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十六年ぶりに妹が帰ってくる

作者:霞初月



 十六年ぶりに妹が帰ってくる。


 颯希さつきはキッチンで頭を抱えていた。
 玄関を開ける前から嫌な予感はしていたのだ。いや、確信していた。換気口から排出された空気に混じる異臭。火の始末は出かける前に確認済みだ。ゆえに己の過失ではない。とすれば、思い当たる節は一つしかない。
「……」
 コンロで燻るなべ。床に転がる空のボールと、そこにあったと思しき小麦粉がそこかしこに薄化粧を施している。テーブルの上は何故か水浸しで、零れた滴が床に小さな水たまりを作っている。手当たり次第使った調理器具を突っ込まれた流し台は排水困難になり、今にもあふれ出しそうだ。
 颯希は一連の犯人を見た。
「あっは、ごめーんツキちゃん」
 苦笑いを浮かべて謝る芽衣めいは出生時間が数分違うだけの、颯希の妹だ。二卵性なので、世間が思う双子の「そっくり」だとか「ぴったり」という期待からは遠いところにある。けれどたまに虫の知らせみたいなこともあるし、妙なところで好き嫌いが一致する時もある。
 妹曰く、颯希の容姿は両親のいいとこどり、だそうだ。並んで立つと兄妹というより親戚ぐらいの開きがある。
(……なにが「ごめーん」だ)
 謝るぐらいなら最初からするなと思う。いや、常よりそう告げていたはずだし、約束もさせていたのだ。
 それが何だって今日に限って――……いや。
 颯希は冷静になろうと一回深呼吸して、滑らないよう足下に注意して流しへ近づき、手を伸ばした。とりあえず蛇口から流れる水を止めるのが先決だろう。
「……ケーキか、クッキーってところか」
 颯希は目を背けていたオーブンを見た。ありがたいことにキッチンに最初から組み込まれているそれの表示窓を見れば、焼き上がり残時が五分を切っている。
「うん。チョコチップクッキーだよ」
「……そうか」
 なんでそれでこうまでキッチンが荒れるんだ――喉元まで出かかったが飲み込んだ。いつにないことをしでかした理由は分かっている。
 妹が帰ってくるからだ。
「あー、芽衣。とりあえずおまえはシャワー浴びてこい。粉、かぶってるぞ」
「うっそ」
「おい、ここで頭振るなよ。風呂場行ってこいって」
「でもクッキーもうちょっとで焼き上がるから」
「俺が責任持って見るから」
「…………わかった。でも味見は三枚までだからね」
「はいはい」
 うまかったらな、と心の中で付け足して背中を送り出す。正直優先すべきはクッキーの焼き上がりより、片付けの方だ。
(妹が帰ってくるっていうのに)
 さて何から取りかかろうかと、袖まくりしたところでドアチャイムが鳴った。
「はいはーい」
「俺が出るよ」
 脱衣所の方からあがる威勢のいい声を制して、玄関に向かう。
 東京にいる妹は、連絡によれば到着は午後七時過ぎだという。まだ昼も迎えていないのに、まさかもう帰ってきたということないだろう。
 ならば宅配だろうか。颯希に心当たりはまるでなく、芽衣からも特に聞かされていない。
 誰だろうとインターフォンのモニターを見やって、どきりとした。
 粗い画像の中にいるのは一人の少女だった。
 このあたりで見たことがないワンピース型のブレザーという制服姿で、両手に大きなボストンバッグを抱え、所在なげに佇んでいる。
「……い、今開けます」
 緊張したせいで丁寧語になってしまった。
 急いで向かった玄関で一つ、息を吸う。
 やかましい心臓の音を聞きながらドアを開けると、緊張した面持ちと対面する。
 春のそよ風が少女の切りそろえられた黒い前髪を清かに揺らす。
「……彌生やよいか?」
 小さな頷きが返される。
 たったそれだけの仕草が、颯希の胸を震わせる。
 帰ってきた、妹が。
「彌生ちゃん!」
 歓迎の言葉を探している颯希の傍らを突風が駆け抜けた。バスタオル一枚で頭から滴を垂らす痴女にいきなり抱きつかれた少女は目を白黒させて、救いを求めるように颯希を見た。
「ふ、」
 我が分身たる妹の突飛な行動を目の当たりにして、颯希は肩の力が抜けて、笑ってしまった。怒る気にもならない。
 だってあれはまさしく、自分にもある気持ちだからだ。
「芽衣、気が済んだら離してやれ。その格好じゃ近所迷惑だし、なにより彌生が困ってるぞ」
「あっ――ごめんね?」
 離れがたいように小さな双肩に手を置いて、芽衣が身体を離す。
 大丈夫と示したいのか、彌生が小さく頷く。その可愛らしい仕草に、颯希はくすっと笑う。
「とりあえず中入ろうか」
 おかえり、という言葉を颯希も芽衣も言わなかった。言ったところでこの小さな少女には重い枷になるだけだと分かっていた。
 行ってきますと宣言して出ていったのだったら話は違ったのだが。
 颯希は廊下を先行して、リビング兼キッチンへの入り口を背中で覆い隠した。
「芽衣、彌生を部屋へ連れてってくれるか? 俺、片付けするから」
「わかった。……ツキちゃんごめんね」
 自分のしでかしたことの後始末を置き去りにすることが心苦しいらしい。
 芽衣は片付けが苦手なのだ。それは自他共に認めるところで、故意じゃなければ颯希だって怒りはしない。
 むしろこれは自分の役目だと思っている。大抵のことは出来る颯希にもできないことはあって、どういうわけかそういうものは芽衣の方が得意だ。
「なんだよ、いつものことだろ」
「……うん。ツキちゃん、愛してる」
「アホか」
 さっさと行けと手を振った。
 芽衣の後ろをついていく彌生がちらとこちらを振りかえる。こちらは気にするなと笑いかけてやると、恐縮したように会釈されてしまった。
 距離の遠さを痛感して颯希はこっそりため息をついた。
(……仕方ない、か)
 一週間かそこらの再会ならともかく、十六年だ。
 それもその間、一切連絡を取り合っていない。
 こっちがどう思っていても、向こうは兄姉きょうだいというより初めて会う他人という感覚の方が強いだろう。
 スリッパの爪先を見つめて、廊下に背を向ける。
 ……あれこれ考えていてもしょうがない、キッチンを使えるようにして昼飯の準備をしようではないか。


