大町二丁目アーケード5m付近
空が高い。
すっきりとどこまでも高いブルーの空が広がっている。
飛行機雲が一本、糸のようにスーっと伸びている。
目をしばつかせながら何とか見上げた空は、初秋の佇まいだ。
どこかで秋刀魚の焼ける匂いがする。
魚の匂いにかなり敏感になっているらしい。
きゅるる…と腹がなった。
固焼き煎餅で満たされたはずの腹も、秋刀魚にはかなわない。
食いたい。
やっぱり煎餅よりも秋刀魚のほうがいい。
秋だし。
秋刀魚より松茸がいい。
秋だし。
しかしこうして猫になって人間界に出てみると、その世界は非常に臭い事に気付く。
そして味噌の匂いがする。
Here’is JAPAN.
ここは日本だ。
I like MOSO SOUP.
俺は味噌汁が好きだ。
あったかいご飯が恋しい。
時計店を出てから30mほど歩いた。
狭いアーケードに入る。
小さな商店がぎゅうぎゅうと軒を連ね、所々にガムのへばりついた赤レンガの道が、70mほど先まで伸びている。
俺はそのアーケードに左足から踏み入った。
しかし…
やっぱり臭い。
かなり臭い。
夕べの酔っ払いの酸っぱい…匂いがする。
ラーメン屋の仕込みのとんこつの匂いがする。
パチンコ屋のドアからタバコの煙が漏れる。
ゴミ置き場に残った空き缶からアルコールの匂いが漂う。
何かのフンの匂いがする。
く、臭すぎる。
全てが異常に臭い。
猫でこれだ。犬なんて一体どんな世界で生活してるのだ。
頭が下がる。
あまりの臭さに肉球で鼻先を押さえていたら、若い男が俺にカメラを向けてシャッターを切り始めた。
「にゃ、にゃ、にゃ」(勝手に撮んじゃねーよ)
しかしカメラを向けられ、テンポよくシャッターを切られるのも…悪くない。
少し調子にのった俺は、両手で目を覆った。
次に両手で耳をふさいだ。ちゃんと言えば耳を折った。
そして両手で口をふさいだ。
まあ、「見ざる言わざる聞かざる」をやってみた。
そりゃあもう、若い男は喜んでシャッターを切りまくった。
「スクープ、スクープ」と言って。
何か違う気がするが。
おそらく明日の地方紙の「みんなのアングル」コーナーに俺の写真がデデンと載るだろうな…なんて考えながら、俺はそいつを撒いて店と店の間の側溝に入った。
ケツにまだそいつのシャッター音を感じていた。
側溝を歩き、八百屋の脇から再びアーケードの赤レンガに戻ると、八百屋の店先で腰の曲がった婆さんが大根片手にジャガイモを眺めていた。
大根片手というか…大根は既に婆さんの杖代わりとなっている。
大根には微妙に亀裂が走っている。
「婆ちゃん、今日は煮物でも作るんか」
プロレスラー体型の店主が、タオルハチマキに何故か女物のエプロン姿で店の奥から出てきた。
その手にも何故か大根が握られている。
「ああ。孫が好きなさかい」
「そうかい、そうかい」
「早く帰って仕込まんとな。よ〜く煮込んだのがうめ〜んだ」
「そうかい、そうかい」
「この大根とそのジャガイモ包んでくれると?」
この婆さんは一体どこ出身なんだ。
そんな俺の疑問などお構いナシに「はいよ、まいど」と声を上げた店主は、腰の曲がった婆さんの杖代わりとなっている大根を注意深く婆さんの手から離し、ジャガイモの籠をひょいと掴むと、レジまで戻っていった。
その様子をじっと見ていた俺に気づいた婆さんが、目を細め、俺の頭を撫で始めた。
腰の曲がった婆さんの顔は、恐ろしいほど近くにある。
笑う婆さんの前歯二本は綺麗に金色だった。
目が眩む。
