けた。酷く怯えている。何とかこの子を救えないか。彼はそう考えている。こんな子に体罰を加えるなど自分にはできない。

 シュガー・ポットはその視線を受けて不思議に思っていた。どう考えても、自分を傷つけようとしているようには見えない。

 しばらく悩むと、やがてセルフリッジは、自分が財団と交わした契約内容を思い出した。そして、それで何かアイデアが浮かんだようだった。

 “――これしかないですね”

 そう思うと振り返って言う。

 「それではこの子を、僕の部屋に連れて行く事にします」

 できるだけ悪そうな顔をしたつもりだったが、それは大層下手な演技だった。

 「どういう事かしら?」

 アニーはそう言う。口の端をわざとらしく歪めながらセルフリッジは返す。

 「この子はとても可愛い子じゃないですか……。だから、ちょっと、プライベートで可愛がってあげようかと」

 アイレント達、財団側は彼のプライベートには干渉しない約束になっていたはずだった。それにアニーは内心で笑った。

 “はんっ なるほどね。こいつは、そういう奴なのね……”

 それから彼女はこう言った。

 「分かりましたわ。それではご自由に、あなた」

 そしてその場から去ろうとする。

 「よろしいので?」

 そう言ったのは執事のクリックだった。それに彼女は小声でこう返す。

 「まぁ、ある意味、罰にはなるから良いのじゃないかしら? しかし、善人ぶっていても所詮、男は獣よね。あんな幼気な少女をてにかけようなんて呆れるわ」

 「いえ、そういう事ではなく…」とクリックは言いかけたが、余計な事と思い直して口を閉じた。

 “あの男があの娘に、性的虐待を加えるとは思えないが、奥様がそう思っているのなら放っておくか……”

 クリックは別にシュガー・ポットを罰したい訳ではない。要は周囲の人間達を騙せればそれで良いのだ。

 「なに?」とアニー。

 「いえ、何でもありません」

 そうクリックは応えると、「私も仕事がありますので失礼します」と、そう言って礼をし、食堂をやや速い足取りで出て行った。それからアニーも食堂を去ると、オリバー・セルフリッジは「それでは、付いて来てください」とそう言って、シュガー・ポットを連れて自室へと向かった。

 道行き。シュガーは顔を青くしていた。これから自分が何をされるのか、不安で堪らなかったのだ。確かにいつものご主人様とは違っているが、それは何か特殊な体罰の方法を考えたからなのかもしれない。

 やがて、ご主人様の部屋に辿り着く。大きなベッドが一つと机が一つとテーブルが一つ。机は仕事の為のものらしく、ペンと紙と書物がたくさん置かれてあった。テーブルの上には茶菓子がある。それに、ゆったりした感じの椅子。どうやら寛ぐ為のもののようだ。奥には簡単な給湯室があり、そこで紅茶などが淹れられるようになっていた。

 「あの…… 何を…」

 ……何をするのですか?

 そう、シュガーは言いたかったのだが、上手く発音ができなかった。

 これから自分はどんな酷い目に遭わせられるのだろう?

 そう思っている彼女に向け、ご主人様はこう言った。

 「そこにあるテーブルの椅子に腰をかけていてください」

 シュガーはその言葉に戸惑う。それがどんな罰の準備なのか、まったく予想ができなかったからだ。おずおずと進み椅子に腰を下ろす。その間でご主人様は給湯室に向かった。そして「良かった。紅茶があるみたいですね」などと声を上げ、それから紅茶の準備をし始めた。

 シュガーの頭は軽く混乱した。本来なら、「お茶なら、わたしが淹れます」とでも言うべき場面なのだろうが、混乱して口を動かす事ができない。それに、熱いお茶で自分を罰するつもりでいるのかもしれない。

 やがて、ご主人様は二つのカップに紅茶を淹れて運んできた。彼女の目の前に、そのうちの一つを置く。それに砂糖も。フワッと温かい湯気が舞った。

 「あの…… これは?」

 不思議に思いそう問いかけると、ご主人様はにっこりと笑ってこう答えた。

 「口止め料です。お茶菓子も食べて良いですよ」

 そして、お茶菓子も彼は彼女の前に置いた。お茶菓子はクッキーだった。チョコの粒が入った高級そうなやつだ。またご主人様は笑う。その笑顔は先に食堂で見たのと同じ、安心させる為の笑顔のように彼女には思えた。

 「口止め料? 何のですか?」

 そう恐る恐るシュガーが問うと、彼はこう答えた。

 「僕はどうやらあなたに体罰をしなければいけないらしいのですが、僕はそれをしたくないので、どうか体罰をした事にしておいて欲しいのですよ」

 へ?

 と、それを聞いてシュガー・ポットは思った。

 「どういう事ですか?」

 「そのままの意味ですよ」

 「でも、ご主人様は、いつもわたしを鞭打っていたではありませんか」

 しかも嬉々として打っていた。あれが演技で、本当は嫌がっていたとは彼女にはとても思えなかった。

 それを聞くと、オリバー・セルフリッジは、わずかながら表情を歪めた。それからこう言う。

 「はい。気が変わったのです。あ、紅茶、飲んでくださいね。冷ましてしまったら、もったいないですから」

 言われてシュガーは紅茶に口をつけた。美味しいはずなのだが、ほとんど味は感じられない。

 「口止め料として、それだけでは不充分ですか?」

 ご主人様からそう尋ねられ、シュガーは首を激しく横に振った。

 「とんでもない! むしろ、貰い過ぎなくらいです!」

 そもそも口止め料を貰う意味も分からないのだ。自分はミスをして、紅茶カップを割ってしまったのだから。

 それを聞くとセルフリッジは、穏やかな表情でこう言った。

 「そうですか。なら、払い過ぎの分は、お話でも聞かせてください」

 「お話ですか?」

 「はい。この館での仕事の事とか、生活の事とか…… できれば、他の使用人の方達の話も。特に、不満があったら、是非教えて欲しいです」

 「不満……」

 「あ、警戒しないでくださいね。不満を抱いている人達を罰しようというのではないのです。館の主としては、改善すべき点を知っておきたいというだけで。

 ただ、話し難いのでしたら、他愛ない話だけでも充分ですよ」

 シュガー・ポットにはやはり自分の主人の目的が分からなかった。しかし、自分に危害を加えるつもりがない事だけは確かなように思えた。それで彼女は安心し、慎重に言葉を選んで、普段の生活や仕事の話をし始めた。あれが大変だとか、誰が頼りになるとか、楽しい仕事は何かとか…… 話し過ぎないように気を付けたが、お茶を飲みながらのお喋りは楽しく、気が付くと夢中になってすっかり話し込んでしまい、あっという間に一時間ほどが経過していた。どうしてか、いつの間にかにご主人様は大変な聞き上手になっていたのだ。

 「あ、いけない。仕事!」

 と、彼女は時計を見て慌てて言う。それを聞くとご主人様は「あぁ、すいませんでした。足止めしてしまって」と心から申し訳なさそうに言った。それは彼女の知るご主人様なら、有り得ない台詞と態度だった。だが、もう彼女は驚かなかった。何かは分からないが、何かが起こって自分のご主人様は変わったのだ。そう結論付けるしかない。もう、以前のように暴力を振るったりはしない。

 「口止めの話、忘れないでくださいね」

 そう言うと、ご主人様は自室のドアを開け、シュガー・ポットの事を解放した。彼女は多少名残惜しそうにしつつも、速足で歩き、自分の持ち場へと戻って行った。

 

 夜中。

 仕事を終えたシュガー・ポットが自室のベッドで寛いでいると、ルームメイトのキャサリン・レッドが救急箱を抱えて部屋に入って来た。それを見て、シュガーは困った表情を浮かべる。キャサリンが何をしようとしているのかを察したからだ。ご主人様の体罰によってできたであろう傷の治療をする気でいるにきまっている。しかし、彼女が治療すべき傷は自分にはない。

 「ほら、傷を見せなさい」

 案の定、キャサリンはそう言った。彼女はシュガーよりも三歳ほど年上で、シュガーに対して姉のように接する。シュガーは彼女の事がとても好きだった。

 「あの……、キャサリン。大丈夫だから」

 困った顔でシュガーは言う。それを聞いてキャサリンは首を傾げた。

 「大丈夫な訳がないでしょーう。ほら、脱ぎなさいって」

 そして、そう言ってシュガーを無理矢理脱がしてしまう。彼女は優しいが、多少強引なところがあるのだ。しかし、その背中には以前に鞭で打たれた痕があるだけで、新しい傷は一つもなかった。

 「前?」

 と一言だけ言って首を傾げる彼女。

 「違う!」と、シュガー。

 「傷はどこにもできなかったの。やられたのはもっと別の事……」

 その言葉にキャサリンは鋭く反応する。

 「別の事って…… あんた、まさか、あの男に!

