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はみだしものたち

作者:4E
 溢れかえるざわめき。教室内の空気がどこかそわそわしているのは、夏休み目前という時期のせいなのだろう。

「じゃあみんな、好きなように集まって相談をはじめてくれ」

 教壇に立った僕は、シャツの首もとをひっぱってパタパタと開け閉めしながら、雑談に興じる生徒たちに声をかけた。
 間を空けず返ってくるのは「ハーイ」という子供らしい元気いっぱいの返事。小学六年生ともなれば外見こそ多少は大人びてくるものの、日常生活ではまだまだ子供っぽさが顔をのぞかせることのほうが多い。
 今みたく、仲の良い友人たちと夏休みの予定について思い思いに語ってるときなんかは特にそうだ。
 無理もないか。なんたって小学校生活最後の夏休みだ。普通の小学生なら誰だって心躍るはず。
 汗の滲む教室内を飛び交う会話、会話、会話。
 言葉がゴチャゴチャに混ざりすぎていて、教壇の位置からは上手く聞き取れない。言い方は悪いが、まるで工事現場さながらの雑音だ。
 この時間の授業では、夏休みの課題である自由研究または工作の計画について話し合うことになっている。
 事前に取ったアンケートでは、男子も女子も、ほとんどの生徒が自由研究を選択していた。
 おそらく、仲の良い者同士で自由研究のグループを作り、終わったらそのまま遊びにいくつもりなのだろう。それに複数人で集まってことに当たったほうが効率が良いのもたしかだ。
 そうやって、クラスのほぼ全員が自由研究を選択するなかで、ひとりだけ個人作業の工作を選択した子がいた。

 ――相川イズル。

 それが彼の名前だった。
 出席番号は一番。成績はクラスでも上のほう。運動は飛び抜けてダメではないが、あまり得意ではない。部活動や習い事は特にやっておらず、これといった趣味もないそうだ。
 そして何よりも、彼には友人と呼べる存在がいない。
 騒がしさのなか、どのグループからもあぶれた彼の存在だけが、さながらカラー写真のなかでひとりだけモノクロに写っているかのように周囲から浮き上がって見えた。
 僕は内心息を大きく吐き、頬の筋肉を動かして機嫌の良さそうな笑顔を作ると、ざわめきの間を縫って相川の席に歩み寄った。
 相川は無言で下を向いていた。僕がそばに立ったのにも気づかなかったのか、一声かけて、ようやくこちらに顔を上げる。

「よっ、相川は工作を選んだみたいだけど、いったい何を作るつもりなんだい」
 手を挙げる仕草も交えて気さくに話しかける。相川は興味なさそうにこちらを見ていた。
「……ネズミ取りの罠です」
「ネズミ取り?」
「はい、やつらは存在する価値もないのに、ほうっておくとどんどん増えて人を困らせます。だから、罠で捕まえて殺そうと思うんです。ぼくなりの社会貢献ですよ」

 云って相川は、わざとらしく口元を歪めてみせた。

「そうか、相川は人の役に立つ物を作ろうと云うんだな。それは関心関心」

 僕は笑顔を崩さず、大げさにうなずいてやる。
 と、そのとき唐突に相川が前のめりにつんのめった。

「てめえマジキモイんだよ、クズル。湊先生を困らせてんじゃねえ」

 僕らの会話が耳に入ったのだろう、相川の後ろの席に座る生徒が背中を蹴ったのだ。

「こら、よさないか」

 僕はその生徒を注意する。蹴ったのは太田というサッカー部のエース。相川とは対照的なクラスの中心付近にいる生徒だ。

「だってさ、コイツぜってー頭おかしいぜ。先生もうなずいてないで、なんか云ってやったほうがいいって」
「おい、頭がおかしいだなんて滅多なことを云うもんじゃない」

 僕に叱られ、仏頂面の太田はしぶしぶと自分たちのグループのほうへ体の向きを直す。振り返り際、相川の頭を軽く小突いておくことも忘れなかった。

「太田はああ云ってたが、あまり気にするな。これがおまえらしさだもんな」

 再び相川に笑いかけてやる。返答はない。機嫌を悪くしたうつむき顔があるだけだ。
 僕は教壇へ戻ると、クラス全体を見渡し、またひとつ心のなかでため息をついた。
 変わり者というのは、集団のなかにおいてはどうしたって目立つ。どれだけ影が薄く控えめだろうと、周囲との違いがその存在感を際立たせてしまう。
 そして、それが良い方向に作用することはまずない。
 相川イズルという少年は、他のクラスメイト―― とりわけ男子生徒たちにとって、実にからかい甲斐のある存在だった。
 趣味も性格も変わっているし、それでいてプライドが高いところがあるのか、何をされても大人に相談したりはしない。
 だから笑いものにされることはしょっちゅうだったし、ちょっとしたイタズラのターゲットになるのもいつも彼だった。
 僕はわかっていた。相川が置かれている状況が、受けている行為が、俗にいういじめに該当することを。
 程度としては大したことはないのかもしれない。だが本質的には同じだ。いじめを受けている事実こそが当事者にとってはすべてなのだから。
 相川は、さっきと変わらず下を向いていた。表情はうかがえない。だけど雰囲気でわかる。彼が今、劣等感と憎悪の芽を育てているであろうことが。
 僕はふと、先日目撃した光景を思い出した。