 案内されたのは二階。
「はーい、ここが彌生ちゃんの部屋です」
 そう言ってドアを開けてくれるから、彌生は小さく会釈して中に入った。
 お互い自己紹介はまだだが、会話の流れから察するに彼女は「姉」の「芽衣」らしかった。
 事前に教えられた情報で双子だと聞かされていたが顔を見るのは今日が初めてで。
(双子だけど……あんまり似てない)
 こっそり二人を観察して思った。
「スイッチここね」
 昼間なので明かりは点けず、場所だけ教えられる。
 入って正面の窓は、淡いブルーのカーテンが掛かっていた。
 壁、天井は白。床はフローリングで、緑の格子柄ラグがひいてある。細身の姿見、木目調のチェスト、猫脚のベッド、機能性よりデザイン性が重視されたとおぼしきデスクとチェア。
「あの、ごめんね」
 おずおずと謝罪の言葉を口にされ、彌生は困惑した。
「気に入らなかったら遠慮無く言ってね。ツキちゃんには本人に訊いてからにしろって言われてはいたんだけどね、なんかこう、逸っちゃってさ」
 悪い癖なんだと苦笑する彼女になんて応えたらいいのか彌生は分からなかった。
 気にしないでください、だろうか?
(遠慮無くって、そんなの無理だよ……)
 気に入らない所なんてないが、そもそも用意しておいてもらったものに対して文句などこちらから言えるはずがない。
 彌生がそんなふうに悩んでいるうちに、芽衣が入って右手にあるドアを開けた。
 作り付けのクローゼットだった。中に誰のものかしらない衣装がずらっと鎮座してあるのに目を見張る。
 まさかとは思うが。
 芽衣の顔を見れば、困ったように笑っている。
「あのね、これもね、気に入らなかったら捨てちゃってもいいから……ね」
 なんてことだと彌生は戦慄した。
 双肩がずしりと重くなる。
 抱えたままのボストンバッグをぎゅっと抱きしめた。
 最低限の荷物だけでやってきたから、ありがたい。そう考えるに留めるだけにしよう。
(考えるな、考えるな)
 頭の中で考えているあいだに、階下から呼ばれた芽衣がそちらへ返事をした。
「ツキちゃんに呼ばれちゃった。疲れたでしょ、ゆっくりしてて。ご飯出来たら呼ぶからね」
 静かに閉まるドアを見送ってから、彌生は小さく息を吐き出した。
 閉じ込められたわけでもないのに、息が、詰まる。



 昼食は簡単に、にゅうめんにした。
 市販のめんつゆに味を足して、茹でた素麺を盛った椀に熱々のそれを注ぐ。上から干しエビと三つ葉、千切りしたショウガを散らした。
「はい、どうぞ」
 目の前に置かれた椀を見つめる彌生はまだ制服姿のままだ。
「口に合うといいんだけど」
 言いながら颯希は、食卓の席に着く。
 彌生はにゅうめんと颯希を交互に見て、小声で「いただきます」と箸を取った。
「いただきます」
 見られていては食べにくいだろうと颯希も箸をとる。芽衣が後に続く。
 つまみ上げた麺にふうっと息を吹いて、すする。ちらっと斜め向かいに目をやって、音もなく麺を食む姿を確認する。
(……すすれないのか)
 それともわざとそうしないのか。分からないが、確かなのは、彼女の生きた情報を一つ手に入れたことだろう。
 ちゃっかり彌生の左隣を確保した芽衣が「おいしい?」と訊ねる。小さな声が「はい」と応じている。
 聞こえた? と問うように芽衣が視線を向けてくるから、頷き返した。
 あらかた平らげたのを確認してから、颯希は切り出した。
「彌生」
「はい」
 まるで条件反射のような切れのいい返事に、呼びかけたこちらの背筋が改まる。
「あー、その、だな。これから生活していく上で言っておきたいことがあるんだ」
「……なんでしょうか」
「うん。俺たち一つ屋根の下で暮らしていくわけだけど、今のきみからしたら俺たちは他人も同然だろう?」
「あ、あの、」
「大丈夫、俺らもそこは分かっているんだ。だから無理に家族を演じるんじゃなくて、共同生活する他人からはじまって、知人、友人……それで家族って感じに距離を縮めていけたらって。最初は窮屈かも知れないけど、そうなれたらいいなって思っているんだ」
「……」
 顔を見れば彌生が必死になって言葉を探しているのがよく分かる。
 颯希は努めて明るく「ごめんな」と詫びた。追い詰めてはいけない。帰ってきたばかりの彼女には、逃げる場所はないのだ。
「食べながらする話じゃなかったよな」
「……いえ、あの」
「うん?」
「努力、します」
「うん。でも頑張らなくていいからな。……ありがとう」
 一言を絞り出した彼女の勇気と思いやりの心に礼をせずにはいられなかった。



 真新しい寝床の上で彌生は天井を見つめる。
 あの場の空気を何とかしたくて「努力」などと口にしたが正直不安しかない。
「……ありがとう、か」
 彌生がそうであるように、かれらもまた、彌生と実際会話するのは今日が初めてだろうに。
 感謝の、ありがとう。
 労いの、ありがとう。
 あの「ありがとう」に彼はどんな気持ちを込めたのだろう。
 これからのことを思えば正直、気が重い。
 二人の何気ない行為から滲む厚意が重い。
(わたしと二人の十六年は全然違うもの……)
 つい先日まで、世間に知られず月の裏側で化け物を戦っていた彌生と。
 片や、この家でいわゆる普通の暮らしをしていた颯希と芽衣。
 歩んだ十六年で培ったものが似通うはずがない。

