目の前にある光景が見えているのか。
誰が何を喋っているのか理解出来ているのか。
食べて、美味しいと感じることが出来ているのか。
楽しい、悲しい、寂しい、そんな感情もなくて。
私の目の前に横たわっている人は、果たして生きていると言えるのだろうか。
そして彼を人間として見ることは出来るのだろうか。
一年前の冬休み、私たち家族は温泉旅行に行っていた。
長女、次女とちょうど休みが重なったので、久しぶりに家族みんなでの旅行。
私も夫も、年甲斐もなく旅行を楽しみにしていた。
でも、それもすぐに思い出したくもない事故で幕を閉じることになる。
高速道路を走っている時、私たちの車は事故にあった。
大型トラック運転手の居眠り運転による追突事故。
事故があった時、何がどうなったか私は分からなかった。
気がつけば外に投げ出されていて、身体中からは酷い痛み。
でもそんな痛みより私は家族を探した。
横転し、原型もとどめていない私たちの車。
そこら中にガラスが飛び散り、周りには色々な物が集まっていた。
人、車、破片、判別出来ない何か。
まさに惨劇とはこのことだった。
そこに、家族を見つけられなかった。
私は家族を探せないまま、意識を失ってしまった。
「お母さん、大丈夫?」
身体を誰かに叩かれていた。
次女の美樹が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「うん……ちょっと事故のこと思い出しちゃって」
暗い顔を隠すように、私は笑顔で話す。
夫が入院している病室に、私は美樹と一緒に居た。
あの事故では、奇跡的に家族全員が助かっていた。
長女と次女は後部座席に乗っていたが、幸い重症には至らず。
私も身体を強く打つなど無事ではなかったが、今では普通に生活出来るまで回復した。
しかし、夫だけは違った。
事故で脳に激しい衝撃を受け、身体中に酷い傷を負う有様だった。
そして診断されたのが「遷延性意識障害」という症状。
いわゆる「植物状態」であった。
意識はある。
けれど、自分では動けず、感情を表すことも出来ない。
それは人であるということを否定する状態なのかもしれない。
事故から三ヶ月が経ち、医師から植物状態とみなされた夫。
あれからさらに月日が経ち、事故から一年が過ぎた。
私はあれから毎日夫の病室に訪れている。
けれど、夫はあれから一向に動くことはない。
でも、食事を与えれば食べることは出来る。
呼吸もしているし、排便や排尿だってする。
生きていることは、確かだった。
「お父さん……私たちを守ってくれたんだよ」
そんな美樹の言葉が頭の中で渦巻いていた。
私たち家族を怪我から守ってくれたから、こうなった。
私たちが居なければ……夫はこんな状態にはならなかったのかもしれない。
……止めよう。
そんな考えは夫は望まないだろうし、私だって望まない。
「お父さん、生きてるんだから」
「うん……。でも、楽しいのか悲しいのか……分からないもんね」
「でも、こうしてしっかりと生きているのよ」
「私やっぱり思っちゃうんだ。お父さん、こうまでして生きたいのかなって」
「美樹、止めよう」
「うん……ゴメン」
いつか聞いた、安楽死の話。
医者に言われた「このまま生きているのは、本人も望まないのでは」という言葉。
でも私たちは反対した。
こうして生きているというのに、どうして死を与えねばならないのだろうか。
「夏場は汗もかくし、まばたきだってする。お父さん、ちゃんと生きてるんだもんね」
美樹が夫の肩をさする。
「そうだ、美樹。お父さんに美咲の結婚式のビデオを見せなきゃ」
「うん、そうだね」
美樹が病院に来たのも、このためであった。
事故から半年が経ち、長女の美咲が結婚式を挙げることになった。
美咲は「まだ結婚する時期じゃない」と反対していた。
それは事故のことであり、夫のことであった。
でも私は結婚式を挙げることを美咲に薦めた。
