人を食った話
ポタッ……ポタッ…ポタッ……
不意に鳴る着信音に、心臓が飛び跳ねた。
「もしもし、大輔かい?」
「なんだ、母さんか」
「なんだとはなによ! そっちは元気でやってるの?」
「元気だよ。で、こんな時間になんの用?」
平静を装って返答する。
ポタッ……ポタッ…ポタッ……
「ああ、そうそう。いとこの良子ちゃん、あんた覚えてる?」
良子……? そういえば、だいぶ昔に何度か遊んだことがある。
確か大阪に住んでる本家の筋の親戚で、俺の二、三下の女の子だった。
いとこといっても、もう十年近く顔を見ていない。中学の頃から勉強で忙しかったし、親戚の集まりに参加するほど人付き合いもよくなかった。
ぶつぶつ小言を言いながら両親だけが遠出して、俺は留守番していた記憶がある。
「その良子ちゃんが、なんだよ?」
「あんたを頼って、そっちに向かったらしいわよ。着いたら、連絡ちょうだいね」
「はぁ? なに勝手に決めてんだよ」
「あんたの番号もおしえといたからね。二、三日、ちゃんと面倒見てあげるのよ。じゃあ、おやすみ」
母親はそう言って、文句は聞きたくないとばかりに一方的に電話を切った。
ポタッ……ポタッ…ポタッ……
「チッ、なんだよ。こっちはそれどころじゃねぇんだよ」
ズキリと腕が痛む。スマホのライトで照らす。深くえぐられた傷からは、滴るように血が流れ落ちていた。
「クソッ! なんでこんなことになってんだよ」
ここは岡山の県北にある山中。
人里離れた川の土手の下。
月明かりがぼんやり照らす暗闇。
ススキが生い茂った川のそばで、俺は立ち尽くしていた。
目の前には女の、死体。殺すつもりはなかった。あいつが暴れるから。
叫ぶから、とっさに口を塞いだだけなんだ。
無我夢中で覚えていない。首を絞めて殺したようだった。なんで死んでるんだよ……。
腕に刻まれた引っかき傷の痛みが、現実であることを深く実感させる。
電話を切ったあとは、川の流れる音だけが不気味に響いていた。
岡山の事業所に出向してきたばかりなのに、まさか殺人を犯してしまうなんて。
ああ、もう駄目だ。どうしてもみんなに迷惑がかかってしまう。
俺なんかが日本の警察から逃げられるはずがない。
諦めて自首しようか。
いや、この死体が見つからなければ、あるいは……。
「とりあえず、こいつをどうにかしないと」
明日が休みということもあって、駅の近くで遊ぼうと思っていた。
そこでナンパして引っ掛けただけだった。やるだけやって放り出すつもりだった。
俺の顔を見てホイホイついてくる尻の軽い女だ。すぐに捜索願や行方不明届が出るわけじゃない。
警察の捜査が始まっても、俺にたどり着くまで時間はかかるはずだ。この死体がなけりゃな。
さて、どうしようか。
そもそも殺すつもりなんてなかった。
準備なんてしているはずがない。
埋めるにしても、重機どころかスコップすらない。
ならば、瀬戸内海に沈めようか。
無理だ。素人の俺が誰にもバレずに船を手配するなんてできない。
薬品や溶鉱炉で溶かしてしまえば。
馬鹿が。どこにそんなものがあるんだ。
そうして追い詰められた頭が、革新的なアイデアをなんとか捻り出す。
身元がわからないようにバラバラにして、どこかに捨てればいいんだ。
そうだ、車のトランクにまだキャリーバッグが入ってるはずだ。殺人現場であるここから一刻も早く立ち去りたい。
はやる気持ちを抑え、近くの道路に止められた車を確認しに行った。
薄い闇をかき分けて、トランクの前まで来た。
まさに一筋の光明ともいうべき、左手のライトで照らしながら、ガチャリと中を覗く。
やはり、あった。よかった。心の底から安堵する。
土手に戻った俺は、触りたくもない女の死体をその大きな箱に詰める。
顔は見ないようにしたが、その肌は体温を残して生きてるように温かい。
やけくそな気分で乱暴に車の中に放り込んだ。
