25:輝石
――魔女の登場は、困難なる事態をいとも簡単に引っくり返した。
彼女は一般に"反則"と言われる類の人間なのだろう、きっと。
* * *
念話が届いてしばらくすると、眼下の男達がばたばたと倒れていった。ただし命の気配は消えておらず、微かにいびきの音が聞こえてくる。
どうやら全員がぐっすり眠っているらしい――おそらくは卓越した魔術の技で。
全くもって魔女様々である。
そうして姿を現したルヴィエからは案の定、嫌味の山が雨あられと振り注いだ。「華々しい戦果を挙げたようですわね」「密かに潜入したいと仰っていたのはどなたでしたっけ」「わたくしの掛けた術がことごとく無駄になっているのは気のせいかしら」云々、非難の声は尽きることがない。
その凍てつく微笑に怯えきったティオは、涙目でエルにしがみついている。
全ては不可抗力だ! と主張したいところだが、ルヴィエにしてみれば数々の骨折りが無駄になった形だ。更に窮地を助けられたことを思うと何も言えない。
潔く諦め、突き刺さる言葉の雨を黙して身に受けるエルだった。
そんな散々な合流の後、三人は左奥の尖塔へ足を向けた。エルはふと思い立って扉の隙間に刃を滑らせる。斬撃は容易く鉄を切り飛ばし、鍵はめでたく無用の長物となった。
先刻こうしていれば……とも思ったが、そうすると塔内で敵に追われる羽目になっただろう。結果的に身を隠して正解だったかもしれない。
薄暗い内部には、櫃や布包み、木箱や陶製の壺などが所狭しと並んでいる。
ひとしきり嫌みを降らせて満足したのか、ルヴィエは平素の様子に戻っていた。連れの男たちはどうしたのか尋ねたところ「まとめて眠って頂きましたわ」との返答だ。混乱が起きた為に貴賓室に押し込められたが、それを逆手に取って場を離れたらしい。
眠りの効果はしばらく続き、貴賓室の扉には人避けと封印の術が掛けてある。覚醒時の意識は混濁するので、事が終わった後は暗示を用いつつ合流する予定とのことだ。さすがはルヴィエ、抜かりなかった。
現在の彼女はティオと会話しており、少女がここへ至った顛末を聞き出している。遠からず驚きの事実を知ることになるだろう。
さて、塔の壁面に目を走らせると不思議に明るく見える一角があった。そこへ無造作に置かれているのは白木の小箱だ。
入口奥の右手側。棚の隙間にそれを見出したエルは、逸る心を抑えつつ手を伸ばす。
紐を解くのももどかしい。蓋を開け、布の包みを剥がしていく。
現れたのは世界にたったひとつの水晶。
眠りについた銀の星。
霊峰の抱く千年氷のように、どこまでも清く透き通った結晶――
「アーク」
硬い石質を持つ表面にそっと触れ、彼の名をささやく。
指先に心地よい冷たさが宿り、ふわりと柔らかな光が灯る。
「……エル? あれ、ここは何処……って、何で覆面なんですか貴女っ!?」
「まず突っ込むのはそこか!」
軽口を叩きつつも口元はほころんでいく。
離れていたのは僅かな期間であるのに、長い月日を経て再び出逢ったかのような感情が溢れていた。そんな自らに戸惑いを覚えつつも、エルは心からの笑みを浮かべる。
馴染んだ気配が傍にある。それだけで胸が暖かい。
大地に水が染み込むように、深い安堵が満ちていった。
だがしかし、場にいるのは彼らだけではない。
「え。石が喋ってる!?」
「あなた方、感動の再開はもう少し静かにして欲しくてよ」
二つの声に、はっとしたエルは振り返る。
そこにはやれやれと天を振り仰ぐ魔女と、こちらを覗き込んで固まるティオの姿があった。
「えーと、これはだな……っ」
こめかみに一筋の汗が流れる。上手く誤魔化せるような台詞を探すのだが、脳内では言葉の破片が右往左往するばかり。
そうしているうちにも――
