星空自転車
1、
終点です。機械的な合図とともに、私たちは電車を降りた。
「じゃあね、カスミ」
「うん。また明日」
この駅から家に帰る麻衣に手を振って、今降りたのとは反対のプラットホームに向かう。
たいていの高校生はこの駅で電車通学を終えるため、もう一度電車に乗る人は少ない。これから来るのは田舎へ向かうワンマン電車だ。私の他にそれを待っている人は、隣の高校の制服を着た女子と、同じ高校の三年生と、それから。
四番ホームと書かれた柱に寄りかかって、まだ電車の来ない線路の先を見つめているシャツ姿の男子。私の足音に気がついたのだろう。彼は私の方をふり返って、ひかえめに右手をあげた。
「大輝」
私は迷いなく、その男子の元へ駆けよる。
「部活は?」
「早く終わったんだよ」
「めずらしいね」
「そういう香澄こそ、いつもより一本早いだろ」
「今日の部活は休みなの」
「ふーん」
大輝は興味なさそうに、私から視線をはずした。
「また今日もお前と一緒かよ」
「……好きで一緒にいるわけじゃないんだけど」
「まあな」
本当にそうだよ、とむっとして返した言葉は、電車の走る音にかき消された。
「だけど、これに乗らないと帰れねえし?」
「うん。知ってる」
私は大輝を置いて、一両しかない電車に乗りこむ。大輝は黙って、私の後に続いた。
先ほどまで乗っていた満員電車と違って、乗客は五、六人ほどしかいない。閑散とした車内を見渡して、私はできるだけ乗車口から離れた席に座った。
入ってすぐの短いシートに大輝が座るということは、長い付き合いで知っていたから。
気分で座る席を変える私にはお構いなく、大輝はいつも降りやすい席を選ぶのだ。
昨日と変わらない景色を車窓から眺め、私は小さくため息をついた。
風景が変わっていく。長く電車に乗れば乗るほどに、マンションやビルは姿を消す。
この線路は山に穴をあけて作られたそうだ。何度も何度もトンネルの中を通る。緑が見えたと思ったら、すぐに目の前に壁があらわれる。よく見ると電線なのか何なのか分からない黒い線に気づかされるのだけれど、一年半の間同じ景色を見ているから、もう飽きた。
そのうちに、一人、二人と乗客が減ってゆく。気がついたら車内にいるのは、私と大輝の二人だけだった。
窓の外から視線をはずして、私はドアの隣の席を見やる。離れた私の席からはシートに邪魔されて、はねた髪の先しか見えない。
直す時間がなかった、と今朝大輝は言った。五時に家を出なければ始業に間に合わないのだ。それなのに今朝は寝坊してしまったらしい。
大輝は今、何をしているのだろうか。ふと、思った。
はねた髪が、上下に揺れている。眠っているのかもしれない。
車内に二人きり、しかも他人ではないというのにお互い黙っていることに耐えきれなくて、私は通路を挟んで大輝と向かい合う席に移った。
「ねえ」
寝ていたのなら起こすつもりで、私は大輝に声をかける。
「大輝ってば」
「何だよ」
大輝は起きていた。銀色の手すりに寄りかかっていただけだった。
「別に」
私はそう答えて、肩をすくめる。
「もう夏だなあって、思って」
「俺関係ないじゃん」
「うん。でも……夏は、暑いよ」
「誰かさんのせいで?」
「さあ? でも今日は外が明るいね」
「夏だからだろ」
「時間も早いし」
「……じゃあ、一人で帰るか?」
「うん。そうしようかな」
私が黙ると、大輝も口を閉じた。ついでにまぶたも。
そっけない幼なじみに、いらだちに似た感情を抱きながら、私はまた窓の外に目を向ける。
――この明るさなら……。
しばらくして、沈黙をかかえた電車は止まった。降りる駅だ。
真っ先に大輝が席を立った。さっさと電車を降りていく。
ここで降りないと家に帰れないから、私は大輝のあとに続いた。
無人ホームに立って空を見上げると、半分くらいが赤く染まっていた。四時に高校近くの駅から乗っても、最寄り駅に着くまでに時間がかかる。携帯を取りだして画面を見ると、六時半を過ぎていた。
電車の走る音が遠くなり、線路の向こうに消えていく。すると途端に周りが静かになるのだ。正確に言えば蝉の鳴き声だとか、風が吹き抜けていく音だとかは聞こえるのだけれど。