 だけどもう、彌生の帰る場所はここしかなくて、だからもう、努力するほか無いのだ。



 *

 横殴りの風雨を確認して、颯希は窓のカーテンを閉めた。
 春の嵐、とでもいうべき荒天だ。十六年前のあの日も、ちょうどこんな天気だった。颯希はため息にあわせて目を閉じた。
 雨は嫌いだ。
 小降り程度ならまだいいが、今日みたいな大雨は胸が締め付けられるような息苦しさを感じてしまう。
 昨夜寝る前に机上に置いた腕時計を手に取った。針が指すのは朝の五時四十分。
 顔を洗うべく部屋を出た。朝食の支度は颯希の役割だ。
 こんな時間なのは同居人が増えたせいではなく以前からで、単に弁当作りに余裕が欲しいだけのことだ。彌生はまだ学校が始まっていないので、今日用意するのは芽衣の分だけだ。たかが弁当、されど弁当。などと大層なことを語るつもりはないが、どうせ作るのなら食べる人間が喜んでくれるようなものを作りたい。その一心で颯希はやっている。
 洗面所で顔を洗う。
 窓硝子を雨粒が猛烈な勢いで叩く。
 正直なところ、目と耳を塞いで布団にくるまりたい。だけどそうしたら今度は夢に見てしまいそうだ。
 戻らない過去。
 だけど彌生は戻ってきた。
(戻ってきた?)
 妹は確かに我が家に、この佐藤の家にやってきた。颯希たちのもとへやってきた。でも戻ってきたというのは何か少し、違う。
 だって彌生は、この世に生を受けてすぐ、彌生たちの目の前で連れ去られてしまったのだから。



 窓を打つ雨音で芽衣は目を覚ました。
 枕元のスマホを確認して、目覚ましが鳴る五分前と分かって、もったいないことをしたと枕に額を擦りつける。
 寝る前にテレビで見た天気予報で今日は荒れるだろうと言っていたが、本当のようだ。レインブーツの出番である。去年梅雨前に買った、機能性と優美さを兼ね備えたとっておきの一足だ。
 スマホから流れる、設定していたアラーム音が鳴り止むのを待って、芽衣はベッドから起き上がった。
 足が自然と颯希の元へ向かう。きっとキッチンにいるはずだ。
 階段を降りていくと微かな物音と、出汁の匂いが漂ってきた。いつものことだけれど、それだけで安心感がある。
 そっとキッチンの戸を開ける。朝食の準備をする颯希が気付いて振り向いた。
「おはよ、ツキちゃん」
「おはよう」
 芽衣はまたそっと戸を閉めて廊下を引き返した。洗面所へ向かう。
 薄明かりの下、颯希の顔色は悪くなかったように思う。
 颯希ほどではないが、芽衣も雨は苦手だ。もともと濡れるから好きでないというのもあったが、今の一番の理由は、颯希が雨を厭うからだ。
 濡れた顔をタオルに押しつけて、芽衣は目を閉じる。
 年月を経て細部は色褪せても、記憶から消えていかない光景がある。

 十六年前。
 芽衣と颯希は、両親と妹から引き離された。




 ほとんどずぶ濡れになりながら兄と二人、病院に辿り着いた芽衣を待っていたのはほとんど虫の息といった母だった。この時点で父の方はすでに帰らぬ人となっていた。
 虚ろな目が、駆けつけた颯希たちが何度か呼びかけたところで意思を持って動いた。
 縋るように母の手を握っていた颯希の手を、母がぐっと握りかえした。
 喉の奥からようよう絞り出した声が、うわごとのように繰り返す。
「……彌生を、お願いね」
 病院に向かう道すがらに事故は起こった。
 彌生はすでに母の腹から取り出されて、新生児室にいるらしい。病室にとんできた芽衣たちはまだその事実しか知らない。
 生まれるのが女児と分かっていて、両親はその子の名前を既に決めていた。大きくなったお腹を撫で、名を呼びかける光景を芽衣たちは微笑ましく眺めていた。
 春の嵐とよんでしまえばそれまでの荒天。一台の車が運転を誤り、対向車線に突っ込んだ。タイヤの摩耗とスピードの出し過ぎが原因だそうだ。
 ぶつかった先が芽衣たちの両親が乗った車だった。
 お願いね、などと縁起でも無い。そんな軽口を叩ける雰囲気ではなかった。
 だけど「わかった」と承諾してしまったら、何もかも終わってしまうような空気があった。芽衣はそう感じていた。
 だから涙声で颯希が「うん」と応えた時、とても慌てた。
 母がもう一度「お願いね」と言って、笑った。
 ほっとしたように息をついた。
 境界線を引くように電子音が鳴る。
 颯希が母の手を握ったまま毛布に額を押し当てる。ずっと隣にいた芽衣はその双肩を縋るように抱いた。
 それからがさらに怒濤だった。
 まっさきにとんできた病室には母しかいなかったから、今度は父の方に会いに行く。死化粧を施されてはいるものの、穏やかとはほど遠い顔で。芽衣は父の無念さを感じ取るよりさきに、彼が知らぬ他人のように見えて、怖くてつい目を背けてしまった。
 病院のスタッフから手続きやらをしたいといわれ、連絡の取れる親族の方は問われるもすぐには応えられない。一方で刑事から、事故だから話があると言われ、そちらの対応もしていると、彌生に会いくのは後回しとなった。
 すっかり病院の外が暗くなった頃、芽衣たちは新生児室の廊下にいた。
 連絡した親戚がやってきて、両親の退院の手続きを代わってやってくれている。
 廊下の硝子越しに室内を覗き込んだ。いくつか並んだベッドの中に芽衣たちは「妹」を見つけた。
「あれが彌生か……」
「うん……」
 二人して、声もなく泣いていた。
 考えたいこと、しなくてはいけないことが山のようにあったたけれど、すべて後回しにして泣いた。
 悲しいのか嬉しいのか辛いのか。この涙が何なのか、一言ではとうてい片付けられない。
「なあ芽衣」
「うん」
「俺頑張るから」
「うん」
「だから助けて」
 何を言うかと思えば。
「そんなの、いつものことじゃない」
 返事を聞いた颯希が硝子から芽衣に視線を動かす。
「……よく言うよ」
 それで颯希が少しだけ笑ってくれたから、芽衣も笑うことが出来た。

