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第8話 駄目人間

 洗面台の鏡に映るのは、枕詞(まくらことば)に「冴えない」とか「うだつの上がらない」という形容詞が似合っている、三十路前のくたびれた男の姿。やや癖のある黒い髪に、垂れ気味の目で憂鬱そうに正面を向いている。


 どこかぼんやりとした印象を受ける彼の名は、安藤竜一(あんどうりゅういち)。元フリーライターで現在はフリーターという、ダーマ神殿もびっくりな底辺職から底辺職にジョブチェンジした男。それでも三食食えてきちんと睡眠を取れている分、ライター時代よりも生活に余裕があるというのが、なんとも世知辛い。


 この安藤竜一は、世間で言うところの駄目人間の枠に入りそうな、どこにでもいる人間だ。要するに、俺のことである……って、自分で説明してて辛くなってくるな。


「あー、結構伸びてやがるな」


 顎に手を当ててさすると、ざらついた感触が伝わってくる。ここ数日外出していないのをいいことに、全く剃っていなかったので、無精髭が目立ってきている。そろそろ対処しておかねば、いずれは三国志に出てくる関羽のような立派な髭になってしまうであろう。……さすがにそこまでではないか。


「面倒だけど、剃っておかないとな」


 人前に出ないならともかく、もうすぐ来夏が家に来る予定なので、多少は身だしなみに気を遣っておかねばならないのだ。


 俺は善は急げとばかりに、安物の剃刀でさっさと髭を剃った。先ほどと同じように顎に手を当てると、今度は卵の表面でも撫でているようなつるりとした感触。鏡に映る俺の顔も、どことなく満足気に見える。うむ。これでよし。