 あのクズ野郎! 自分には奥様がいるくせに。しかもこんな子供を。前々から怪しい怪しいとは思っていたのよ。あなたに対する態度が妙だったし、嫌な意味で妙にあなたの事を気に入っていたし……」

 その剣幕を受けて軽くため息を漏らすと、シュガーは頭を掻きながら言った。

 「違うの」

 「違う?」

 「そう。まぁ、なんて言うかね。信じられないかもしれないけど、酷い事は何もされなかったのよ。これは口止めされているのだけど」

 それにキャサリンは変な表情を浮かべた。

 「口止めって何よ?」

 「だから、わたしが何も傷つけられなかった事を話さないように言われたのよ。なんだかとても優しかったわ」

 「優しいって…… あのクズが? 俄かには信じられないのだけど」

 「うん。わたしも未だに信じられない。まるで、別人みたいだった」

 “別人”。

 その言葉にキャサリンは反応した。ただ、直ぐにその表情を隠す。シュガーはその変化を見逃さなかったが、敢えて気付かない振りをした。

 「まだ信じられないけど、まぁ、いいわ。実際にあなたに傷はない訳だし、取り敢えずは、それで」

 何がいいのかは分からなかったが、それからキャサリンはそう言った。まるで何かを誤魔化しているようだった。それをシュガーは不思議に思ったが深くは考えなかった。

 「さ、もう寝ましょう。明日も仕事が大変よ」

 キャサリンはそう言ってベッドに寝転がるとランプの灯りを消した。勝手に灯りを消されたシュガーは“なんだかな”と思いつつも自分も布団を被って寝に入った。

 

 実を言うと“ご主人様”アイレント・カイリ暗殺計画の噂を流したのは、キャサリンとその仲間達だったのだ。しかも彼女が提案者である。理由は色々とあるが、自分が妹のように可愛がっているシュガー・ポットが主人から酷く虐められている事もその一つだった。

 ただし、本気で暗殺を実行する気は彼女にはなかった。その噂を迂遠な“脅し”とし、主人の暴虐を抑える事がその目的だったのだ。暗殺の噂を恐れれば、主人は態度を少しは改めるだろうと彼女は考えたのだ。そして、処罰する為にいくら探そうとも、犯人が見つかる可能性はない。何しろ、実際に暗殺を企てている人間などいないのだから。だからそれは安全な策のはずだった。しかし噂が広がって行く内に、仲間達の中に本当に主人を暗殺したいと思う者が現れ始めてしまった。重労働と過剰な体罰の恨みを晴らしたい。もちろん、本当に暗殺計画を実行されてしまったら、彼女の立場も危うくなる。無関係を装う事は難しいだろう。だからそれを止めたいと思っていた。

 “……このネタは使えるわね”

 ベッドで横になりながら、彼女はそう思った。彼女はこう予想していたのだ。

 恐らく、今の主人は別人なのだ。暗殺を恐れるあまり、身代わりを立てたのだろう。本当の主人は、どこか遠くに隠れているに違いない。

 アイレント・カイリが暗殺を恐れて態度を改めたとは彼女には思えなかったのだ。もしそうなら、それを隠す必要などないから。彼女はこう考えていた。この話を皆に伝えれば、暗殺をしようとはもう思わないだろう。今の“ご主人様”はそもそも別人なのだから、暗殺したって意味がない。

 翌日、キャサリンは極秘の情報として、「アイレント・カイリが別人を身代わりにしている疑いがある」という話を皆にした。その話は驚きをもって迎えられたが、実際にシュガーが体罰を受けなかったという事を話すと皆はなんとか納得してくれた。もっとも、実際に体罰をしない事を自分の身で確かめるまでは、完全には信じ切れないと言う者も多くあったのだが。無理もないと彼女は思った。何しろ、彼女自身だって未だに信じ切れないでいたのだから。

 やがて、数日が経過すると、確かに「ご主人様は自分に体罰をしなかった」という証言が多く得られるようになっていった。オリバー・セルフリッジは、シュガー・ポット以外の人間にも同じ手段を使って……、つまり性的虐待を行っていると偽って、体罰を行う事を避けていたのだ。もちろん、老若男女問わず。

 「何か怪しいわね」と、流石に奥様のアニーもそれを変に思ったが、「何でもアリの性癖を持つ者も世の中にはいるのですよ。貧民街で暮らした事などないあなたには分からないでしょうが」などとやや世間知らずを馬鹿にされるような感じで、そうセルフリッジから言われたものだから、知ったか振りをして彼女は深くは追及をしなかった。

 「もちろん、知っています。ただ、実際にそんな者に会った事などないので、少し変だと思っただけです」

 そう言って彼女は誤魔化した。本当は知らなかったのだが。

 ただ、そう誤魔化しながらも、彼女はセルフリッジに騙されているのではないかと疑ってはいた。そして、そのように彼女が疑念を持っているだろう事にセルフリッジは気付いていて、だからどうしたものかと頭を悩ませていたのだった。

 なにしろ、すっかりご主人様に安心をした使用人達の中には、仕事をさぼる口実になると、わざと主人の前でミスを犯すような不届き者も出てきてしまっていたのだ。そうすれば、しばらくはお茶を飲みながらのお喋りが楽しめる。これでは、ばれるのも時間の問題だった。

 

 ところで、この館にはヘルメという名のフットマンがいた。彼は少し変わっていて、他の使用人達とは違い、館の本当の主、アイレント・カイリに対して、本心からの忠誠を誓っていた。皆と同じ様に痛めつけられているのにも拘らず…… と言うよりも、彼は主が自分を痛めつけるからこそ、忠誠を誓っていたのだが。彼は痛めつけられる事に快感を覚えるという少々特殊な性癖を持っていたのだ。つまるところを言えば、彼はマゾヒストだったのである。

 彼、ヘルメはここ最近、少しばかり不機嫌だった。それは他の使用人達が、彼のご主人様へ愛の懲罰を求めすぎているように思えていたからだ。彼は思う。

 “確かに、ご主人様の懲罰は、芸術的と言えるほどに甘美だ。しかし、だからといって、そう頻繁に求めていては、ご主人様に対して失礼というもの…… ご主人様のお時間を奪ってしまうではないか。なんと節度を知らない者達だろう”

 もっとも、羨ましいと本当は彼は感じていて、それは嫉妬でもあったのだが。

 そんなある日の事だった。

 彼は彼の愛すべきご主人様の前で、ミスを犯してしまったのだった。大切なご主人様の服へのアイロンがけをしくじり、少し焦がしてしまったのだ。

 “これはわざとではない。本当の過失だ。だから、失礼には当たらない”

 そう彼は思っていたが、内心の期待を誤魔化すことはできなかった。セルフリッジは、いつものようにミスを犯したヘルメを自室に連れて行った。ただ、その頃にはセルフリッジは、わざとミスを犯す使用人達に多少は辟易していて、ヘルメに対し真っ当に相手をする気はなかった。明らかに期待している彼の表情から、セルフリッジは彼も休憩目的でわざとミスを犯したと思っていたのだ。早々に紅茶を出すと、「さぁ、これを飲んで、早く仕事に戻ってください」とそう言う。

 ヘルメはそのご主人様の言葉と行動と態度に目を丸くする。

 「あの…… 懲罰は?」

 彼は懲罰を期待していたのだ。

 その言葉をセルフリッジは、茶菓子と休憩時間を要求したものだと受け取った。だから、こうそれに返す。

 「懲罰はありません。敢えて言うのなら、さっさと仕事に戻る。それがあなたへの罰です」

 それに更にヘルメは目を丸くする。しばし固まったが、それから彼は“まさか!”とこう思った。

 “ご主人様は私が懲罰を期待している事を見抜き、敢えて罰をしないことを罰にしようというのではないだろうか?