言うなれば、今どきの――せわしなく急ぐ人間らしい音がなくなったということか。
いつの間にか、大輝の姿はホームから消えていた。
「大輝?」
名前を呼んでも返事はない。
――やっぱり、一人で帰れってことか。
さっき私が言ったことは、冗談として受け取ってもらえなかったのだろう。
寂れた灰色のホームに一人残された私は、なぜだか急に悲しくなった。
それを紛わせるために唇をかみしめて、私はホームから、舗装されていない道へ出る。
一時間歩けば、ちゃんと家に着くのだ。そう自分に言い聞かせてみたが、脳裏には大輝の姿が浮かんできた。
「香澄」
道を少し行った先で、自転車をとめて待ってくれている、大輝の姿が。
「早く来いよ」
そう。こんなふうに。
どんなに気まずくなっても、電車を降りた後の大輝は、いつもの大輝だった。
「遅い。もっと早く歩けって」
「……わかってる!」
だから私も、いつもの私に戻れる。高校生になる前の、素直な私に。
私はスカートが風でひるがえるのにもかまわず、大輝の待つところへ駆けた。
そうして、自転車にまたがる大輝の後ろに飛び乗る。
「ばーか、遅いんだよ」
「先に帰っちゃったのかと思った」
「お前の言うとおりに? 馬鹿か」
大輝は地を蹴った。
「お前を置き去りにすると、かーちゃんに怒られんだよ。どっかの誰かさんが泣いて帰ってくるからな」
「私は泣いたことないし」
「ああ、そうですか。そうですか」
「信じてないでしょ?」
「さあな」
大輝と私を乗せた自転車は、田舎道を走る。石が転がったところを通ると、自転車はがたがた揺れた。
「ちょっと大輝、安全運転だってば」
「こんな田舎で事故が起こるかっての。しっかりつかまってろよー」
「もう!」
しかたなく、大輝の肩にしがみつく。
鍛えられた大輝の背中はとても広かった。私がしがみついたくらいではびくともしない。
――いつの間に、こんなにたくましくなっちゃったんだろう。
大輝の背中を見ながら、私はすこし、さみしさをおぼえた。
2、
一年A組、浅井香澄。
一年H組、山口大輝。
何も知らない人たちはきっと、教室が遠く離れた私たちには何の接点もないと思うだろう。実際、同じ学年でも教室がある階が違うから、校内ではめったに出会わないし、会ったとしても会話は交わさない。
だから私たちが登下校を一緒に、しかも自転車に相乗りしているなんてことは、想像がつかないに違いない。
最後の駅を降りたあとの私たちこそが、本来の私たちであることを、みんな知らない。知るはずがない。電車でも二時間かかってしまうような田舎に来る高校生なんていないだろうから。
おしゃれな店なんてない、小学校や中学校すらない過疎中の過疎の土地にわざわざ来たがる人なんて。
「いつ校舎壊すんだろうね」
自転車は畑の中にぽつんとたつ木造の建物の横を通りすぎる。
「ずっとこのまんまなんじゃねえの」
私が尋ねると、大輝はペダルをこぎながら答える。
「じーちゃんばーちゃんたちはみんな、取り壊すのに反対だってさ」
「みんな通ったところだもんね」
「……香澄は」
「なに?」
「香澄はうちの学校を壊すの、どう思うんだよ」
大輝の声のトーンが下がった。真剣なときの大輝はいつもそう。
だから私も、真面目に答えを返す。
「私も、反対」
「そっか」
大輝はつぶやいた。
私からは顔が見えなかったけれど、きっと大輝はほほ笑んだんだと思う。声が一瞬にして、やわらかくてあたたかいものになったから。
「俺もそう思う」
「やっぱり。私たちの学校だもんね」
小、中学校と九年通ったところだ。思い入れがあるのは、私も大輝も一緒だったのだろう。
二階建ての小さな校舎に、これまた小さなグラウンド。立て直されて十年のきれいな高校とは違う。何百人の生徒が生活することは難しいけれど、それでも私たちにはちょうどよかった。
夕日を浴びた建物が、遠くなっていく。
私と大輝の卒業を機に、この建物は学校ではなくなった。
六つ上に先輩がひとりいただけで、私たちの下に子供はいない。若い人たちが帰ってこなくなったこの村では、新しい命が生まれることがなくなった。だからもう、学校は必要とされないのだ。