*****

 とある日の放課後。人影の少なくなった教室で、数人の男子がキックボクシングの真似事をして遊んでいた。
 観客役の生徒たちが囲むように輪を作り、そのなかで選手役のふたりが殴り合う。とはいえ、所詮はごっこ遊びであって本気の勝負ではない。
 たまたま教室の前を通りがかった僕は、その光景を遠巻きに眺めていた。
 輪の中心にいたのは、いじめられっこの相川といじめっこの太田。
 試合は一方的だった。ガードを固めるだけの相川に、太田のパンチやキックが楽々と決まる。
 そもそも、相川は殴り返すそぶりを一切見せない。ただ太田をにらみ返すだけ。そんな張り合いのない試合に観客席からは容赦ない罵声が飛んでいた。
 ウスノロ。根性見せろ。ヘタレ。少しぐらいやり返せ。他にも、試合内容に関係のあることからないことまで、まあとにかく云われ放題だ。
 このとき僕が思ったことを、一切の外面を取り払った上で述べさせてもらうならこうだ。

 ――こいつ、バカだな。

 教師という職業柄、感情を抑えつけることには慣れているつもりだったが、このときばかりは衝動的に相川を殴りつけたくてたまらなくなった。太田のように腕の力を抜いてではなく、本気で。
 殴り返せもしないのに相手をにらむぐらいなら、いっそ笑っていればいいのだ。
 ときどき形だけでも反撃するそぶりを見せながら笑ってやりすごす。
 ただそれをやるだけで、すべては同意の上でのじゃれあいということで済む。惨めさが薄まる。これはいじめではなく、遊びなのだと自分に云いきかせることができる。
 なぜ、コイツにはそれができないのか。なぜ、その程度のことすらできないのか。
 やっぱりバカなのだろう。そこで笑えないからいじめられるのだ。じゃれあいがいじめに変わるのだ。

*****

「ねえねえ、先生は夏休みはどこかに出かけるんですか?」

 クラスの女子に話しかけられ、ハッと意識を現実に戻す。気がつくと、教壇の前に数人の女子が集まっていた。

「いいや、どこにもいかないかな。先生、これでも仕事が多くってね」

 かぶりを振りながら答えて、僕はまた笑顔を作った。
 ああ、笑っていれば楽なもんさ。
 表向きだけでも感じよく笑ってさえいれば、だいたいのトラブルは避けられる。父兄からの評判だって良くなるし、子供たちだってそれなりに慕ってくれる。
 何よりも、自分の本心を覆い隠せる。
 それが、さして長くもない二十六年の人生で僕が導き出した処世術だった。
 現に今、僕が笑っているからこの子たちも合わせて笑ってくれている。それが本物だろうと偽物だろうと関係なく。

*****

 一学期の終業式の日のことだった。
 相川が学校を休んだ。母親からの連絡によれば、どうも風邪をひいたらしい。

 ……嘘だと思った。

 前日まで体調を崩すようなそぶりはまったくなかったし、あれで小ずるいところのある相川の性格から考えて、終業式など休んでもかまわないと思っているに違いない。
 相川イズルはたしかにいじめられっ子だが、だからといってただかわいそうなだけの良い子ちゃんとは違う。容易には理解しがたい複雑な内面を抱え、他者を見下してさえいる。そして、いじめられてもなおそれを隠そうとしない不器用なやつだった。
 その日の昼下がり、終業式を終え一学期も一段落したことで、職員室は少しだけ気の抜けた雰囲気に包まれていた。
 僕は校舎裏の雑木林から聞こえてくるセミの大合唱に耳を傾けながら、椅子の背もたれに体を預ける。教頭とふいに目があったのは、そのときだった。

「若いくせにだらしがないねえ。気を緩めてもらっちゃ困りますよ、湊先生」

 嫌味な口調だった。伸びをすることと体力のなさがどうして直結するのだろう。どうしたものか、五十をすぎたこの教頭は僕のことをえらく嫌ってくれている。

「はい、すみません。気を引き締めます」

 父兄からは爽やかと褒められる僕の笑顔が気に入らないのか。あるいは、その裏にある陰気な素顔を見透かされているのか。それとも、僕が教員採用試験をストレートに突破してきたせいで、自分の甥っ子が教師になれなかったことが腹立たしいのか。
 ふん、どっちにしろ僕の知ったことじゃない。

「皆さんもご存じだと思いますが、近頃新聞やテレビ、ニュースで子供たちのいじめ問題が大きくとりざたされています。もし、ご自分のクラスでそういったいじめや何かしらの兆候がありましたら火急速やかに対処してください。ましてや、問題を放置したまま夏休みに入ることなど絶対にないように」