 ……これは、なんという辱しめだ。なんという考え抜かれた罰だ。なんという高度なプレイなのだ!”

 その時、彼は全身に快感が駆け巡るのを感じていた。恍惚とした表情。そのヘルメの様子に、セルフリッジは首を傾げて「大丈夫ですか?」とそう問いかける。

 「はい。もちろん、大丈夫です。大丈夫過ぎるほどです」

 ヘルメのその返答に、セルフリッジは怪訝な顔になった。「はぁ」とそれに返す。

 それを受けると、ヘルメはフラフラとした足取りで、部屋から出て行った。出て行った彼を見ながら、セルフリッジは不思議そうに独り言を言った。

 「……本当に大丈夫ですかね?」

 

 ヘルメはご主人様の部屋から出、仕事に戻ってしばらくが過ぎたあたりで、奥様のアニーに話しかけられた。ちょうど彼は廊下で荷物を運んでいる最中だった。

 「ヘルメ、少し話があります」

 ヘルメはアニーの事が好きでも嫌いでもない。多少の嫉妬はあるものの、ご主人様を奪い合うライバルなどとも見なしていない。ご主人様と彼女が仮面夫婦である事を知っているからだ。ただ、権力を持っている事は確かなので、一応は忠誠を尽くしているような振りは心がけている。

 「なんでしょう? アニー奥様」

 そう整然と言う彼に、アニーは少しばかり言い難そうにした。

 彼女はセルフリッジが、自室で彼に何をしたのかを知りたかったのだ。罰として、本当に彼の言うように性的な虐待を加えているのか。他の使用人達に尋ねても恐らくは正直には言わないだろう。しかし、ヘルメは別だと彼女は思っていた。彼は本当に自分達に忠誠を誓っている。自分が問い詰めれば、正直に話すはずだ。

 「先ほど、アイレントの部屋であなたは夫から何をされましたか?」

 そのアニーの問いかけを聞いて、ヘルメは思う。“ははぁ なるほど、この女は私に嫉妬をしているのだな”と。それで彼は、多少の優越感を覚えながらこう返した。

 「とても甘美な懲罰を受けていました」

 アニーはその言葉に驚く。

 “甘美な懲罰ですって?”

 顔を二つの掌で覆い隠す。

 彼女は愕然となりながら“なんて事! やっぱり、あのセルフリッジの言葉は本当だったのね”と、そう思った。

 彼女はショックを受けながら、その二人の行為を想像して少し顔を赤らめ、身体をよろけさせた。そして、

 「なんて、ふしだらなのぉ!!」

 そう叫んで、廊下を逃げるように去っていってしまった。その彼女の様子を見て、ヘルメは嬉しそうに「ふふ」と呟く。

 偶然、近くでその光景を見ていたシュガー・ポットは「いったい、何なのかしら?」と、そう言って変な顔で首を傾げた。

 

 その次の日。シュガー・ポットはご主人様から自室に呼ばれた。もちろん、セルフリッジが彼女を罰するはずはないからそんな事の為に呼んだ訳ではない。彼は彼女に「わざとミスを犯す使用人を何とかできないでしょうか?」とそう相談したのだ。

 シュガー・ポットはそれを聞くと少し考え「キャサリンに言えば、多分、みんなを止めてくれると思います」とそう応えた。それにセルフリッジは数度頷くと、「あぁ、あの頼りになるという人ですね」とそう言って、安心した表情を浮かべる。

 「助かります。そろそろ、皆から充分に情報を集められたところだったので、お話を聞く必要もそんなにはないですし」

 それを聞くとシュガー・ポットは軽く首を傾げた。

 「情報?」

 それにセルフリッジは大きく頷く。

 「はい。情報です。情報がなければ、何にも計画は立てられませんからね。まずは情報収集からというのは、何事においても基本です」

 それにシュガーは少しばかり不安そうな表情を浮かべた。

 「計画… といいますと、ご主人様は一体、何をなさるおつもりでいるのですか?」

 それに彼は、例の彼女を安心させる為の笑顔を浮かべながら、こう答えた。

 「少しばかり、従業員の方達の待遇改善をしたいと思いまして。その為の計画を考えていたのですよ。ようやく形になりました」

 それに反論をするように彼女は言う。

 「でもでも、ここ最近は、酷い罰を受ける事もないですし、それにきつい仕事も随分と減っていますよ? 待遇改善はしていると思いますが」

 それに彼は頷く。

 「そうですね。取り急ぎ、できる事だけはやりましたから。幸い、反対する人もあまりいませんでしたし」

 労働者達にとことん厳しくする、というアイレント・カイリの経営方針は、表立って異を唱える者がいなかっただけで、やはり不評だったのだ。従業員達に不満が溜まっている事は明らかだったし、業績はむしろ下がっていたのだから、それも当たり前なのだが。

 「ですが、それだけじゃまだ足らないのですよ。今のままでは生活が苦しい人がたくさんいます。流石に従業員達の給与を上げるとなると反対する方達が多く出そうですからね。だからその為にチェリー部門の利益を増やそうと思ったのです。そうすれば給与も上げられるでしょう?」

 その言葉にシュガー・ポットは首を傾げた。

 「一体、何をなさるおつもりなのですか、ご主人様?」

 もしも、そんなに簡単に利益を増やせるのなら、とっくの昔に誰かがやっているだろうとそう彼女は思ったのだ。その彼女の考えを見抜いたのか、彼はこうそれに返した。

 「上層部にいるような経営者達には見え難い事ってのは案外あるものなのですよ、シュガー・ポットさん。普通のお偉い方々とは違う事を、僕はしてきましたから、彼らにはない視野を持っています。それで、気付ける事もかなりあったのですね」

 シュガー・ポットはそれを聞いて、また首を傾げた。

 彼女が知っているここ最近のご主人様の行動で、普通は上層部がしないものといえば、皆からのお喋りを聞いていた事と、後はこの地域の風土を調べていた事くらいだった。それでどうして経営改善のアイデアが出るのか、彼女には分からない。更に、彼女にはそれが自分が商売に疎い所為だとも思えなかった。だからやはり不可解な表情を浮かべる。

 「まぁ、後少しで分かりますよ。見ていてください」

 彼女のその表情を受けると、そう言ってセルフリッジは、少しだけ悪戯っぽい笑顔を見せた。

 そして、以前彼の考えている事は分からなかったのだが、それでもその笑顔を見て無根拠ながら、もしかしたら期待しても良いのかもしれないと、シュガー・ポットは漠然とそんな風に思ったのだった。

 

 「資料を確認したところ、廃棄されているチェリーがかなりの量になりますね」

 

 トップの経営陣に対し、オリバー・セルフリッジは、まるで演説をするような口調でそう言った。

 経営陣の一人、最も発言力のあるらしい老年の重役がそれを聞いてこう返す。

 「その通りです。ですが、それは売れ残った分です。致し方ないかと。摘んでしまったチェリーが売れない事もあります」

 それを聞くと、セルフリッジは軽く微笑みこう返す。

 「ですが、うちはチェリーの加工も行っています。ジャムやドレンチェリー、チェリー酒、チェリーパイも好評ではありませんか。特にジャム、チェリー酒、ドレンチェリーは保存がきくし、遠くの地域にまでも需要がある。そちらに、廃棄されたチェリーを回せれば利益は上がります」

