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<第三十四章 タブリーズ飛行場>

 昭和十五(1940)年九月。


 タブリーズの大地は満州より辛かった。

 大地の荒れ具合は似たようなものだが、気温を上げて、さらに乾燥させた感じだ。地面も満州より硬い気がする。

 ここタブリーズはイラン北西の大きな街で、ソ連、トルコ、イラク国境からそれぞれ百二十キロほど離れている。

 この地方の交易の中心地だ。

 ここに飛行場を作り、鉄道を引き、兵站と空爆の拠点にする。


 早速講習を始めたいところだが、鉄道で送られてくる日本製重機はまだ届いていない。それで、すぐには始められない。

 俺の生徒はというと既に三人の軍人さんが来ていた。

 イギリス一人、ドイツ一人、イタリア一人。

 当初の話ではイギリスだけだったんだが、なぜかドイツとイタリアが入っている。

 ドイツはまだ分かる。対ソ戦で壕を掘る機会も多いだろう。

 ドイツに頑張ってもらわないと日本への圧力が強くなってしまう。

 だが、なぜ、イタリア?

 今度の戦争でイタリアはフランス相手に少し戦ったくらいで活躍しているイメージが無い。

 今から大きな作戦にでも参加するのか。それとも戦争参加の分け前として要求してきたのか。

 政治の駆け引きの細かいところまでは教えてもらえないので想像するしかない。

 そして、この三人の生徒の他に予備として各国一人ずつが付いているので、正が三人に副が三人ということだ。


 すぐにやることは無いので、俺はイギリス製ブルドーザーを調べたり、これからの作業の下準備をしたり、イギリス人技術者から質問責めにあっていた。

 イギリスのブルドーザーはエンジンのパワーが日本製より強い。これなら、日本製より効率が良さそうだ。

 それに、日本製より静かで振動が少ない。シリンダやピストンの加工精度が高いのか、ピストンリングの問題か、はたまた燃焼室の形状か。今すぐには分からない。

 日本製に慣れた俺としては物足りないが、普通の人はこっちの方が好きだろう。

 俺は許可をもらい滑走路予定地で実際に動かしてみた。日本製より使いやすい。

 パワーも強いし、移動速度も速い。日本製がこれに追いつくのは何年もかかりそうだ。

 これは一台輸入してもらって徹底的に調べる必要がある。例のS資金で買ってもらうように頼んでみよう。


 俺がイギリスのブルを調子に乗って動かしている間、時間がもったいないので池田少佐が日本語マニュアルを教科書にして、正副六人に口頭でユンボの説明していた。

 英独へ輸出したユンボには現地語でマニュアルは付いてなかったのか。

 もし付いてたら予習くらいして来てると思うのだが。



 待つこと五日でようやく日本から持ってきたユンボが到着した。

 ユンボは戦車運搬用の車輌に乗せられていた。テヘランからここまで五百キロ、陸路を強行軍で運んだのだろう。

 ユンボと一緒に持ってきた○菱製ダンプ三台もこの時一緒に来た。荷台には消耗品を一杯に積んでいる。こっちは自走してきたのだろう。

 俺は一通り点検した後、燃料を入れた。

 燃料はこんなに使わないというほどたっぷり届いている。

 そして、俺は模範とばかりにユンボを動かした。


 見ている人の驚きが伝わってくる。

 日本以外で使われているワイヤー式ユンボの何倍も速いはずだ。それにワイヤー式の弱点硬い地面も掘っている。

 背中がムズムズしながらも地下燃料タンク用の穴を掘る。

 深い穴ほど人力で掘る場合との差が広がるから能力を見せやすい。

 途中からは俺の後ろには池田さんとイギリス人の二人が乗って(俺以外は座る所が無いのでつかまってるだけ)いて、俺が説明しながら動かす。

 口で十回言うより見た方が何倍も速い。

 こうして初日は三人の生徒を順番に後ろに乗せて、動かすところを見せて終わった。