「そういえば、夏休みもよくここで遊んだよね」
「虫取りとかな」
「そうそう! 夜中に来て肝試しやったり」
「どっかの泣き虫が大変だったなあ」
「また言う。だいたいあれは、大輝が途中でどっかに行っちゃったからでしょ? 星を見るとか言ってさ」
「ちょうどそのとき、流れ星が見えたんだよ。つーか、俺は立ち止まっただけ。勝手にどこかに行っちまったのはお前だろ」
「もう」
こらえきれなくなって、私たちは同時に吹き出した。
思い出は色あせることがない。私たちにとっては、今も大切な場所だ。
ただ――去年の夏は一度も足を踏み入れなかったけれど。街の忙しさに慣れてしまうと、つい忘れがちになってしまうのは私だけなのだろうか。
「香澄は、さ」
大輝がふうっと息をついて言った。
「進路調査の紙にさ、何て書いた?」
「……大輝は」
「決まってるだろ」
急に自転車の速度がはやくなる。
「農業やるんだよ。知ってんだろ?」
「……うん」
大輝の家はこの村でも有数の農家だ。畑や水田、それに山まで持っている。大輝が継がなければもったいないほど。
「ま、俺、ここから出るつもりないし?」
いやいやながらの選択ではないはずだ。将来のことを語るときの大輝の目は、いつも輝いている。おそらく今も。
予想はついていたけれど、大輝の答えを聞いて安堵する自分に、私は気づいた。
「変わらないね、昔から」
「変えるつもりなんかねえよ」
強い意志を持った口調だった。どんなことがあっても揺らぐことはないだろう。
「で、お前はどうすんの?」
大輝が問いかけてくる。
「就職?」
「……高卒で雇ってくれるところなんか、いまどき少ないよ。ここにも仕事なんかないし」
手伝いならできるのだろうけど、それでは生活していけない。現に私のお父さんは生活のために村を出て、都会に単身赴任している。
「だから、大学に行こうかなって」
「……大学行ってどうすんだよ。アツミねーちゃんみたいに、ここを出ていく気?」
大輝の声がけげんなものになった。
「場合によっては、だけど」
私は答える。すると、自転車のスピードがさらに早くなった。
「……大輝」
「探せば、ここにも仕事あるだろ」
「あるわけないって」
「つーかお前も農業やれば?」
「何言ってんの。うちは農家じゃないでしょ」
「……まあな」
それからは何てことのなかったように、大輝は普通に自転車をこぎ始めた。
赤かった空に紺色が混じっていく。太陽の光が見えなくなり、いつしかあたりは夜になっていた。
やっぱり一人で帰らなくてよかった。私は思う。人通りのない夜道をたったひとりで延々と歩くなんてこと、私にはもうできない。
「結局、今日も暗くなったな」
ぽつりと大輝がつぶやいた。その言葉に私は、一年半前の帰り道を思い出す。
入学式を終えて、六時過ぎの電車に乗ったあの日。入学早々仲良くなった麻衣と他愛ない会話をかわすのが楽しくて、大勢の人の中で生活することがものめずらしくて、私はこのとき、今までの生活をはじめて忘れた。
ずっと一緒に生活してきた大輝のことも。
離れたクラスの大輝とは、学校で一度も会わなかった。混みあった電車の中でも、乗りかえた電車の中でも。
私はひとりでホームに降りた。九時近くの駅に、人がいるわけがなかった。
ずっと暮らしてきた土地とはいえ、私は一人で明かりのない夜道を歩いたことはなく。
初めての帰り道。あのとき何を見て何を感じたのかは忘れた。覚えているのは、暗闇が怖かったことと、
『何やってんだよ、香澄』
自転車で私を追いこそうとした大輝が止まってくれたこと。
『乗ってけ』
大輝は自分の家の前を通りすぎたにもかかわらず、自転車をこぐのをやめなかった。そのうちに瓦葺きの小さな家が見えてくる。私の家だ。
家の前で、ゆっくりと大輝は自転車を止めた。
「じゃあね、大輝」
わたしは、無表情を取り繕って飛び降りる。
「また明日な。寝坊すんじゃねえぞ」
大輝はぶっきらぼうに言った。そうして、もと来た道を戻っていく。薄暗い道に大輝のシャツの白がぼうっと浮かびあがった。その白の上で、はねた髪が揺れる。