眩しい。ある意味太陽より。
しかしキツかった。
何がキツイかって、婆さんの手の重みだ。
「お前、この辺じゃ見ない顔だのう。新顔かい?」
そう言いながら俺の頭を撫でるのだが、地面に顔がつくほど腰の曲がった婆さんの全体重が俺の頭に圧し掛かる。
片手に大根が無くなった今、杖代わりとなっているのは完全に俺だった。
「…ん、にゃ…んにゃ」(お、重いぞ、婆さん)
「お前も婆ちゃんの煮物食うが?」
「にゃ…にゃ」(に、煮物…)
「んまいぞ。着いてきたら食わせとっと」
「にゃ…」(どこ出身なんだよ、婆さん)
店主がビニール袋をぶら下げて戻ってきた。
「はいよ、婆ちゃん。450円だ」
「あいよ」
左手にぶら下げた巾着袋からガマ口財布を取り出す婆さんの手が俺の頭から離れた。
その隙に婆さんの側から離れ、約1mほど距離を置いた。
1,000円札を受け取った店主が再びレジへ戻る。
チーンと言う音と共に、ジャリンという小銭の音が店に響く。
「孫が好きだからな」
婆さんが再び俺を見てニカリと笑う。
いや、俺を見る前に、さっきまで俺のいた場所にニカリと笑ってから、そこに居ない俺に気づき、目だけをキョロキョロと彷徨わせてから、1m先の俺に気づいて笑いかけてきた。
金歯が光る。
眩しい。
右手が宙を舞っている。
恐らく俺の頭を探していたのだろうが、申し訳ない婆さん、俺のあの重みには耐えれないよ。
「はい、婆ちゃん、おつり550円」
「どうも、どうも」
宙を舞っていた右手を店主に差し出した婆さんの手の平にチャリンとおつりがのる。
店主の手にはやっぱり大根が握られている。
「にゃ?」(ん?)
良く見ると、店主の手に握られている大根には亀裂が走っている。
「にゃ…」
ビニール袋に入れられ、そのまま赤レンガの上に放置された大根に目を移す。
亀裂の無い、綺麗で太い大根が収まっている。
「にゃにゃ…」(へえ〜)
プロレスラー体型のこの店主、心は女物エプロンにプリントされたヒマワリのような心の持ち主だったわけだ。
「お前も来るか」
ガマ口におつりを収めた婆さんがもう一度俺を見る。
「んにゃー」(煮物…)
はっきり言って食いたい。
固焼き煎餅以外のものを。
「にゃにゃ」(食いたい)
「そうかそうか」
(…分かるのか、婆さん)
「でもな、うちの孫、猫アレルギーなんだわ」
そんなオチか!
「すまんのう。今度またここさ来い。作ってもってきてやるさかい」
だから婆さん、一体どこ…
「そのときはツレでも連れてこい」
「…にゃ」(ツレ…)
紗希。
連れてこれるだろうか。
俺は猫だ。
っていうより既にフラれている。
煮物か。
そういえば紗希は煮物だけは上手に作る。
カップラーメンさえ巧く作れない紗希が、何故か煮物だけは巧く作る。
紗希の煮物が食いたくなった。
「にゃにゃにゃ、にゃー」(婆さんのよりも紗希のほうが上手いかもしんねーぞ)
「そうかい、そうかい」
ニッタリ笑った婆さんは、ビニール袋を掴み「じゃ、またな」と俺に笑いかけた後、ゆっくりと歩きだした。
「まいどありー」
店主が亀裂の走った大根を振り回して見送る。
「今夜は大根の煮付けでも作るかな」なんて言いながら。
俺は赤レンガにズルズルとビニール袋を引きずる婆さんのケツを見送りながら「ふー」と気持ちいいため息をついた。
八百屋を後にし、俺は赤レンガの上を再び歩きだした。
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