 と、ちょうどそこでタイミングよく玄関のチャイムが鳴った。インターホンのような上等な物は我が家には存在しないので、適当に「今行きますー」と声を上げて玄関に向かう。


 扉を開けると、むわっとした熱気が身を包んだ。そういえば、今日から七月だ。通りで最近暑いはずである。


 そんな暑さの中、涼しい顔をして立っている一人の美少女。果たしてそこにいたのは予想通り来夏だった。制服に鞄と、従来通りの服装だ。


「こんにちは、師匠」


 そしていつも通りの、表情筋に麻痺でも起こっているかのような仏頂面で、来夏はそう言った。


「よく来たな。一ヶ月ぶりくらいか?」 

「訂正させてもらいますと、正確には二十八日ぶりになります」

「そ、そうか。まぁ、立ち話もなんだし、遠慮なく上がってくれ」

「はい。それでは、お邪魔します」


 俺は軽く頭を下げた来夏を先導して、部屋へと連れて行った。


「しかしなんだな。来夏は、いつも制服姿だな」

「部屋に入るなり、突然何を言い出すんですか」

「ん? 来夏の私服姿をまだ一度も見たことがないと思ってな」

「つまり、師匠は私の私服姿を見たいんですか?」

「いや、別に」


 ちょっと言ってみただけだし。


「そうですか。見たくもないんですか。師匠は女心が全然分かってないですね」


 来夏は芝居がかった仕草で大仰に溜め息を吐くと、やれやれと言わんばかりに首を振った。なんだかちょっぴりムカつくが、俺は大人なのでこの程度では怒らない。


「どうせ俺には女心なんて分からんよ。で、来夏は今回は何の用なんだ?」

「何の用とは心外です。師匠の申し付け通り、借りた本を書き写す作業を終了させたので来た次第です」

「ほほぅ」


 てっきり面倒になって途中で根を上げると思っていたんだが、見事やり遂げたのか。最近の若者にしては根性があるではないか。感心感心。


「これが証拠です」


 来夏は鞄からノートの束を取り出すと、俺の目の前で一冊を広げて見せた。ちらりと目をやると、なるほど確かにきちんと達筆な字で書き写してある。


「うむ、見事だ。この書き写すという行為は、単純に見えて奥が深い修行だったんだぞ」

「そうですか」


 来夏は興味なさそうに言うと、ノートを鞄へと片付けた。俺は結構いいことを言ったつもりだったのだが、来夏の心には響かなかったようだ。


「これだけ写したんだし、来夏にも基本的な文章作法というものが身に付いただろう?」

「まぁ、恐らくは」

「文章ってのは、まずは好きな作家の文体を模写するのが上達の近道だしな。俺も通った道だ」

「好きな作家の文章を、ですか」

「そうだ。来夏には好きな作家とかいないのか? 今回は少々強引にこちらで本は選ばせてもらったが、暇があったら好みの作家の文章を写してみるのも手だぞ」


 好きな物こそ上手なれ。プロの技術の結晶である文章を、言葉通り書き写して己の血肉とするのだ。


「私の好きな作家は──」

「作家は?」

「いえ、よく考えたら特に好きな作家はいませんでした」

「そうか。それは残念だ」


 来夏はお嬢様ということで、トルストイやらドストエフスキーやらといった、海外のハイソな文豪が好みなんじゃないかと予想していたんだが、外れたな。


「師匠。それで次は、私は何をすればいいのでしょうか」

「む、次か」

「はい、次です」

「むぅ……」


 次……は、どうしよう。


「まさか師匠、何も考えてないということはありませんよね」

「はは。いやいや、まさか」

「ですよね」

「ははは」


 笑って誤魔化したが、実際俺は何も考えていなかった。


「えーと、そうだな。来夏はもう基本的な文章作法も身に付けたことだし、その……」

「なんですか」

「うむ。俺の教えることはもう、何もない」

「ふむん?」

「免許皆伝だ。今日から独り立ちするがよいぞ」

「師匠?」


 来夏の目が、大きく──というほどでもないが、見開かれた。


「本気で言っているのですか、師匠。私はまだ、ゲーム製作についてほとんど教えてもらっていないと思うのですが」

「まぁ、大丈夫だろう。基本的な文章は書けるんだし、後は自分で調べればなんとかなるさ」

「師匠が言うからにはそうなのかもしれませんが──師弟関係はどうなるのですか」

「んー。免許皆伝なんだし、もう解消してもいいんじゃないかな」

「それは、少しばかり無責任なのでは」

「知らなかったのか? 俺は無責任なんだ」

「そんなこと、知りません」


 来夏はそれだけ言うと、俯いて黙ってしまった。肩が小さく震えている気がする。その姿はどことなく、飼い主から捨てられた子犬を連想させた。俺の胸に、罪悪感が鎌首をもたげてくる。


「来夏、その……」


 声をかけようとして、途中で止める。一体何を話せばいいのだ。つい今し方、俺の方から突き放すようなことを言ったばかりだというのに。


 正直に言うと──俺は面倒になっていたのだ。何が面倒なのかと問われたとしたら、きっと俺は全てがだと答えるだろう。


 最初は勢いと気まぐれで師匠を引き受けた俺だったが、いつでも一生懸命な来夏の姿を見ていると、なんだか自分がみじめに感じてきたのが始まりだった。


 片や、夢と希望に溢れた女子高生。片や、その日暮らしのフリーター。自分は何を偉そうに、それもエロゲ製作の師匠なんぞやっているのだろう。一度ネガティブな思考に陥ると、後は一直線。元来物ぐさでいい加減な性格の俺が、誰かに物事を教授するというのは、どだい無理な話だったのだ。


 そもそも俺は、あの時すでに一度逃げ出しているじゃないか。一度逃げたのなら、二度も三度も同じことだ。今更何を躊躇(ためら)っているのだ。


 それに、ご近所のみなさんから女子高生を連れ込んでいると噂されると困る……と思う。これはなんだか言い訳がましいな。誰に対しての言い訳なのだろうか。まぁ、どうでもいいか。