 念を押すように僕を睨む教頭の目は、嫌らしく笑っている。つくづく嫌みな野郎だと思った。
 つまりコイツは、僕が現在抱えている相川のいじめ問題を知った上でプレッシャーをかけてきたのである。
 まったく腹が立つ。相川を本当にどうにかしてやりたいなら、自分が率先して動いたっていいだろうに。いじめの当事者を助ける役目は誰だっていいはずだ。
 それに、こんな嫌味野郎がいじめ撲滅を口にするのはちゃんちゃらおかしかった。
 相川がクラスの男子たちにされていることがいじめなら、僕が教頭にされていることもまたいじめだ。
 職員会議の連絡が僕にだけこなかったこともあれば、大した用事もないのに休日に呼びだされたこともある。
 いいオトナでさえこれだ。所詮は、世の中なんてのはこんなものなのかもしれない。いじめ問題を子供たちの間だけの問題と信じ込めるのはよほどの幸せ者だろう。

「聞いているのかね湊先生。もしキミのクラスでいじめがあった場合は、夏休み返上でことの対処に当たってもらうからな」
「……はい。心得ております」

 僕はわざと卑屈な笑みを作って慇懃無礼に頭を下げる。教頭は得意気に鼻を鳴らしていた。
 これが僕の現実だ。
 本心を笑顔で覆い隠して器用に生きているつもりでも、これぐらいの厄介ごとは避けられない。
 僕は迷っていた。
 クラスのいじめ問題を解決するために、はたしてどちらと話をするべきなのか。
 相川の受けているいじめはまだ遊びの延長線上だ。いじめている連中だって子犬がじゃれているみたいなもんで、さしたる自覚もなければ悪気もないだろう。
 おそらく、僕が呼び出して注意してやればそこで終わる。ただ子供なだけで、みんな根は悪いやつじゃない。
 でも、それではだめなのだ。それはあくまでもこの場限りの対処法でしかない。先のことをまったく考えていない一時の気休めだ。
 子供たちにとって、人生の先はまだ長い。
 小学校を卒業したら中学。中学を卒業したら高校。その次は大学か、人によってはそのまま社会人になる。
 その過程で、彼らが本当の悪意の餌食にならない保証はない。餌食になったが最後、人というのはいとも簡単に壊れ、歪み、二度と元に戻ることはない。
 僕は相川に教えてやるべきなのかもしれない。
 力ない者が上手く生き抜くすべを。あるがままの自分を貫くということが、この社会では罪になり得るということを。そして、罪の代償は安くはないということを。

*****

 夏休みに入っての初仕事は、相川の自宅への家庭訪問になった。
 僕はこの機会に、相川と一度腹を割って話そうと考えていた。教師としてではなく、ひねくれた人生の先輩として。
 真夏の太陽の下、陽炎が立ち上る焼けたアスファルトに歩を刻み、さしたる特徴もない一軒家へ辿りつく。

「ごめんください」

 ドアベルを鳴らすと、姿を見せたのはいぶかしげな顔をした相川の母親だった。歳は四十近いはずだが、若作りしているのか五つか六つぐらいサバを読んでもわからなそうだ。
 たしか、母親は今どき珍しい専業主婦だったはず。父親は郊外に工場を構える製薬会社の管理職をしていて、イズルの他に子供はいない。

「ええと、担任の、湊先生でしたよね?」
「はい、今日はイズルくんの夏休み中の様子をうかがおうと思いまして」

 僕はよそ向けの笑顔を作る。すると母親の表情もやわらいだ。

「そうでしたか。けど申し訳ありませんが、イズルはお友達とどこかに出かけてしまったみたいなんですよ」
「友達と……ですか。どこに出かけたのかはご存じで?」
「それは、私にはちょっとわかりません。イズルももう六年生ですので、私も主人も昔ほどあの子に干渉しないようになりましたから。ほら、あれぐらいの男の子って何か言い出しにくい秘密を抱えていたりするものでしょう」
「ええ、ええ、よくある話ではあります。ですが、どこに向かったのか何か心当たりぐらいはありませんか。手がかりでもいいです」

 母親は首をかしげ、思い出すような仕草を見せる。リビングのほうからはテレビのワイドショーと思われる脳天気な笑い声が漏れていた。

「もしかしたら、学校に向かう途中にある空き地かもしれませんね。あそこにイズルのクラスの子たちが集まっているのを見たことがありますし」
「なるほど、ではそちらをのぞいてみることにしましょう」

 いまいち正確さに欠ける情報ではあったが、だからといって他に心当たりもないので信じてみるほかなかった。僕は相川の母親に会釈をすると、話しにきいた空き地へ向かうことにした。
 昼が近くなり本格的に気温が上がりはじめ、足を動かすたびにYシャツの内側が噴き出した汗で湿っていく。
 そうして汗だくになりながら空き地に着いたものの、あいにく誰もおらず、相川と顔を合わせることは叶わなかった。