 その発言に対しては、何人かから疑問の声が上がった。

 「加工品は確かに好評だが、製造コストがかかります。利益率では、そのままの生のチェリーの方が上です」

 「在庫調整は非常に難しい。どれだけ売れるのか分からないのだから、廃棄が出る事を防ぐのは無理でしょう」

 「加工品にチェリーを回したら、それはそれでリスクがあります」

 全ての声を聞き終えたところで、セルフリッジはこう言った。

 「なるほど。確かに、皆様のご意見はごもっともです。ですが、ならば、予めどれだけチェリーが売れるのかが分かれば、問題は解決するという事になりますよね?」

 言い終えると彼は笑う。

 その言葉に、その場にいたトップ経営陣のメンバーは顔を見合わせた。それから、この男は何を言っているのか?と、そう自分達の長を凝視する。その視線を受けても、セルフリッジはまったく臆することなく毅然としていた。

 「そんな事はできるはずが……」

 経営陣の一人がそう言いかけるのを遮り、やはり笑顔で力強く彼は言う。

 「できるから、僕はそう言っているんですよ」

 

 ある日、果物屋の所に、カイリ財団の人間がやって来た。と言っても、毎年チェリーを配達しに来るお馴染みの青年で、何も堅苦しい事はない。彼は何故か、書類とポスターのようなものを持っている。チェリーは運んで来てはいない。もっとも、チェリーの収穫時期までにはまだもう少し間があるし、そもそも配達を頼んでもいないのだが。

 「よぉ、今日はどうしたんだい、兄ちゃん」

 果物屋はそう青年に話しかける。すると、彼はこう返した。

 「いや、なんか、今度からうちで、チェリーの予約受付を始めるらしくってさ。この店にも協力して欲しいんだよ」

 そう言いながら青年は、書類を差し出す。果物屋はそれを受け取ると、怪訝そうな顔になった。

 「予約受付?

 なんだよ。けっこう、割り引くな」

 そこにはチェリーの販売量とその値段と共に、これを利用すれば1kg当たり従来よりどれだけ安くなるのかが書かれてあった。その数字に果物屋は難しそうな顔になる。

 「こんなに安くされちゃ、うちの取り分がなくなっちまうよ」

 そして、そう言った。すると、青年はその言葉を予想していたかのようにこう言う。

 「おじさん。それは安心してくれよ。ちゃんといつもと同じくらいの稼ぎになるよう手数料は払うからさ」

 「本当かい? なら、別に良いが。ただ、ちょっと疑問だな。それって、そっちの稼ぎはどうなるんだよ?」

 「それが大丈夫らしいんだよ。ほら、先にどれだけ売れるのかが分かっていれば、チェリーを腐らせちまう事がなくなるだろう? それに一度に配達できるお蔭で無駄もなくなるから、手間を省けるようにもなる。それで、こっちも安上がりになるんだよ。むしろ稼ぎが増えるくらいなんだぜ」

 その青年の説明は、質問が来た時の為に用意されていたものだった。セルフリッジがマニュアルを作っておいたのだ。もちろん、信頼を得る為である。

 それを聞いて果物屋は考える。

 そして、自分の経験に当て嵌め、確かに仕入れた果物を腐らせる事がなくなればコストはかなり浮くと納得をした。

 「なるほどな。色々と考えるもんだな、そちらさんも」

 それで彼はそう感心したように言った。

 

 「つまり、予約注文中心で、チェリーを販売しようというのですか?」

 と、トップ経営陣の一人が尋ねる。

 それにセルフリッジは頷く。

 「その通りです。売れる事がほぼ確実に分かる予約注文ならば、在庫を抱えるリスクはほとんどありません。まとめ買いしてもらうようにすれば、輸送コストも減らせる。そして、残ったチェリーを加工品に回すようにすれば、利益は大幅に増えます。もちろん、廃棄処分にかかるコストもなくなりますね」

 腐って売り物にならなくなったチェリーは、今までは外部の業者に処分を任せて来た。その費用がなくなり、反対にチェリー加工品の販売益は増える。確かに、それに成功すれば大幅に利益を増やせそうだった。しかし、経営陣のメンバーはまだ納得しない。

 「ですが、そう上手くいくでしょうか? 客が予約注文してくれるとは限らない。競合するライバルだっているのに」

 「ライバルに対しての競争力は安さでなんとかしましょう。なに、小売価格には、果物屋などが腐らせてしまう分のチェリーのコストも入っていますから、それがなくなる事も考えれば随分と最終販売価格は安くできます」

 それを受け、重役達は顔を再び見合わせた。口を開く。

 「予約注文では、どれくらい買ってもらうつもりでいるのですか? まとめ買いで、輸送コストを浮かすのなら、それなりの量にしないと……」

 「そうですね。最低でも1kgといったところでしょうか」

 それに重役達は難しい顔を見せた。

 「一度に、そんなにたくさん買いますかね?」

 その言葉にセルフリッジはにっこりと笑う。

 「僕はこの地域の風土について、少しばかり調べてみたんです。すると、面白い事が分かりましたよ。この辺りでは、野菜があまり採れないのですね。土質が適していなくて、野菜畑が少ない」

 その説明に経営陣のメンバーは「はぁ」とそう返す。それがどうしたのだ?とでも言いたげな表情だ。

 「結果的にこの地域には、栄養不足を補う為、果物を多く食べる文化が育っている。そして、チェリーもそのうちの一つで、つまりは生活になくてはならない食べ物の一つなのですね。チェリーが収穫できる時期は、毎日のように食されているようです。当然、まとめ買いも普通に行われていますよ。

 少し心配があるとすれば、注文してからチェリーが届くまでの時間差を、消費者がどれくらい許容してくれるのかといった点ですが、定期販売の契約にまで持って行ければ、それにも慣れてくれるでしょう。大きな問題はないと思います」

 経営陣はそれを聞いて、少しばかり怯んだ。彼らは地元の一般的な生活者の暮らしを知らない。彼ら上層部のほとんどは都会からやって来た者達だったし、地元に住む者も裕福な家の出だったからだ。それで何も言い返せない。

 セルフリッジはこう言った。

 「これは我が社が儲かるというだけの話ではありません。本来は廃棄されていたチェリーを有効に活かせるというのは、社会全体で資源を無駄なく使えるという事です。つまり社会貢献にもなる。少なくとも、チャレンジしてみる価値はあると思いますよ」

 

 結局、セルフリッジのその提案を、トップ経営陣のメンバーは受け入れる事になった。ただし、それまでに多少の抵抗もあるにはあったのだが。経営陣にとってみれば彼の提案を受け入れる事は、自分達が今までして来た事の否定を意味するからだろう。ただ、これに失敗すればセルフリッジの、つまりは“ご主人様”の発言力も弱くなるだろうし、カイリ家の権力も怖かった為、経営陣達は最終的には提案を受け入れた方が得だと判断したのだ。

 そして、6月。

 チェリーの収穫販売がいよいよ始まる。

 この地域のチェリーの収穫時期は、6月の初めから8月の中旬頃までだ。品種の違うチェリーを数種植え、長く収穫できるように工夫してある。

 充分に宣伝を行っていた上に、皆がチェリー収穫の始まりを待ち望んでいたという事もあって、カイリ財団が始めた予約注文システムは大きな注目を集めていた。しかし、それでも最初の一週間は、それほどの注文は入らなかった。皆はその新しいシステムに不安を覚えていたのだろう。経営陣達は“それ見たことか”と、密かに思っていた。ところが、二週間目に入ると状況は一変した。注文が殺到し始めたのだ。

 住民達は最初に予約注文を利用した者達の評判を口コミで聞いたのだ。「普通に買うよりも新鮮で安くて美味しい」と、予約注文を利用した者達は口々に言った。

 配達する時間が分かれば、保存期間は短くて済む。直前に摘んだチェリーを直ぐに出荷できるからだ。更に、初めの印象が肝心と、セルフリッジが品質の優れたものをできる限り選ぶように指示を出していた為、新鮮で美味しいチェリーを消費者達に届けられたのである。その評判はその成果だった。