 彌生の退院は、両親の葬儀が終わってからということになった。

 まだ高校生である芽衣たちの後見人をどうするかとなって親族会議が開かれ、決定を覆したのは親族でもない赤の他人だった。
 卒業した学校の先輩に寒川かんがわあやめという人がいる。ホテル王の娘。その父親が成人するまでの後ろ盾となる事が決まった。金と権力に親戚たちは押し切られた。
 あやめは在校中、女帝とか女傑とか呼ばれた人で、颯希は彼女のお気に入りの一人だった。お気に入りは男女関係なかったし、当時の颯希とあやめの関係はあくまで先輩後輩の間柄だったと芽衣は思っている。ただ卒業後も連絡を取り合うくらい仲が良かったのは間違いない。でなければ親族会議に出張ってくるはずがない。

 彌生を迎えに行くことになっていた日の朝。
 突然の来訪者が非情な宣言をして去って行った。
 スーツ姿で現れた男は簡単な自己紹介をして、大判の茶封筒を差し出した。
 国際規模の秘密組織、通称「機関」というそうだ。
 月の裏側で化け物と戦っているらしく、彌生にはその素質があるのだと突拍子もないことを言ってのけた。
「彼女は我々が預かります」
 決定事項ゆえに覆らないのだと、混乱する芽衣たちに言った。もちろん納得できるはずもなく颯希と二人で反論したが徒労に終わった。急いで向かった病院で、既に彌生は連れ去られたあとだった。
 肩を落として病院を出ると、雨が降っていた。
「約束したのに……」
 途方に暮れたように雨空を見上げる颯希の横顔を芽衣は忘れない。

 ――時期が来れば必ず返還す。

 機関の男が言った言葉に縋って、芽衣たちは日々を過ごした。
 人生の思いがけないまさかがその後も続き、金銭面でそんなに困ることはなかった。冗談半分で颯希が買っていた宝くじの結果がごたごたしている間に発表されていて、思いだした颯希が確かめたなら前後賞が当たっていた。親戚含め、周囲にこのことは秘密にしてある。例外は寒川あやめだ。
 現在、颯希は在宅でパソコンとにらめっこする日々を送っている。仕事を斡旋するよう外で颯希を売り込んでいるのは他ならぬあやめだった。でも二人の間柄が縮まったかといえばそうでもない。


「――ねえ、ツキちゃん」
「ん?」
 さっきがたがたと二階で物音がしたから、彌生が起きたのだろう。
 すっかり身支度を調えた芽衣は食卓に着いていた。向かいに座った颯希がいつものようにコーヒーを飲んでいるということは、仕事に余裕のあるときだ。徹夜明けだと、あとは寝るだけだからと朝食の用意だけ済ませて自分の部屋へと戻る。
「センパイのこと、彌生ちゃんにどうしたらいい?」
 あやめのことを訊いてみれば、颯希が一旦手に取ったカップをテーブルに戻した。
「どうって、どうもしない」
「はい?」
「うちには来るなって言ってあるし。別に説明する必要はないだろ」
「それは、」
 そうかもしれないが。言葉に窮し、芽衣は口ごもる。
 あやめのことはある意味、この家の暗部だ。それも、彌生のあずかり知らぬところであったことだからわざわざ教える必要はないという颯希の考えは分かる。
(……だったらなんでそんな渋い顔するの)
 ここに鏡があったら覗いてみろと突き出してやったものを。無自覚なのが性質が悪い。
 不満をオレンジジュースと一緒に流し込んだ。




 *


「ねえねえ、あのイケメン誰?」
 三者面談の翌日、彌生はクラスメイトの女子から隣にいたのは誰かと問われた。同じクラスだけれど、挨拶を交わす程度の、そんな仲であるから正直戸惑った。
「兄、だけど」
「えー、やっぱり? お父さんじゃ、ちょっと若いかなって思ったんだあ。いいなあ、あたしもあんなお兄ちゃん欲しい」
「ちょっとー、写メとかないの?」
「ご、ごめんなさい」
 勢いに負けて、謝ってしまう。
 身内を誉められて悪い気はしないが、未だ拭いきれない家族との距離感のせいかどうにもむず痒い。
 イケメンの定義が彌生には分からないが、身内びいきを抜きにして、颯希の容姿容貌はは整った部類に入るだろうとは思う。それもあってか、家の中でふたりきりになると、妙に気詰まりしてしまう。
 家族だけれど、異性でもある。
 だから同じ女性である芽衣といる方が気が楽だ。それでもまだ完全に打ち解けたとは言いがたい。
 それも仕方が無い。まだ半年も経っていないのだ。