「さて、どうしたものかな」

 宛てをなくし途方に暮れる僕。だが運が良かったのか、たまたま近くを通りがかったクラスの男子生徒が相川たちの居場所を教えてくれた。
 どうやら、道をまっすぐ行った先にある公園に集まっているらしい。僕は気を取り直し、そこへ向かうことにした。
 相川たちの姿は、公園に着いてすぐに見つけることができた。
 相川の他には、サッカー部の太田をはじめクラスの男子が三人ほどいる。
 僕は背筋を伸ばして彼らに歩み寄ろうとした。が、何か様子がおかしい。いつものおふざけとは違い、どこか剣呑とした雰囲気が漂っている。
 僕はとっさに遊具の陰に身を隠す。いざというときには飛び出せばいいと、少しだけ様子を見守ることにした。

「てめえ、何かっこつけてんだよ!」

 太田がいきり立っているのは相川に対してではない。人影が重なっていて気がつかなかったが、一人の少年が、立ちはだかるようにして太田たちとにらみ合っていた。
 その顔に見覚えは……ない? いや、どこかで見かけた記憶だけはある。うちの学校の生徒には違いないだろう。

「別にかっこつけているつもりはないけど、キミたちこそかっこ悪い真似はよしなよ」
「っんだとッ!」

 一対三という不利な状況にも関わらず、その少年には少しも臆した様子はなかった。

「なんだったら、やるかい?」

 はっきりとした物言い。瞳の奥には強い意思の光がある。
 男子生徒が何やら武道の構えをとる。硬く握られた拳は心持ち前に、腕はあごの高さ。僕にも見覚えのあるフルコンタクト空手の構え。危険だと思った。
 だけど、僕の心配は杞憂で終わったようだ。

「お、おまえ、ばっかじゃねえの! そんなキモイやつなんかのためにマジギレしてさあ」
「ホントだよな。人がせっかく仲良く遊んでたのに、空気よめっての」

男子生徒の迫力に圧されたのか、太田たちは震え声で悪態をつきながら後ずさり、連れだって公園から逃げていく。残された相川は、あっけにとられたようにぽかんと口を開けていた。

「大丈夫だったかい?」

 構えを解いた少年が相川に明るく声をかける。
ようやく思い出した。たしか、加藤清成という隣のクラスの学級委員長だ。まともに言葉を交わしたことはないが、職員室で何度か顔を見た覚えがある。
 加藤は相川に対して、気づかうように話しかけていた。いつの間に気づいたのか、物陰から覗き見する僕を、ときおり横目で睨みながら。
 その日、結局僕は相川と話すことができなかった。

*****

 加藤が僕のもとをたずねてきたのは、公園での一件の翌日だった。
 夏休み中のがらんとした職員室。ふいに「失礼します」と、通りの良い声が聞こえたかと思うと、加藤はきびきびとした歩調で僕の席までまっすぐに歩いてきた。
 そして開口一番、問い詰めるように云った。

「どうして、彼がいじめられてるのを黙って見ていたんです!」

 加藤は腹の底から怒っているみたいだった。
 ふと頭をよぎったのは、となりのクラスの担任が、加藤清成という生徒について自慢げに語っていたときの光景。
 いわく、非の打ち所のない優等生。どこまでも誠実な少年。正義感の塊。
 なるほど、僕のようなひねくれ者とはあまり相性が良さそうには思えないタイプだ。

「おいおい、見すごすつもりはなかったさ。ちょうど相川には用もあったしね。だけど、思いもしない正義の味方が現れたことで、ちょっとだけ様子を眺めてみたくなった」
「相川くんはいじめを受けています。それも、ずっと前から」
「それぐらい知っているよ。だって担任だもの」

 わざとおどけた口調で返す。加藤の眉間にますますしわがよる。僕は気にせず続けた。

「近いうちに解決するつもりだったんだから、そう怒らないでくれ。これでも、ああいう問題には人一倍敏感でね。別に教頭にせっつかれたから、どうこうしようと思い立ったわけじゃない」
「なら早くどうにかしてくださいよ」
「簡単に言ってくれるけど、加藤は本当にそれで全部が解決すると思う?」
「思います。あんなやつら、僕がちょっと脅かしただけで引き下がるような連中です。先生がきちんと注意すればそれで済みますよ」
「その場は、な。だが、その先は誰が責任を取るんだ。ああ、別にアイツらがやり返したりするって意味じゃないから勘違いするんじゃないぞ」
「その先……?」

 意図が伝わらなかったようで、加藤は首をひねる。
 と、ここまで話をしたところで、部活動の指導にいっていた先輩教師が職員室に戻ってきた。

「なあ加藤、今時間あるか?」
「え、はい大丈夫ですけど」

 僕は先輩教師に一言かけ、加藤を職員室の外へと連れ出した。この正義感の塊ともう少しだけ話の続きをしてみたくてしょうがなかったのだ。

*****

 やってきたのは学校の近くにあるこぢんまりとした喫茶店。中学や高校も夏休みに入ったからだろう、西日が差し込む午後の店内には学生の姿が目立つ。
 奥の席に座った僕は、遠慮する加藤をなだめて、適当にアイスコーヒーとオレンジジュースを注文する。優等生なだけあってこういう場所には慣れていないのか、視線があちこち興味深そうに動いていた。