 「素晴らしい。廃棄の無駄がなくなるどころか、普通のチェリーの売り上げですら昨年を超えていますぞ」

 その結果を受けると、トップ経営陣のメンバーはそう手の平返しで、セルフリッジの事を褒め始めた。

 「このまま行けば、生のチェリーの売り上げだけでどれくらいになるか……」

 ところが、それにやや困った顔で、セルフリッジはこう返すのだった。

 「いえ、過剰な期待はしない方が良いと僕は思いますよ」

 経営陣の一人が尋ねる。

 「何故ですか?」

 「この成功を観れば、当然、他の農園も同様の手段を執り始めるでしょう。すると、競合する為、当然、我が社の売り上げは減ります。それに最初の真新しさをという事も、この好調な売り上げの要因になっている。だから、やがて時間が経てば落ち着いていくだろうと思います」

 そのセルフリッジの言葉通り、一ヶ月も経つとチェリーの売り上げは落ち着いていった。もっとも、それでも昨年よりもかなり上回っていたのだが。

 ただし、それからがセルフリッジの計画のメインだった。本来ならば廃棄されていたはずの売り切れなかったチェリーを利用して、ジャムやドレンチェリー、チェリー酒、チェリーパイなどといった加工品をより多く作っていく。働く事が可能な者は、チェリーの在庫管理や効率の良い収穫で労力が減った分、そちらに回ったので、労働力不足には陥らなかった。

 そして、そのようにして、順調にチェリー加工品の売上は増えていったのだった。

 

 チェリー畑。

 早朝。

 新鮮さを重視し、朝一番で出荷するために、熟れたチェリーを摘む作業を皆がしている。その中には、メイドやフットマンなど、普段は館で働いている者達の姿も混ざっていた。

 予約注文制では、チェリーを摘む作業が一時に集中する。その方がスケールメリットを活かせるので、より効率的にはなるが、一時的により多くの労働力が必要になる。その労働力を補う為に館から助っ人が来ているのだ。ただし、その日の館での作業を彼らは免除されている。一日くらい掃除や草むしりをしなくても何も困らない。省ける作業は省いてしまったのだ。それもセルフリッジの指示である。

 「皆さん、ご苦労様です」

 唐突に、そう声がした。ご主人様の声だ。見るとニコニコとした顔で、ご主人様が小さな樽とコップを台車に乗せて運んで来ていた。

 その姿を認め、メイドのシュガー・ポットは作業の手を止めると、彼の許へ駆けて行く。

 「ご主人様、おはようございます!」

 そして、嬉しそうな顔でそう言った。

 “おやおや、随分と懐いたものね。少し前までは、あんなに嫌っていたのに”

 そう思ったのは同じ様に朝摘みに来ていたキャサリン・レッドだった。それから彼女は、シュガーは本能的に彼が別人だと悟っているのかもしれない、とそう思う。

 「はい。おはようございます」

 と、セルフリッジはシュガー・ポットに返す。その後で「これは何ですか?」と彼女は訊いた。彼が持って来た樽のことだ。彼はそれにこう答えた。

 「差し入れです。と言っても、試飲も兼ねているのですがね。今度、うちから売りに出そうとしているチェリージュースです」

 「ジュースですか?」

 「ええ。皆さんを呼んでいただけませんか?」

 しかし、そう彼が言い終える頃にはシュガー・ポットが呼ぶまでもなく、作業員達は彼の許に集まって来ていた。

 「どうも、ご主人!」

 「事業長さま、おはようございます」

 「おはよーございまーす」

 皆、次々に気さくにセルフリッジに挨拶をしている。すっかり彼に安心をしているのだ。笑いながら彼は言う。

 「皆さん、おはようございます。差し入れを持って来ました。皆さんで、飲んでください。新作のチェリージュースですよ」

 それを聞くと一人が快活に笑いながら、こう言った。

 「差し入れって、旦那。実験の間違えでしょう!?」

 その冗談に「まぁ、そうともいいますね」とセルフリッジは付き合う。一時あった、事業長への反発ムードが嘘のようだ。全体的に観れば仕事は随分と楽になっていたし体罰もない。そのうえ、このまま好調な売り上げが続けば、近々、給与も上がりそうなのだからそれも当然だった。

 チェリージュースを飲んで、キャサリンが感想を一言。

 「なにか、普通のチェリージュースと味が違いますね」

 セルフリッジは応える。

 「分かりますか? 実は少しだけ塩を入れてみたんです。皆さん、労働で汗を流しているだろうと思いまして」

 「それは、ありがたいですなぁ。確かに美味しい。疲れた体に嬉しい」と誰かが言う。それに続けてシュガー・ポットが言った。

 「でもでも、それって、一般の人向けの味じゃないのじゃないですか?」

 「なに。これから暑くなりますからね。ちょうど良いと思いますよ」

 そうセルフリッジが言い終えると、誰かが「俺は酒の方が嬉しいけどねぇ」とそう言い、それを聞いた皆は笑った。

 チェリージュースを皆が飲み終えた後、セルフリッジがシュガー・ポットに話しかける。

 「どうですか? シュガー・ポットさん。チェリー摘みは、大変じゃないですか? 慣れない仕事でしょうし」

 「大丈夫ですよ。偶には畑に出て仕事をするのも楽しいです。それに、わたしも少しはチェリー摘みをした事がありますから」

 「そうなんですか? それは、凄いですね」

 「でもでも、この地方の人達は、誰でも一度はチェリー摘みを経験した事があると思いますよ」

 その二人が会話している様子を見て、キャサリンはこう思っていた。

 “和やかねぇ……。こーいうのがあれね、仕合せな光景っていうのね。アイレント・カイリの身代わりになっているあの人がいい人で良かったわ”

 ただ、それから少しだけ暗い顔になると彼女は続けてこう思う。

 “……だけど、問題は、これがいつまでも続く訳じゃないって事なのよね”

 そう。

 アイレント・カイリの身代わり…… オリバー・セルフリッジというこの男は、いずれは何処かに行ってしまうはずなのだ。アイレント・カイリが命を狙われているという話が、単なる噂だと館の上の方の人間達に思われた時点で、暴君である本物のアイレント・カイリが帰って来てしまう。

 “さてさて。どーしたもんからしらね?”

 そう思って彼女は深くため息を漏らした。可愛いシュガー・ポットが彼に懐いているだけに、いっそう彼女は憂鬱だった。

 

 チェリー予約注文システムが始まってから、一ヶ月と二週間が過ぎた辺りの事だった。ちょっとした事件があった。その切っ掛けとなったのは、アイレントの兄のクライシス・カイリが突然館に訪ねて来たことだった。自分の弟が、順調にチェリー部門の利益を伸ばすのに成功しているという話を聞き、彼は様子を見にやって来たのだ。

 表面上は、成功した弟を高く評価している振りをしているクライシスだったが、内心では非常に不安に思っていた。彼としては、まさか愚かな弟が事業運営に成功するとは思っていなかったのだ。そして、万が一でも成功すれば、弟は自分に歯向かって来るだろうとそう考えてもいた。

 チェリー部門の業績の伸びは単なる幸運の結果。クライシスとしては、その確かな証拠が得られる事が一番だった。そうすれば、弟の評価は低いままにしておける。彼の本当の目的は、それを見つける事だった。必ずそれはあると彼は考えていた。弟は経営というものを分かっていないはずだから。ただ威張っているだけの人間が成功できるほど、事業運営は甘くない。

 だが、彼の見込みは外れた。自分の弟が予約注文システムという新たな販売方法を作りだし、見事それを軌道に乗せたという資料と証拠と説明を見せられて、その実績を認めない訳にはいかない状況に追い込まれてしまっていたのである。

 それで彼は客室で頭を抱えていた。何故か、まだ弟は姿を見せないが、会う前から得意満面の顔で偉そうに自分の業績を自慢する弟の姿が彼の目には浮かんでいた。

 “弱ったな。事によると、あいつは私の一番の敵になりかねないぞ”

 彼はそう考えていた。

 しかし、だからこそ、長い時間待たされてようやく現れた弟の姿を見て、彼は目を丸くしたのだった。

 「どうも、お兄さん。長い時間待たせてしまいまして、大変な失礼を……」

 ――お兄さん?