 自分の席に向かいながら、先日のことを思い出す。

 廊下で風呂上がりの颯希と出くわした。それだけいえば、とりたてて珍しいことではないし、彌生も問題にはしない。
 廊下でばったり出くわした颯希は上半身裸だった。
 ひょっとしたら普通の家では当たり前の光景かもしれないが、彌生にはそうではなかった。異性の裸、といっても上だけだが、実際に目にしたのは思いつく限り初めてだった。
 出てくる言葉も出てこず、立ち尽くす。
 逸らすべきだと頭の中で声がするけれど目は釘付けで。
「彌生?」
 どうしたのかと訝る声にはっと我に返った。体温がそこだけ集中したみたいに顔が熱くなる。
「き、」
「き?」
「着てください服を!」
 言ってから、強い口調になってしまったことを反省する。これではまるで怒っているみたいだ。だけどそうではないのだ。
 少し驚いてしまっただけ、それだけなのに。
「え? 服? あ、ああ……ごめん」
 颯希が自分の格好に気付いて、見るからにしまったという顔になる。。
「……気をつけてくれたら、いいんです」
 それだけ言って彌生は逃げるようにその場を立ち去った。頭の中は肌色でいっぱいだ。
(裸……)
 兄の裸。異性の裸。
 部屋の中に掛け込むなり両手で頬を押さえた。
 颯希はこれまで風呂上がりはいつだって服を着ていた。そこから考えるにきっと、あれが本来の彼の過ごし方なのだろう。
 これまで自分は気を使われていたのだ。
 だけど颯希が気を抜いたということは、それくらいには距離が縮まったと考えてもいいのだろうか。
(お兄ちゃん、か)
 教師の声を遠くに聞きながら、口の中で転がしてみる。
 まだそう呼んだことはない。
 気恥ずかしいというのもあるが、なにより彼がそうだという実感がなくて口に出来なかった。芽衣もそうだ。お姉ちゃん、と呼んだことはまだない。
 自分は天涯孤独かと思っていた。
 本当は家族がいると言われた時は嬉しさよりも耳を疑った。
 十三になった翌日だった。
 十四になると役目を解かれるというのは知っていた。施設を出て行く子らはいつもいつの間にか消えていく。行き先は語られず、こちらから行方を探す手立てはない。ここにいる者はみな身寄りのない者ばかりのはずだったが、彌生には家族がいるという。
 そういえば、出ていった者は出ていく前になると何か鬱屈した心と折り合いをつけるように考え込んでいやしなかったか。
 きっと彼、彼女らも、彌生と同じ事を思ったのだ。

 家族がいるのになぜ自分はこんなところで真夜中化け物と戦っているのだろう、と。



 じわじわと汗をかきながら家へと帰る。
 風があるのが救いだ。彌生はふっと熱い息を吐いて、足下から視線をあげる。
 家の門前に人が立っていた。
(綺麗な人)
 最初に浮かんだ言葉がそれだった。
 彼女はうだるような夏の暑さに負けない存在感を放っていた。
 艶のある黒髪ショートボブ。赤い唇。パンツスーツだからか長い手足が強調されて見える。己に対する自信が表情に滲み出ているが、彌生はそれを不快に感じなかった。
 きっとこの人は自分の進路が見えていて、それをまっすぐ歩く人だ。脇目も振らず駆け抜けるなんてことはせず、優雅に道の上を歩いていくのだろう。
 そんなことを彌生は本能的に感じ取っていた。
「家に……なにか用ですか?」
 来客があるとは聞いていなかった。
 家には大概、颯希がいるから唐突の来客にも対応できてしまう。
 けれど彼女は門前に立っていて、今来ました、という感じでもない。
(……買い物でも行ってるのかしら)
 近くのスーパーまでは徒歩十分。息抜きも兼ねて買い出しに出かけている可能性は大いにある。
 芽衣は無論、仕事だから不在だ。
「ああ、お中元をね。わたし、寒川と言います」
 言葉に釣られ彼女の手元を見る。右手に提げた紙袋には有名デパートのロゴデザインがある。彼女はにっと笑ってその手を軽く上下してみせた。
「寒川……さん? わざわざすいません」
「いいんだ、半分口実みたいなもんだから。ところで彌生ちゃん」
「はい、そうですけど?」
 応えながら、あれ、と思う。まだ名乗っていないのにどうして彌生と分かったか。
 けれどすぐ事故解決した。表札には彌生の名が追加されている。颯希たちの顔を知っている者なら、それらしい年頃のものがいればそれが彌生と自動的になるのだろう。
「良かったらお水くれないかな、久しぶりに歩いたから死にそうなんだ」
 寒川は微かに上気した顔を手で仰ぎながら、悪戯めいた笑みを浮かべた。




 帰宅した芽衣は小さな声でただいまと告げた。ちょっとしたサービス残業の結果、帰宅したのは十時をまわっていた。
 キッチン兼リビングをそっと覗くと、颯希の背中があった。
「どしたの?」
 椅子に座った颯希が振りかえる。やけに難しい顔をして「おかえり。どうもしないけど」なんて言う。
 予感でも何でも無く、何かあったのだ。
 手早くスーツから着替えて芽衣は戻ってきた。
 伏せられた椀と箸がある席に座る。
「食べるか? メニューは、そこにある青椒肉絲と卵スープだけど。それとも何か作るか?」
「いい、これ食べる」
 芽衣はラップのかかった皿に手を伸ばす。
「待て、温め直すから。ご飯は好きなだけよそえ」
「はあい」
 茶碗を持って炊飯器の所へ向かう。その途中でストック棚に目ざとく、昨日はそこになかった缶詰を見つけた。
「ねえ、あれどうしたの」
 芽衣としては何気ない質問のつもりが、颯希は苦虫を噛んだみたいな何とも言えない顔をした。
「もしかして、センパイ?」
「……ああ」
 暗い顔で颯希は語りはじめた。
 夕飯の買い物から戻ってきてみれば、玄関に女物の靴がある。靴箱で見たことはないパンプス。隣に彌生の通学用スニーカーがあった。
 胸騒ぎがした。
 リビングの方で話し声がする。
 どうか勘が当たらないようにと祈りながら部屋へ向かうと、客をもてなす彌生の姿があった。
「やあ、おかえり」
 見知った顔が颯希を見て笑いかけた。
 瞬時に沸き上がった感情に蓋をして、颯希は笑顔を作った。どんな会話をしたのか、正直今となってはよく思い出せない。当たり障りのない言葉を選ぶことに必死だった。
「……そっか、おつかれさま」
「ああ……疲れた」
「センパイのこと、あの子になんて説明したの」
「先にセンパイが、高校の時の後輩だって俺のこと説明してたから。そのツテで仕事紹介してもらってるんだって。特に疑ってなかったから、変なこと吹き込まれてはないんだと……思う」
「うん、きっとそうだと思うよ。センパイは変わりものだけど、あたしたちを本当に困らせるようなことはしないもの。そうでしょう?」
「……うん、わかってるよ」
 颯希は両手で顔を覆って、項垂れた。
「だけど……ばれたらきっと、軽蔑される」
「ツキちゃん」
「だってさ。……この前廊下であったこと、言ったよな? 今がアレなのに、俺のホントのこと知ったら……終わりだろ」
 今にも死にそうな声で不安を並べ立てる様は、妹の目を通せば、哀れを通り越して情けなかった。
「……あのねえ、起こる前から悲観してどうするの? バレたときはフォローして上げるから、堂々としててよ。今ぐらいの歳って、些細な変化に敏感でしょう?」
「…………悪い、その通りだな」
 颯希がのろのろ顔をあげる。
 思い直してくれたならそれでいい。芽衣はほっとした。
 これまで二人で足りないところを補い合って生きてきた。周囲からは完璧に見える兄がどうやって今日まで佐藤の家を守ってきたか、一番近くで見てきた芽衣だ。でもただ見てきたわけでない。
 助けて、とあの日言われたから。
 言われなくてもそうしたけれど。
 陰ながら、精神的に颯希を支えてきたのは芽衣だ。
 形は違うけれど、芽衣だって佐藤の家を守りたいと、そうしてきた。
 小さな綻びなら、破ける前に繕えばいい。
(見ない振りしてきたツケが廻ってきたんだよ、ツキちゃん)