人気のない山中では木々が不気味にざわめいている。
よく考えれば、こんな暗闇で死体と二人っきり。寒気がして、ぶるっと震えた。
すぐにエンジンをかけた。
帰りの道は憂鬱だった。死んだ目で帰路を急ぐ。
行きは二人。帰りも二人。違いは生きているかどうかだけ。
まさか死体とドライブするなんてな。疲れた脳みそはふざけたように笑っている。
社宅に帰った俺は、辺りを慎重にうかがった。
岡山の片田舎とあって、この時間になると付近に人影はなかった。
街中の至るところに張り巡らされた用水路を除けば、引っ越してきた当初、なんとも住みやすい街だと思ったほどだ。
都会の喧騒に疲れた身には、過ごしやすく、自然に囲まれた良い環境だと思っていた。
その生活を失うわけにはいかない。
なるべく音を立てないよう気を使って、二階の奥の自室に運び込んだ。
わりと大きめのマンションであったが、こんな時間だから人と会わなかったのが不幸中の幸いか。
ここを利用する社員の目さえ誤魔化せればいいのだ。
部屋に入った俺は、どっと押し寄せる疲れにこのまま倒れ込んでしまいそうになる。
そんな体を奮い起こして、浴槽に死体を投げ入れた。
若い女の裸体は血の通っていないように白く、美しかった。
思わず見惚れる。顔もまだ綺麗なままで、死人のようには思えなかった。
それこそ、つけまつげの乗った大きな目がパチクリと今にも動き出しそうなほどに。むしろ、そう願った。
だが、死体は何も動かない。
女の体はすっかり冷たくなっていた。
今からスコップを持って、山に出かける勇気も気力もなかった。
第一、土地勘もない俺が、人の入れるところに人力で埋めたとしてすぐに見つかるのがオチだ。
藁にもすがる思いでインターネットで検索する。
今まで世の人々を震撼させてきたバラバラ事件にざっと目を通した。
俺も震撼させる側に回ってしまったのだ、と震える体を抑える。
人体解剖や怪しいサイトも見て回った。なんだか俺でもやれそうだ、という勇気が湧いてきた。
いや、やらねばならぬのだ。
死体はバラバラにしたとして、どうするか。一目のつかないところに遺棄しようか。
だが、下手に動いて誰かに見られては困る。
やはり、自宅にいながら処理できないものか。
ふと、さっき見た記事を思い出す。
そういえば、自宅にいながら死体を切り刻んでトイレに捨てた犯人がいた。
俺もそうしよう。なんて素晴らしいアイデアなんだ。
ありがとう!
素直に感謝できた。殺人という経験を経て、すでに俺の頭は壊れていたのかもしれない。
「そうと決まれば、早く解体しなきゃな」
ボソリと呟く。
工具箱を取りに行ってノコギリとトンカチ、それとキッチンから包丁を二本用意した。
ここまで来ては、もう後戻りはできない。意を決して、解体作業を始めた。
まずは、足から取り外す。切れ味のいいと思った方の包丁を、右足の根元に突き立てた。
柔らかい肉にズブリと刃が沈む。
関節部の肉を削って、骨と骨の隙間に包丁を差し込む。
靭帯やら筋やら腱やらを、ゴリゴリと力を込めて切り離した。
初めて人を殺して、初めて人を解体する。
こんなこと、今までの生活なら絶対に体験できなかったことだ。
ザクリザクリという肉を切る感覚と、ゴリゴリと固いモノを断つ感触は、慣れない料理をしているようで面白かった。
小学生の時、夢中になった工作を思い出す。
なんだか楽しくなってくる。……グチャリ、グチャリ……ゴリ、ゴリ……。
静寂の中に残酷な音だけが響き渡る。
ふと、真っ赤に染まった両手を見る。
あれ、おれ、なにしてるんだっけ。
目の前には肉感的な体。
おいしそうだ。
そういや、晩飯も食う暇がなかったなぁ……。
風呂場に充満する血の匂いは、なんともかぐわしく食欲をそそられた。
俺は狂ってしまったのか。
人殺しをしたのだ。すでに狂っていてもおかしくはない。
だが、この無性に食いたいと思う衝動はなんだ?