 弟が自分をそう呼ぶのを、彼は初めて聞いた。いつもは“クライシス”と、そう呼んでいたのだ。何かの皮肉かとも思ったのだが、どうもそんな態度にも見えない。それに、いつも弟にあった隠そうとしても隠しきれない傲慢さがまったく感じられない。事業運営に成功しているというのに。

 「どうした、アイレント。お前らしくもない態度だな。久しぶりに会うからか?」

 戸惑って彼がそう訊くと、妙な弟は自分よりも更に戸惑った様子で「はい。ええ、とても久しぶりなので」とそう答えた。

 ――やはり、変だ。

 クライシスはそう思う。

 探りを入れるように彼はこう言ってみた。

 「ところで、アイレント。お前は中央に戻りたがっていたよな? これだけの業績を出せば、中央の人間達もお前を評価しない訳にはいかない。直ぐにでも戻れるかもしれないぞ」

 それを聞くと弟は慌てる。

 「いえ、まだ業績が上がったと確定した訳ではありませんので……」

 「なに、資料を見させてもらったが、既に確定したようなものだろう。それに、もう難しい仕事もなさそうだ。後の事は、ここの連中に任せて、お前にはその腕を中央で振るってもらいたい」

 そうクライシスが言うと、弟は益々焦った。

 「いえ、まだやり残した仕事があります。今、それをがんばっているところでして」

 「やり残した仕事? なんだ、まだ何かやる気でいるのか?」

 「はい。従業員達の賃上げを…… どの程度基本給を上げて、どの程度を一時金で支払うか、今、調整中なのです」

 実は賃上げをしたいというセルフリッジの主張を一部の経営陣が反対していて、それで揉めている最中だったのだ。セルフリッジの提案では高過ぎる、基本給はそれほど上げず、一時金で支払うべきだと経営陣はそう主張していた。

 「従業員達の賃上げをする?」

 「はい。今回、彼らも随分とがんばってくれましたので、お返しをしなければいけません」

 その言葉を聞いて、クライシスの違和感と懐疑は確信に変わった。

 この男は自分の弟ではない!

 彼の知る弟は、例え他人の手柄であったとしてもそれを自分の成果だと思い込む。しかも、今回の仕事の実績は、資料を観る限り、ほとんど間違いなく弟の成果だ。労働力不足だというのならまだ話は分かるが、そうでないのなら、労働賃金を上げようなどとは絶対に思わないだろう。

 「なるほど、分かった。悪いがしばらく、一人で考えたい。一人にしてくれないか?」

 それからクライシスはそう言う。それでセルフリッジが出て行くと、彼は直ぐに執事のクリックを客室に呼び付けた。

 客室にやって来たクリックは、既に用件を察しているらしく覚悟しているような表情を浮かべていた。

 「あの男は、誰だ?」

 開口一番にクライシスはそう訊く。

 「と、言いますと。どなたの事で?」

 「とぼけるな、分かっているはずだ。私の弟は、間違っても従業員達の賃金を上げようなどとは考えない」

 それを聞くとクリックは軽くため息を漏らした。自己防衛能力に優れたこの老人は、それを兄に話すのを自分の弟が快く思わない事を知っているのだろう。それを受けてクライシスはそう思った。

 観念したような口調で、クリックは語り始める。

 「実はクライシス様のお察しの通り、今、アイレント・カイリ様は身代わりを立てています。先ほどお会いしたあの男は、まったくの別人でして」

 クライシスはその言葉に大きく頷く。

 「で、何者なんだ?」

 「本名は、オリバー・セルフリッジ。貧乏な学者です。研究費用を稼ぐために、身代わりの依頼を引き受けたようです」

 「学者?」

 「詳しくは知りませんが、機能面から風習や文化を研究している社会学者だそうです」

 少し考えると、クライシスは「ほぅ」とそう言う。

 “それで、普通の経営者にはない発想が出て来たのかもしれないな”

 そして、そう思う。ただ、続けて“しかし、だからこそ経営者としては弱いな。あの態度から察するに事業を拡大する気もないようだ。一時だけの経営者だから、それも当然かもしれないが……”とそう彼は分析した。先に見たセルフリッジの姿を思い浮かべている。それから彼はふと思い付いたようにこう言った。

 「ところで、アイレントは、あの男のお蔭でチェリー部門の業績が伸びている事を知っているのか?」

 「はい。伝えてありますので、ご存知かと」

 「私が今日、ここに来た事は?」

 「クライシス様は突然お訪ねになられましたので、まだ知らないかとは思いますが、先ほど連絡をするよう指示を出しましたので、後少しで耳に入るのではないかと思います」

 それを聞くと、「なるほど」とクライシスは応える。チェリー部門の業績の伸びは単なる幸運の結果。その証拠隠滅を恐れて、彼は訪ねる事を敢えて知らせていなかった。

 「それほど離れた場所に隠れている訳ではないのだな。なら、明日までの間に、あいつはここにやって来るぞ」

 それにクリックは驚いた顔をする。クライシスはその顔に向けて言った。

 「何を驚いている? お前だって、あいつが私にこの事実を知られたがっていないと分かっているだろう? 従業員の扱いに失敗し、暗殺の噂が立つ程に憎まれ、そして極めつけに、立てた身代わりが自分以上の業績を残してしまった。あいつにとってみれば、大恥だ。隠そうとするはずさ」

 「ですが、お命を狙われていると、ご主人様は思っていますから……」

 「お前はまだあいつの事が分かっていない。あいつは何よりもプライドを重視する。特に私に対してはな。それに、実績から観て、既に身代わりを立ててから二ヶ月以上が過ぎているのだろう? そろそろ、隠遁生活にも飽きている頃だぞ」

 そのクライシスの説明に、クリックは不安げな表情を浮かべる。それを見て、クライシスは軽く笑うとこう言った。

 「まぁ、お前がこの件を私に話した事については黙っていてやる。だが、その他の点については保証しないぞ。

 あいつが戻って来たら、全てをぶち壊しかねないからな……」

 

 その男の顔色は酷く青白かった。表情は怯えているようにも、何かを威嚇しているようにも見えたが、ネガティブなものである事は確実だった。その男は、裏の出入り口から入り廊下を進んでいた。途中、メイドの一人に「こんばんは」と挨拶をされた。

 「あれ? ご主人様。先ほどは、メイド室の近くにいませんでしたっけ?」

 メイドは続けて、そう尋ねてくる。随分と気さくだ。メイドからそんな風に接されるのは彼は初めての事だった。分かっている。身代わりとなっている男と勘違いしているのだ。そう、その男…… アイレント・カイリは考えた。

 “身代わりの男は、随分と勝手な振る舞いをしているようですね。これでは、折角の躾が台無しではないですか……”

 メイドの問いに答える代わりに、軽く睨め付けると彼は廊下を進んだ。甘く接すれば、労働者は怠けてしまうというのに。と内心で怒りながら。

 その視線を受けたメイドは、一瞬、どうしてなのか分からず驚いた表情を浮かべたが、直ぐに悪い予感を覚え、危機感を抱いた。その視線に心当たりがあったからだ。二ヶ月前までの狂った暴君であったご主人様、その彼がよくそんな視線で皆を見ていた。

 “まずい……。これは、キャサリンに伝えなくちゃ”

 メイドはそう思うと、廊下を駆けた。

 

 アイレントは執事のクリックを探していた。連絡もせずに突然に帰って来たから、自分を迎え入れる準備が何もできていない。このままでは、クライシスを誤魔化せない。何しろ、ここにいる連中は、身代わりを本当の主人だと信じ込んでいるのだ。