寝坊するな、ということはまた明日も大輝は迎えに来るつもりだろう。私を連れに来るために、私がいなかったら寝ぐせを直していられる時間を割いて。
高校では他の男子と変わらないけれど、この村に帰ってきた瞬間に、大輝は大輝になる。街では〝田舎っぽくない〟大輝だけれど、驚くほど自然にここの人間に戻る。
そんな大輝がまぶしくもあり、羨ましくもあった。私は、大輝みたいになれない。
大輝の後ろ姿はどんどん小さくなり、そして闇の中に飲み込まれていった。
3、
「ねえ今日さ、うちの近くでおっきなお祭りがあるんだけど」
昼食のときだった。向かい合わせで座った麻衣が、こう切り出してきた。
「カスミも行かない?」
「え、でも」
私は弁当箱のおかずをつつきながら答える。
「帰れなくなるし……」
「大丈夫だって。九時の電車に乗れば間に合うよ」
「わたしもカスミと行きたいな」
隣でパンを頬張っていたくるみ(、、、)が、〝お願い〟といったような目で見つめてきた。
「こういうときじゃないと遊べないもん」
「そうそう。屋台とかいっぱいあるし」
「それに花火!」
「花火?」
私は思わず聞き返す。
「花火が出るの?」
「うん。ここの花火ってけっこう有名でさ、他のところから見に来る人もいるくらいなんだよね」
「気になるでしょ?」
くるみの言葉に、私はうなずかざるを得なかった。
打ち上げ花火を私は見たことがない。空に咲く大輪の花を思い浮かべようとしても、写真でしか見たことがないから、うまく想像できない。
「お祭り、かあ」
行ってみたい、の気持ちが勝った。
「行こうかな」
「本当! やったあ」
「じゃあ放課後ね。レンカはどうする?」
麻衣は自分の隣に座っていた蓮花に問う。蓮花は、迷いもなく首を横に振った。
「ごめん。ちょっと先約があるから」
きっと彼氏との約束だろう。みんな分かっていたから、それ以上は何も言わない。遠くの大学に行っている彼氏に蓮花が会えるのは、こういうときくらいだから。
こういうとき。ふとひっかかった。
――大輝はどうするんだろう。
ひとこと言っておいた方がいいのか、と考えたけれど、私たちは約束して一緒に帰っているわけではない。幼なじみという以上の関係はないのにわざわざ大輝のクラスまで言いに行くのは気が引けて、結局放課後になってしまった。
高校から家が近いくるみと待ち合わせ場所を確認して別れる。私と麻衣はいつもの満員電車に乗って、乗りかえる駅に降りた。
「あ、うち、こっからかなり近いから」
「わかった。あんまり着替えに時間かけすぎないようにね」
「短時間で可愛くするって」
「はいはい。期待してますってば――」
軽口をたたき合いながらホームを出たときだった。
私は人の群れの中に――四番ホームに向かう男子の姿を見つけた。
――大輝。
「どうしたの、カスミ」
何も知らない麻衣は、突然黙り込んだ私の顔をのぞきこむ。
「何かあった?」
「ごめん、マイ。五時にここ待ち合わせでいい?」
「え?」
「ほんっとうにごめん! あとで何かおごるから!」
「カスミ?」
ぽかんとしている麻衣を置いて、私は今来た道を戻った。電車に間に合うように、ありったけの力を振り絞って走る。
幸い、電車はまだ来ていなかった。大輝はいつもどおり柱に背を預けて、線路の先を見ている。
「大輝」
「何急いでるんだよ」
大輝はそのまま帰るつもりなのだろう。いつものように、電車に乗って。
「あのさ、今日なんだけど」
「今日?」
大輝は不思議そうな表情を浮かべた。
「今日、何かあるのか?」
「お祭りがあるんだけど」
ふうん、と大輝はつまらなそうに肩をすくめる。
「……それで?」
「だから……今日は先に帰っていいよ」
私のことなんて気にしなくていいから。そう思って私は言う。
しばしの沈黙の後、
「はあ? ……なんだ、それ」
むっとしたように大輝はつぶやいた。
「お前、一人で帰れるのかよ」
「帰れるよ。大輝に送ってもらわなくても大丈夫。遅くなってもお母さんには何とか言ってごまかすし」
「……香澄」
大輝の声が低くなる。