 さらに二日後には開戦前にイギリスへ輸出した○菱製ユンボがオペレータと共に到着した。

 このユンボは民間企業の物らしくて、オペさんも民間人だ。

 ドイツに輸出した物も持ってくるかと思ったら、独ソ戦で絶賛使用中で無理らしい。



 残り期間は約二十日間。

 この間でユンボのオペを育てると同時に飛行場を完成させなければいけない。

 また、余裕があれば兵站基地建設を手伝い、こことテヘランを結ぶイラン横断鉄道建設を手伝う。

 イギリスの人に聞くとすぐに教えてくれたが、イランが英独側で参戦する条件の一つが、この鉄道建設だそうだ。

 イギリスの資金・技術で鉄道を作り、戦後はイランへ売却する。費用は石油の売却収入から長期返済するのだ。


 イギリスは鉄道建設の為、連邦中から関係者を集めてきている。

 このタブリーズが鉄道でつながると、この戦線は一気に英側が有利になる。

 なんと半年間で開通させるというとんでもない計画だ。

 百八十日で五百キロとすると、休み無しで一日三キロ。三か所で同時に工事すると、一日一キロずつ。

 いくら大部分が荒野だといっても、途中には丘陵もある。

 重機が何台でも必要になるだろう。



 英独伊の各国はユンボのオペとして元戦車乗りを用意していた。

 これは俺が事前に中尉へお願いしておいたからだ。


「最低でも自動車運転の経験者、できれば戦車とかのキャタピラの操縦者を用意して欲しい。それで何日か研修を短縮できる」

「分かった。向こうにはそう伝えておく」


 ということを俺が今回の件について打合せした時に話しておいた。

 ちなみに、イタリア人にキャタピラの経験を聞くと、


「スィ(はい)、スィ(はい)」


 というばかりで、はっきりしない。

 この三人は行動がそれぞれ出身国っぽい。

 まず、イギリス。東洋人に教わるのが気に食わないのか、とても慇懃無礼だ。

 ドイツは細かい。バケットを入れる際にも「角度は何度か」とか俺が考えてもみなかったことを聞いてくる。


「大体このくらいです。見て、やって覚えてください」


 と言うと。


「待ってください。榊原中佐。(英語)」


 と、俺の作業を止めて実際の角度を測りに行った。それに何でもメモしている。メモ魔だ。

 最後のイタリアはうるさい。

 常にしゃべっているか、鼻歌を歌っている。俺の話をちゃんと聞いてない気がする。それでも、重機を動かすと三人の中で一番上手い。

 そして、当然のことなのか三人はそれほど仲が良くない。


 こういう時はあれしかない。飲み会だ。

 俺も元の世界では社会人らしくたまに飲み会に参加していた。

 酒に強くないので、あまり飲まないで人に注いだり、話を聞く係だった。


 俺主催ということで、英独伊の正副六人に池田さんの計八人で飲み始めた。

 酒は各自が持ち寄りだ。日本の分は池田さんが持って来てた日本酒を出してくれた。

 最初はまあイタリア人が陽気にしゃべり、それを聞きながら静かに飲んでいた。

 それが、途中から英語で口論するようになり、最後は各自が母国語で怒鳴り合う激しい飲み会になってしまった。

 ちなみに、俺は弱いのでほとんど飲まなかったし、池田さんも護衛と通訳に時間外は無いと少ししか飲まなかった。


 翌朝、外人組は二日酔いで辛そうだった。

 俺は外人でも二日酔いになるんだとまた一つ賢くなった。

 でも、飲み会をやって良かった。この日から多少は打ち解けてきた気がする。


 今回の研修では基礎を反復して教えるよりも実践的な技を中心に教えることにしている。

 俺が帰った後は、もう誰からも教えてもらうことができない。

 慣れるのは、俺が帰った後自分達で実際に作業して体で覚えてもらう。

 今は一つでも多くの技を覚えてもらうのが良いと俺は考えたのだ。


「バケットで掘る時は、アームも同時に動かす」