 今、館にいる人間で、彼こそが本物だと知っているのは妻のアニーと執事のクリックくらいだった。アニーは何もしないだろうから、主の座に戻る為には、彼はクリックを探し出さなくてはならないのだ。

 だが、いつもいつ事務室にクリックの姿はなかった。一体、何処にいるのか? アイレントは館の中を探し回る。館は広い。見つからない。苛立った彼は大声で叫んだ。

 

 「クリック! 何処だ? 何処にいる? 僕だ! 本物の主人、アイレント・カイリが帰って来たぞ!」

 

 メイド室の一つ。

 そこでキャサリンは顔をしかめて、目の前にいる“ご主人様”に必死に説明をしていた。駄目だ、この男はお人好し過ぎる、と思いながら。彼女が説明している“ご主人様”は、もちろん、オリバー・セルフリッジの方である。

 「だから、あの男にそんな感覚はないんですって」

 と、そう彼女は言う。それは主人に対してのものとはとても思えない呆れかえった口調だった。

 「はぁ…… ですが、業績は伸びているのですから、もう従業員に厳しく接する必要もないですし、それに自分を慕ってくる人間に酷い体罰を加えるとも思えないのですが」

 セルフリッジはそう返す。彼は自分のここでの仕事は、後は従業員の賃金を上げる事だけだと思っていたのだ。

 「あの男が、そんなに生易しい人間だったら、私達だってこんなに苦労していないわよ!」

 キャサリンはセルフリッジに対し、彼が身代わりである事に気付いていると告げ、更にいつかは帰って来るだろうアイレント・カイリへの対策について相談していたのだ。しかし彼はそれを深刻な問題だとは、受け止めてくれないのだった。

 人は誰か他人の心理を観る時、自分の心理を観るもの。だから、馬鹿がつくほどのお人好しのセルフリッジには、アイレント・カイリが理解できない。そんな酷い人間がいるとは想像できないのだ。

 「はぁ、そうなんですか…」

 そうキャサリンの言葉に彼は返す。キャサリンは再度、説得をしようと口を開きかける。しかし、そこでドアが開いた。

 「ちょっと、キャサリン! 大変よ! 本物のアイレント・カイリが帰って来たみたい!」

 彼女はそれを聞くと「なんですって!」とそう声を上げる。それからセルフリッジを見た。彼は首を横に振る。知らない、という事だ。

 「って事は、突然予定外に帰って来たってこと? ああ、もう、だからあいつは嫌いなのよ!」

 そう彼女は言った。それから、こう続ける。

 「早くみんなに気を付けろって伝えなくちゃ。今のご主人様に対する態度であいつに接したら、あいつは間違いなく酷い体罰をするわよ!

 特にシュガー! シュガー・ポット! あの子が危ないわ!」

 それを聞いてセルフリッジは顔を曇らせる。

 「どうしてです?」

 「あの子はあなたに懐いていて、アイレント・カイリに体罰の相手として気に入られているからよ! 長い間離れていたし、きっとその分だけ酷い目に……」

 それを聞くとセルフリッジの目の色が変わった。

 シュガー・ポットが自分だと安心し切ってご主人様に話しかけ、その気持ちを裏切られた上で体罰を受ける可哀想な姿を想像してしまったからだ。

 あの子は、どれだけ傷つくのだろう? 身体的にも、精神的にも。

 助けなければ……

 そう思うと、オリバー・セルフリッジは、メイド室を急いで出て行った。

 

 「クリーーック! 何処にいるぅ?」

 

 シュガー・ポットは廊下を歩いている最中、ご主人様がそう叫ぶ声を聞いた。珍しく声を荒げている。一体、何事かと彼女は声のする方に歩いて行った。

 すると、ご主人様が、まるで今外から帰って来たかのような恰好で、執事のクリックを探しながら廊下を歩いている姿を見つけた。

 「どうしたのですか、ご主人様?」

 彼女は無邪気にそう話しかけた。クリックに何の用なのかと。もしかしたら、自分も手伝えるかもしれない。

 「ほぉ シュガー・ポットですか」

 アイレントは彼女を見るとそう言った。苛立ちと喜びを同時に表現したかのような、複雑で歪で醜い表情を見せる。彼にしてみれば、親しげに自分に接するその態度が気に食わなかった。だが同時に、その表情が怯えたそれに変わるのを見る事ができるのが嬉しい。その複雑な表情は、その結果として表出したものだった。

 その彼の表情に、彼女は強烈な違和感を覚える。とてもご主人様とは思えない。それで、ついこう尋ねてしまった。

 「……あなたは、誰ですか?」

 その言葉にアイレントは怒りながら、喜んだ。

 「自分の“ご主人様”を忘れましたか、シュガー・ポット?! これは、きつく躾けて思い出させなくてはなりませんね!」

 そう言うと、彼は腰に常に携帯している鞭を手に取った。

 ピシッ

 と、そしてその鞭を振るって床に叩きつける。その音を聞いて、シュガー・ポットの脳裏に悲惨な体験が蘇った。

 身体に残る鞭の傷痕。

 「さぁ 壁に手を付いて、背中を見せなさい、シュガー・ポット! まずは軽くおしおきをしてあげます」

 その時、アイレントはクリックを探す事も、兄のクライシスを誤魔化さなくてはならないという事も忘れて、歪んだ情欲に支配されていた。数ヶ月も御無沙汰だったあの快感、愉悦。少しくらい楽しむ時間はあるだろう。

 「さぁ」

 アイレントはそう脅すように言う。それを聞いてシュガー・ポットは顔を青くする。そして、微かに「いや」と呟き、その後で大きく悲鳴を上げた。

 「いやぁ! 助けてください、ご主人様ぁ!」

 そして、その場を逃げ出してしまった。

 それを受け、アイレントは目を怒らせると「逃げるな! シュガー・ポット! ご主人様は、この僕です!」とそう言って、彼女を追いかけた。

 

 メイド室を出たオリバー・セルフリッジは、シュガー・ポットの悲鳴を聞いて、急いでその方角に向かって走った。すると、目の前から恐怖に怯えた表情で駆けて来る彼女の姿が見える。後から追いかけて来る自分とそっくりな男の姿も。男は鞭を持っている。しかも、走りながらそれを振り上げている。

 危ない!

 そう思うと、咄嗟にセルフリッジは彼女の事を庇った。抱え込むようにして、鞭に背を向け、彼女を守る。彼の背中に鞭が打ちつけられた。激しい苦痛が彼の全身に走った。

 「ぐぅ」

 とうめき声を上げる。

 突然、温かくて大きなものに守られたシュガーは目を大きくした。安心感。しかし、それは直ぐに彼のうめき声で吹き飛んでしまう。

 「ご主人様、大丈夫ですか?」

 心配そうに彼女はそう言った。

 「大丈夫ですよ。シュガー・ポットさんこそ、お怪我はありませんか?」

 それにセルフリッジはそう返す。すると、その後で彼の背中の向こうから、「その男は、お前のご主人様ではありませんよ、シュガー・ポット」と声が聞こえて来た。

 「その男は、ただの身代わり。この僕こそが本物のご主人様です……」

 鞭を振るう。再び、セルフリッジの背中に鞭が打ちつけられる。

 「ぐっ」とセルフリッジはまたうめく。それを受けて彼女は「大丈夫ですから、どいてください、ご主人様」とそう言った。その言葉がアイレントには気に食わない。

 「ご主人様は、この僕だと言ったはずです。シュガー・ポット!」

 再び鞭を振るおうとする。

 しかし、そこで声が響いた。

 「何をやっている? アイレント!」

 それはクライシスの声だった。驚いてアイレントが目を向けると、自分の兄が両腕を組んで立っている姿が目に入った。その後ろには執事のクリックの姿もある。

 「罪のないメイドに鞭を振るおうとする、ましてやそれを庇った勇敢な男を傷つけるなど、カイリ家の人間にあるまじき卑劣な行いだぞ」

 それを受けるとアイレントは、「これは、これは、クライシス。そういえば、来ていたのでしたね。後で挨拶をするつもりでしたが。なに、これは躾ですよ。メイドに少しばかり躾をね」と笑いながらそう返す。