そのとき、轟音とともに電車がホームに入ってきた。乗客に向けて、ドアが開かれる。
「お前」
「電車行っちゃうよ。早く乗りなよ、大輝」
舌打ちをして大輝は、電車に乗り込んだ。私の方を一度も見ずに。
「……勝手にすれば。別に俺、お前と特別な関係じゃないし」
そう言い残して、大輝は私の前から消える。
「馬鹿みてー」
音をたてて、電車が去っていく。
伝えることは伝えたはずなのに、胸が痛んだ。今までに感じたことのない類の痛みだった。
ぎゅっと制服の襟をつかむ。その手が小刻みに震えていた。
大輝。
口の中だけでつぶやき、私は電車の去った線路に背を向ける。
誰もいないという事実を見たくなかった。
私は携帯を開き、謝罪のメールを麻衣に送る。指が震えて、思うように動かなかった。
あれほど楽しみだと思っていたお祭りも花火も、今ではどうでもよくなってしまっていた。
「クレープとかき氷、どっちにしようかな」
「この際どっちも買っちゃえば」
「うん、そうする。ちょっと待ってて」
蝶柄の紺色浴衣姿のくるみは、まずかき氷の行列に加わった。
「私も買おっかな。カスミはどうする?」
「……うん。私も」
「カスミ?」
赤い浴衣を着た麻衣が首をかしげる。
「さっきからどうしたの? もっと楽しもうよ」
「う、うん。楽しいよ」
私は無理やり笑顔をつくってみせた。楽しいんだ、と自分自身に言い聞かせる。
「なーんか変なんだけど……」
「何でもないって。ほら、約束通りおごってあげるから」
納得のいかない様子の麻衣の背中を押して、私はくるみの後ろに並んだ。
大きなお祭りだけあって屋台も多く、かき氷の店だけで数えても両手の指では数えきれない。そしてかき氷は人気のようで、どの店でも行列が出来ていた。
麻衣とくるみが談笑をかわす隣で、私は空を仰ぐ。
夕方と夜のちょうど真ん中くらいの、薄暗い空が広がっていた。そろそろ七時になる。いつもなら電車に乗っているか――大輝の自転車に乗っているか。そんな時間帯だ。いつもなら。
この空が闇に覆われるころには、花火があがっているのだろう。
けれども花火のことを考えても、私の心はいっこうに軽くならなかった。
ようやく注文の番になって、私たちは紙のカップいっぱいに盛られたかき氷を受け取る。
「やっぱり、お祭りっていったらかき氷だよね」
「クルミったら、シロップかけすぎ。太るよ」
「大丈夫だって。次はクレープだからね」
ふたりは間違いなくこのお祭りを楽しんでいるのだ。私も楽しまないと――そう思って氷をスプーンですくって口に運ぶ。
冷たさが口の中に広がった。もう一口食べると、キンとした痛みが頭を通り抜けた。
それと同時に、私の頭の中に大輝が現れる。
『香澄』
ここは村じゃない。ここで大輝を求めてはいけない。それは分かっていた。
『ばーか、遅いんだよ』
いつもいつも私が来るのを待ってくれる大輝は、ここにはいない。それに――。
『別に俺、お前と特別な関係じゃないし』
はっきりと言い切られてしまったから。
今まで曖昧にしていた事実をはっきりとつきつけられてしまった今、私はもう、大輝を求めることができなくなったのだ。
やけになって氷をかきこむ。あまりの冷たさに、思わず涙がこぼれた。
――大輝。
今すぐ帰りたい、と心の底から思った。
「カスミ?」
私が泣いていることに気づいたふたりが、慌てた様子で声をかけてくる。
「ど、どうしたの、何かあったっ?」
友達に囲まれているのに、何かが足りない。我がままだと知りつつも、早くここを出て村へ行きたいと願った。
「ごめん、私帰る」
「カスミっ!」
制止の声を振り切って、私は駆け出す。
行きかう人々はみんな祭りらしい浴衣や甚平姿だ。学校でもないのにセーラー服を着ている私とは違う。
私は、完全には街の人間になれない。
けれども田舎の村だけで生活することもできない。
全く違う二つの世界を知ってしまった私は、どうしたらいいのか分からなかった。
駅に駆けこみ、ちょうど来ていた帰りの電車に飛び乗る。
乗客は私の他に、誰もいなかった。もちろん大輝は――いない。