「なるべく移動を少なくするよう考えて掘る」

「クラクションを使って、ダンプに合図を送る」


 という誰でも気付くことでテクニックというほどの物ではないことから、バケットを地面に刺して支えながら急斜面を登る技なんかを見せておく。

 他にも、バケットを細かくゆすって大きな石と土を分ける技。

 バケットを使って段差を超えたり、大きな溝を越える技とかも見せておく。

 二メートルの溝を越えた時などは、


「オオオオオォー」


 と声が上がった。


 最初は東洋人だということで馬鹿にする雰囲気もあったが、俺がユンボの腕を見せると自然と言うことを聞くようになった。

 技術を持っている人間には素直に従うのは外人の良いところかもしれない。

 そして、俺が空き時間に率先して工事に加わっていると、さらに俺を見る目が変わってきた。


「なぜサカキバラ中佐は工事を手伝っているのか」とイギリスが聞いてきたので

「工事を早く終わらせるためだ」


 と当たり前のことを答えたら、驚いていた。

 イギリスでは将校自ら現場で働くなんてことはないそうだ。

 日本より階級社会なのかもしれない。

 俺は中佐待遇といってもユンボオペだから、工事を手伝うのは当然なのだ。



 日が暮れると工事や研修は終わる。

 だが、俺の一日は終わらない。

 夕食後はイギリスの技術者が話を聞きに来るので、寝るまで休みが無い。

 開発中に苦労した点、現状の問題点、今後の開発予定など話して良いのか考えてしまうものから、製造原価や生産量、製作日数とかの答えられないことまでしつこく聞いてくる。

 毎日、毎日あまりにしつこく聞いてくるので、最後には根負けして、


「油圧シリンダーの部品精度が重要」

「油圧パッキンは当初ドイツ製を使っていたが、途中からは内製に切り替えた」

「バケットの交換アタッチメントは既に開発済みで近い内に発売予定」


 などの幾つかの情報をしゃべらされてしまった。

 油圧式ユンボは特許に守られているし、このくらいなら大丈夫だろう。



 タブリーズでの生活が一週間、二週間と過ぎるうちにだんだん体も慣れてきた。

 最初は暑さや乾燥にやられて食欲が無く体が辛かった。

 だが、今では毎食満腹まで食べて、体力も戻ってきた。

 食事は主にインド兵用のカレーを食べた。

 日本から来た三人にはイギリス人将校用の食事が用意されていたが三日で飽きた。

 パン、芋、豆、肉、紅茶が三食続くと無理だった。

 醤油と梅干くらいじゃ役に立たない。


 それで、インド兵用のカレーを食べるようにした。

 カレーなら毎食でも食べられる。

 インド兵はインド各地から来ているのでカレーは部隊により微妙に違う。


 主食はナンやチャパティーとかいう具無しのピザやクレープみたいな物だったり、米もある。

 米は日本よりパサパサしているが、毎食パンよりましだし、サラッとしているインドのカレーに合う。

 そして、カレーに飽きたら英国料理をもらってきて食べる。

 失敗したと思ったのは緑茶を持ってこなかったことだ。飲み物は基本紅茶だ。


 そんな、ある日、初めて敵機を見た。飛んできた方角からしてソ連機だということだ。

 俺は焦った。

 敵を見たのはこの時が初めてだった。

 満州では結局戦闘が始まる前に帰って来たし、ここに来るまで敵の接触が無かった。

 どこに避難しようかと俺があたふたしているのに、周りは落ち着いたものだった。のんきに空を見上げている。

 池田少佐に


「早く逃げましょう」と少し震える声で言うと

「単機であの高度ということは偵察です。その内、いなくなりますよ」と平然としている。


 実際、その敵機は偵察だけのようで何もしないで帰っていった。

 これで俺の中の戦争感が一気に大きくなった。ここは戦場だと実感がする。

 満州より危険な場所なのだ。