 けれど思いがけず綻びが広がる瞬間はやってくるのだ。





 それは偶然だった。

 暑さにタオルケットを無意識に剥いだところで彌生は目を覚ました。エアコンのタイマーは切れている。何時だろうと、買い与えられたスマホを探して、まだ朝の五時だと知る。
 あと一週間で夏休みが終わる。課題はとっくに済ませてあった。
 もう少し寝ていようと思ったが、目覚めたついでに水でも一杯飲んでこようと思い立つ。猛暑と熱帯夜ぼせいで身体が水分を欲しがっている、気がする。
 立ち上がって、何とはなしに窓のカーテンを開いた。空模様を確認して視線を下方へ移す。玄関前の通りが部分的にだが、見える。
 まだ五時だというのに人が、それも二人も。
「――」
 思わず目が吸い寄せられた。
 呼び止められたのだろう、家路につく男が振りかえる。呼び止めた女がさっと距離を縮め、二人の影が重なった。
(キスだ)
 どちらも彌生の知る人物だった。
(キスした)
 衝動的に彌生はカーテンを閉じた。心臓がばくばく言っている。
 二人はそういう関係だったのか……。
 だけど颯希は、あやめは世話になっている学生時代の先輩だとしか言わなかった。
 ちゃんちょ教えてくれていればこんなに驚くことはなかったのに。それともわざと彌生に黙っていたのだろうか。
(家族って、なんだろう)
 日が浅いから駄目なんだろうか。
 思考の深みに囚われる前に、頭を振って打ち消す。気になるならそれとなく訊けばいいのだ。

 ……訊くんじゃなかった。

 彌生はベッドの傍に座り込んで、右手で敷布を殴りつけた。拳がスプリングで弾む。それすらも腹立たしい。
 あやめは恋人なのかと遠回しに颯希に訊ねたら、そうではないと返ってきた。
 百歩譲ってそこまでは許容しよう。
 大人にはいろいろあるのだ、そういうものなんだろう。
 そう己を納得させようとする彌生の理性を吹き飛ばす、続きの言葉があった。
「先輩とは、ただのセフレだから」
 直截な表現は聞きたくなかった。
 しかも、僅かだが颯希の目は彌生から逸れている。
 はっきり言い切ったくせになぜこちらを見ないのだ。かっと頭に血が上る。彌生は回れ右をして、荒々しく足音を響かせて自室に戻った。
「……セ、セ、」
 心の中では言えるけれど、口に出すには勇気が要った。
 わけが分からない。
 セフレなのにお中元をくれるとか、仕事を紹介してくれるとか。彌生が知らないだけで、大人ってそういうものなんだろうか。
 そこでふと思う。
 あやめより颯希の方が受ける恩恵が多いような気がする。それとも彌生の理解の範疇外で重要と供給が釣り合っているのかも知れない。しかしその辺を颯希に追求してみるつもりはない。
 それより夕食時にどんな顔して望めばいいのか、そこが問題だ。