いや、元々狂っていたのかもしれない。
犬も、猫も、猿ですら世界では食べられていると知っていた。
有志のゲテモノツアーに参加して、実際に韓国や中国に行って口にしたこともある。
だけど、人だけは食べる機会がなかった。どうしても食べたかった。
俺は思うのだ。
それらと、牛や豚になんの区別があるのかと。
無意識のうちに心の奥底に封印した好奇心が、理性というタガを失い、この事態に直面して、ようやく顔を出したのだ。
音のしない空間で、女が微笑んだ気がした。俺はやるべきことを思い出して、食欲を断ち切るように、両腕を断ち切った。
次は頭だ。
薄い筋肉を削ぎ落とすと、赤黒く染まった中に白い骨が露出する。
ノコギリを取り出して、ギコギコ、ギコギコとそこに歯を入れる。
これは時間がかかった。
体感にして三十分以上格闘して、ようやく取り外すことができた。
毛に覆われた、もはや動かないボールを抱きかかえる。
これらは当初の予定通り、全て捨てるのだ。
ああ、なんとももったいない。せめて一口。一口だけ味見してから作業に戻ろう。
そう決心すると、女の顔がなんとも愛しく思え、頬の肉にむしゃぶりついた。
新鮮な肉は生でもいけるとはよくいったもので、クチャクチャと噛めば噛むほど旨味が口の中で暴れ回った。
唾液が溢れ出る。
あまりの美味さに脳天からつま先まで電撃が走る。飛び跳ねる。
もう我慢はできなかった。
足元に転がる太ももにかじりつく。
この世にこんな美味いものがあったとは。
美味い。うまい。うますぎる。美味い。美味い。美味い美味い美味い美味い美味い美味い美味い美味い美味い美味い美味い美味い美味い美味い美味い美味い美味い美味い美味い美味い美味い。
気づくとすっかり食らい尽くしていた。
片足の大腿骨が露わになった時にはほどよく満腹になって、狂った脳がようやく満足した。
鏡の前で笑う。
血塗られた口元がぬらぬらと光っていた。
切り取った体の部位は、子供が買ってもらったゲーム機をしまうように、大事に大事に冷蔵庫に入れた。
両腕と両足はすぐに取り出せるようにメインの冷蔵室に、頭は野菜室、胴体は冷凍庫へ。
明日からの数日が楽しみだ。
脳みそはどんな味がするだろうか。
内臓はホルモン鍋にするのもいいぞ。
ああ、はやく味わいたい。もっと。
時刻はすでに二時を回っていた。
食欲を満たした俺は、気がかりだった死体の処理法も同時に解決したとあって、シャワーを浴びたあと、ふかふかのベッドに飲み込まれるように眠りに落ちた。
朝になって目が覚める。
自分の気分とは対照的に、部屋に差し込む光が爽やかだった。
普段の休日ならどんなに幸せだったろうか。
昨日あったことは全て夢であってくれ、と風呂場を見る。
そこには、なにもない。
うっすら残る血の痕が、夢でないことを物語る。
冷蔵庫を開ければ明らかだった。真っ赤に染まった人間の体がビニール袋に包まれて、そこにはあった。
「よし、全部食べちまおう」
憂鬱な気分の陰に、わずかな食欲が目を覚ます。
そうだ、この肉は今まで食べたどんなものよりも美味かった。
それを思えば、逆に幸せではないか。
昨日食べきれなかった片足の残りから肉をそぎ落として、油を引いたフライパンに放り込む。
ジュウジュウと音を立てて、香ばしい匂いが鼻腔を刺激する。