 さらに二日後にはたまに遠くで大砲の音がするようになった。

 英インド軍は既に国境付近に展開し、戦闘を開始しているというのだ。



 俺が戦争への恐れを隠してイランで埃にまみれている間に、太平洋では日米の一大決戦が行われていた。

 それを知ったのは、大本営から現地司令部との連絡にやって来た人が、飛行場に寄って教えてくれたからだ。

 多分、中尉が気を利かせたのだろう。おみやげに鮭缶とかの缶詰を持ってきてくれたので嬉しさ倍増だ。


 開戦以来、米はサモアを増強し続けていた。

 そして九月中旬、ハワイの通信量が急に増える。

 これは何かの作戦の前兆だと日本は海軍主力をトラック等へ移動させた。

 同時にサイパンの海軍航空隊を増強する。

 ただし、今年竣工し慣熟航海を終え配備に着いたばかりの改翔鶴型の仙鶴、尊鶴は本土防衛のため瀬戸内海で待機している。


 九月二十九日。

 マーシャル沖海戦と呼ばれる戦闘が起こった。


 日本軍は米軍の作戦意図をマリアナかマーシャルのどちらかだと考えていた。

 オーストラリア、ニュージーランド攻撃の可能性もあったが、その場合、日本からは到底間に合わない。あきらめて、敵が帰港中のところを狙うしかない。

 日本の作戦はマリアナ死守でマーシャルは状況に応じて放棄となっている。

 だが、何もせずにマーシャルを放棄したのでは、そこを米軍の足場とされマリアナが危険になる。

 よって、マリアナ、マーシャルのどちらへ敵が来ても良いようなどっちつかずの作戦になっていた。


 航空戦力が弱いマーシャルには水上機母艦が二隻派遣され、トラック配備の九七式飛行艇九機が臨時で進出している。

 この九機には最新鋭の航空機用レーダーを積んでいる。

 まだ小型化、省電力化が進んでおらす、大型飛行機である九七式飛行艇にしか積めないのだ。

 この九七式にレーダー用電力を供給する発電用のエンジンと燃料を積んで、哨戒機として使う。


 九月二十五日。

 九七式飛行艇九機が十五度間隔で放たれ、半径二千キロ、百二十度の範囲を航続距離一杯までの哨戒を開始。

 しかし、初日は何も発見されず終わった。


 九月二十六日。

 ハワイの諜報員より、九月二十一日にハワイの米国艦隊出港の連絡が届く。

 この情報はすぐに大本営からトラック、マーシャルへと届き、哨戒が継続されることが決定した。

 搭乗員は前日の疲れも取れぬまま再び哨戒を行う。

 結果、発見されたのは米軍と思われる潜水艦一隻だけであった。

 飛行艇は航続距離を伸ばすため対潜爆弾を積んでおらず、敵が潜航して逃げるのを見ているしかできなかった。


 九月二十七日。

 この日も哨戒が行われた。

 連日の長時間飛行で搭乗員の限界も近い。今日中に何も発見されなければ哨戒範囲を狭めることが考えられていた。


 午後二時過ぎ、一機の哨戒機が逆探で敵の電波を拾った。

 哨戒機は逆探探知後、高度を下げおおよその方向へ接近した。

 六十カイリ進んだところで上昇、危険を冒してレーダーの電波を発進した。逆探では敵の方角は分かっても距離までは分からないからだ。

 そして、二十カイリ先に敵艦隊を発見。急行する。

 時速百六十ノットで飛ぶこと五分少々で敵艦隊を視認した。

 機長は敵艦隊の概要を確認すると、すぐさま機体を反転し退避に掛かる。

 鈍足の飛行艇では敵戦闘機から逃げることはできない。

 同時に打電し味方へ知らせる。


「臨編マーシャル哨戒隊二番機、敵艦隊発見、方位四十三、距離九百七十八、マーシャル方面へ進行中。空母三、大型艦五、中型艦以下多数」


 飛行艇は打電を続けながら低空で逃亡。何とか逃げ切った。

 米海軍はマーシャルから二千キロ近く離れていて日本の哨戒圏はまだ先だと油断していたのだ。

 米国ジョンストン島の近くまで哨戒機が来るとは思わなかったのだろう。