この時期だからこそ、やりなさい、と。
そんな言い訳は夫は絶対に望まないと思ったからだった。
そして美咲は無事に結婚式を挙げた。
夫は病室を出ることは出来ないため、今日こうして結婚式のビデオを病室で見ることになったのだ。
「じゃあ、ビデオ再生するよー」
「うん、お願いね」
美樹がデッキにビデオを入れ、再生する準備をしている。
「あなた、美咲の結婚式のビデオよ。美咲、すごく綺麗だったんだから……」
夫の身体を起こすためにベッドを起こし、視線をテレビに向けさせる。
見えているか分からない。
その顔からはどんな感情が渦巻いているか分からない。
けれども、娘の晴れ姿だけは夫に見てもらいたかった。
そして結婚式のビデオは再生された。
ウエディングドレスを身に纏った美咲がバージンロードを歩いてゆく。
指輪を交換し、キスをし、賛美歌が歌われている様子が流れる。
披露宴での様々なことが映し出され、私たちは静かにビデオを見ていた。
「綺麗だねぇ、お姉ちゃん」
「うん、美樹もそろそろ結婚しないとね」
「あはは……」
そして披露宴も終盤に差し掛かり、私と美樹もビデオに映った。
美咲の夫のご両親と挨拶をし、花束が贈呈されている。
そして美咲の簡単なスピーチが始まった。
「まず、この結婚式を挙げられたことをお父さんに感謝します」
その言葉から始まったスピーチは、夫への感謝の気持ちで溢れていた。
事故から守ってくれたことへの感謝。
今まで育ててくれたことへの感謝。
様々な思い出をくれたことへの感謝。
美咲は、スピーチをしながら泣いていた。
その隣では私も美樹も泣いていた。
「最後に、今まで本当に……本当にありがとう、お父さん。大好きだよ。」
もはや言葉にならない涙声で、美咲はスピーチを終えた。
会場からは温かい拍手が起こっていた。
何人かの人は涙を流していた。
ビデオには美咲が私と美樹と抱き合っている姿が映し出されていた。
「お母さん!!」
美咲が大きな声をあげて私を呼ぶ。
披露宴の思い出から、一気に現実に引き戻される。
「どうしたの? 病院なんだから大声は……」
そう言って、私は美樹の方を向く。
「お父さんが! お父さんがっ!!」
私は、美樹の隣で上体を起こしている夫を見た。
事故に遭って以来、動けなかった夫。
その目に、涙が浮かんでいた。
やがて涙は溜まり、溢れ、一筋の線を作っていく。
夫が、泣いていた。
「あ……あなた!」
「お父さん!」
美樹と一緒に夫の側に駆け寄る。
涙は流れたまま、それも止まらずに次々と流れ出していた。
「あなた、見えていたのね! 感じていたのね! ……悲しかったり、嬉かったんだね……」
美樹も夫の手を握りながら泣いていた。
「辛かったでしょう……辛かったよね……今まで辛かったよね」
気がつけば、私も泣いていた。
「ゴメンね……今まで気付かなくて本当にゴメンね……」
美樹も、私も、そして夫も。
みんなみんな、涙が溢れていた。
それから、半年の月日が流れた。
私はあれからも変わらずに毎日夫の側にいる。
昔は夫のことを「人ではなくなった」と思うこともあった。
けれど、夫は涙を流した。
それは、今までの「生きている」という意味を変えるものだった。
その事実は、私にとって何よりの幸せだった。
「あなた、美樹にも彼氏が出来て……挙句には結婚とか言ってるのよ?」
病室に飾られている花の手入れをしながら私は夫に語りかける。
夫の表情は変わらない。
けれど、感じていることは分かっている。
「また、結婚式のビデオを見て泣いちゃうのかしらね」
私は少し悪戯っぽく話す。
夫の表情は相変わらず変わらない。
けれど、その表情はどこか微笑んでいるように見えた。
あの事故以来、夫は動けなくなっている。
けれど、夫は生きているという事実はそこにある。
私たち家族への愛情が、そこにはあった。
動かぬ愛情が、確かにあった。
|