これだけでご飯が何杯もいけそうだ。冷蔵庫から牛乳と卵を取り出して、一緒に玉子焼きも作った。
結局、朝からご飯四杯も食べてしまった。
残った骨の始末もしなきゃな。
渇いた血肉がこびりついた、太くて立派な骨をうっとり見つめる。
ノコギリで大腿骨と比較的細い脛骨を細かく切ってから、トンカチで粉々にした。
あっけなく砕けた骨を見て、この女がちゃんとカルシウムを取っていたのか心配になる。
ダメじゃないかぁ、骨粗しょう症は女性に多いんだから気をつけなきゃ。
さらさらになった残骸をビニール袋に詰めて、厳重に封をした。明日の燃えるゴミに出すつもりだ。
ああ、そうだ。明日は帰りにドンキホーテにも寄らなきゃな。
ハンバーグを作るために、肉をミンチにする機械が必要だ。
玉ねぎとパン粉も家になかったな。スーパーで買って帰ろう。
俺は朝のエネルギーを贅沢な食事で補給して、解体作業にいそしんだ。
頭の解体は時間がかかった。
まず、髪の毛を全て切り取り、頭皮を耳や鼻、唇ごときれいに剥がした。
目玉をえぐり出し、つまみ食いする。
ドロリとした液体が口内で炸裂し、舌の上を踊っている。やはり美味かった。
脳みそはボウルによけた。
さすがに頭蓋骨は食べられないなぁ、と思ってトンカチでバラバラに砕いた。
人体から肉を剥がす作業は、慣れない自分にとって大変な重労働だった。
骨盤の解体にも時間がかかって、気づけば夜になっていた。
作業に没頭していた。
目の前に食料はあったから、小腹が空いてはつまみ食いをしていたが、夜になってはさすがに腹も減る。晩飯に思いを馳せる。
うん、今日は尻肉のステーキにしよう。
その想像をかき消すように、視界の端から無機質なバイブ音が響いた。そちらに目をやる。
ブーッ! ブーッ! ブーッ! ブーッ! ブーッ! ブーッ!
気づいていた。
昨日の帰りも、彼女の携帯からは通知音やバイブ音が鳴り響いていた。
家に帰ったあとも頻繁に鳴っていたが、設定なのか、ロックがかかっていて内容まではわからなかった。
そう思っている間にも、ブー、ブーッと不気味に鳴り響いている。
同時に、寝室のベッドからも聞きなれた着信音が鳴った。慌てて取りに行く。
着信は母からだった。なんだよ、驚かせやがって。電話に出て、食い気味に言う。
「もしもし、なにか用?」
「ああ、大輔? あのね、良子ちゃん、もうそっちに着いてる?」
母親の不安そうな声に、昨日の電話を思い出した。
非日常の出来事に気を取られ、完全に忘れていた。良子から連絡が来た覚えはない。
「いや、まだ来てないね」
「それに連絡もつかないのよ。あの子がなにか事件に巻き込まれてたらって、おばさんも、おじさんも心配してて」
ドキリとする。
いや、まさかな。
そんな偶然があるわけない。
それでも、脳裏にちらりとよぎる。俺が食べた女はもしや。
「とにかく、知らないものは知らないから」
今度は俺が、一方的に電話を切った。頭によぎった可能性を確かめねばなるまい。
すぐに女のバッグを探した。財布を取り出す。
恐る恐る、免許証を見る。そこには、
「山田 良子」
の文字があった。
山田、良子。
……って誰だ?
名字が違う。そもそも、女の顔に昔見た面影はなかった。その時、
ピンポーン! ピンポーン!