「加藤はさ、どうして相川イズルがいじめられてると思う?」

 僕は本題を切り出す。店内のBGMが流行のポップスからオールドなジャズナンバーに切り替わったのと同じタイミングだった。

「それは……僕はまだ彼のことをよく知らないのでなんとも云えません。ですけど、悪いのはどう考えてもいじめをする側です」
「うん、正論だ。でも、そういう正しさがすんなりと通らないのが世の常ってやつでね」

 肩をすくめてみせる。はたして、この実直な正義の味方様に僕の持論を理解してもらえるだろうか。

「相川イズルってやつはさ、はっきり云って変わってるんだ。たとえば、趣味は映画、アニメ観賞に読書。だけどなんていうか子供らしいのじゃなくて、グロテスクだったり露悪的だったり、一般向けじゃないのばっかな。この間なんか、尊敬する歴史上の偉人にナチスドイツの親玉を挙げてたりなんかしてさ」
「だからどうしたって云うんです。変わっていようがいまいが、個性は人それぞれでしょう。そんなの、いじめても良い理由にはなりませんよ」
「しかし、人と違うってことはいじめられる原因になる。それは正しい正しくないは関係なくて事実なんだ。教育者としての僕は相川にそのことをよくわからせてやらなくちゃならないんだ」

 淡々と告げた僕に、加藤は声を荒げた。

「おかしいですよ先生! それってつまり、いじめるほうではなくて、いじめられるほうが変わらなくちゃいけないってことじゃないですか。そんなの絶対に間違ってます」
「ああ、間違っている。間違っているとも。だけど、これが正解なんだ。相川みたいなやつが社会のなかで生きていくにはこうするしかないんだ」
「社会? 先生の言う社会ってなんです!? 僕にはさっぱりわかりません」

 加藤がヒートアップしてくれたおかげで、周囲の視線が僕たちの席に集まっていた。僕はいったん振り返って周囲にぺこぺこと頭を下げる。我がことながら、大のオトナが小学生に激しく詰め寄られている図というのは滑稽だ。

「すいません。つい熱くなってしまいました。それに、先生にあんな口を……」

 加藤はすまなそうに頭を下げる。僕としてはとがめるつもりなんて少しもなかった。どう考えたって加藤は正しいのだから。

「気にすることはないさ、加藤が怒るのはもっともだよ」

 わかってはいる。いじめられる側が変わらなければならない不条理を。しかし、不条理を飲み込まず生きていけるほど、この社会は優しくできてはいない。僕はアイスコーヒーのグラスに口をつけながら、不条理を飲み込みときのほろ苦さに思いを馳せた。

「相川もだけど、実は僕もいじめを受けているんだよね」
「はぁ、湊先生が?」
「うん、ちなみに相手はうちの学校の教頭」

 こんな話を聞かされるとは思いもしなかったのだろう。加藤はキョトンと目を丸くする。こういう顔は年相応に見える。

「まったくさあ、いったい何が気に入らないんだか、アイツやたらと僕につっかかってくるんだよ。この間なんか、なんて云われたと思う? 生徒たちにちょっと信頼されてるからって調子に乗るな、だってさ。いやいや、教師なんてのは生徒たちに信頼されてナンボでしょうが――っと、すまんすまん。とりあえず僕の愚痴は置いといて、だ。加藤はどうして相川を助けたんだい?」
「それは……、弱い者いじめなんてぜったいに許すべきじゃないと思ったからです。これから先、ああいった場面に出くわすことがまたあったとして、僕は何度だって助けに入ります」
「えらいね、義憤に駆られたってやつか。弱い者いじめなんて絶対に許すべきじゃないとは、思っててもなかなか言えないもんさ。じゃあ、この際だから訊いてみるけど……」

 僕はわずかに溜めをつくり、加藤の目をまっすぐ見すえながら云った。

「もし、僕が教頭にいじめられている現場に出くわしたとして、加藤は助けに入るわけ?」

 意地悪な問い。さすがに即答はできなかったのか、加藤は言葉につまって黙り込む。しばらく会話が途切れる。店内のざわめきが二人の間を通り抜けていく。僕は気長に返答を待った。