 日本海軍はこの報を受けて直ちにトラックを出港。マーシャルを目指す。

 第一航空艦隊、第一艦隊、第二艦隊の主力全てといってよい大艦隊だ。

 空母六、戦艦九、重巡十、軽巡三、駆逐艦三十八、護衛空母三。この正規空母六隻は今年当初より順に艦載機の機種転換を行い、全機最新式の零式に置き換わっている。

 その後を旗艦戦艦比叡、油槽艦、補給艦などの艦艇が従う。これらの艦は足が遅いので、一緒に行くと足手まといになる。そのため、後から追いかけるのだ。


 日本海軍は十八ノットの高速でマーシャルへ急ぐ。

 マーシャルが敵に空爆されると、決戦時の航空戦力が大きく減少してしまう。

 是非とも、その前に決戦に持ち込みたい。

 トラックからマーシャルまで約二千二百キロ。十八ノットでも六十五時間かかる。

 米軍も発見された以上、速度を上げてマーシャルへ向かうと思われ、このままでは敵が先に着くことになる。


 そこで、何としても敵を足止めせよとマーシャルの司令官へ命令が出された。

 マーシャルにある戦力は元海上保安庁で現在は海軍の指揮下に入っている巡視船一と巡視艇二。水上機母艦二、九七式飛行艇九機。

 敵が来たら放棄する予定の場所だから、たいした戦力を置いていないのだ。

 飛行場に九七戦十二機、九七爆九機、九七攻九機。港に水上偵察機四機。後は雑役艦、輸送船、補給船しかない。

 できることは限られる。少なくとも昼間は相手にならない。

 そこで、夜間の嫌がらせ攻撃が立案実行された。


 二十七日夕刻。

 マーシャルのマジュロ島を出発した飛行艇は米艦隊を求めて夜間哨戒。

 敵艦隊の予想地点であっさり発見した。

 米軍はいまさら身を隠す気が無いのか最短経路を通ってマーシャルを目指していた。

 そこから飛行艇は付かず離れずで米艦隊にまとわりつき、その位置を味方へ打電する。そして時々照明弾を落として嫌がらせをする。

 米軍は夜間用艦上機を持っていないとの予想からだ。

 米軍が水上機を出してきても、なんとか立ち向かえる。それに、水上機の場合回収時に一旦船を止めないといけない。それは日本にとって好都合だ。

 米軍も時間が重要だと考えているのか、水上機は出さずに時折機銃で威嚇してくるが、もちろん当たらない。

 これにより米軍はまだ機銃用の射撃レーダーは搭載していないと予想された。

 飛行艇は夜間の間、三交代でたっぷりいやがらせすると明け方近くにマーシャルへ帰投した。


 二十八日も前日と似たような状況になった。

 日米ともに艦隊はマーシャルを目指す。

 そして、夜間に飛行艇による嫌がらせが始まった。

 前日と違っていたのは、この日飛行艇は二百五十キロ爆弾一発を積んでいた。

 米艦隊が近づいたので、燃料を減らして爆弾を積むことができたのだ。

 まず照明弾を落とし敵艦を視認した後、高度二千から水平爆撃で空母を狙う。

 ただでさえ命中率の低い水平爆撃は夜間でもあり当然のごとく外れた。

 これには米軍も驚いたはずだ。単なる嫌がらせだと思っていたら、いきなり攻撃されたのだ。

 これ以降、米軍は飛行艇が近づいてくるたびに回避行動を取らざるをえなかった。

 爆弾一発といえど当たり所によっては戦力が減少してしまう。

 この夜、日本は三発の爆弾を投下した。いずれも外れたが、わずかばかりの時間を稼ぐことに成功した。


 二十九日。

 午前六時の時点で米軍はマーシャル東北東五百五十キロ、日本艦隊は西方九百キロに位置していた。

 前夜の嫌がらせがなければ米軍は日の出とともにマーシャル攻撃が可能であったが、今はまだ遠い。

 そこへマーシャル島から日本海軍の攻撃隊が襲い掛かった。日の出前の仄明るい中、発進したのだ。

 日本機の攻撃範囲を見誤った米軍の誤算だ。

 日本軍は全機を投入したが、その数はわずか九七戦十機、九七爆八機、九七攻八機。(四機はエンジン不調で離陸中止、途中帰還)