一人きりで電車に乗ることは一年半ぶりだ。入学式の日以来、必ず大輝は同じ時間に乗ってくれていたから、私はいつも一人でなかったのだ。
不思議なくらい、私たちの乗る時間がずれることはなかった。よく考えるとありえないことである。クラスも委員会も部活も違うのだから。
出入り口の隣の席がいつもよりずっと寂しかった。私は大輝の指定席に座る。普段なら大輝が陣取っているから、けっして座れなかったところだ。
はじめて座った大輝の席からは、車内をぐるりと見渡せた。いろいろなものが見える。揺れる吊革や、少し汚れたシート、運転手さんの頭。いつもならあるのに見えないものは大輝の姿だけだった。
膝の上に置いたてのひらの甲に、しずくが落ちる。
――大輝。
私はようやく、いちばん大切なものが何なのか分かった。ずっとそばにいてくれたから、気づけなかった。
私にとって大輝は――特別なのだと。
電車に揺られながら、私は静かに泣いた。
4、
駅のホームに降りたときには、すっかりあたりは暗くなっていた。携帯の時計を見ると九時を過ぎている。
もう花火は上がっているころだろうか。それとも、全て上がり終わってしまったあとだろうか。この村の空を見てもまったく分からなかった。
人気のない夜道を私は進む。明かりがなくて前がよく見えないから、畑や水田に踏み込んでしまわないよう気をつけながら。
一年半前はただ、暗闇が怖いだけだった。
でも今は――そばに大輝がいないことの方がずっとずっと怖くて、暗闇なんかどうでもよかった。
『どっかの誰かさんが泣いて帰ってくるからな』
『私は泣いたことないし』
あのときはそう答えたけれど、本当は違う。
泣いてばかりなのだ、私は。今も、あのときも――。
入学式の日の帰り道、たしかに私は泣いていた。暗闇が怖くて、家までの道のりが遠く感じられて、帰るのが嫌になって。
だが今の涙は、それとは違う。
そして泣いても――大輝は助けに来てくれない。
涙で視界がかすんだ。一度目をこすってみても、次から次へと涙は浮かんでくる。
ぼんやりとした世界に、あの古い校舎が現れた。ここまででようやく半分だ。これからまだ歩かなければならないことが途方もなく感じられて、思わずその場にしゃがみこむ。
歩く気力は、もうどこにも残っていなかった。夜だからなのか、それとも。
「やっぱり泣いてる」
私ははっと顔をあげた。
「ばーか。そんなところにいたら、いつまでたっても帰れねえじゃん」
ぼやけた風景の中、私の方に向かって走ってくる大輝だけははっきりと映った。制服のまま、髪の毛がはねたまま、ぶっきらぼうな表情のまま、大輝は私の前に現れる。
「遅い」
「……大輝」
声が震えた。
「私……」
「もっと早く来いよ。お前を残して帰れないっていつも言ってんだろ、ばか」
「だって大輝が送ってくれる理由なんてないし……」
特別な関係ではない、と大輝は言ったのだから。
「でも私……大輝と一緒じゃなきゃ、もう帰れないよ……」
本当は私だって一人で自転車くらい乗れる。それなのに、ずっと大輝の後ろに乗っていたのは。体に合ったサイズのものを持っていないだとか、ずっと乗っていないだとか、そういうことは関係なくて。
ふいに頭の上にあたたかいものを感じた。大輝は私の頭をぽんと軽く叩いて言う。
「お前、俺がいないと泣いてばっかりだな」
「……だって」
あのさ、と大輝は問いかけてきた。
「それって……期待していいってこと?」
「……何を?」
「何を、って」
大輝の声がうわずる。
「だから、お前が俺のこと、少しでも――男として見てくれてるのかってことだよ」
私は息を飲んだ。
「大輝」
「この際だから言うけど、俺が毎日お前の時間に合わせて送り迎えしてる理由だってちゃんとあるんだよ」
大輝はくるりと私に背をむける。
「だからさっき……自分が馬鹿みたいだって思った。香澄は俺のことなんかどうでもいいんだ、ってな」
「大輝こそ、私のこと〝特別な関係〟じゃないって言った」
「そうだよ。……だけど、俺はお前と、その〝特別な関係〟になりたかったんだよ、ずっと。ガキのころからさ」
それなのに、と大輝は言う。