「…………助けに入りますね」

 加藤が口を開いたのは、僕の腕にまかれた古いクォーツの秒針がちょうど一周したころだった。

「ほう、子供のきみが、大人の僕を助けてくれると」
「関係ありませんよ。相手が誰であろうと、困っている人がいるなら僕は闘います」

 言葉には力があった。強がりを云っている様子はない。まったく驚いた。目の前の少年は本気なのだ。

「きみは素晴らしいな……。きみのクラスの担任が誇りたくなる気持ちがわかったよ。話変わるけど、昔話、ちょっといいか?」

あまりの眩しさに、僕は口が滑るのを抑えきれなくなっていた

*****

 昔、僕はいじめられていた。
 気がついたら僕という存在の扱いは小学校のクラスのなかで一番下になっていた。
 なぜ一番下なのかはわかっていた。誇れるものが何もなかったからだ。まず友達がいない。運動も得意じゃなければ、何か人を楽しませられるような特技があるわけでもない。勉強だけはそこそこできたが、そこそこ程度じゃ子供たちの間ではなんのステータスにもなりはしない。
 されていたいじめの内容は今の相川とだいたい同じ。仲間はずれにされたかと思えば、一転してからかいの対象にされたり。まあ、特別にひどいいじめをうけていたわけではなかったのだが、今の相川がいじめを笑ってやりすごせないように、あのころの僕もまた器用にやりすごせはしなかった。
 笑うのも笑われるのも嫌いだったのだからしょうがない。
 相川がバカなら、僕もバカだったわけだ。ちょっとしたいじめぐらい、笑ってやりすごせばいいのだと気づくことができなかったのだから。
 いつか相川に対して抱いた怒りにも似た感情は、きっとかつての僕自身に向けたものでもあったのだろう。
 少年時代の僕は、いじめによって大ケガをすることや金銭を脅し取られるようなことこそなかったものの、玩具扱いされる惨めさは自尊心を傷つけ、気がついたときには周囲に対する憎悪や不信の芽は大きく育っていた。
 あるとき、怒りが限界に達した僕は近所にあった空手道場の門を叩いた。ことを腕っぷしで解決してやろうと思いたっての行動だった。
 僕を散々見下してきた連中を叩きのめしてやりたい。
 そう告げた僕に、スポーツ空手ではなく実践空手を教えるその道場のオトナたちは、親身になって有用な技術を教えてくれた。当時は感謝したものだが、今になって思えばあまり褒められたオトナたちではなかったのかもしれない。
 だが、せっかく習った技術を存分に生かす機会は訪れなかった。
 実践空手仕込みの下段回し蹴りを内ももに一撃たたき込んでやっただけで、いじめっこ連中は顔をくしゃくしゃに歪め、それきりクラスメイトの誰も二度と僕には絡んではこなかった。
 だけど、正直言ってその程度じゃ気分は晴れなかった。
 いじめられなくなったとはいえ、まだ気分は全然晴れていなかったから。
 だから僕は決心した。もし、いじめられているやつを見つけたら、きっと助けてやろうと。
 その機会が訪れたのは、中学に入って二年目の春。
 顔も知らないとなりのクラスの男子生徒が、がらの悪い不良たちからサンドバッグのような扱いを受けていた。
 かつて僕が受けていたのとは比べものにならないひどいレベルいじめ。どう見たってリンチだった。
 体の奥から、ドロドロした熱い何かがせり上がってくる。
 そして間にわって入る僕。道場で習った技を遠慮なく全部使う。気がつけば、サンドバッグの役目を務めるのは不良たちに変わっていた。

***** 

 ――僕は話をいったん区切り、アイスコーヒーで舌を潤す。僕の話に聞き入っていた加藤も同じようにオレンジジュースのストローに口をつける。
 心なしか背中に汗をかいている感触がある。もしかしたら緊張しているのだろうか。どちらにしろ、自らの体験をこうも赤裸々に語るのははじめてだった。

「あの、限度はあるにしろ、僕には先生がやった行為が間違っているとは思えません。だって先生はいじめられていたその生徒を助けようと思ったのでしょう?」
「一応はな。だが今振り返ってみると、単なる鬱憤晴らしだったのかもしれない」

 テーブルの下、そっと自分の拳を撫でてみる。空手を止めて久しいが、骨を覆う皮膚はまだわずかに硬かった。

「もしかして、先生が相川くんに伝えたいのは強くなれということなのでしょうか。そういうことでしたら、僕も全部じゃないですけど賛成です」
「おっと、勘違いするなよ。そいつは違う、違うんだ。強くなるなんてのは、正解のようで大間違いだったりもする。だいいち、人間そう簡単に強くなれはしないのさ」

 云って僕は微笑んだ。少しは意味深な表情を作れただろうか。

「それってどういう……」

 加藤の表情に困惑の色が浮かぶ。強くなることでいじめを克服した僕が、強くなることを肯定しなかったからだろう。

 ――強くなれ。

 人は簡単にその言葉を口にする。たしかに間違いではないことも多い。だがしかし、いったいどこまで強くなればいいのか、そこまでは教えてくれない。
 そして、弱いままの存在はどうすればいいのか。

「じゃあ、話の続きをしよう」

 店内のBGMがまた変わる。今度はノスタルジックな曲調のフォークソング。僕は再び記憶の蓋を開けた。

*****

 いじめられていた男子生徒は、名前を佐々木といった。
 普段は眼鏡をかけているらしかったが、殴られているうちにどこかにいってしまったそうで、僕と出会ったそのときは素面だった。