「こんにちは、僕を盗んだお嬢さん。先日はどうも」
「えええ、やっぱり喋った! 喋ったよルヴィエさん!」
「わかってますわ……。だから少し落ち着きなさいな」
「そうそう、落ち着いてください。聞いての通り僕は喋ることができますが、この石は只の容れ物。つまり世を忍ぶ仮の姿なのです!」
「じゃ本当は何なの?」
「……………………な、内緒です」
「ふぅん? なんかうさんくさい」
「ええっ!?」
「……煩くてよ貴方たち」
――彼女抜きで勝手に会話が進んでいた。誤魔化す必要など無かったらしい。
悩むだけ馬鹿だったと、エルは少しだけ後悔した。
* * *
「ともあれ、用事は済んだしさっさと逃げよう」
やんやと言葉を交わす二人と一石に、思考の迷宮から戻ったエルはそう言った。アークを取り戻した以上長居は無用である。
「ほら、ティオも一緒にここを出るんだ」
赤毛の少女にも声を掛けるが。
「やだ。お姉さんたちだけで帰って!」
途端にティオは飛びすさる。口はへの字、身体は既に逃げる態勢に入っている。まるで毛を逆立てた猫のようだ。
確か輝石の欠片に弟の命が掛かっているのだったか。しかし所在が不明、かつ相手が血眼になって守る品を盗み出すなど危険すぎる。
今更になって放り出すのは業腹であるし、これはもう恨まれるのを覚悟で連れ出すしかないだろう。
ため息と共に強硬手段に踏み出そうとしたエルだったが、それを留めたのはアークの言葉だった。
「弟さんのことなら、僕とエルが協力すればなんとかできますよ。だからここは退きませんか?」
「……ホント? それになんでわたしの弟のこと知ってるの?」
「おうちで僕を弟さんに預けたのは貴女でしょうに。嘘ではありませんよ。僕の名と魂にかけて」
思いがけない提案を受けたティオは困惑の表情で水晶を見詰めている。対してエルの手に握られたアークはじっと静かな光を放っていた。
初対面の、しかも"石"から言われた言葉などなかなか信じられはしないだろう。
けれど――
「こいつは嘘をつかないよ。やると言ったらやる奴だ。それに輝石の欠片だって只の噂でしかない……だったら、今ここにいる私たちに任せてみないか?」
屈み込み、はしばみの瞳をしっかりと覗き込んで伝える。
ティオは言葉の裏を探るように彼女を見詰め返し――やがて小さく「うん」と頷いた。
助かった。この少女に対し、いささか情の湧いていたエルは大いに安堵した。内心でアークへと感謝の念を送る。
そうして感謝ついでにこそりと尋ねる。
『お前は病の治療もできるのか?』
『そう言う訳ではないんですけど……その子の場合は特殊なんですよ。身体が瘴気に侵されてるんです』
アークの声はほろ苦い。話題へ上った単語に、エルもまた眉をしかめる。
『瘴気、か。こんな街中で目にするとは思わなかったよ。虚界の近くでもないのにおかしいだろう』
『下町の方にも出てましたよ。表通りを外れると、もうあちこちに』
そこに、やや苛立ちを含んだルヴィエの声が割り込んだ。
「話がついたのなら戻りませんこと? この酷い空気から一刻も早く解放されたいですわ」
少々お喋りが過ぎたらしい。エルとアークは慌てて念話を打ち切る。
そうして彼らは、教団から離脱するべく動き出した。
* * *
塔から出てすぐ、大勢の僧兵たちが転がっている大聖堂。
その一角で突然アークは声を上げた。
「エル、ちょっと立ち止まって」
「どうした?」
理由は不明だが、取りあえず足を止める。
場所は先程隠れた竜神像の足下だ。
「……うん、やっぱり。ここに隠し通路があります。多分、この歪みの原因に続いている」
その台詞に一同は目を見張る。見た目には何の変哲もない台座だが、術による隠蔽だろうか?