 ──内心でせめぎ合う本音を押し殺し、沈黙を続ける来夏をどう言いくるめようかと思案していたその時。


「三万円」


 今まで沈黙を貫いていた来夏が顔を上げ、謎の言葉を発した。ざわり、と空気が揺らいだ気がした。


「え?」

「え、じゃありませんよ師匠。ですから三万円です」

「何が?」

「呆けたことを言わないでください。現在の師匠の借金総額です。師弟関係の解消云々の前に、まずは借金を返済するのが筋ではないのですか」

「あぁ~ッ!?」


 喉奥から湧き出てくる声がアパートを揺らす。驚愕のあまり、思わず絶叫してしまった俺にきっと罪はないはずだ。


「師匠うるさい」

「はい、すいません」


 ご近所さんにも迷惑ですね、はい。


「師匠は今すぐ私に借金を返済できますか」

「無理です」


 俺は間髪入れずに即答した。正確に言えば無理ではないのだが、今すぐ全額返すとなると、収入が不定期の俺は今月生きていくのが非常に……そう、非常に厳しくなるのだ。


「もしかして、借金のことを忘れていたのですか」

「おっしゃる通りでございます」

「師匠、ちょっとそこに正座してください」

「はい」


 いつか来夏にしたように、今度は逆の立場で正座させられる俺。そんな俺を来夏は、絶対零度の冷ややかな視線で見つめながら、腰に手を当てて説教を始めた。


「師匠は、年下の女性からお金を借りて恥ずかしいとは思わないのですか」

「はい、思います」

「それもたったの三万円すらすぐ返せないとは、いい歳して情けなくはないのですか」

「はい、情けないです」

「一度師匠を引き受けると言ったにも関わらず、途中で放り投げるという姿勢は、大人として最低ではないのですか」

「大変申し訳ないと思っています」


 来夏の正論に、ひたすら頭を下げ続ける俺。生きててすいません。駄目な大人でごめんなさい。


「前々から思っていましたが、師匠の私生活は少々だらしなさすぎます」

「返す言葉もございません」

「どうしてそんなにお金がないのですか。一応は稼ぎもあるのでしょう?」

「いや、なんというか、その、お金が入るとちょっとパチンコとスロットで使いすぎて……」


 それと、たまに競馬も……。


「ギャンブルですか、最低ですね」

「最低、ですか」

「なんですか。私の言葉に何か不満でもあるんですか。言いたいことがあるならはっきりどうぞ、師匠」

「これでも俺は、打つ前には台をきちんとリサーチしてから──」

「言い訳をしないでください」


 俺の言葉は来夏の一言でぴしゃりと遮られる。言いたいことがあるなら言えと言われたので言ったのだが、なぜか怒られてしまった。理不尽極まりない気がするが、雰囲気的に逆らえないのでどうしようもない。


「師匠は──師匠は、弟子をなんだと思っているのですか」


 それは、絞り出すような小さな声だった。


「来夏……」

「師匠、ちゃんと私の目を見て話してください」


 来夏の言葉に誘導されるかのように、当てもなくふらふらと彷徨っていた視線を上に持って行く。上から見下ろす来夏と、下から見上げる俺。二人の視線が宙で交錯した。


「師匠というのは、弟子を導く存在であって……」

「それで?」


 抑揚のない言葉が、俺を促す。来夏の吸い込まれそうなくらい澄んだ瞳からは「嘘は許さない」という無言の圧力が感じられた。


「その……ごめん」

「ごめんというのは、何に対して謝っているのですか」

「途中で師匠を放り出すようなこと言って、ごめん」

「……反省していますか?」

「心から反省してる。俺が悪かったと思っている」

「それは本当ですか?」

「本当に本当です」

「本当の本当の本当に?」

「本当の本当の本当の本当だ」

「もう、逃げたりしないって、約束してくれますか」

「約束する」

「そうですか。分かりました」


 今まで仁王立ちだった来夏が、不意にその場で屈んだ。ひるがえった制服のスカートがふわりと目の前で舞い、来夏の視線の位置が、ちょうど俺と同じ高さになった。


「それなら、そろそろ許してあげます」


 どうやら、俺は許してもらえたようだ。来夏は姿勢を直して正座すると、改めて俺と向かい合った。


「それにしても、なんで急に師匠を辞めたいなどと言い出したのですか」

「いや……本当に悪かったよ。正直言うと、来夏のような前途溢れる若者を見ているとなんだかやるせなくなってしまってな。衝動的に、全てが面倒になってしまって」

「要するに、ひがみですか」

「ご名答です」


 いい歳した大人の妬みやひがみは、客観的に見るとみっともないな。自分が情けない。


「一度許すと言ったのですから、私からはもう何も言いません。それに師匠の事情はともかくとして、私とて、伊達や酔狂だけで弟子入りしているのではないのですから。師匠の全てを伝授してもらうまでは弟子のままでいますよ」

「そうか。来夏も物好きだな」

「ええ、物好きなんです」


 俺の皮肉に、来夏はにこりともせずに言い返す。


 これまで金持ちのお嬢様が道楽で弟子入りしたのかと、なんとなく思っていたのだが、色々訳がありそうだ。そういえば以前、エロゲーを作りたい理由はいつか話すと言ってたっけな。


「では師匠。最初の質問をもう一度します。それで次は、私は何をすればいいのでしょうか」

「来夏は、まともな文章作法は身に付けたんだよな?」

「はい。小説を書き写している間に、自然と覚えました」

「んー。それなら、次は実践かな」

「実戦?」

「『じっせん』の字はこうな」


 来夏の前で、宙に指で「実践」と書いてやる。


「実践の方ですか。それは具体的にどうすれば?」

「とりあえず、以前来夏が書いたプロローグを書き直して──」

「書き直して?」

「それをサンプルとして手土産に、どこかライターを募集しているゲーム製作サークルに応募だ」

「…………ふむん」


 いつもより一泊遅れて、来夏独特の口癖が返ってきた。


第一章・弟子入り編終了。

次回からはようやく本番とも言える、激動(?)の第二章となります。


ほとんど部屋で動かず会話してるだけで、今までの登場人物は計三人という誰得な内容の拙作でしたが、感想やレビューまで頂けて感謝感激です。

今後とも応援していただければ幸いです。

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