遙かなる世界
『お題』
・ジャンル 冒険
・キーワード 本
冒険小説というお題をものすごく広く捉えています。
極めて現代的なお話です。
由美子の父は古く頑なな男だった。女に学は要らない。義務教育を終えればあとは稽古事と家事をこなし、きちんとした男と所帯を持てばいい。そういう考えだった。昭和三十年代、中学の友人の多くは高校へ進学したが、由美子は茶道や華道、お琴などの教室に通わされ、あとは家の手伝いをさせられた。
由美子にとって、この父の方針はただただ苦痛だった。由美子は勉強が好きだった。特に国語。読書が大好きで、学校の図書室で借りては、少女小説、冒険小説、歴史小説など片端から読みまくった。しかし、中学を卒業するとそれが出来なくなった。
「作り話など読んで何になる」
父は本が嫌いだったし、由美子が本を読むのも嫌った。僅かな小遣いを貯めて買った本を父に隠れて表紙がすり切れるまで何度も何度も読んだ。そして夢想に耽る。小説の主人公のようなドラマティックな人生。美しく聡明でどんな事件も解決し、皆から賞賛を浴びるヒロインのような自分。でも、現実には、容姿も普通、知識も普通、稽古事にもさほど才能もなく、家事だけは一通りこなせる極めて平凡で取り柄のない自分がいるだけだ。
23歳で見合い結婚をした。早く実家を出たかった。夫は優しい人。ただし、お金に細かかった。家計をやりくりして貯めたお金で本を買おうとすると、「俺の稼いだ金を無駄遣いするな」と怒った。しかし幸い、新居から歩いて行けるところに大きな図書館が建った。由美子は家事、育児三昧の生活の中で、買い物ついでに図書館に寄る事が何よりの趣味となった。
そして年月は過ぎる。夫は二年前に他界し、67歳になった由美子は息子夫婦と同居している。今でも本が好きだし、息子がくれる小遣いで自由に買えるようになった。パソコンも使えるし、息子に教えてもらって、無料で小説が読めるサイトで読む事もある。但し、老眼の為に昔ほど長く読んでいられない。目が疲れて由美子はいつも頭痛に悩まされる。
「秀ちゃん、それはなあに?」
ある日、孫が誕生日プレゼントに買い与えられて夢中になっているものを見て由美子は尋ねた。
「DSだよ、おばあちゃん」
「まああ、すごいわねえ。画面がきれい。ちょっと見せてちょうだい」
まだ小1の秀一は、祖母が興味を示してくれた事が嬉しく、素直に見せてくれた。
「こうやってバトルするんだよ。通信もできるんだよ」
「まあすごい」
由美子は孫が器用に操作する小さな画面に見入った。
「秀ちゃん! 宿題は済んだの?!」
いつの間にか嫁が背後に立っていた。
「済んだよ」
「約束を守らないと没収よ!」
「わかってるよ。やった、って言ってるじゃん」
こんな会話は日常茶飯事である。
「ゆかりさん、すごいのねえ、今のゲームって」
「お義母さん、ゲームなんか褒めないで下さい。私は反対だったのに、悠人さんが買ってやってしまって!」
嫁は読書好きで、昔はよく興味の合った本や映画の話ができた。本当の親子みたいに仲がいい、と人からも言われた。だが、秀人が生まれてからは、嫁は教育ママになってしまった。リビングのテレビで映画を観ていると、「秀人に悪影響だからお部屋で観て下さい」などと言う。由美子は、名作も勿論良いけれど、娯楽性の高いものも悪くないと思う。しかし、嫁は教育的でないものは全て排除し、自分の理想を子供に押しつけているように見える。何度かたしなめたが、
「今の時代、こうやって小さい頃から教えておかないと、ろくな大人になりません!」
の一点張りだ。
「だってみんな持ってるんだよ! 持ってないと話ができないよ」
「とにかく、約束を守りなさい! 男の子は、ゲームなんかしないで外で遊びなさい!」
「は~い」
由美子は自室に戻っても、さっきのゲームの画面が頭から離れなかった。なんて綺麗で滑らかに動くのだろう。自分にも出来ないだろうか。
息子が帰って来た時に聞いてみた。
「悠人、秀ちゃんが持ってたゲーム……」
「なんだよ、母さんもゲーム反対かい?」
くたびれた顔でネクタイを緩めながら息子はうんざり顔で言う。散々嫁に文句を言われた話題なのだろう。
「違うのよ、面白そうだと思って。あれ、いくらするの? 私にもできるかしら?」
「ええっ?」
悠人は驚いて母親を見た。変わったところがあるとはわかっていたが、67歳になってDSに興味を持つ親なんているだろうか。暫くまじまじと母親の顔を見つめていたが、やがて悠人はにやりと笑った。
「あれは目が疲れるし、母さんには無理だよ。それより、パソコンのゲームを教えてやろうか」
「パソコンでああいうゲームができるの? トランプのゲームなんかはやってみた事あるけど」
「できるよ。母さんは秀がやってたようなアクションがやりたいの? それより、ファンタジーの世界に入れるようなのの方がいいんじゃない?」
「そんなのがあるの! 教えて頂戴!」
由美子はオンラインRPGの虜になった。
自分のキャラクターをガイド通りに作る。名前は可愛く『ユミカ』にしてみた。金髪に大きな可愛らしい青い瞳。これが自分の分身だと思うだけでワクワクする。悠人が休日にやり方を色々教えてくれた。操作方法やゲーム内のマナー。
「67歳なんて人に言っちゃだめだよ。構ってもらえなくなるからね。若い女の子のフリするんだ」
そう言って悠人は大笑いした。
由美子はすぐにやり方を覚えた。パーティを組む仲間も出来た。勿論みんな、由美子が20代くらいと思っている。由美子には仕事も学業もない。食事やお風呂以外の時間は殆どパソコンに向かうようになった。頭は痛んだが、それを感じないくらい楽しい。インしている時間が長いので、どんどんレベルが上がっていき、世界が広がっていく。
『ユミカちゃん、パネェ。昼間のうちに一人でその剣ゲット?!』
『2本とったから、1本あげる』
『わ! いいの?!』
皆から尊敬の目で見られる。若く強くしなやかで美しい女戦士の私。由美子は次第に現実なんかどうでもいいと思い始めた。
「ちょっと、あなた、お義母さん、いい加減にしてもらわないと。病気よ、あれ」
「う~ん、俺もあそこまではまっちゃうとは思わなかったよ」
由美子は食事も部屋でとるようになっていた。あんなに可愛がっていた孫が話しかけても生返事。
「67歳のネトゲ廃人かよ……」
「笑い事じゃないわ。あんな姿、秀に見せたくないし、よそに知られたらいい笑いものよ」
嫁に叱られようと、息子に諭されようと、由美子はやめるつもりはない。ようやく見つけた理想の世界。ここでの私が本当の私なのだ。
ある朝、秀人が祖母の部屋を覗いて言った。
「おかあさ~ん、おばあちゃん、床で寝てるよ」
「ええっ?」
慌てて見に行くと、由美子はパソコンデスクの前で冷たくなっていた。そう言えば、最近はかかりつけの病院にも行かず、心臓の薬も飲んでいない様子だった、と嫁は気づいた。
『ユミカちゃ~ん、返事してよ~』
開いたままの画面にはたくさんのメッセージが溜まっていた。由美子の顔は安らかで幸せそうだった。
ファラウェイワールド・オンライン……遙かなる世界。
由美子の魂は、今でもそこで冒険を続けているのだろうか。