「どうして僕なんかを助けてくれたの?」

 声変わり前の高い声でたずねる佐々木。

「俺さ、ああいうのって許せないんだよ」

 かっこつけて自信たっぷりに返してやる。そんな僕らが友人同士になるのに、さほど時間はかからなかった。
 佐々木には友達がいなかった。僕にも以前と変わらず友達がいなかった。元いじめられっこと現役のいじめられっ子の似たもの同士。
 端からみれば、そう悪くない友人関係だったと思う。もっとも、僕たちのことを端から見ていた誰かがいればだが。
 佐々木は人並み外れておとなしい上に口数も少なく、運動のほうも僕よりでさっぱりで、なんともいじめられやすい素養の持ち主だった。
 ただ、勉強だけは抜群にできた。最終的に関東の旧帝大に進学したのだから大したものだ。
 しかし、彼が暴力的ないじめから解放されて以降も人間関係に関する悩みごとは尽きなかった。
 佐々木は口べたな性格が災いして周囲と上手く打ち解けられないことがほとんどで、だからといって僕のように孤独であることを受け入れた人間とも違い、そこまで割り切って生きることができなかった。人との巡り合わせも悪かったのかもしれない。たしかに付き合っていて面白い人間ではなかったが、僕なんかよりはよほど善人だったと思う。
 佐々木とは高校も一緒だった。
 クラスが同じなこともあれば違うこともあったが、共通していたのは、いつまで経っても互いに他の友人ができなかったことである。
 高校時代、なぜ自分はこうも社会で生きていくのが下手なのかと、佐々木から相談されたことがあった。
 当時、陰の薄い佐々木はクラスメイトからいないも同然の扱いを受けていた。
 気だるい昼休みの屋上。真剣な顔で思い悩む佐々木。僕は自分に云い訊かせるのと同じ要領で、「孤独に生きろ」とはさすがに口にできなかった。
 だから、とりあえず云ってやった。

「今にきっとよくなる」
「今にって、いつ?」
「んー、たぶん大学にでもいったら環境が変わってなんとかなるかもよ」

 根拠なんてまったくなかった。思いつきで口にした無責任な台詞だ。
 やがて、僕と佐々木はそれぞれ違う大学に進み、それ以後はたまにメールのやりとりをするぐらいで、関係はどんどん疎遠になっていった。
 あるとき、佐々木から毎度の悩みを相談された。

「どうして僕は、大学生になっても生きるのが下手なままなのだろう」

 僕はメールでこう返した。

「大学を卒業して社会に出ればきっと状況はよくなる」

 缶ビールを片手に打った適当な文章。いつかと同じで思いつきだった。
 ほどなくして返信がきた。

「実は今いじめられてる」

 文末には笑っている顔文字が添えられていた。本気なのか冗談なのかわからない文面がおかしくて、僕は腹を抱えて笑ってしまった。そして短く返信した。佐々木と同じく、文末に笑っている顔文字を添えて。

「僕もだ」

 佐々木がそうであるように、僕もまた大学生活で人間関係に問題を抱えていた。それも腕っぷしでは解決できそうもない類の問題を。
 ただ、常に普通の生活を望んでいた佐々木に対し、僕の場合は孤独を貫いた末の自業自得みたいなものだった。
 人間、二十歳もすぎればもっと自立しているのが当たり前だと思っていた。だが、自立と孤立はまったく違うらしい。
 人間不信をこじらせたあげくのコミュニケーション不足が積み重なり、僕はゼミのなかで完全に孤立していた。まあ、それ自体はいい。だけど、単位をもらえないことには先に進めないわけで、こればかりはどうにもならなかった。
 窮地に陥った僕は考えた。どうすれば僕みたいな真性のひねくれ者が円滑な人間関係を築けるか。
 考えて考えて考えて。やっと導き出したのが、笑うことだった。
 何が起ころうが笑っていればいい。そうすればすべてを適当に受け流せるし、本心だって覆い隠せる。
 人を信じられない僕にとって考えうる最高のアイディア。ただ、考えついたときにはすでに大学を一年留年していた。
 そして、張りついた笑みが顔に馴染んできたころ、僕より一年早く社会に出ていた佐々木が自ら命を絶った。
 日本人なら誰でも知っているような大企業に就職したものの、周囲に上手く溶け込めず、精神を病んだ末、昔読んだ本か何かの真似をして栃木にある有名な滝に飛び込んだのだという。佐々木らしくない少しだけ派手な最期だった。
 死の直前、僕宛に送られてきたメールには毎度の相談事の終わりにこんな一文が添えられていた。

「中学がだめなら高校。高校がだめなら大学。大学がだめなら社会人。そうやって未来への希望と期待だけ胸に日々を生きてきた僕ですが、毎日辛いことばかりです。同僚の人たちはみんな目が三角で誰も僕と仲良くなんかしてくれません。またこんなつまらないことを訊いて本当に申し訳ないのですが、いったいいつになったら僕の人生はよくなるのでしょう?」