勢いよくチャイムが鳴った。
一瞬だけ驚いて、ああ、良子が来たのかなと安心した。
警察が来るには早すぎる。
良子に死体を見られるのはまずいけど、おおかた解体は済んでるし、冷蔵庫と冷凍庫に小分けして隠してあるから、まぁ大丈夫だろう。
俺は、はいはーい、と玄関に走ってドアを開けた。
そこには、誰もいなかった。
あれ、おかしいな。
ドサリと背後で音がする。
ぞわりと背筋が凍りつく。
恐る恐る、音源である冷蔵庫の方に目を向けた。
扉は閉まっている。変わったところはない。
「あれはなんの音だったんだ」
今度は風呂場からギーッと鳴った。
今度は振り返ることができなかった。
ズリズリ、ズリズリと向こうから「何か」が近づいくる。
金縛りにあったように動けなかった俺は、弾けるように家を飛び出した。
外に出ると日はすっかり沈み、周囲はとっぷり暮れている。
俺は走った。
足がちぎれそうになるくらい走った。
誰か、誰かいないのか。
裸の足裏がジャリを踏んで痛い。その痛みで少しの思考を取り戻し、より一層恐怖する。
身体が凍えそうに寒い。
左側にある竹林には人の気配は一切なく、ざわざわと不気味に揺れている。
そばを流れる川のせせらぎが、逆に孤独感を駆り立てた。
今はそんなこと気にしちゃいられない。
ポツンポツンと点在する街灯を頼りに、遠くに見えるコンビニの光を目指して、一心不乱にアスファルトを駆ける。
どれだけ走っただろうか、心拍と呼吸の限界から走る足が緩まった。
ガチガチと震える。寒い。
少し落ち着いて、今来た道を恐る恐る確認する。
暗闇の中では遠くまでは見えないが、何かが近づいてくる気配は感じない。
どうやら何も追って来ていないようだ。
安堵して前方に振り――
フッと鼻先をよぎる。血肉の腐った香り。息遣いと共に。
「わ゛た゛し゛に゛も゛食゛わ゛せ゛ろ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛」
耳元でうなる低い声に、心臓が破裂しそうになる。
ぶるぶると震え、めまいと吐き気で、もはや一歩も動けない。
だが、肉体がこの状況に耐えきれなかったのか、脳が、心が、何かを考えるよりも早く足を動かした。
もと来た道を走っているのか。どこへ向かっているのか。
もう俺にはわからない。
大地を踏みしめ足を回転させるが刹那、あるべきはずの地面が目の前から消え、両足は宙を空回りする。
頭が一回転して強い衝撃を受けると同時に、全ての感覚が暗闇の中に消えた。
意識を失う最期に見たのは、ぼやける視界の先で、手招きする女だった――。
*
「皆さま、本日は岡山が抱える社会問題を解決すべく『用水路転落事故対策会議』にお集まりいだだき、ありがとうございます」
進行役の男が挨拶すると、それを遮るように会議室の上座で立ち上がった、県警本部長が声を荒げる。
「はっきり言って異常だよ。県外から来た身としては危険な用水路が異常に多い。転落して亡くなる事故がこんなに多発すること自体、異常だと認識していただきたい」
岡山県は古くから用水路が極めて多い県として知られている。
岡山市だけを取っても総距離にして約四千キロ――これは東京ベトナム間の距離に匹敵する――もの用水路が張り巡らされており、大きな溝に転落する死亡事故が後を絶たない。
市内であっても道路の脇には未舗装の大きな用水路があったり、ひどい場合には人が往来する横断歩道の真ん中で、まるで罠をしかける食虫植物のように大きな口を開けて待っているのだ。
「夜間は街灯もまばらで、道路と用水路の区別がつきにくい。それなのに、柵もなければ蓋もないのだから、異常と言わざるを得ない」
本部長が同じ調子で力説すると、それに対して市の職員が答える。
「ええ、おっしゃる通りです。ただ県内全域を工事するとなると、なにぶん費用も」
「わかっておる。だからこうして予算や安全対策の会議をしているんだよ」
本部長は少し気分が落ち着いた様子で、横から別の職員が口を挟む。
「加えて、用水路の工事をするには管理者の同意が要ります。それに対する調整にも追われ、中々すぐに、というわけには行きません」
「できる限り対策を早めていただきたい。ああ、そういえば、昨日もまた死亡事故が起きたそうじゃないか。巷では、なんと言われてるか知ってるかね?」
本部長はニヒルな笑みを浮かべて続ける。
「岡山の『人食い用水路』だよ」