「高校行ったとたんお前は俺と廊下ですれ違っても気づかねえし、ここ出てくとか言うし、一人で帰ってとか言ってくるし」
大輝の言葉ひとつひとつが嬉しくて、止まりかけた涙がまたあふれてくる。
「なんではっきりと言ってくれなかったの。だから私、ずっと……大輝が特別だって気づけなかったじゃん」
「フラれたら、もう一緒にいられないって思ったからさ、その――ああもういい!」
勢いよく大輝は、私を振り返った。
「俺はお前が好きだ。気づけ、ばか!」
「……なんで『ばか』つけるのっ! もう!」
照れ隠しであることは、なんとなくわかっていたけれど。
「ねえ、大輝」
「何だよ」
「……高校でも、ここみたいに話してくれるの?」
「それは俺が聞きたいよ」
大輝の顔はわずかに赤い。
「……電車だって隣に座りたいし、本当は祭りだってお前と行きたかったし」
「そんなこと、全然気づかなかったよ」
「もしかして俺を誘ってくれるのかなって、期待するじゃねえか」
「じゃあさ」
私は問う。
「大輝のこと、友達に紹介してもいい?」
「香澄、お前」
今なら素直になれそうな気がした。
「私、大輝がずっとそばにいてほしい」
しばらくの沈黙の後、大輝は「くそっ」とつぶやくと、私の手をつかんだ。
「大輝っ!」
「いいから来いよ」
大輝の手は大きくて、とても暖かった。大輝に手をひかれ、私は学校の敷地に入る。
大輝はグラウンドの真ん中で足を止めた。
「俺、やっぱりここが好きだ」
「……休みの日もここにいたもんね」
「それに夜もな」
大輝は空を見上げる。私もそれにつられて顔をあげた。
雲ひとつない紺色の空に、数えきれないほどの光がまたたいている。
「特にここから見る夜空が好きでさ」
「うん」
「たまに流れ星なんかが見えるもんだから、俺はよく願いごとをしたんだよ」
「可愛い子供だったよね、大輝」
「まあそういうわけで可愛い大輝少年は、毎晩毎晩お星さまに願うわけですよ。香澄が俺を好きになってくれますように、って」
冗談みたいな口調だけれど、冗談ではないのだろう。
「その願いごと、叶ったね」
「そうだな」
大輝が嬉しそうにほほ笑む。私もつい口元がゆるんでしまった。
「知ってるか、香澄? 他のところってさ、こんなに星がきれいに見えないんだって」
花火が出るという街の空はたしかに、いろいろな明かりに邪魔されて星なんか一つも見えなかった。
「俺は花火より、こっちの空の方が好きだ」
たまには花火もいいけどな、と大輝は言う。
「だから、ここから出ていくつもりはないし……本当は香澄にもここにいてもらいたい」
大輝の、私の手を握る力がぐっと強くなった。
「仕事なら、ここにもあるだろ。その、俺と一緒に農業やったりさ」
「大輝、それって」
一瞬驚いたけれど、それはすぐに違うものに変わる。
私も大輝の手を握り返した。
「すっごく、いい考えじゃん!」
大学に行って勉強するより、せわしない都会に行って働くより、ずっと楽しくてしあわせに決まっている。私たちにとっては。
「大輝、最高だよ!」
私が言うと、大輝は照れくさそうに空いた手で頭をかく。
「ばーか。そういうこと言うと」
調子にのるじゃねえか、という言葉を聞いたと思った瞬間にはもう、私たちの唇は重なっていた。
田舎道を自転車が走る。いつものように大輝と私をのせて。
「お前が後ろに乗ると、まじで心臓に悪い」
「どういう意味なの、それ」
「さあな」
「もう!」
幾千もの星が私たちを照らす。まるで星の道を進んでいるみたいだ。
「明日もちゃんと早く起きろよ」
「大輝こそ、寝ぐせを治せるようにね!」
「電車で寝てるやつに言われたくねーよ」
「寝てないよ!」
「寝てるって。俺の座ってる所からだと、お前は丸見えなわけ」
だから俺あの席に座るんだぞ、と大輝は言う。
「だけどまあ、明日からは俺にもたれかかって寝てもいいけどな」
きっと明日からの大輝は、高校でも電車の中でも、本当の大輝なんだろう。これからはきっと、どこにいても今みたいに私の目にはまぶしく映るんだろう。そんな大輝のそばにいられることは、なんて素敵なんだろう。
幸福な気持ちに包まれながら、私はそっと大輝の背中に頬をよせた。
〈END〉