 さすがに心配になって、今度ばかりは真面目に考えてやった。考えて考えて、正直な想いをメールに乗せた。文末には笑っている顔文字を付属して。

「――わからない」

 佐々木は遺書を遺さなかったと聞く。だから彼が最期に何を思っていたのかわからない。ただ今となってみれば、佐々木も僕みたく笑っていれば良かったんじゃないかとは思ったりもする。そうしていれば、偽りであるにしろ彼の寂しさもほんの少しぐらいは和らいだんじゃないか、と。

*****

「そんな昔話があったわけだ」

 話し終えて、僕は小さく息を吐いた。気の毒にも重ったるい話を聞かされる羽目になった加藤は、何か言葉を探しているような難しい顔で下を向いていた。

「人にもよるんだろうけど、生きるのって意外と大変みたいでね。特に小学生のころからいじめられるようなやつは、その先も、それこそ社会に出てからも苦労するものなのさ。たとえばさっき話した佐々木とか、今の僕とか」

 笑いかけても、加藤は唇を真一文字に結んだままだった。僕はひとりで続けた。

「そういう人生経験も踏まえてさ、僕は相川に器用な生き方ってのを教えてやれたらと考えているんだ」
「つまり、相川くんも先生みたく黙って笑っているべきだと云うのですか? 本当の自分を押し殺して」

 加藤がやっと口を開く。さきほどにも増して真剣な顔だ。強い意思のこもった眼差しで、僕をまっすぐ見すえている。

「ねえ、先生。そこに正しさはあるのでしょうか?」

 問われた。僕も負けじと加藤の目をまっすぐ見る。笑顔は消した。

「あるよ。僕が信じてるから。僕はね、かつての自分や佐々木みたいなやつに少しでもマシな人生を送らせてやりたくて教師になったんだ」
「在りたいように在れない人生のどこがマシだっていうんですか!?」
「いいか、加藤。もしこの先、相川が今よりもっと直接的なひどいいじめを受けたらどうする。あるいは集団からはみ出ているせいで結果として社会から阻害されることだってある。ただ人付き合いが苦手だっただけの佐々木でさえああなってしまった。最悪の結末を知っている身としては見過ごせないんだよ。もしかしたら相川にもそんな未来が待っているんじゃないかと思うとな」
「最悪の結末だなんて勝手に決めつけるな! 僕がそうはさせない」
「はん、どうやってだ。いじめた連中を叩きのめすか? 云っておくが、そいつらは本当の敵じゃないぞ。いじめなんてのは生きづらさの一端でしかない。深刻なのはありのままの自分が社会に受け入れられなかった事実だ」
「でも……でも、生きづらさの原因を作っているのだってやっぱり人でしょう。なら許してはおけません」
「じゃあどうするってんだよ。いっそ社会全体でも変えてみせるか?」

 挑発するような物言いにカッとなったのか、飛び上がらんばかりの勢いで席を立った加藤がこちらに詰め寄ってくる。小さな正義の味方は、論破されそうな悔しさからか目に涙を溜めていた。だが、眼差しは未だ力強く光を失ってはいない。

「社会なんか僕が変えてやる! 変えるのが無理なら踵で踏み砕いてやる! 先生、見ていてください。いや、見ていろ! 僕は必ずやってみせますよ。相川くんだけじゃない。みんな救ってみせますから。人間は素晴らしいんだ。あるがまま生きていていいに決まってるんだ! 僕は闘います。人の心を大切にしない人たちみんなと闘ってみせます!」

 もはや叫びだった。あまりに突拍子がなくて現実味もない。

「――ッ、では失礼します!」

 加藤は強烈な言霊だけを残し、くるりと出入り口のほうに足を向けて僕の前から走り去っていく。
 その勢いに僕は唖然とするほかなかった。しかし、胸の奥から沸きあがってきたのは呆れではなくむしろ感激に近かった。
 理屈じゃない。加藤の発した、世の中の不条理を憎む切実な想いが痛いほど胸に響いていた。
 加藤のことを自慢していた同僚の気持ちが今なら本当によくわかる。あの子は間違いなく傑物だ。正義の味方なんかじゃなく、まさしく正義そのもの。僕みたいなひねくれたリアリスト気どりとは対極の存在。
 笑いがこみあげてくる。嫌味じゃなく、あの子の将来が楽しみだ。
 おかしくて僕は笑う。いつもみたいな作り笑いなんかじゃない。人の目なんか気にせず、声をあげて腹の底から笑う。
 生きやすいように自分を変えるのが正しいのか、それとも社会を変えてみせるのが正しいのか。
 僕が正しいのか、彼が正しいのか。何が正しくて何が間違っているのかわからない。
 ただひとつ、心の底から願うことがあるだけ。
 どちらが正しくたって構わない。選択肢のその先で、佐々木が感じていたような生きづらさが少しでも減ってくれていればいい。それだけだ。

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