 胸のわだかまりをどうにかしたくて、芽衣の部屋を訪ねた。
 誰よりも傍で颯希を見てきたわけだから、あやめとの関係もきっと既知に違いないと踏んでの突撃だ。
 風呂上がりでシートパックを顔に貼り付けた芽衣が出迎えてくれる。今日は残業もなかったようで午後九時前には帰ってきていた。
「いらっしゃい、どうしたの?」
「あの、寒川さんのこと……なんだけど」
「ああ……」
 それだけで言いたいことが分かったらしい。
「ツキちゃんとの事でしょ。ツキちゃんが言ったのは本当」
「……今日のこと、聞いたんだ?」
「うん、暗い顔で聞かされた。そんな顔するなら言わなきゃいいのに、ツキちゃんも馬鹿正直っていうか、ううん。馬鹿だよねって思ってるよ」
 呆れたように言って、芽衣がパックを剥がす。
「ツキちゃんはこれで済ませるつもりで、わざわざセフレって彌生ちゃんに言ったんだ。彌生ちゃんのことだから、突っ込んだことは自分には訊いてこないだろうってね」
「あ……」
「あたしは訊かれてないことまで話すよ? というか、話す。 それでも聞く? 聞きたい? 知らない方がいいこともあるよ?」
「ずるい、です。その言い方……」
 批難の声を、芽衣は笑った。
「そうね、逆に気になっちゃう。……ね、どうする?」
 知らない方がいいこと、はきっと佐藤の家の暗部だ。彌生は新しく出来た家族に手を引かれ、守られ、それを見ないで済んでいる。
 だけどこれから先もその状態なら、お客様と扱いがかわらない。
 手に入れた家族と、本当の家族になりたい。
 縮まらぬ距離感への焦燥か、それとも希う想いか。
 彌生は膝の上で拳を作る。
「聞きたいです、教えてください」
「うん、わかった。でもちょっと待ってね」
 芽衣はくるっと身体を捻って「保湿保湿」と呟きながら化粧台の小さな容器に手を伸ばした。中のクリームを指先に取って、額、鼻の頭、頬と置いていき、顔全体に馴染ませる。
「……その匂い、好きかも」
「ほんと? あたしもなんだ。だけどこれ、こんな小さいのにすっごい高いんだよ。なんと諭吉が三枚も……なんて、化粧品談義してる場合じゃないか」
 蓋を閉めて芽衣が彌生に向き直る。
「何から話そうかな、センパイのことにしようか。大した説明、されてないでしょ?」
「……高校の、先輩後輩だって」
「うん、それは本当。学年はあたしたちの一個上。で、ねえ彌生ちゃん」
 内緒話をするみたいに声をひそめて芽衣が、あるホテルの名前を知っているかと問うてきた。
「そこってこの前、朝の番組で取り上げられていた?」
「そうそこ。あれ、センパイのお父さんがやってるところなんだよ。あそこだけじゃなくて、他にもいっぱい。センパイのお父さんはね、いわゆるホテル王とかいうやつなんだ」
 驚く彌生に向かって、芽衣がホテルの名前をいくつか挙げていく。年頃にしては世間にいくらか疎い彌生でも耳にしたことがある有名な名前がその中に含まれていた。
「つまりお金持ちってこと?」
 初対面での身なりを思い返せばそれも納得できる。
 裕福だからといてそれら全ての人間が相応に見えるかと言ったらそうではないだろう。金の匂いを染みつかせた、イヤラシい人間だっている。
 けれどあやめにはそれは感じなかった。洗練された女の匂いがした。
「そうだね、ただのお金持ちじゃないのは確かかも。親戚でもないのにあたしたちの後見を引き受けてくれるくらいだから」
「後見?」
「センパイのお父さんがね、成人するまで後ろ盾になってくれたんだ。といっても何か特別なことをしてくれたわけじゃないんだ。お金は別に困ることなかったし……ああ、変なことして稼いだとかじゃなくて、ツキちゃんの買った宝くじが大当たりしたんだよ。すごいよね。だからその辺は大丈夫だったんだ。ただ未成年で親がいないといろいろ不利なこととかあって、そういうときにはすごい助かった。娘から事情は聞いているから心配しなくていいって。なんかドラマみたいだよねー」
 他人事みたいに笑っている芽衣に、彌生はどうしていいかわからなくて黙る。今のは一緒になって笑うところだったんだろうか。そんなわけがない。じゃあどんな顔すればいいんだろう。
 どうしてこんな話をしながら芽衣は笑っていられるんだろう。分からない。
「センパイは在学中から女帝とか女史とか言われるくらい、カリスマ性のある人で、気に入った人間は男女構わずお気に入りにしちゃう肉食なとこもあって」
「え?」
「うん、彌生ちゃんが考えてるのであってるよ。ただツキちゃんは、目をかけられてはいたけど、センパイが在学中の間はただの先輩後輩の関係だったんだよ。それがなんでセフレなんて関係になっちゃったかは想像するしかないけど、センパイはツキちゃんが欲しいから彌生ちゃんのこと利用したんだと思う」
「わたしのこと、を?」
「両親いなくて、まだ高校生なのに赤ちゃんが育てられるのか、みたいなこと言ったんじゃないかな。支援してあげるから代わりにって、たぶん、そんなところだよ」
「わたしのために自分を売ったってことですか」
「……ツキちゃんのこと、軽蔑する?」
「正直言えば、知りたくなかった……です」
「……そう、」
「でも軽蔑とか……わからないです……このもやもやが何なのか」
 彌生は無意識に手でみぞおち辺りを押さえつけた。
「二人とももう成人したわけだし、わたしだってここにいるのに、どうしてまだそのセ……続けてるんだろう……」
「うーん、たぶんね。始めたものの二人とも、終わり方がわからないでいるんだよ」
「どうして?」
「そうね……センパイの場合は、ツキちゃんと縁が切れるって思ってるから。ツキちゃんは……自覚無いのがタチ悪いよね」



 ――ほんのちょっと自分に素直になるだけなのにね。
 芽衣の言葉が頭から離れず、なかなか寝付けない。
 何度か寝返りをうったのち、彌生は起き上がって部屋から出た。
 階段を下りるとリビングの方から廊下に向かって薄明かりが漏れている。そっとドアを開け入り口から顔を覗かせると、大きなテレビの真ん前で颯希が何か鑑賞している。珍しく眼鏡なんてかけている。映像に見入っているようで、まだ彌生には気付いていない。
 いつ気付くかひやひやしながら忍び足で近づいてみた。
 いったい何をそんなに熱心に見つめているのか。
 画面に映し出された映像に、忍んでいたことも頭から消え失せた。
「なんで」
 思わず呻いた声に、颯希が反応した。
「彌生、どうしてここに」
 心底驚いた顔をしているが、知ったことではなかった。こちらの疑問を解決してもらうのが先だ。
「あの、これどうしたんですか」
 震える指で画面をさす。
 そこには魔法少女だった彌生がいて、化け物と戦っている。
「半年に一度、機関が送ってきた」
 颯希は眼鏡を外して、自嘲気味に笑った。
「といってもこれがないと、俺らにはただの真っ黒な画面なんだよな。……お前が血だらけになって戦ってるのに手助けできないどころか、こんな百均で売ってそうな眼鏡がないと俺たちには見ることが出来なくて、だから離ればなれなのかと思うと悔しくて堪らなかったよ。だけどもう彌生はここにいるんだし、捨ててしまおうかと思ってたんだけど……確認したくなって」
「確認?」
「目標……いや、動機かな」
 遠くを見る目つきをする颯希は、くたびれた年寄りのように疲れて見えた。
「彌生が怒ってるの見たら、俺は何をしてるんだろうって、わからなくなった」
 冗談めかした乾いた笑い声。
(……どうして)
 芽衣も、颯希も。
 笑って、己を繕おうとするのだ。
「どうして笑うんですか」
「え?」
「やめてください、そんな自己犠牲みたいなの。少しずつきょりを縮めてければいいって言ってくれたのは嘘だったんですか。わたしだって昔のことは自分で折り合いつけて今ここにいるんです。自分のこと、蔑ろにしないでください。それでわたしのことばっかり気遣われても、わたし、少しも嬉しくない」