 米軍は夜間対潜警戒陣から輪形陣へ変更している途中であり、また空母の甲板上には発進準備中の航空機が並べられていた。

 米軍は戦闘機を急いであげようとするが、日本の攻撃の方が早かった。

 ヨークタウン級の手前の艦に九七爆五機、九七攻六機。奥の艦に九七爆三機、九七攻二機が襲い掛かった。

 その結果、一隻に二百五十キロ爆弾一発、魚雷一発を命中させた。

 その後、攻撃隊は米空母から発艦した戦闘機により攻撃され、基地まで戻ってこられたのはわずか九七戦三機であった。

 その三機も被弾しており、再出撃はできない。


 そして六時間後、今度は米軍艦載機によりマジュロ島が攻撃された。

 飛行場はほぼ全ての施設を破壊されたが、艦艇は全て出港退避済みであり一隻の被害も無かった。


 その頃日本艦隊は翌日の攻撃を目指し朝から速度を二十一ノットに上げて戦場へと急いでいた。

 マジュロ島壊滅の報を受けた時点でマジュロ島まで約六百五十キロ。

 このまま進めば燃料の少ない駆逐艦は燃料が切れる恐れがある。

 だが、帰りのことは考えないとばかりに猛進する。


 夕刻、マジュロ島とは別の環礁に退避していた飛行艇部隊は一矢報いんと攻撃隊を発進させた。

 午後九時過ぎ、米艦隊を発見。日本艦隊へ敵位置を知らせるとともに、周囲を索敵していた味方機を呼び寄せる。

 米艦隊は今朝の魚雷命中の影響か十二ノットの速度で進んでいる。

 そこからは昨夜と同様の嫌がらせだ。

 照明弾を落とし、爆撃コースに乗る。そして、何もせず通り過ぎる。これを何度も繰り返す。

 米艦はその度に回避せざるをえず、時間を余計に食ってしまう。

 こうして一晩中の嫌がらせの締めくくりに各機が爆撃を行うと、天佑神助、はたまた搭乗員の気迫のたまものか、爆弾一発を命中させた。

 米艦隊は火災消化の為に速度を落とさざるをえず、結局一晩の間に二時間以上の時間を失うこととなった。


 明けて三十日午前四時。

 日本艦隊の司令長官は決断を迫られた。

 彼我の距離は約七百五十キロ。到底攻撃できる距離ではない。

 航続距離の短い零式攻撃機は帰ってこられない。

 零式爆撃機も帰投コースを少しでも間違えれば、途中で燃料が切れる。

 そこで第一次攻撃隊から零攻を外し、零戦と零爆のみで編成することに決定した。

 攻撃隊発艦後、艦隊は全速で戦場へと向かい、少しでも距離を稼ぎ、燃料ギリギリで帰ってくる機を収納する予定だ。

 第一次攻撃隊が首尾よく敵の発艦能力を奪えたならば、第二次攻撃隊で零攻を出しとどめを刺す。

 午前五時、第一次攻撃隊は発進した。

 零戦二十八機、零爆五十三機、零攻六機の合計八十七機が高度三千五百で米艦隊へ向かう。

 零攻六機は魚雷の代わりに増槽を付けており先導及び索敵を行う。

 午前五時時点の位置は飛行艇から連絡が入っている。おそらくそこから最短距離でハワイへ向かうはずだ。


 一方日本艦隊は旧式艦が多い第二艦隊を切り離し、第一航空艦隊と第一艦隊で戦場へ急いだ。

 旧型艦ではこれ以上艦速を上げると機関が故障すると思われたのだ。これから四時間、二十四ノットを維持するのは無理だと判断された。

