惑乱の月
ジャンルは恋愛にさせていただいてますが、歴史ファンタジー風です。ご注意ください。
月の明るい夜のことである。
森の夜を、無粋な足音が踏み潰して行く。
風にそよぐ木の葉の囁きを遮るような足音は1人のものではない。
幾人もが走る足音は、澄んだ空気に乗って森の中に響き渡った。
やがて、その足音がピタリと止まる。
「魔女めが……手間をかけさせやがって」
次いで聞こえてきたのは男の声。
鎧に身を固めた男が、3人並んで立っていた。
彼らが対峙する先には1人の女。暗がりの中、痩身を浮かび上がらせている。
女は男たちによって崖の淵に追い込まれている。
「何が目的であのお方に近付いた?」
唸るように問う男の声は憎悪に満ちていた。
「貴様の同胞の恨みを晴らすためか…!」
今すぐにでも女の喉笛を噛み切るのではないかとばかりの殺気を滲ませて、男は問うた。
夜気が重く震える。
通常の女であれば、腰をぬかしてもおかしくはない程の威圧感。
しかしその女は平然と、口元に笑みまで湛えて男を見据えている。
「恨み、ねえ。異端を片端から処刑などという頭の悪さには、怒りを通り越して却って愛おしさを感じたけれど」
「ほざくな! ならば何故……!」
「あんたはうるさいねえ。臆病な犬ほどよく吠えるものだとは言うけれど」
ねえ、国家の犬?
続ける女の声に嘲りが混じる。
「黙れ、毒婦! 今すぐその首掻っ切られたいか!」
「おや、できるのかい? 未だに女1人捕まえられないあんた達に」
せせら笑い、女は懐に手を入れた。
身構える男たちを尻目に女が取り出したのは、暗がりで判別しづらいが黒いパイプである。
女はパイプを指先で弄び、次いで男たちにそれを突きつけた。
「私を捕まえたいのなら、あの人を連れておいでよ」
パイプを咥え、回れ右をする。崖下から吹き上げる風を受け、女の髪がたなびいた。
「私を捕らえ、繋いでおく事が出来るのはあの人だけなんだから」
暗がりの中、その女は立っていた。
月は雲に隠れてしまった。
せっかくの満月なのに、と溜息をつく。
存在感のある女である。
顔立ちは整っているものの、特別美しくはない。
しかし、その場にいるというだけでその存在を焼き付ける。
一度見たならば、彼女の赤い髪を忘れることは敵わないだろうという程に、闇夜の中でも彼女の姿は際立っていた。
湖のほとりで、女はパイプをふかしていた。
片膝を立て、その上に肘を乗せるという妙齢の女がするにははしたない姿。
砂を踏む音が、女以外の何者かがやってきたことを告げる。
「おや、隠れてしまったと思ったら、嫦娥はこちらにいらしたか」
振り返る視線の先にいたのは、壮年の男。
狩衣ながら品のいい衣装を見に纏った男は、女に柔らかく笑いかけた。
女は軽く目を見開いたが、すぐに口元に笑みを描く。
「それならば、貴方様は『げい』でいらっしゃるのでしょうか」
男は長身を揺らして笑った。
そして女も。
天女とその夫、ならば月に惹かれて巡り会うのも道理であろう。
彼らはそう納得し、それ以上の詮索をしなかった。
お互いの本当の名も素性も明かさず、問うこともせず。
口にすることで訪れる結末を、彼らは理解していた。
女は男が何者であるのかを知っている。彼のことを知らぬ者など、余程の世間知らずか幼い子供くらいのものだ。
女は世情に疎い方ではあったが、その彼女ですら知る人物なのだ。
だからこそ、女は詮索を口にしなかった。
そして男もまた。
彼らはそれから一時、たわいもない会話を楽しんだ。
その間に月は現れては隠れ、そして沈んでいった。
「ああもう帰らなくては」
東の空が白み始める頃、男は名残惜しそうに女の手を握る。
男の手は大きく、女の細い手などすっかり包み込んでしまった。
「また、月の綺麗な夜に」
どちらからともなく口にした約束、それはとても不確かなもので。
それでも、約束は果たされた。
何度も、果たされ続けた。
約束が果たされるたびに彼らの距離は近くなり、そしてついには一つになった。
「ご存知ですか?」
痩身を男の腕の中に収め、女は問う。
「嫦娥は夫を裏切り、不老不死の薬を奪って逃げるということを」
「そなたがもし、私を裏切るのだとしても、私は構わんよ」
女は背後から己を抱きこむ男を見上げる。すると男は女を抱く腕に力を込めた。
「私にはそれだけの報いを受けるべき罪がある」
言葉とは裏腹に、触れ合った肌から男が震えているのが伝わってくる。
耳を掠める吐息は恐れを滲ませていた。
女は男に腕を緩めさせると体を反転させ、正面から男を抱き締めた。
「ご安心ください。私は、貴方の側にいますから」
しかしその後、男が約束の場所に現れることはなかった。
代わりに訪れたのは、鎧を纏い剣を握った兵士たち。
先だって国王の名において魔女狩りを大々的に執り行った者たちである。
女は溜息をついた。
裏切ったのは『げい』の方であったのか。
それとも、嫦娥が裏切った時のごとく行き違いか。
追われる日々が始まって、そして今に至る。
崖の際で、女と兵士たちの会話は続く。
「魔女、ねえ。それはそちらが勝手に言い出したことじゃあないのかい?」
「ならばあの陛下の様子は何とする!」
兵士の憤り、女は首を傾げる他ない。
男との逢瀬は月に数回、変わった様子など見受けられない。
「女神でもなき女を女神と呼び、恋しがる」
「それもそちらが勝手に言い出したことだけれどね」
再び女は溜息をつく。
しかしそれは、呆れでも落胆でもない。
恋しく思われていた、それを聞くことのできた安堵、そして喜びによるものであった。
ああ、やはり。
女は自身を嘲り、笑みを浮かべる。
「月の女神とは思えぬ赤い髪」
「角度によっては月も赤く見える」
「容姿も女神などとおこがましい」
「それには私も同感だ」
声をあげて女は笑う。
そのことに兵士は尚も憤りを増したようである。
「一つだけ、言っておくよ」
女は兵士たちに向き直る。
「私は惑わしたんじゃない。惑わされたのさ」
あの時から何度、美しい月が出ただろうか。
あの時から何度、約束の日が訪れただろう。
そしてその度に女はあの湖へと向かった。
果たされることのない約束と分かりながら、それでも足を向けずにはいられない。
いつか再び出会えることを願って。
男は既に、あの場所へ来る事が叶わぬ身だと知っているのに。
世間の噂によると、王は魔女に取り殺されたのだそうだ。
惑わされ、恋しさに心を病んで。
そして、女はそれを知っている。
だから、今この場所に来た。
一歩足を踏み出せば、男の下へと向かえるこの場所へ。
ああやはり、ほら。
こんなにも捕らわれているじゃありませんか。
全ては、月の美しい夜に紡がれた物語。