 そして、鞭を振り上げた手を引く。それでセルフリッジはゆっくりと立ち上がると、シュガー・ポットを背中に隠した。シュガーは彼の背中に滲む血を見て、とても悲しそうな表情になる。そして、同時に深い感動を覚えてもいた。

 “身を挺して庇ってくれるなんて、やっぱりこの人の方が本物のご主人様だわ。いいえ、ご主人様なんて言葉じゃ言い表せない。もっと、もっと凄い人だ……”

 アイレントは続ける。

 「どうも彼女は、僕がご主人様である事を忘れているようなので、それを思い出させてあげようと思ったのですよ」

 その頃には声に導かれ、キャサリンや他のメイド、フットマン、それに奥様のアニーもそこに集まって来ていた。そして、セルフリッジが身代わりである事を知っているほとんどの者達は、そこで何が起こっているのかを大体は察していたのだった。

 つまりは、本物が帰って来て問題を起こしているのだ。あの男なら、それくらいする。

 皆は呆れかえった冷たい視線で、アイレントの事を見ていた。その視線の意味を知ってか知らずか、彼はこう言う。

 「お前達、分かっていますよね? その男はただの身代わり。この僕こそがこの館の本当のご主人様です。さぁ、僕の言う事を聞いてください」

 しかし、その言葉には誰も反応をしない。執事のクリックですらも。そして、しばらくの静寂の後、シュガー・ポットがこう言った。皆もきっと同じ想いなんだと思いながら。

 「確かに、あなたはこの館のご主人様かもしれません」

 目の前に出て来ると、こう続ける。

 「ですが、この方はご主人様を超えたご主人様…… 超・ご主人様です! だから、あなたの言う事なんて聞きません! 超・ご主人様の言う事を聞きます!」

 その言葉にアイレントは顔をしかめた。セルフリッジは困ったような顔を浮かべる。しかし、メイドやフットマン達は顔を見合わせるのだった。そこでキャサリンは思う。シュガーが何かよく分からない事を言っているけど、なんだかおもしろい雰囲気だ。これに乗るのも良いかもしれない。それでこう口を開く。

 「その通りです。そのお方は、超・ご主人様。ご主人様よりも偉いのです」

 所詮、ご主人様だとかメイドだとか、そういった役割は社会的な約束事のようなもの。そしてその“約束事”は、単に皆が思っているから成立しているだけなのだ。だから、単に皆がその思いを刷新してしまえば、それだけで、それは容易く変えられる。

 アイレント・カイリは主ではない。

 ここで、それを約束事にしてしまえ。

 彼女はそう思っていた。

 そして、そのキャサリンの言葉が切っ掛けだった。皆は口々にこんな事を言い始めたのだ。

 「そうです。そのお方は、超・ご主人様です」

 「アイレント様。悪いのですが、超・ご主人様には逆らえませんわ」

 「なにせ、“超”ですからねぇ」

 その反応にアイレントは慌てる。

 「何を言っているんですか? お前達は!」

 しかし、クライシスまでもがそれにこんな事を言うのだった。

 「なるほど。超・ご主人様か…… ならば、仕方ないな」

 実を言うと、その時、アニーだけは自分の保身の為にアイレントの味方に付こうとしていたのだが、クライシスがそう言った事で口を閉ざしてしまった。権力でいえば、アイレントや自分よりも一家の長と同等の位置にいる長男の方が遥かに強い。クライシスに逆らうのは得策ではない。そう判断したのだ。それからシュガー・ポットが言った。

 「さぁ、超・ご主人様。皆に指示を出してください」

 まだ困った顔をセルフリッジは浮かべていたが、それを聞くと「分かりました。では、皆さん。そろそろ夜遅いですから、片付けをして寝に入りましょう」とそう彼は言ったのだった。

 そしてそれに、使用人達は一斉に「はい。承知しました。超・ご主人様!」とそう返事をする。それから、その通りに、ぞろぞろと解散していってしまった。

 「お前達、ちょっと待て!」

 と、解散していく使用人達に向けてアイレントは言ったが、誰も立ち止まらなかった。クライシスは彼の肩に手を置くとこう言う。

 「弟よ、お前は主の器ではなかったという事だ。もう、ここの経営からは手を引いて、しばらくは頭を冷やせ。それから、この失態は中央に報告させてもらうぞ」

 もちろん、彼はこのままセルフリッジの実績が弟の手柄という事になり、権力を弟が手にする事態を危惧したのだ。それを防ぎたかった。

 その言葉に、アイレントは愕然とした表情になる。アニーも引きつった表情を浮かべていた。

 

 使用人達が解散する中、自室に帰ろうとするセルフリッジを、シュガー・ポットが呼び止めた。

 「超・ご主人様。待ってください。背中の傷の手当てをします」

 それに笑いながらこう彼は返す。

 「ありがとうございます。ただ、ですね、その“超・ご主人様”って止めませんか? 恥ずかしいのですけど」

 「駄目です。少なくとも、あの人が、この館から去るまでは、こう呼び続けます」

 シュガー・ポットはそう言うと、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。

 

 数日が過ぎた。

 アニーの部屋。

 彼女は頭を抱えていた。

 彼女の夫のアイレントは、療養地に強制的に送られてしまった。しばらく静養しろとの事。実質的には、更迭処分である。因みに、身の回りの世話の為に、フットマンのヘルメが自ら志願し彼について行った。なんだかとても嬉しそうにして。

 頭を抱えながら、彼女は言う。

 「ああ、もう、なんて事になってしまったのかしら? このまま、アイレントが主の座でなくなってしまったら……」

 それに執事のクリックがこう尋ねる。

 「何か、お困りになるので?」

 「そりゃ困るわよ……。例えば、」

 と彼女は答えようとして考える。例えば…

 夫婦生活…… 既に仮面夫婦で、営みは随分前から一切ない。

 自分の立場…… 何故か、奥様という位置づけは今も変わらない。

 事業運営…… 以前よりも、随分と良くなっている。

 「……あれ? 何も困らないわね」

 そう彼女が応えると、クリックは彼女が飲み終えた紅茶カップをお盆に乗せ、軽く礼をすると部屋を出て行った。

 

 オリバー・セルフリッジがカイリ財団から依頼を受け、正式にチェリー部門の事業主に就任してから数日後の事。

 朝のチェリー畑。

 「おはようございます、超・ご主人様! 今朝のチェリーの質は特に良いですよ。すこぶる美味しい!」

 作業を手伝いに来ていたセルフリッジに向けて、農夫の一人がそう言った。何故か、“超・ご主人様”という、その呼び名が皆の間で定着してしまっていたのだ。

 「皆さん、ああ呼ぶのを止めてくれませんねぇ」

 手を振りながら、セルフリッジは多少不満げにそうこぼす。それを聞くと、傍にいたシュガー・ポットはこう言った。

 「でもでも、とってもよくお似合いの名前だと思いますよ、超・ご主人様」

 そして、彼女は舌を出して嬉しそうに、無邪気に笑うのだった。

 上に立つのは、優しい人が一番だと、彼女はそう思っていた。

 作中で書いた「予約注文により、在庫管理を容易にする方法」は、現実でも利用が可能です(トヨタのカンバン方式など、実際に既に行われてもいます)。そして、作中ではあまり触れませんでしたが、この方法には労働力を節約する効果もあります。

 もっとも、フィクションの中のように簡単には上手くいかないでしょう。ですがそれでも、インターネットという情報技術がある点を考慮するのなら、これから先、労働力が不足していくだろう現実社会でも制度の普及に努めるべきだと僕は考えます。

 そのためには、商品を注文してから、届くまでのタイムラグに消費者が慣れる習慣を根付かせる必要もあります(作中で書いた通り、定期販売契約なら、この点は問題にならないですが)。

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