 一時間程度の戦闘であればなんとかなるが、四時間は艦歴が三十年を超える老朽艦には荷が重い。


 午前八時すぎ。

 日本攻撃隊は米国艦隊を発見した。

 だが米艦隊はレーダーで日本機の接近を探知していたのか、直掩機を上げて待ち構えていた。

 その数、F4Fがおよそ四十。

 しかも、カタパルトから、発艦が続いている。

 零戦は機動力を持ってF4Fを翻弄するが、数で負けているので全ての敵を抑えられない。

 敵機が向かってくる中、爆撃隊は母艦ごとに分かれて敵空母を狙う。

 加賀土佐隊が無傷の一隻、翔鶴瑞鶴隊が同じく無傷の一隻、蒼龍飛龍隊が速度の遅い一隻を狙う。

 対空砲火や敵戦闘機により数が減らされながらも、爆撃隊は合計四十三発の爆弾を投下、その内十二発を命中させた。

 加賀土佐隊が三発、翔鶴瑞鶴隊が四発、蒼龍飛龍隊が五発だ。

 敵空母三隻ともに黒煙が上がり、飛行甲板は使用不能と判断された。


 司令長官は連絡を受け、すぐさま決断。第二次攻撃隊を発進させた。

 午前八時三十二分。

 零戦三十五機、零攻五十三機(爆装十八、雷装三十五)の第二次攻撃隊、合計八十八機が米艦隊へ向かう。


 午前十一時少し前。

 第二次攻撃隊は米艦隊へ接触した。

 今だ煙を上げノロノロ動く空母を守るように、二重の輪が形成されている。

 敵戦闘機も三十機以上が待ち構えていた。

 こうなると、空母だけを狙う訳にはいかない。

 雷撃隊が外側の巡洋艦を狙い、水平爆撃隊が空母を狙うこととなった。

 零戦隊はほぼ数で同じの敵直掩隊を抑えて、味方の攻撃を助ける。

 結果、空母二に八百キロ爆弾を一発ずつ。重巡に五発、軽巡に一発、駆逐艦に六発の魚雷を命中させた。


 だが攻撃もそこまでだった。

 日本艦隊が追撃しようにも駆逐艦の燃料と機関が限界を迎えていた。

 燃料を補給しないと基地まで帰れない。

 そして、世界初の空母戦であるマーシャル沖海戦は終了した。


 最終的な戦果は、空母大破三、重巡撃沈一、大破三。軽巡大破一。駆逐艦撃沈三、大破一。敵機撃墜十二機。

 被害は被撃墜(未帰還機、帰還後廃棄を含む)が零戦七機、零爆二十機、零攻十九機、九七式飛行艇一機。マジュロ島飛行場は復旧のめどが立たずとなった。

 この海戦の結果太平洋からアメリカの正規大型空母は一隻も居なくなった。

 だが、その代償は大きく、日本は空母艦載機の1/4を一日で失うこととなった。



 この海戦に付随して三十一日夜、日本の潜水艦により空母一隻が撃沈された。

 ハワイ-サモア間の通商破壊を行っていた部隊が、米海軍の位置を無線で知らされ急遽マーシャルとジョンストン島の間で待ち伏せしていたのだ。

 この海域へ網を張った三隻の潜水艦の内、一隻がハワイへ帰投中の米艦隊を発見し魚雷攻撃を行った。

 この殊勲艦伊七十は魚雷発射後戦果を確認せずに退避したため何とか逃げ延びることができた。

 艦長が戦果を知らされたのは、その五日後に潜水母艦と合流した時だった。

 それは空母一撃沈という大金星だった。

次章は7/26(土)19時に予約投稿しています。

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