 ――重いんだよ、って面と向かって言われなかっただけよかったじゃない。
 芽衣はそう言って笑った。戦友の肩を抱いて慰める、そんな労りを感じた。
 だけどそれだけで立ち直れる颯希ではなかった。
 過去はやはり清算せねばならないと思う。
 何もかも乗り越えたふうで、見たくないものから目を背けてきた自覚はあった。
 お願いね、と母から彌生を託されたけれど、死の間際に交わした口約束にどれほどの強制力があるだろう。託されたなんていっても本当は分かっている。颯希自身がそれに縋っただけに過ぎないことを。降って湧いた不幸に真っ白になった頭が手っ取り早いとそれを採用した。
「……センパイ、もうやめよう」
 席にも着かず開口一番そう告げた。
 あやめとの待ち合わせに使う喫茶店はいくつか決まっている。いつも彼女の方から連絡が来て、彼女の方が先について颯希を待っている。待たされたことは一度もない。
 あやめは一瞬驚いた表情をみせたものの、いつもの余裕然とした顔に戻ってカップを口元に引き寄せた。
「まあ、座りなよ」
「……はい」
 促す言葉に有無を言わせぬ力を感じ、椅子を引いた。あやめはそれきり黙ったままコーヒーを飲んでいる。気詰まりに感じ始めたところへ店員が注文を取りに来たからアイスティーを頼んだ。
 しかしまたそこから重い空気が復活する。
 注文が届いてもしばらく二人は無言だった。
「……きっと昔の、君を知る前のわたしだったらしょうが無いとあっさり諦めたんだろうな」
 ぼそりと言ったあやめの視線はカップに注がれている。とっくに空になったそれは受け皿の上にありながら彼女の手は離れない。
「寒川……センパイ?」
 いつにはないあやめの姿に胸が騒いで名を呼べば、決意を秘めた双眸がこちらを向く。
「颯希、わたしは君が好きだ」
「……知ってます」
 でなければ後見の話や仕事の面倒を、たかだか高校の後輩に対してみてやるはずがない。身内と認めた人間にはとことん手を尽くす気前の良さは学生の時から充分見てきた。
 だからこそ、颯希は差し伸べられた手を拒まなかった。
「君が考えている好きと、わたしの好きはおそらく違うぞ」
「え?」
「わたしの好きは、恋愛対象として、だ。これまでのことを思えば俄に信じがたいだろうが」
 理解が追いつかず、思考が止まる。
 なんだって?
「ちょっと、待ってください。好きってだって、センパイ、俺以外にも――」
「あれらと君とは、まったく話が違う。きみをあれらと同列に扱うことはしてないぞ。なぜわたしが学生時代、君にだけ手を出さなかったか分かるか」
「し、知りませんよ、そんなこと」
「君が本当に特別だからだよ」
 うなじの辺りがそこだけ熱を持ったようにちりちり灼ける。空調の効いた場でありながら身体が汗ばみ始める。
 こんな展開は予想だにしなかった。
「手を出したら取り返しがつかなくなると思った。だけどずっと側に置いて眺めているだけにもたえられなくなった。君が精神的に荒れているのはつけいるチャンスだと思ったよ。我ながら、人でなしだと思う」
 そんなことを言いながら、あやめの目は獲物を追い詰める肉食獣のそれで。颯希はそれを懐かしいと思った。高校の時はよく、そんな彼女を見ていたものだ。好きだと思ったものに彼女は躊躇しない。
 普通だったらはしたないとか眉を顰める場面だが、寒川あやめがそれをすると、不思議と生臭くない。きっと彼女は天性の狩人だった。だから誰も「ああまたか」と思うだけで不快にまでは至らない。
「わたしは君を諦めたくない」
 なんて殺し文句だろう。
 颯希はあやめから目を逸らして俯いた。
 きっと十六年前の自分だったら顔を真っ赤にして「ありがとうございます」なんて照れながら応えていた。
 月日は残酷だ。
「……センパイは、俺が器用じゃないこと、知ってますよね」
 口がからからに乾いていた。
 関係清算のはずが、なし崩しで都合の良すぎる展開に身を委ねてしまえば何のために悩んだのか分からなくなってしまう。
「知っているさ。そんなところも含めて、君が好きなんだよ。だから、」
 エナメルに彩られた爪先が視界に入り、思わず顔をあげる。向かいの席から身を乗り出したあやめの顔が近くにあった。
 指先が前髪を梳いて、額に柔らかいものが触れていく。
「センパ……」
「今日はさようならだ」
 魔法にでも掛かったように呆然と、彼女が席をたつのを見送る。真横を通り過ぎる瞬間、猛烈に呼び止めたくなって、ぐっと堪えた。
(今日「は」さようならだ)
 颯希の意を汲んであやめがわざわざそう言ってくれたのだから。
 氷がすっかり溶けたグラスに情けない己の顔が映り込んでいる。
 カランカランとドアベルが鳴る。
 こんなふうになって初めて分かることがあるなんて思いもしなかった。



 十六年を経て、颯希の時計は動き始めたのだ。





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