「中に人の気配は?」
「ありません」
少し躊躇ってから、アークは次の言葉を繋げる。
「仮にもマナを見守る者として、この状況はとても見過ごせません。中を調べたいのですが、力を貸して頂けませんか」
「時間は掛かるか?」
「差し当たっては覗くだけ。お手間は取らせません。本当はすぐここを出るべきなのでしょう。けれど、どうかお願いします……!」
言葉を貫く懇願の響き、それを受けてエルは腹を決めた。
危険の増す寄り道ではあるが、彼女とてこの瘴気を放置したくはない。それに今を逃せばもう、原因を探る機会は来ないだろう。
「よし、行こう。ティオも近くにいた方がいいな。ルヴィエは戻るか?」
傍らの魔女に声を掛ける。彼女は付き合わずとも済むはずだ。
派手に暴れた以上、もうひっそりと動く必要もない。隠密性を度外視するのであれば、この先は魔女の手を借りずともなんとかなりそうだった。
だが、エルの言葉にルヴィエは首を横に振る。
「ここまで来たら付き合いますわ。ことが虚界絡みでは放置できません」
「そうなのか? 虚界を癒やす方法とは関係無さそうだけれど」
「魔女はヒトと世界を繋ぐ存在。もしこの地が虚界に堕ちようとしているなら、わたくしにはそれを防ぐ義務があります」
彼女は静かに宣言する。
エルは、"魔女"という呼称を魔術師の親戚程度にしか捉えていなかったのだが――実際はもっと重い意味を持つようだ。
「魔女ってそんな役割があるのか」
「……魔女、というより我が一族に伝わる掟ですわね。今は知る者も絶えた、古い掟ですけれど」
「そうか」
口調は普段通りの素っ気ないものであったが、彼女の故郷は既に滅びたと聞いている。
魔女の掟を守る者はもう彼女だけなのかもしれない。
エルは口を閉ざすと、視線を隠し通路へ向けた。その存在は既にアークの手で暴かれている。
露わになった地下への階段からは、いっそう濃い瘴気が吹き付けてきていた。
おぞましさを増した空気に身震いしつつも、彼女達は地の底への一歩を踏み出した。
* * *
階段の果ては円形の部屋となっていた。大聖堂よりずっと狭く、手前の小ホールと似た広さだ。
魔女の手で放たれた光球が空間を青白く照らしている。
部屋の壁も床も天井も、術式の為の文字が隙間なく"刻まれて"いた。術効果の持続を目的に、魔力伝導率の高い石材へ直に式を彫り込む手法だ。
これは世間一般でそれなりに普及している方式である。しかし――正直に言って、ここまでの規模のものをエルは見たことがなかった。一体どれ程の情熱で刻まれたのだろうか。群れをなす文字列は、まるで余白を恐れるかのように石材を浸食している。
術式の中心には銀の台座があった。穿たれた窪みに丸い石が嵌まっている。中央に握り拳大の石がひとつ。周囲にはそれより小さな石が八個。
妖しげな光を湛えた真紅の宝玉、それが"輝石"なのだと誰に言われずともわかった。
教団の掲げる大いなる秘宝。力の結晶、あるいは奇跡をもたらす神秘の石。
けれども――
「お姉さん……ここ、怖いよ……!」
ティオが怯えた声でエルの足にしがみつく。
「これは何なの……!?」
悲鳴に似た声を上げたのはルヴィエだ。
エルの身体も戦慄に震えている。その光景を見た瞬間、比喩ではなく身の毛がよだった。
目の前のそれ。
すなわち――轟々と渦を巻く光と闇の螺旋。
大地から吸い上げられるマナ。そして空中へ広がってゆく瘴気。赤の宝玉を中心に、真ん中のくびれた砂時計のように光と闇が広がっている。
マナと瘴気。眩い光と深い闇。強烈に相反する二つの要素が、なぜひとつの空間に渦巻いているのだろう?
