§15 人知れず消え行くもの
今年の正月に僧侶の方とお話しする機会ありました。
時節柄、除夜の鐘のことが話題に上りました。幸いその僧侶のお寺は古い地区にあり檀家もしっかりとしているのでそのような話は出ていないとのことですが、「五月蝿い」との苦情で「除夜の鐘」も衝くことが出来なくなってきているそうです。
童謡「夕焼け小焼け」の歌詞にあるような「山のお寺の鐘が鳴る」が近くに住まう人達の苦情によって潰えていくのは何ともやるせない思いがするのです。
鐘が撞けなくなるような苦情を上げるのは、お寺の傍に新興住宅地が造成されたりマンションが建てられ其処に転居してきた人達によるものが殆どで、長らくその地に住う人がお寺に文句を言うことは先ず無いと言うことです。
この問題考えるほどに、身勝手な主張によって筆を折るネット作家を目の当たりにするのと同じような気持ちになるのです。
普段除夜の鐘を楽しみにしている人達はお寺に除夜の鐘を続けてくれ等と要請することはまず考えられませんし、またごく普通のこととして、まさか除夜の鐘が鳴らなくなる等とは思っていないことでしょう。ただ、普通に何事も無く師走から正月への境の合図として除夜の鐘を風物の一つとして楽しみに待っていたはずです(そこに「お気に入りのお話の更新を待ち続ける読者の気持ち」と相通じるものを感じるのです……)。
鐘を撞く撞かないはお寺とその関係者が決めることではありますが、苦情は本当にその地域の総意なのでしょうか?
仮にそれが多数派であったとしても、新たに転居してきた住民達の意見できまるとすれば、ある意味それは地域の文化を破壊する侵略行為であるともいえるしょう(殊に「除夜の鐘」を楽しみにしていた人達にとっては……)。
良いもの(とここでは敢えて断言しますが)が潰えてしまうのはごく一部の声の大きい人達の主張であり、平穏に過している大多数の良識は(「それが時代なのか」とか「困っている人がいるのなら仕方ない」と言った或る種の気遣いと諦観によって、そして最大多数は「知らない内に……」)届かないという構図は、現実社会の方が遥かに深刻であると思っています。
そしてその地域では「除夜の鐘」は「現実」から離れ、歴史の領域へと去ってしまうのです。伝統行事である除夜の鐘、それが今を生きる一部の人の主張で(その地域限定とはいえ)潰えてしまう。それは、
・その地で営みを全うしてきた先人達の目にはどの様に映っているのでしょうか?
・今の時代を俯瞰する世代は私達にどのような評価を下すのでしょうか?
長く続いてきた「人ぞ知る」伝統が歴史へと変わり忘れられ、「知る人ぞ知る」に、更には「人知れぬ」にと移ろうものであることはご存知の通りです。私はファンタジー小説が好まれる背景の一つにその人知れず潰えていった思い出に対する哀愁があると思うのです。
声の大きな一部の人達によって多くの人達が大切にしているものが奪われ踏み躙られる。現実でもネットでもそれを悔しく、苦々しく感じているのは私だけではないと思います。
確かに「除夜の鐘」がこの国から一掃されることは無いでしょう。ですが、これからも知らないどこかでその伝統が断ち切られていくのです。静かにひっそりと、そう「お気に入りのネット小説」が読めなくなるのと同じように……