流れる血が、本能が、こんなことがあってはならないと叫んでいる。
たった今目に映しているにも関わらず、それはどうやっても信じ難い光景だった。
「酷い……霊脈をねじ曲げ無理矢理マナを汲み上げて、流れの絶えた部分に瘴気が……? いや、負の流れにも術式の影響があるのか……」
アークの声も呆然とした響きを隠せていない。だがそれでも、ここにいる誰より状況を把握しているのは彼だろう。
「一から構築したのではなく、基盤となる構成があった? わからない。書き換えや継ぎ足しだらけで、もはや原型を留めていない……」
思索に耽るようなつぶやきを追って、かすれた声でエルは問い掛ける。
「なあ、アーク。…………これは何だ?」
答えは、しばらくの沈黙の後に返ってきた。
「霊脈を檻に閉じ込めて、かわりに瘴気を生み出す装置、です」
* * *
「狂気の沙汰ですわ。一体何の為に……!」
ぎり、と眼前の"渦"を睨み付けながらルヴィエが呻く。
「わかりません……この術式は、"亜空間の作成"と"霊脈の歪曲"を行い、中央に据えた石を門として人造空間にマナを誘導している。ここまではまだ、力を得たかったのだと思えば理解できます。しかし同時に瘴気の元となる負の情念を集め、束ねてしまっている……」
アークの言によれば、ねじ曲げられた霊脈から零れたマナが、集まった負の気に汚染されて周囲へ広がっているのだという。
「この場所には元々、霊脈の流れを整えながら負の気を"散らす"術式が置かれていたみたいです。……それを弄くり回した結果、意図せず今の形になったのかもしれません。正直なところ、どうやったらこうなるのかさっぱりなんですが」
アークは、どこか途方に暮れたような声で語る。
その説明を聞きながら、エルはひとつ嫌な事実に思い当たった。
「……なあ。街で流行ってる不治の病ってのは多分瘴気の侵食で……もしかしなくてもこの術式が原因か?」
「はい。間違いありませんね」
あっさりと為された肯定に、ルヴィエが侮蔑の表情を浮かべる。
「左手で病を振り撒き、右手でその薬を売りつけているという訳ですわね。とんだ悪辣さですこと」
傍らのティオを見れば、血の気の失せた顔でエルの服を握り締めていた。拳は小刻みに震えている。
やり切れない思いと共に視線を前に戻す。白と黒の奔流は変わらず荒れ狂い続けている。
「アーク。この術式、放って置いたら不味いよな」
「はい。けれど……今起こっている現象は力の竜巻のようなもの。迂闊に手を入れれば、巻き込まれて引き千切られるのが落ちです。今の僕ではこれを抑えるには脆弱すぎる」
「私が手伝っても駄目か?」
「駄目です。例え貴女であっても」
そう言ってアークは深い深いため息を落とす。
「……身体を取り戻したらまた来ます。僕の本体なら、こういうこと向きの頑丈な構造ですから」
それが彼の結論だった。
ふと疑問が湧く。エルでさえ手を触れることの出来ない現象を抑えるに足る存在とは一体何なのだろか。
一瞬、とある想像が浮かんだのだが……いや、それはないと打ち消す。
ともあれ、この街はいずれ撤去しなくてはならない爆弾を抱えている。本来なら統治者に訴えを入れるべき事態だが、この街の長は教団にすっかり心酔しているという評判であるし――そもそも只の人間がこれをどうにかできる気が全くしない。ついでに現象を目にしているエルたちは立派な不法侵入者だ。
この"渦"については、事態の収拾が可能だと語るアークの手に委ねるべきだろう。
「あんまり悠長にはしていられないな」
「……おそらくまだ時間はあります。焦っても良いことはない。ですよね?」
彼が口に乗せたのは、以前彼女が何気なく放った言葉だ。それに気付いたエルは僅かに微笑んだ。
そうだ、まだ手遅れではない。暗くなっていても仕方がない。
瞳を閉ざし――開く。
「そうだな。やれることから一つずつ、だ」
まずはここから出て、そうしてアークの身体を探しに行こう。